今年の批評、今年のうーちーに♪ ってか、年末は紅白なんて見てないで、私の批評を読みなさい。 ということで、今回も無理矢理オープニングを突破して、批評を進めていくことにしたいと思います。 松本卓也 「シャボン玉」 http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=55840 スタンダードな抒情詩ですね。びっくりするほどスタンダードです。 まず、ここに書いてあることについて、というかその内容について、理解できない人はほとんどいないと思います。大人になった「僕」が、シャボン玉で遊ぶ子どもたちの「無邪気」な情景を見て、そのまぶしさに見とれると同時に、その情景の中に自分が一度もいなかったのではないか、ということを感じる、という内容ですね。はい、よくできました。 しかし、無論、詩を読むと言うのは、このような内容を把握することではないのです。このような内容把握(もっといって要約)からこぼれ落ちていくもの、それを味わうのが詩の楽しみ方であり、その楽しさを伝えるのが批評の最も基本になってくるのではないか。私はそう思っています。 1、形式的な堅牢さ この詩を読んでまず驚いたのが、そのあまりに堅牢な形式です。スタンダードな抒情詩と言うと、普通、正直に自分の気持ちを言い表わしたもの、と思われがちです。ところがどっこい、そのようなスタンダードなものほど、形式については極めて堅牢になりがちです。逆説的ですけど、“気持ちを表現する”詩には“気持ちを表現する”ための形式、というか、もっと言えば“こうすれば気持ちを表現したことになる”というフォームみたいなものがあって、“自分の気持ちを表現する”という言葉のもとで、抒情詩人は実際はそのようなフォームの記入欄に自分らしさのコードを入力していく。そういうものだと思います。 無論、そのようなフォームにも時代により流行り廃れがありまして、過去のフォームは古臭いもの、形式ばったものと呼ばれて断罪され、現在のフォームはこれこそ本当の気持ちなんだ、これこそ自由に表現された自分の感情なんだ、って感じで免罪されるわけですね。この詩のユニークなところは、その時代遅れといわれそうなフォームをあからさまに適用することで、逆にそのフォーム自体の姿を浮き彫りにしていることです。そうすることで、フォームの存在を暴き、最終的にはフォームを裏切っている。そこに、この詩の不思議な面白さがあるのだと思います。 >冷め切った路地に >泡沫の玩具が舞って >寒さ堪えて歩く僕の >肩に弾けて消えていった 一行目、三行目は「寒さ」をキーにした部分、二行目、四行目は「泡沫」をキーにした部分。交互に出してくることで、詩の場面・状況(小説書きなら、これを設定と言いますが)がわざとらしくなく、それでいて立体的に形成されていってますね。さらにいえば、一・二行目はどちらかというと大きな視点、遠景まで含めていわば広角で捉えられていて、三・四行目は近景であり、自分の状況である、と。このような展開も抒情詩、というより小説に典型的な流れです。設定を作りながら、主人公にピントを合わせていく、という手法なわけです。 >子供達の無邪気さと >自分の卑しさとを比べ >小さく息を吐いて >無造作に首を振る この連の前半は、対比ですね。詩の核になってくる位置づけ(子ども=無邪気/自分=卑しい)を、対比という形で明らかにしている。その上、この連の後半は、これもまた対句的な表現で。「小さく」と「無造作に」が連用修飾語として対になっていて、その後も「~を…する」という形で揃ってる。しかも、“~”の部分も“…”の部分も、ともに漢字一字できれいに収まっています。「漢詩かよ!」と驚いてしまいました。 現代においてここまで堅牢な骨組みを見せてしまうのは、それこそ恥ずかしいことで、僕なんかは対句的表現を使う時も文の形が揃い過ぎないように気を使ったりするわけですが、この詩では真正面からそこに突っ込んでいっている。それがただの形式への意識過剰として上滑りするのならダサイだけなのですが、この詩には、どうもそれだけではすまない空気がある。そのことについては、後で述べます。 >立ち止まり振り返る >笑い声 遠くに響き >そよ風 無垢を運んで >映えた空 吸い込まれ 第三連は飛ばして第四連。ここも、説明不要なくらいにまで、形式的ですね。ただ、ここはその形式的な同一性が面白い効果を生んでいます。 少し読み込めばわかりますが、二行目から三、四行目と移るうちに、どんどん視点が遠く、広くなっていっています。そして、それに合わせて、どんどん形が失われていっている。「遠くに響き」と言われた「笑い声」(この時点では、笑っている子どもが見えるということで、まだ「笑い声」にはそれなりの形が見出せる)が、「そよ風」によってどこかに運ばれることで、景色はより遠く、広くなる。また、「そよ風」というものは、「風」という運動としては肌で感じられるのですが、もはや明確な形をもたない、単純に言って、見えない。そして、それがたどりつくのは、「映えた空」と言われる場所、すなわちもはや光と一緒になったような、広々とした空っぽの空間なわけです。 この移動によって、読んでいる我々も、遠くに広がっていき、形を失っていき、そしてまぶしく光になっていく。この感覚が、気持ちいいです。そして、その移動を一層感じやすくさせているのが、この二、三、四行目の形式的同一性になってくるのです。 また、ここでの形式的同一性は、話者の立ち位置と言うものにも関わってきます。つまり、 >立ち止まり振り返る という部分。ここと関わってくる。後の三行の形式的同一性は、この“立ち止まり振り返っている”話者の立ち姿の同一性、そこでまさに一人の身体が立ち止まっているということを裏付け、その姿を浮き彫りにします。そして、その立ち止まっている人が立ち止まったまま、見ることや聞くことを通して遠くに広がり、光へと散っていく。そこに、我々は普段我々が移動することで感じる以上の広がりや移動を感じるのでしょう。 (ここで余談。この話者が広がりの中に散っていく、ということはいいとして、それが「立ち止まり振り返る」というスタンスと結びついているところに、私は何か現代の風潮を感じざるをえません) >あの風景に一瞬でも >僕は居れたのだろうか >駆られた衝動を苦笑で抑え >浮いた造型を思い浮かべ 「居れた」と言っているくらいだから、子どもたちは座ってたんでしょうかねえ。なんていう皮肉は置いておいて、ここも対句的な表現があからさまに使われている部分です。ただ、ここに来て、対句的表現に少しの隙間が生まれている。 >駆られた衝動を苦笑で抑え ここは、具体的にはどのような衝動なんだかわからないわけですが、おおよそ、その子どもたちの輪に加わりたい、か、あるいは子どもたちの輪をぶち壊してしまいたい、かのいずれかでしょう(エロスとタナトス、とわかったように言ってみる)。ともかく、話者はその衝動を抑えるわけですが、これと対になるのは、同じ抑える系の動作か、あるいは抑えるの反対で何かを解き放つ動作でしょう。けれど、この話者がするのは、 >浮いた造型を思い浮かべ なわけです。なんというか、中途半端ですよね。動作としてではなく、そこでイメージが文字通り浮かぶわけです。けれど、この中途半端さが、意外性などを力に変えて、逆に曖昧な「シャボン玉」のイメージをまさにイメージとして浮かべる。もっと簡単に言って、実際にそこに可視化してしまう、ないかもしれないけれどあるような気もするものとして、ってか、有るものとして、中空にポワンと見えさせてしまう。 そして、 >ふと風に舞う泡沫が一つ >目の前をゆらりと横切った そのイメージを裏切るものとして、実物が目の前をよぎる。イメージではなく、横切っていく。この時、我々はシャボン玉をそこに見るわけです。そして、シャボン玉をみるものとして、その冷たい路地に立つわけです。 先に書いた、形式を裏切る、というのはこのことです。形式的な言葉を重ねることで、逆に形式に負荷をかけ、そうすることで形式にすき間を生み、結果、そのすき間を通路として、どのような形式でも捉えようのないシャボン玉そのものを横切らせてしまう、詩の世界というフィクションの中に闖入させてしまう。そして、その闖入者と触れることで、我々はフィクションの中にいながら、そこでリアルな身体を取り戻すのです。 折角の年末ですので、ここでは腰を据えて、この闖入者と身体とについて、もう少し粘って書いてみましょう。 2、「シャボン玉」とは何か(いささか詩学的に)。 普通、詩は何かを表現するものだ、と考えられています。例えば、抒情詩なら作者の気持ちなり何なりを表現することがその役割のように考えられています。しかし、先にも述べたように、それらを表現しようとしても、結局は形式に捉えられてしまう。この形式と言うものは、言語と不可分の存在であり、また、言語が自律的に作り上げていくものでもある。いわば、言語の網の目みたいなものですね。 リアルな何かを表現しようとしても、それは言葉にされた瞬間、言語の網の目に捉えられ、言語の次元に墜落する。リアルな何かを表現したはずなのに、それは結局、フォームの中に項目を入力しただけ、みたいなものになる。そして、それらは実際の事物に我々を導くわけではなく、言葉の上で横滑りさせるだけである。 たとえば、今年の四月まで、日本にはZONEという音楽グループがあったわけです。んで、ZONEはうら若い女の子たちから成るグループだったことから、「アイドル」と呼ばれていたわけですね。「ZONEは、北海道出身の女の子たちからなるアイドルグループである」とか、こういう説明がなされる、で、我々はそれを聞いて、ZONEを理解した気分になる。 しかし、それは結局は何も語っていないわけです。北海道出身といわれたら、「そうか、北海道出身なのか」と考え、アイドルといわれたら、「そうか、モーニング娘。とかと同じ感じなのか」とわかった気分になる。でも、それは決してZONEに触れたことではなくて、ZONEという存在のことを、「どこそこ出身のどういうジャンルの人たち」というフォームに落としてきただけなんですね。で、そのような言い方は、「Disturbedはアメリカのヘヴィーロックバンドである」などの言い方との差異によって成り立っている言い方で、北海道/アメリカとかアイドル/ヘヴィーロックバンドとかいう対立構造の中で、位置を見出しているだけに過ぎない。そして、この対立構造は、他ならぬ言語の平面上で成り立っているものであって、そこから抜け出ることはかなわない。 さらに言えば、このような言語の網の目は、現実を自ら引き摺り下ろすことさえします。アイドルと言う言葉を知っていたら、ZONEを見たときにそれをアイドルと呼ぶことは難しくないでしょうし、そういうジャンル分けができた後は、ZONEが何をしてもアイドルがそうしている、アイドルとしてそうしている、と解釈するほかないでしょう。こうなってくると、我々は言語の網の目の中で生きているだけで、結局その外にあるリアルなものには一生涯触れられないのではないか、ということになってくるわけですね。どれだけ説明を細かくしても無駄で、「ZONEは全員北海道出身といわれているが、そのうちの一人は実は大阪府出身で、……」とか何とか言ってみた所で、やっぱり言語の網の目が細かくなるだけで、そこから外には出られない。リアルなZONEには触れられない。そもそも、言語の外のリアルなんてものはあるのか、我々は所詮与えられたフィクション世界の中だけの存在ではないのか。そんな疑問さえ生まれてきます。 これが、言語の形式的な側面の、悲惨です。他でもないリアルなものに触れるために言葉を使うのですが、それは結局、既成のフォームに従うことになり、結果、言葉は言語の網の目の中で横滑りしていくだけ。無論、そのフォームを破壊しようという運動は、過去からずっと行われてきました。しかし、それはいわば、身体があるとどうしても鉄格子をくぐれず脱獄できないから、自分の身体をミンチにしてしまえ、というような乱暴なやり方になるか、あるいは既成のフォームを破壊したはずのものが“前衛”というジャンルに絡め取られて、すぐにまた流通し始める、という顛末になるか、そのどちらかが多かったと思います。 ところが、この詩では、そのどちらにも陥っていない。この詩では、典型的な抒情詩のフォームをその骨組みまで晒すことで、そこにもはや言葉の網の目に収まりきらないものを現れさせるのです。文字通り、言語の平面からは切り離されたものとして“浮かべる”のですね。この、浮かぶものこそ、“イメージ”と呼ばれるものです。この点で、「シャボン玉」というのは、実にイメージに適ったものだと思います。ここにあるのか、どこにあるのかわからないもの。すぐに消えるはずなのに、でもそこに在りながら、我々の前に浮かぶもの。曖昧に光を放ち、けっして一つには意味づけられないもの。意味づけようと手を伸ばすと、すぐにつぶれてしまうもの。そんなあり方が、まさにイメージであり、そして、この詩はそのようなイメージを浮かべてしまう点で、まさに詩だ、と言うこともできるのでしょうか。 しかし、このイメージはイメージとして浮かんでいるだけでは、実はまだ不十分です。それはいわば、空想上のものであって、それが現実に我々の世界の中にやってくる、――言葉の網の目に絡め取られるのではなく、それをぶち壊し、再生させる、フィクションの世界にリアルの息吹を運んでくる、そのようなものとして飛来する――ことこそが、本当は一番大事になってくる。その時、初めて我々はリアルに触れ、自分自身も言語の網の目から解放され、リアルな存在となれるのです。 (そろそろ余談を入れておきましょう。お年玉とか言いますが、どっかで読んだなんかによると(適当でごめんなさい。柳田国男だとは思いますけどさ)、あの年玉の玉って、魂らしいですね。日本では、魂が異世界からやってきて、それを受けることでその年の命を生きていく、って考えがあったらしい。年の瀬に新年の準備をする、ということには、新年を新たな気分で生きていくために旧年を殺す、というイニシエーション的な意味合いのほかに、新年を迎え入れるための身体を作る(儀式的な配置を通して年玉を迎え入れる構造体(門松立てた家etc)を作るとか、あるいは掃除などを通して自分の身を清めていくとか)という意味合いもあるんじゃないか、と思うのです。あれです。新しいアムロが乗り込むために、ガンダムを補修・新装するようなもんですか(違)。 リアルを闖入させることによって、自らもまたリアルな身体になる、というのは、この年玉と通じる感じで捉えています。むろん、これを他者と触れ合うことで云々、とレヴィナス的に捉えてくれてもいいんですけど) よく、このリアルを招来するために、偶然に任せた創作や、日常雑記などを行う人がいます。これは、まあ、それなりに成功を収めることもあるのでしょうけど、私個人としては、あまりにも言葉をナメすぎなんじゃないか、と思います。言葉はもっと手強いわけで、偶然に任せた創作は結局言葉の網の目に捉えられるかミンチになってしまうかのどちらかだと思います。どちらにせよ、リアルはやってこない、リアルっぽいコードかただのひき肉ができるだけ。チャップリンでしたっけ。本当の奇跡的なシーンを撮るためには、完璧に稽古をして、どんな偶然も入り込まないくらいにまで完璧にすることが大切で、そうした時に初めて奇跡的な偶然がやって来るんだ、みたいなことを言ったのは(うろ覚え)。 言葉を捨てて言葉以上のものを目指すのもいいですけど、それがミンチやコードになってしまう危険性を我々は知っておいたほうがいいのでしょう。サーフィンとかありますけど、波を征するっていうのは、要するにうまく波に乗ることであって、波に向かってカミカゼを行うことではないはずなのです。 で、この詩はその点で、非常に典型的な例かな、と思うわけです。抒情詩のフォームに乗ることで、最終的にリアルを招来した。や、本当に招来できているかどうかは意見の分かれるところかもしれませんし、単に私が自分の考えるリアルっぽさに騙されているだけなんかもしれませんけどね。でも、少なくともこの詩は、単純な抒情詩として読むにはちょっと収まりのつかない光が滲み出しているような、そんな作品だと思うのです。 3、抒情詩と小説(例によって、こき下ろす) この詩は、スタンダードな抒情詩だ、と書きました。何度も書きました。ただ、この詩の場合、徹底して抒情詩であろうとするがゆえに、却って抒情詩が成り立たない現状を浮き彫りにしている部分もあると思うのです。 抒情詩ってのは、話者の気持ちを述べる詩であるわけですよね。でも、この詩ではむしろ、気持ちを述べることとか他のいろんなことに対しての、話者の無力感ばかりが際立っている気がするのです。この詩の情景にしても、第一連について述べたように、えらい距離感を伴って造形されているわけで、そこには話者の心情と景色との乖離があるわけです。この乖離は単に話者の心情を照らし出すためだけの対照なんかではないのでしょう。 >あの風景に一瞬でも >僕は居れたのだろうか という風に、話者と子どもたちは完全に別個のものとして、お互いに違う場所で片や集い、片や立ち止まっているからです。で、このような乖離を乖離として把持できることは、それはそれで素晴らしいことだと思います。時には、ここで一気に一般化して、全部を詩人の抒情的な目で水浸しにしてしまう人もいますから(や、この詩の第二連の対比など、その“水浸し”に近いものも感じますし、だからこそ最初は、この詩を血祭りに挙げるつもりでいたのですが)。しかし、こうなってしまうと、抒情詩と言うのは、あまりにも小さくなってしまうのではないか、と思うのです。目の前の景色には無力な目を投げかけるだけで、詩の言葉はというと、ただ小さな個人の中に中にと籠もっていく、そんな詩になってしまう気がする。 その結果として、この詩の言葉は、形式への過剰な意識を除いては、(一般的な意味で)非常に散文的なものになっている気がするのです。(一般的な意味で)散文的な、というのは、要するに、言葉が言葉としてそこにあるんじゃなくって、ワンクッションを置いて意味へ導くための踏み台程度のものとしてそこにある、って感じでしょうか。こういう言葉は、映画でいえば、表情の問題とつながってきますね。つまり、役者がなんか顔をしかめることで、「今、俺はつらいって感情を内に抱えてるんです。それを読み取ってね」って観客に要求する。それと同じように、この言葉のうちにある話者の気持ちを読み取ってね、みたいな言葉になってる。 はっきり言いましょうか。そういうことがしたいんだったら、小説を書けよ。キャラクターを動かして、内面を存分に探らせたらええやん。ってか、小説自身もな、そういう近代科学的な言葉の使用法から外れて、もう半世紀も前から別の道を探してるんだってばさ。 ってのは、もちろん暴論ですよ。抒情詩の限界を見せる、という意味で、この作品はいい仕事をしている、と思うのです。素敵ですよ。皮肉でもなんでもなく、これも本心です。でもね、そういうお勉強的なところから外れて読めば、詩としては割合面倒くさい。何度も書いているように、僕は小説書きであるから、詩と小説との違いにはどうしても意識が行っちゃうし、その目で見た場合、これは詩の小説とは違う面白みみたいなもんを、かなり犠牲にした詩だな、って思えるわけなんです。 それに、この詩の場を作っている乖離について言うと。これも、かなり現代にマッチしたテーマだと思うのですが、それを小さな抒情詩として書いたことはやっぱり選択としてどうかと思うし、作者のスタンスとしても、何がしたいのかいまいちはっきりしないのね。つまり、距離というテーマ(詩の場)と苦悶している主人公の姿(スタンダードな抒情詩のターゲット)とのどっちつかずになっちゃって、微妙に消化不良な部分が残るわけです。 ただ、抒情詩がこのように小さくなっていき、結果散文と近いものになる、というのは、やっぱりこれも今の時代性について考えさせられるものがあって、面白いんですけど。この作品自身については、そんなお勉強のサンプルに使われても、かなしいんじゃないか、なんて思います。お勉強のサンプルではなくて、詩として歌いたかったんじゃないかな、なんて、おせっかいですかね、やっぱり。 4、例によって、スペシャリーどうでもいい余談 先に挙げたZONEですけど、デビューした時は、「アイドルでもない、バンドでもない」って肩書きだったんですよね。で、「バンドル」なんてわけわかんないジャンル名を振ったセンスの悪さには、なんと言うかレコード会社の柱に蹴り入れなければ気がすまない気分なわけですが(冗談ですよ)、でも、実際はアイドル的なアプローチもしたし、バンドとしても活躍した。けれど、そういう意味では型にハマりながら、結局はその型を裏切るようなことを連発してきたわけで(メンバー脱退の時に最後のテレビ出演で、曲が終わったあと全員がハンカチを取り出して、涙を拭くかと思いきやカメラが寄った瞬間全員ハンカチを食いやがった。そういう悪意と言うかなんと言うかが、いつでもあった)。結局、私にとっては「アイドルでもない、バンドでもない、ZONEだった」としか言えないわけです。 詩も、そういうのになればいいのにな、と思うのです。どのようなジャンルにハマってもいいけどさ、ジャンル内部のいろんな網の目の中で自分の居場所見つけてそこにしがみつくとか、そんなんじゃなくて、ちょうど波に乗ることで波を征するように、そのジャンルを通してジャンルを乗り越え、本当に自由なところに出て行ってほしい。そこで、他でもない「詩」を見つけてほしいし見せてほしい、そう思います。 (私のZONE大好きキャラというのも、それを通してしか語れないと言うか、ZONEという通路を通ることでしか近づけないものがあるから、こんなことをやっているところもあるわけです。個人としての私はもう、ZONEの思い出ばかりにしがみついているわけにはいかないし、前に進みだそうとしているんだけどさ、やっぱり、詩について語ろうとすると、こうするのが一番考えていきやすい。ジャンルなんて、そういうものでいいんでないかい) |
2005年12月31日土曜日
【批評ギルド】 「シャボン玉」 松本卓也
2005年12月21日水曜日
【批評ギルド】 「眠ってしまえばいい」 たりぽん
「眠ってしまえばいい」 たりぽん http://www.po-m.com/forum/showdoc.php?did=49584 「眠ってしまえばいい」のフレーズに貫かれた第一~第四連。その後の、話者の意見表明ともなる第五~第八連、そして、再び「眠ってしまえばいい」のフレーズが出てくる最後の二連。極めてオーソドックスな三部形式のようでありながら、実は形式的にブレがある。 そもそも、この「眠ってしまえばいい」という言葉に込められたものは何なのだろうか。第二、第三連を見ると、「~なら、~すればいい」という突き放したような言い方に、話者の誰かに対する非難を見て取ることができよう。しかし、ここで一旦、最終連に目を向けると、「こんな夜は、歯を食いしばって」という言葉がある。この時歯を食いしばっているのは誰だろうか。もしそれが話者自身だとすると、「眠ってしまえばいい」という非難の裏に、そのように眠ってしまえない話者が抱える苦痛や、眠ってしまえることに対する切ない憧れみたいなものも感じられて、感慨深く思われる。また、もしそれが話者に「眠ってしまえばいい」と言われている者だとすると、そこにはもはや非難ではなくある種の同朋意識(ともに轍を背負うものとしての言葉にしがたい理解、通じ合い)が生まれてくるわけで、皆が死と隣り合わせの生の中で歯を食いしばりながら眠りについている(あるいは眠りのうちで必死に生の痛みを両腕に抱えている)そんな姿が見えるような気がして、やはりぐっとくる。 けれど、このような読みをこの詩は許さない。 >性交とか愛撫する行為が >神聖なるラヴとかお笑いだ この部分には、もはや非難以外の何物もなく、それゆえ、ここで言われているようなこと(性交とか愛撫する行為を神聖なるラヴと呼び、それを愛する意志と同じものと見ることまでできて、その結果、眠ってしまえること)が切ない憧れの対象になったり、同朋意識のもとになったりすることはない。「眠ってしまえばいい」という言葉は、それゆえ、話者には返ってこない、一方的な非難でしかないのだろう。 そのような一方的な非難がそれ自体として悪いものであるかどうかは、私にはわからない。ただ、そのように一方的な非難である場合、最終連の言葉がわけのわからないことになる。 >こんな夜は、歯を食いしばって >眠ってしまえばいい もしかして、この時食いしばられる歯も、やはり「物質的な信仰」として話者には非難されているのだろうか。ただ、それならば、“歯を食いしばって眠る”という矛盾しているような言葉の組み合わせ(そこにある発見)が生きてこないような気がする。というかむしろ逆に、そのような「物質的な信仰」に対する非難をこのような形で表すのは、単純にミスではないだろうか。 しかし、やはり最もたちが悪いのが、ここで歯を食いしばっているのが話者だ、という読みである。そう読むとたしかにドラマティックだし、“歯を食いしばって眠る”という姿がぐっとくるし、「眠ってしまえばいい」という言葉の持つ力が、歯を食いしばっている時の苦難に満ちた必死の力とも重なるようにも見えて、本当にいい表現だと思えるのだ。しかし、そのような読みをした場合、問題の「とかお笑いだ」はどこに行くのか。「お笑い」という限り、誰かが誰かのおろかさを嘲笑して笑っているわけだ。これを話者の自虐として読むこともできると言えばできるのだが、「とか」という言葉が生む距離感、すなわち話者のスタンスと「性愛とか愛撫する行為が/神聖なるラヴ」と言ってしまえることとの離れ具合が、そのような解釈を許さない。やはり、この詩は一方的な非難の詩なのだろう。 「眠ってしまえばいい」。この詩は、その言葉の持つ攻撃性を原動力とし、我々がリアルと考える様々な感覚から身をふりもぎっていく。その点で、第二~第四連は徹底していて、心地よい。なんというか、読んでいるこちらとしてもぐさっと来ると言うか、居住まいを正すと言うか、とにかく、真剣になってこの言葉と向かい合う姿勢になった。実際に、この言葉の持つパッションをそれとして受け止めた。けれど、やはりここにもブレがあって、第一連は「~なら、~すればいい」の形とは異なっている。さらに、第四連は、第二、第三連のような身体的な事象と自身の存在の確証との関連づけからはずれていて、身体的な事象としても「性愛とか愛撫する行為」と抽象的に語られるばかりだし、しかもそれが結びつけられるのが「神聖なるラヴ」なのであるから、いささか観念的になっている感がいなめない。 無論、第一連は「生きるということがどこかで/必ず死、何かの死と切り離せない」というところとつながるのだろうし、第四連は、「言葉が信じられないからといって/体を交えるわけではなく」とつながってくるのだろう。それはわかる。それはわかるのだが、――ここで、一番決定的な事を言おうか――これらが互いにつながっていっても、そこでこの詩が見えてくるわけではないのだ。つながったものはつながっただけで、それぞれに孤立している。 たしかに、第一~第四連に書かれていることは、全部夜に関わることだろう。けれど、先にも述べたように第一連、第二・三連、第四連には、書く際のスタンスや書かれているものの具体性などによってそれぞれに落差があって、まとまりに欠ける。穿った見方をすれば、これらはただ夜に関わると言うことだけで集めてこられたようで、たしかにそれらを通じて言おうとしていることは「生きるということがどこかで/必ず死、何かの死と切り離せない」に通じるだろうし、夜の方は夜の方で「今に残す存在の理由を/誰もが求める理の時間」という形でその意味を明らかにされている。しかし、じゃあこの二つをつなげるものは何なのだろうか。 もちろん、そこにあるつながりについては、以下の展開が示すとおりだろう。 >生きるということがどこかで >必ず死、何かの死と切り離せないのに >繋いだ手にかいたあの汗のような言葉が >危うく関係を絶とうとする >言葉が信じられないからといって >体を交えるわけではなく >今に残す存在の理由を >誰もが求める理の時間 なるほど、つながっているように見える。出てきた言葉がその先できちんと受け取られ、応えられ、展開されていっているように見える。しかし、よく見てみれば、前の連で出てきたモチーフが詩のテーマであるはずなのに、それは後の連で受けられていない。むしろ、さらっと通り過ぎられている。なぜならば、後の連は前の連を夜の説明の方に回収してしまうからだ。じゃあ、「今に残す存在の理由」を「誰もが求める」というのがこの後に活きてくるのか、というと、そうではなくてこれについてはここまで。誰もが求めて、求めたっきりになっている。 ここに顕著なように、この詩の描くものはすべて孤立していて、一連一連がそれぞれ何かについて語っているけれど、そこから先がない。たしかに、結びついているのはわかる。たとえば第八連の「時計のない太古から」が第九連の「すべての時計が同期する夢を見ながら/眠ってしまえばいい」につながっていたり、――そういう結びつきについては、ちょっと考えればすぐに理解できる。でも、それはまとまっていく感じとは決定的に違うのだ。語り口のパッションとは裏腹に、この詩の言葉たちには、なんと言うか、息吹が無いのだろう。その結果、最終的には「眠ってしまえばいい」という痛烈な言葉でさえ、ただそこだけが目立とうとしているように見えてくる。それを下支えする脈動がないからだろう。 同じような観点から、第七、第八連を批判することができる。ここでは、特に言葉が言ったきりになっている。「誰かを傷つけたときに流れる涙が/胸に流れるいのち」といきなり言われても、「そ、……そうなんだ? それと血の違いって、これまでの部分でもこれからの部分でも書かれていないからよくわからんけど、そうなんかなあ」とびっくりするくらいしかできないし、「流脈はコトリコトリと/時計のない太古から/水の流れを刻んでいるので」という部分も、「流脈」、「時計のない太古」、「水の流れ」というものがそれぞれ初めて出てくる、あるいはそれに準じる(第七連で唐突に出てきた「涙」を無条件の前提として導き出された言葉であって、そこで納得できなかった読者は置いてけぼりにするがままという)状態なのである。 言うまでもなく、詩は論文ではない。なので、客観的に証拠やら論理やらを積み上げて人を納得させることを目的にすることはない(や、それが論文の目的ってこともないんだろうけど)。しかし、詩には詩の説得力とか、あるいは詩の論理とでも言えるものがあって、それに触れたとき、我々は感動したり、何かを学んだり、あるいはもっと端的に言って、“触れた”という実感を得たりするのだろう。詩の中で生き、脈打つ論理というものは、印象的なフレーズを積み上げるだけではきっと生み出せないものであって、逆に言うと、どれだけ印象的なフレーズであっても、それが詩の論理によって支えられていないと、たちまち力を失ってしまうのだ。 先にも言ったように、この詩にはきちんとしたつながりがある。しかし、それは頭で「こことここがつながってるのかあ」と理解できるだけであって、そのつながり自体が説得力をもってせまってくるようなものではない。そこには、詩の論理がないのだ。詩の論理とは、単純に連をまたいでつながっているものがあったり、同じ言葉が言い換えられたりすることによっては生まれず、おそらくそれは言葉やイメージ同士をまとめあげていく(下支えしている)もの、あるいは作者の中で(読者の中で? 作品の中で?)言葉やイメージを生み出していく波のようなリズム(思考回路? 無意識かつ身体的な反能?)として、脈動しているのだ。そしてそれは、おそらく、頭で考えられる色々な主義主張そのものの根底にもあるものである。 この“脈動”と、「流脈」とは、重なり合ってくるのだろうか。それとも、全然違うものなのだろうか。夜とは何なのか。そこにおいて我々の生とは何なのか。私の考えと寄り添ってくれるせよ、それを完膚なきまでに打ちのめすにせよ、もっとこの詩には見せてほしかった。この夜、この生、この眠り、そして、ここに並べられた言葉たちやフレーズたちの底にある、この詩自身の姿とまなざしを。 ・余談一 先に詩の論理とフレーズの話をしたが、無論、ワンフレーズで詩になっているものもあるし、そのようなワンフレーズを散乱させることで独特の風通しのよさ=空虚感を生む詩法も最近はよく見かける。しかし、そのような場合、フレーズが詩の論理を自らのうちに胚胎できたからこそワンフレーズとなるのだろうし、それを散乱させる詩法においても、フレーズを散乱させている拡散した皮膚感覚なり拡散した世界なりが存在しないと、その詩はたちまち「ちょっと言ってみたかっただけ」的な空疎なままごとに堕してしまうのだろう。 ・余談二 個人的なことをいうと、この詩の死生観には刺激を受けるし、私自身とつながるところも感じた。「眠ってしまえばいい」という言葉を受けて真剣になったのも本当だし、先に挙げた“最もたちの悪い解釈”をして泣きそうなくらいぐっと来ちゃってたのも、他でもない私なのだ。しかし、この詩はやはり、そのように読んでいるわけにはいかない、と私は思ってしまった。都合のいい幻想を押しつけて愛を語るよりも、相手の姿を良い所も悪い所も込みでじっと見つめて、残酷なくらいに見つめ認めて、そこからお互いにつながっていきたい。歩み寄っていきたい。私はいつでも、そう考えているのだから。 ・余談三 上の余談二で私がついうっかり書いた「つながって」という言葉。ここにある「つながり」信仰を、この詩にはもっと最後までぶっ潰してほしかった。「肌の触れあう弾力や/握った手の汗ばむ不快さを/何かとつながっている手応えだと思えるなら/眠ってしまえばいい」という第二連を読んだ時、私はすごくムッとすると同時に、すごくワクワクしたのだ。私の考えがぶち壊されて、そこに何が見えてくるんだろう。その景色に、私は恋焦がれていたんだ。切ないくらいに。切ないくらいに。 ・余談四 批評を書くと、自分のバカさ加減が暴露される。だから嫌なんだ。たりぽんさんのような猛者を相手にすると、単にわかってないやつがギャーギャー言っているだけのように見えてくる。自分でも、そう見えてきているのだ。詩作品に対して、作者に対して、そして誰より読者に対して、何とも申し訳ない話である。 |
2005年12月10日土曜日
【批評ギルド】 「林檎葬」 半知半能
●はじめに いまさらながら、私の批評に対するスタンスを少し書いておきたい。別のところでも言っているように、私はもともと小説を書いていた人間で、一時期(といっても、丸三年以上)詩の方に全精力を注いだことはあったものの、今はまた、小説に戻っている。 そのような私にとって、詩を批評することは、かつてのように詩を書く者としての自分に引き付けた行為ではなくなっている。もっと簡単に言おうか。私が今詩を読む読み方は、非常に冷静で残酷だ。 小説書きから見た場合、やはり、詩の形式性と言うのは意識せざるをえない。「え? なんでこんな所で改行する必要があるの?」「なんで句読点がないの?」「なんでわざわざこんな形で書いているの?」そのような問いが、読むたびに沸き起こる。そして、詩の内容も何もかも、そのような形式性とともにしかない、とまで思っている。そのため、私の批評は、いきおい技術論的になってくる。少なくとも、技術論という回路を通ってのものとなってくる。それはまた、小説しか書かず、詩のことは反吐が出るほど嫌悪していた私が詩を書けるようになるまでに通った回路でもあり、詩はやはり、何がしか技術的なものと切っても切れないものだと思っている。 そのような私の批評が嫌ならば、批評ギルド依頼の際に、「あをの過程はご勘弁いただきたい」とでも書いてくれればいい。私と関わり、私の意見を聞いた者の多くが「詩を書きづらくなった」と言う。それは、私の書き方、考え方が、まさにその書きづらさの只中で見出されてきたものであるからに他ならないのであって、詩を自由に歌える人は、私の話を真剣に聞いても却って重石になるだけではないだろうか。私との関わりもまた自らの土壌にして本当に面白くなってくれているのは、ふるる、海賊、最果タヒなどの数えるほどの者たちしかいない、と思っている(今村知晃は、私が何を言おうが動かされないような凄まじい軸を持っていて、だからこそ、私の毒をかなり浴びた後でも抜群に面白くあり続けている)。 結局のところ、本当に私の重さを背負い込めるものだけが(あるいは、それをかるーく受け流せるものだけが)、私の批評を受け取ってくれればいいのだろう。私は詩の天才ではなく、詩の邪道であり、小説の悪鬼であって、ふつーの詩人たちにとっては、所詮どす黒い敵でしかない。ただ、私はここで、詩と小説の両方に深く入り込んだという珍しい経歴だけを存在価値として、ただ考えることの手抜きの別名でしかない“ジャンル”も自分の枠にほれ込んでいるばかりの“文学”も形ばかり真似して自意識を守っているだけの“前衛”もブチ壊してしまうような、破壊的な批評・小説(時には詩)を書きつづけていくだけである。 ●本文 半知半能「林檎葬」http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=56777 不穏さを湛えた詩だ。それも、最後までその不穏さを守りきっている。言葉にはこれと言って無駄もなく、カットするような改行の仕方が、切り取られたような各シーンと対応していて、歯切れがいい。 >(中央から濡れていく > ひりひりと) この出だしは、どうしようもなく性愛を思わせる。「中央」という言葉についてはこの詩の後の部分でも触れられる。食と、かじることの痛みにも似た確かさとの相似性、そして、それらと対照的に浮き彫りになる喪失の感覚とがこの詩のモチーフになると思うのだが、その中央に覆い被せるようにして性愛を読み込むと、よりこの詩が生き生きと(あるいはひりひりと)してくるように思える(このことについては、また後で触れる)。 >赤い林檎を剥いて >がぶりと噛み付き一口目 >昨日の出来事 >不思議な果実の甘さ が >歯に沁みる この連の冒頭二行は、肉感的な描写が利いている部分だと思う。特に、「がぶりと噛み付き一口目」という部分は、最初の擬音語と最後の体言止めとで七五調を始め、綴じているわけであり、インパクトも体感度も抜群である。 その後で「昨日の出来事」と突然挿入されるのも素晴らしい。改行が映画のカットバックのように見事に機能している。ただ、「不思議な果実」というのは、何がどう不思議なのか、最後まで明らかにされないので私の中に不満が残った。むろん、その不思議さについてこの詩は書いているのだ、と言われればその通りだろうが、それならば、この詩の展開は明らかに途中から道を踏み外している。 >歯に沁みる から >涙が >(ひりひりと) へのつながり方は、「歯に沁みる(心に沁みる)→だから涙が出てくる→心と歯と頬とが、ひりひりする」みたいなつながりが読めすぎて、いちいち改行してしかも連まで変えて思わせぶりに書かなくてもいいじゃん、という気になってしまう。 たしかに、この思わせぶりさもこの詩の緊張度を高めるのに一役買っているだろうし、「涙が」の部分にはそれほど違和感を感じなかった。しかし、ここで(ひりひりと)をリフレインするのは、ちょっとあざと過ぎるのではないだろうか。わざわざここまでやるほどに重い位置づけが、この部分にあるのだろうか。心が痛んでいるということなどなら、別に他の部分でも(あるいは、このようなリフレインを使わなくても)書ける。それでもなおリフレインするなら、それだけこの(ひりひりと)を大事にしてやるべきだ。しかし、この後でこのリフレインは使われていない。作者が途中から、その軸を「がぶり」に鞍替えしている。そのことが、個人的には、ちょっと中途半端に思えた。 >二口目 >には 咽喉が焼ける >静かに出来上がった誰も居ない空間が >電撃ヲ走ラセル >一瞬だけ 改行の仕方と、行ごとの展開の仕方と言うか、切り返しの仕方と言うか、リズムの付け方と言うか、魅せ方と言うか、――とにかくそんなものとがあっていて、読んでいて心地いい。四コマ漫画とかあるが、あれはコマとコマとの間でどのような展開を作るか、どこまでコマとコマとの間を離すか、そしてその距離を各コマ間でいかに調節して山を作るか、などの判断を必要とする。この詩は、全体的にそのようなリズム感に優れていて、この連については、特にそう思う。 「一口目」の時は体言止であるため、当然「二口目」でも読者はそこで一旦文章が切れるように思う。それを「には」ではぐらかして、その後独立したワンフレーズとして出される「喉が焼ける」の強烈さ。三行目の長ったらしさはそこに書かれているもの(「静かに出来上がった誰もいない空間」)を正確に形象化し、それが「電撃ヲ走ラセル」で一瞬にして引き裂かれる。その、切り返しの鋭さと速さとが心地いい。「一瞬だけ」というのは、その切り返し(あるいは「電撃」)の速さを受けるとともに、そのいささか大仰な言い方をやわらかく(そしてちいさく)閉じ込める。実に素晴らしいバランス感覚だと思う。 >三口目を >飛ばして四口目 引火 飛ばすなよ、とも思うが、やはり、ここではそのやり口がきちんとスピード感を生んでいる。「飛ばして四口目 引火」という部分を一行に閉じ込めるのは、これ以上ないほどのいい判断であったであろう。実際、読んでて、ここから身体が一斉に熱くなってくるように感じる。 >追い駆けな かった >26時 >電車の通る音 の様な 物 >伝道熱の逃げ残りが空気に浮かんでは赤くなり 改行、そして分かち書きが切り取る事物の、確かな手触り。そして、長文が孕む時間の中で熟していく感覚(ハイデッガーが好きな人なら、ここで時熟と言う言葉を思い出すだろうか。ZONEが好きな人なら、実夕という言葉の持つ広がりについて思い至るかもしれない)。この手の手法の見本のようだと思う。 「伝道熱」という言葉は「伝導熱」の誤りだろうか。むろん、「伝道」とすることで、「林檎」の持つ一つのイメージにもかなうだろう。というか、これをキリスト教的なシンボルと読むことで、「神を目指しすぎた男がそれゆえに知と肉欲の罪にはまり、しかもその対象たる林檎も食うことで失ってしまった(その芯はついに食しきれないまま)」という読みも可能になろう。そう考え出すと、「三角」という言葉や「三口目」を飛ばすことにも相当な意味合いが出てきそうなのであるが、やはりこれも深読みであろう。なぜなら、この手の路線が、結局、最後の連につながってこないからである。逆に言えば、この手の読みを受けきれるだけのものが、最後の連で提示されていないからである。 >熟れて堕ちる前に甘く香る 前の行で空き枡無しの長文を使ったのだから、その次で同じような手法を使ってしまうと、この文も一緒に流して読まれてしまう危険があると思う。ってか、正直、この一行で言いたいこと、というか強調したい部分、あるいは与えたい効果はなんなのだろう? いや、もっと適切にこう言おうか。この一行を書いた時、作者はどこが気持ちよかったのだろうか、と。言葉として、作者に驚きにも似た快感(表現した、という満足ではなく)を与えないような言葉は、読者にとってもむろんつまらないものである。 >がぶり がぶり が ぶ ri( ) 語の分割、ローマ字表記、さらには、たぶん虚無や沈黙を表すための丸括弧。自分としてもやったことだから、こういうやり口にはちょっと厳しくなってしまう。いち読者として読んでたら、前の行とこことで鼻について読むのを止めていただろう。括弧についても、後で出てくる「五口目には虚空を噛む」と近すぎて、読んでいて何と言うか、予定調和のようなつまらなさをうけるし、ましてやriについては、「が」「ぶ」とわけて、それでも分けらんなくなったからとりあえずローマ字にしてみました、という風に受け取れてしまう(いや、それは私が悪意を持って読みすぎなだけか)。とりあえず、分割したりローマ字化したり、そういう変わったことをする場合には、それに見合っただけの表現の強さというか、そうすることでたしかに表れる何がしかの効果が要るのだが(それがないと、ただ巧く見せようとして意匠だけを借りてきたように思えてしまう)、ここにはそれが無いように見えるのだ。 >五口目に虚空を噛む >戸 残った靴下 唇 >(芯は捨てないでね) >果肉を嚥下して胸の中で六口目 >唾液が酸味を惜しんで泣いている ここも、この作者の、優れた叙景力、叙情力を表す部分だろう。「五口目には虚空を噛む」という、矛盾していると言えば矛盾していると言える表現が持つ、無力感とかはぐらかされたような感覚。その後で見えてくる、個々の事物の確かさ。無力感と事物が確かに見えることとの間にあるつながりについては、たぶん、多くのものが実感することであろう。 「唇」というのは、失った女の口づけのようでもあり、虚空を噛んだ自分の唇のようでもあり、さらには、蝶番のようにして、今はいない女の言葉にもつながってくる。 >(芯は捨てないでね) 不在の者の言葉。そこで語られる「芯」は、話者にとっては二重に不在である。なぜならば、それを語っている女=林檎は既にいないわけであり、さらにその芯=中央となる部分は、「果肉」と違って食うことができない部分だからだ(いや、だからこそ、最終的に話者はその林檎を失うことになったのか)。その、二重に不在の部分である芯=中央が、失われたものの中で手に入れることのなかったものとして、不在でありながら(いや、だからこそ)恐ろしい存在感を持って、声とともに響いた気がした。 「中央から濡れていく」というのは、最初の行に出てきた言葉だ。そして、ここで出てくる、手に入れることのできない「芯」。最初に濡れ、最後まで犯されないこの場所こそが、人間の生きていることの、核ともなるものではないだろうか。というか、我々はそのような中央を持ちつつ、生きているのではないだろうか。「果肉」が人の人としての部分、奪われ犯される肉体を表しているなら、この「芯」は、不可侵の部分であり、おそらく、神にもつながってくるものなのだろう。しかし、その「芯」は我々人間にとって、二重に不在なのだ。 林檎と女とを重ね合わせることで、この詩は、普通は書くことのできないはずのものであるものを「芯」という形で見出している。あるいは、その重ね合わせが奇妙なねじれを生むことによって(むろん、女性が濡れ始める「中央」としての女性器は、「芯」ではなくある種の空洞なのだ)、「芯」というものがただの比喩を越えて、倍音のように不在を響かせ、不在であるはずの「中央」がたしかな芯となり、芯となりながらそこから濡れ始める。重ね合わせがきれいにいった場合、比喩はAをA'に移し、BをB'に移す作業の集積のようになってしまうのだが、この詩では、Aが7に至り3がGとなるような、素晴らしい効果を生んでいる。 ただ、ここで小説家らしいとんでもないいちゃもんをつけるとすると、やはり最後の行、「「唾液が酸味を惜しんで泣いている」って、要するにつばが出てくるってことでしょ? だから?」ということだろうか。「酸味」と言う部分に、女との生活が決して甘い物ではなかったものを比喩しようとしていたり、あるいは林檎を人肉食と結び付けようとしていたり(人肉って、酸っぱいらしいですね)、さらには「泣いている」自分の姿をどうしても書いておきたかったり、という風な作者の思いを読み取ることはできるのだが、でも、そうやって作者の都合だけで比喩的に言い換えたような表現こそが、詩で一番面白くないものだと私は思っている。 だって、それって「で、それで?」で終わってしまうやん。「このバイオリンの調べは、葉が風に揺れているのを表したものです」って言われても、聴く人にとってはそのバイオリンの調べがいいものかどうか、それが自分に染み入ってきたりあるいは自分を不穏にしたりして、感情を動かしてくれることが大事なわけで、表現が何かの置き換えに終止している場合、もっと言えば「置き換える」という作業の内部に留まっている場合、それは読者にぶち当たらないただのお手玉、要するに作者の自慰にしか過ぎないのではないだろうか。 >短い回顧を >真空に閉じ込めて >三角コォナーに放る (gaburi) ここの(gaburi)には、やられた。先ほど文句を言った丸括弧の部分だが、そこでも書いた空白の中に、あの音が入って戻ってきた、と感じた。鳴らないはずの音が、存在しないものの中で鳴っている。しかも、食うという行為からは離れて、捨てる際に遠く(言うまでもなく、先ほどまでの平仮名表記から、ここではローマ字表記に変わっていて、それが先ほどまでの音と帰ってきた音との差異というか、ある種の距離を感じさせる)、鳴る。二重の不在である「芯」の、唐突な(そして不在のままの)回帰。 丸括弧で沈黙を表すのは凡庸だが、その中でさらに音を鳴らした、というか音を回帰させたのには、正直脱帽するしかない。なぜ? この音が、恐ろしいものだからだ。私の近く、というか私から台所の三角コーナーまでの距離くらいの遠くで、その音が確かに鳴ったからだ。それと同時に、私はたぶん、そこに目には見えぬ誰かがいるような(そしてその「芯」が明確な音として聞こえたような)気がしたからだ。作品中の登場人物と言うある種不在(だって、フィクションの中の登場人物は、実際にこの世界にはいないものである。少なくとも、我我はそう思っている)から、現実のこちらの世界へと、これまで存在したこともない体感が“帰って”きたからだ(そしてそれこそが、宗教や芸術の一つの方向性であろう(というのは、むろん余談だが))。 >簡単な葬儀 >謝らなくても良かったのに >寄りかかった白い壁に >林檎の赤い爪 ここも、叙景力・叙情力に優れた部分。けれど、ここまで来ると、もうそろそろその先を見せてほしい、とも思う。この詩は、恋人を失った男の心情を、印象的なシーンを使って印象的に描き出すだけで終わっていいのだろうか。そのシーンや心情の奥にあるもの(あるいは、ずっと手前にあるもの)について、そろそろ真正面から見つめ直し、考えるべきなのではないだろうか。 この後の散乱している部分については、まあ、それなりに面白いと思うし、「赤い/君が/行ってしまった」というつながり方は、かなりドキッとした。けれど、やっぱりどこかもどっかしいというか、こういう形にすることで誤魔化されている部分があるように感じて、――もっと詳しくいうと、これだけの行数を使って書いてあるものと、これまでの部分を読んできて読者としての私の中で生まれてきている考えや期待なんかとが、どうもつりあいを取れていないようで、いまいちピンと来ないと言うか、作者としてもここまで書いてきて、自分の中で膨らんできたもの、見えてきたものなどがあるはずなのに、それに挑むことをせずこのようなそれなりの手法で薄めた詩行だけでやり過ごされているように感じて、それがちょっと(書くと言う点で、考えると言う点で)手ぇ抜かれているように思えて苛ついた。 >放った手には切ない香りが染み付いて >消えてしまった何かを >未だに見つけようとしている この最後は、なんか、それこそ未消化な表現であると思った。結局、この三行、この詩のこれまでの道程がなくても書ける気がするのだ。詩は移動、という言い方をしたのはたしか和合亮一だったが、やっぱり、書いていくと言うことは行から行へ、連から連への旅なのだから、それをへて何が見えるか、というのが最後には大事ではないか、と小説家の私は勝手に思っている(いや、あえてそこで移動ではなく反復を見せる、というのも当然ありうべき文学的姿勢なのであるが、けれど、そこまでの意識も、ここからは感じない)。そうしないと、これまでの部分が無駄になってしまうし、読者としても、「ああ、結局、それだけのことだったのね」で終わってしまう。もっと、どこかに辿り着いてほしい、そこで何かを見てほしい(それと同時に我々に見せてほしい)。 これは読者のわがままかもしれない。しかし、このわがままは同時に、書き手の、そして詩の中で脈打っているわがままでもあろう。そうでなければ、わざわざなぜ、書くのか。 そうそう。後で書く、って書いた「中央」と性愛について。 余談なので書かなくてもいいのだが、あえて簡単に書いておくと、性欲は食欲ともつながるものである。しかし、性行為はどうしたって相手との完全かつ永遠な同一をもたらしたりはしない。男性器は、女性の完全な中央には同化しないし、ましてや女性器は男性器によって自らを完全に埋められ一つになることはないのだ。中央の不可侵。それは個人を守るものであるとともに、個人を孤独に追放するものでもある。このことは食とも重なる。なぜならば、我々は果肉を食しても、その芯を食すことはできないからだ。そして、これらの重なり合う場所に、ひりひりとする我々の悲惨が現れている。逆に言えば、そのような悲惨を通して、我々はひりひりする自らの存在を、世界から切り離されてあることの確かさと悲しさとを感じるのであろう。(しかし、逆説的にだが、我々はその悲惨の中央にある空洞を通して、切り離される前の世界につながっているかも知れず。「(芯は捨てないでね)」という言葉が不意に響く場面、あるいは沈黙の中への唐突な「(gaburi)」の回帰などから、そういうことを考えた) 言うまでもなく、林檎は知恵の実であると同時に、アダムとイーヴに愛ではなく肉欲をもたらした実でもある。そして、その実を食べたことによって、二人は楽園を追放され、肉体を持った人間として、欲と悦楽と喪失と痛みとに晒されるようになった。彼らが食うことのなかったであろう、赤い実の芯は、今も我々の肉の中の空洞として、ひりひりと、そこから濡れ始めている。 ●終わりに なんか、いつも以上に辛らつかつ長々しい批評になったことを、お詫びします。ここまで読んでいただいた皆様には、心からの感謝を。でも、やはり、話半分で聞いてくれるのが、私の批評に対する最も安全な向き合い方であるでしょう。それは、作者である半知半能さんにとっても、なんら変わりのないことだと思います。 この分量と気合とで批評を書くことは、正直、かなりしんどいことであります。批評ギルドに名前は載せてありますが、基本的には、月一くらいの活動になることをご了承下さい。ただ、個人的にご指名やご依頼を受けた場合は、極力それに応えたいなと思います。もし、そんな奇特な方がおられれば、の話ですが。 |
2005年11月21日月曜日
【批評ギルド】 「朝寂」 やまなか さおり
批評の一文目は、いつも困ります。という文章で無理矢理一文目をクリアーして、なんとか批評を始めていきたいのですが。 やまなか さおり 「朝寂」 http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=46533 なんというか、非常に端正な詩だと思う。何が?と聞かれると、詩の姿が、と答えるほかないのだが、それでは意味不明だろうから、もう少し書いてみると。 この詩の中で、登場人物は呼吸しているだけだ。そして、その呼吸を確かめている。けれど、そこには「わたしが」呼吸している、その「わたしの呼吸」を「わたしが」確かめている、という風な「わたし」の出しゃばりは感じられない。話者も、自分の考えをガンガンがなりたてたりしない。伝えたいことは、短い言葉として、というか、それら言葉が描くこの詩のしずかな立ち姿として、我々の前に現れる。それが、心地よい。 仄暗い朝の 静けさに身を委ね ゆっくり 呼吸を確かめる 詩の出だしは、もどかしいほどにつかみ所がない。どの一行をとっても、これと言った決め手に欠ける感じで、かと言って状況説明過ぎてうざったいこともなくて、私はこの詩に入り込むことも拒否することもできず、どうしよう、と困ってしまった。しかし、 いち にぃ さん しぃ いち にぃ さん しぃ という所では、素直に感動した。「本当に、ただ数えているだけやん!」と。 呼吸というものは、それが大切であるくせに、普段意識されることが全然なくって、けれどそのリズムにはきっと詩や生命の秘訣なども込められているのだろう、と勝手に思っている。詩の一行は呼吸の長さによって決まる、という説もあってそれは個人的にあまり好きではないのだけれど、とにかく詩の形と言うものが、呼吸なり生命なりを文字通り「形」にしている、と考えることもできるのだ。 その呼吸(リズム)を形にすることに特化した例として、スペースだけで詩を作る例(ドラッグアンドドロップすると形が浮き出てくる)とか、あるいはある種の純粋詩も挙げられるのだが(たぶん)、そうやって対象に真っ直ぐに挑むことが却って対象を見えにくくしてしまうのではないか、という懸念もあるのであって、それら呼吸やリズムは生きている我々とともにあり、意識されずに繰り返されるからこそ呼吸やリズムとして続いていく、という側面もあるのであって、意識してしまったらそれはもはや、有限の我々の意識の中に閉じ込められた檻の中の表象となってしまう(純粋詩はその表象自体を破壊するほど徹底しているから、まだいろいろやってください、と思えるのだが)。 ところが、この詩では、呼吸を一つの形にしながら、それを「ただ数える」という行為に結び付けていることによって、呼吸を呼吸のままでとっておくのだ。いや、こう言うべきだろうか。この詩では、ただ数えることの中に呼吸が現れている、と。 話者は、その呼吸についてうるさくは言わない(少なくとも、ある地点までは)。ただ、それを形にする。詩の姿として示す。それだけだ。その書く態度とも言えるものが潔く、凛とした空気となって詩を包んでいる、そのように感じた(むろんその空気は、朝の空気でもあるのだ)。呼吸だリズムだと自分で騒ぎ立てている詩は、いわば人工呼吸の詩であって、この詩の呼吸は「自発呼吸」として(自発呼吸のまま)、詩の文字の中に掬い取られる。 ●二、「生きている」について さて、「一」では「自発呼吸」について書いてきたわけだが、というか、「一」という区切りを入れ忘れていたので、そこは読者さんが思い思いの場所に入れてくれたらいいのだが、ここでは、「生きている」という部分について述べる。 この詩の見た目の特徴としては、「一」で書いた、数えている所の字下げによる往還がまず挙げられるのだが、それともう一つ、次の部分が注目されよう。 規則正しい 自発呼吸 (すぅ と) 昨日から 羽化した朝 (はぁ を) あぁ 今日も 生きている (繰り返して) 生きている 詩の基本的な流れは字下げなしの部分(各連一、二行目)が語っているのだが、その裏で、呼吸が行われている。これも、生きている我々の裏でつづく呼吸の側面をうまく形にしている、ということもできるだろうが、正直な所、こういう複線的な書き方は手法としては凡庸ですらある。 しかし、この詩では、その凡庸な手法が大きな効果を生んでいる。なぜか、といえば、この詩では「繰り返し」がきちんと織り込まれているからだ。そして、最後にそれが手のひらのように合わせられるからだ。 あぁ 今日も 生きている という書き方は、いささかナイーヴすぎるきらいがある。ここには感傷があって、もっといえば感傷を抱いている話者だけがあって、肝心の「生きている」がない、そう思う。「生きている」というのは、さっき呼吸について書いたように、もっと(我々に対して)そっけないものであると思うのだ。というか、この詩は実際、呼吸をただ数えることを通して、そのようにして生を掬い取ったではないか。その同じ詩が、ここでこのような言い方をすることに対しては、私は書き手の無用心ささえを感じる。 ところが、この感傷を、裏でつづいていた呼吸が、越えていく。感傷は、感傷に浸っている話者に終始することが多く、そこが終着点になってしまいがちなのだが、その終着点を、この詩の伏流は、実にそっけなく越えていくのだ (繰り返して) この一語に、どれほど戦慄しただろう。「生きている」という、どう考えてもそこで終わってしまいそうな断言を超えて、繰り返されていくもの。ここに、私は本当に「生きている」何かを感じたのであり、感傷に浸る話者という小さな領域を覆す、恐ろしくも貴いものを見たのである。 そして、その上で繰り返される言葉、 生きている これは、主流としてつづいて来た方の言葉が行き着いた「生きている」と、括弧つきで伏流としてつづいてきた呼吸とが合わさって出てきた、いわば陰と陽が抱き合った形での本当の「生きている」であって、それは一回目の「生きている」を越えたところで言葉になった(誰がこの言葉を語ったのか?)生なのだろう。 ●三、手を合わせる 「二」で書いたような、陰と陽が合わさったものとしての生を考える時、私はどうも、それが「手を合わせる」とつながるような気がしてならない。手の甲は我々の外皮、あるいは日の当たる陽の部分であり、手のひらは日の当たらない内臓のような印象が、個人的にあるのだ(実際はこの逆で、日本では手のひらは陽、手の甲は陰とされている。だから、葬式で無闇に手のひらを見せることは無礼に当たるそうだ)。 「手を合わせる」のところで作者が「湿り気」という言葉を選んだことは、非常にいい選択だったと思う。これは、「羽化」ともむすびつき、また、まだほの暗い中に浮かぶ朝露などもイメージさせる。羽化は外敵に見つかりにくい夜に行われ、羽化したばかりの成虫の羽は濡れている。そして、彼らの外皮は湿っていてやわらかく、白い。あまりにも無防備な命。夜の闇の中に震えるように浮かぶその、白。 我々は、夜、闇に守られながら(責められながら)自らを解体し(解体され)、いわば自発呼吸だけになって生きる。そして、朝になり、朝食を摂ることで、「わたし」を「わたし」として成り立たせ、自分の一日を生きていく。この詩の立ち位置は、まさにその間、羽化した成虫のしずかな白さとともにあるのであり、その白さや湿り気がやがて固い外皮に閉じられると言う転換点が、ちょうど、「手を合わせる」――湿った陰の部分を陽の部分で挟み込み、内に閉じる――という行為に象徴的に表れているのではないだろうか。 ●四、いくつか気になった点について(箇条書き) ・最初の出だしの中途半端さは、それがいかに朝の雰囲気に合っていたとしても、やはり考え物のような気がする。特に、ここで「身を委ねて」という表現を使ってしまっては、そこに「わたし」の姿が出てくる気がして、うまくないな、などと思ってしまう。それよりもむしろ、手を合わせると同時に手が現れてそれと同時に初めて身体が現れるようにしたら、面白いんじゃないだろうか(というのは、完全に個人的な好みだが)。呼吸だけがあって、手を合わせることでそれを綴じ込んで(それを綴じ込むことによって手を合わせるという行為が実現されて?)、「わたし」の身体が形になる、という方が、流れ的にすっきりすると思うのだ。おせっかいで申し訳ない。 ・「生きている」の次の連、「一朝 一朝/繰り返される喜びを」ってところは、いきなり話者がまとめの姿勢に入っていて、これまでの呼吸している地点からは全然離れてしまっています。一つの朝の中で呼吸をたしかめているところから、もっと大きなところに向かおうとしたのでしょうけど、そのような普遍化の歩みはもっと慎重であるべきだと思います。下手な勘繰りを入れると、作者としては「生きている」で一息ついてしまって、そこからどうしたらいいか考えた時に、ここにあるような普遍的なフレーズが浮かんだのでしょうけれど(たぶん)、こういういかにも詩的な普遍化は、これまでの地に足着いた展開(本当に感じて、考えて書かれた生きた言葉)に対して、重大な裏切りをすることにもなる、と個人的に思います。まあ、これも個人的な好みの問題ですが、一応、参考までに述べさせてもらいます。 ・「今日が始まる」というのは、あまりにも簡単すぎやしないだろうか。そんなにすぐに始まるのか、本当に? 何か、「疲れていても、今日は始まる」というア○ナミンVのCMを思い出した。あまりにも割り切りすぎと言うか、今日というものへ強引に頭を切り替えられたようで、後味が悪かった。や、この詩においては、やっぱり今日は始まらなければならないんだろうけど、けれど、この一行はあんまりじゃないかな、と思うのだ。 ●五、蛇足 タイトル、「ちょうせき」と読むのでしょうね。ふつう「朝夕」と書く言葉であり、「朝と夕方」という意味で考えると、正直、単なる文字遊びにしかすぎない、と思います。つまり、あんまりもとの言葉の意味が生きてこない、という。 ただ、「朝夕」には朝から晩まで、いつも、という意味もあって、そうなってくると、俄然詩のテーマとも響いてくるわけで。いや、だからなんだって話なんだけど、いいタイトルだな、と思ってしまったのです。 ●六、蛇足の蛇足 これって批評なのかね? ごめんなさいね、やまなかさおりさん。 |
2005年11月14日月曜日
入沢康夫「「誕生」へ」のフレーズに基づくRe‐mixed Texts(反復される喪のために)
差出人: 栄安津子 送信日時: 二〇〇四年八月二十八日 二十三時五十七分四十二秒 宛先: 増田考志 件名: Re:お久しぶりです。 > 栄さん、お久しぶりです。増田考志です。暑い日が続きますが、お元気で >お過ごしでしょうか。 > 私はいま、人生で初めて、北海道の大地の上にいます。今日の夕方ごろに >新千歳空港に着き、そこからは空港バスで、ここ、札幌まで来ました。この >メールは、すすきのの外れにあるインターネット喫茶から打ってます。ホテ >ルをうろつき出て、人に道を訊き訊きこの店まで歩いてきました。すすきの >と聞いて、決して変な想像をしないように(爆)。 > 私が北海道に並々ならぬ愛着を持っていることは、栄さんもご存知でしょ >う。あれほど、ゼミでも発表しましたしね(笑)。けれど、私が初めて北海道 >に来てみて感じたのは、憧れの地に対する感激ではありませんでした。 > かといって、無論、幻滅したわけではありません(笑)。そうではなくて、 >何と言ったらいいのだろう、私は、言葉を失ってしまったのです。ここ北海 >道は、あまりにもすき間が大きすぎるのです。そして、ちょうどそのすき間 >にはまり込んでしまったかのように、というか、そのすき間の中で佇んでい >る自分にはっと気づいてしまったかのように、言葉が寄りかかる対象を見失 * * * * (まつくらな画面。岩に砕ける波頭だけが見える。) Mステで初めて見た時はタモリが彼女たちの年齢の小ささに驚いていて、たしか当時は平均年齢十四・五歳だったはずだけどそれは僕が今計算しただけでその時タモリが言っていたかどうかは覚えていないし、どっちにしたって僕はテレビを眺めながら特にその幼さに驚くこともなかった。けれどというか何と言うか僕はそもそも驚くも驚かないもない状態だったわけだが、「それなのにしっかりした歌をうたうんだよねえ」と感心したようにタモリが言った時には「へえ」と少し気持ちがそちらに惹かれて画面を見ていた。それまでテレビを見ていなかったのかと言われると一応見ていたはずだし、見えていた記憶もかすかにあるのだがそれは水の中で写真を見ているように茫洋としていてしかも声も聞こえなくて静止している、あるいはとっても緩慢にゆらゆら動いている。僕の覚えている映像はタモリの言葉とともに唐突に始まっているのだ。テレビの中では、長い椅子に座って彼女たちは他の大人の「アーティスト」たちに囲まれタモリの横でこぢんまりと埋没していた。埋没していたようなんだけれども、それは決して押しつぶされる感じではなくて、四方からの圧力を背負うことで彼女らの内から満ち押し返してくる力が画面の真ん中でじっと腰かけていて、その静かさが逆に怖かった。小さな輪郭と白い肌、意志の強そうな黒い瞳で四人並んでかけていて、一番小さな子の長い髪はまっすぐ下に落ちていた。 (まつくらな画面。岩に砕ける波頭だけが見える。) Mステのステージで彼女たちは当時のヒット曲を歌い、僕は切実で澄み切ったその歌声も歌詞を丁寧に胸のうちに置いていってくれるその歌い方も四人それぞれの個性が出ている楽器の演奏も全部それぞれに悪くないと思ったし、それどころかこれはいいとも思ったがそんなことは努めて思わないようにした。いいと自分を納得させられなかったのは楽器の音が小さいとかたしかそんな理由で、僕はたしかに彼女らの楽器の音が小さいことが不満だったのだけど、それは僕自身が必死になって音を小さく聞こうとしていたのかもしれないと今思い出すと思えた。というか、むしろ鳴っていた音がうまく思い出せないくらいだ。何かドでかいガラスを一枚隔てているみたいで、歌っている彼女たちに向けてそのガラスを懸命に押し付けているのはたしかに僕の力だ。当時大好きなバンドが解散したばかりで僕は彼らの代わりに自分の心を引っ張り出してくれる人たちを求めていたし、漫然と音楽番組を眺めては代わりの人たちを探しながらその実在を求めていなかった。 * * * * 差出人: 栄安津子 送信日時: 二〇〇四年八月二十九日 四時二十七分九秒 宛先: 増田考志 件名: Re:お久しぶりです。 増田くん? お久しぶり。メールありがとう。それから、さっきは変な返信をしてしまってごめんね。 北海道、いいね。人生初だったんだ? きっと、今頃やっと感激してるんじゃないかな。おいしいものもいっぱい食べてる? また、みやげ話とか聞かせてね。 そうそう。京都はまだ暑いです。熊本にはまだ帰ってない。学会とかで先生のお手伝いをしたり、色々忙しいからね。それに、院試ももうすぐだから。院試が終わったらまた、帰るよ。 増田くんは就職先が決まってていいなあ~。じゃあね、また。熊本から帰ってきたら、その時飲みましょう。こちらこそ、久しぶりに喋れるの、楽しみにしています。 * * * * (まつくらな画面。岩に砕ける波頭だけが見える。) 部屋の中は乱雑に散らかっていた。何回も着まわしてきた衣服が、いつ着たかの区別もなく一かたまりに積み上げられ、崩れかかったままで止まっていた。丈の長いカーテンがだらしなく半開きになっている。外は夜だ。摺りガラスの向こう、最近出来たばかりの四角い高層マンションの明かりが、点々と白い。 部屋の真ん中、そのマンションからも見える位置に敷かれた布団は薄汚れていて、長く湿気を吸ってきたためか、生地も風合いも一切の内実を失ってしまった。布団の横には、空になったカップ麺の容器が一つ置かれてある。僅かにスープが残るその底の窪みへと、二本の割り箸が斜めに差し込まれていた。前触れもなく小さくバランスを崩したその瞬間のまま、発泡スチロール製の縁に身を凭せかけて、じっとしている。おそらく、この二日の間、ずっと。箸の先の方には、スープと二日前の彼の唾液とが、穏やかな染みとなって残っている。 (まつくらな画面。岩に砕ける波頭だけが見える。) 《……は知っている。その部屋にあるのが何であるか。今、この文字たちを繰り返しながら、……は知っている。その部屋の中にあるのが何であるか。……は振り返らない。振り返らなくても知っているからだ。なぜ? それは「彼」が自ら語ってくれる》 その部屋は、京都市の中心部を縦断する東大路から、路地を少し西へと入ったところにあった。そこは何年も前から新しい建物が建たず、寂れた店舗の閉店や古くなった住居の取り壊しばかりが行われている地区で、ある日、錆だらけになって放置されていた大きな工場を取り壊して高層マンションが建つまでは、その一帯はまるで、京都の中心部に広がる古い木と土と鉄の墓地だった。 工場がなくなった。マンションが建った。数日の間、そこには何もなくて白っぽいだけの空き地が広がっていた。かつて工場をゆるやかに見下ろして、いつだったかよく見えない空き地を斜めから覗き込み、今では壁のような高層マンションから威圧的に見下ろされる。彼の住んでいた部屋はちょうどそのような場所にあり、それは五階建ての学生マンションの三階の一室だった。 (まつくらな画面。岩に砕ける波頭だけが見える。) あとになってから、彼女たちを見るのはその時が初めてではなかったことがわかるのだが、それはまた別の日の話でこの時のこととは関係ない。とにかく僕は後味の悪い思いをしながら、彼女たちの名前を覚えておいた。それがやがて、彼女たちのことを間違いなく好きになるまでにはいろいろと段階があって、今は引っ越した友達の下宿でCDTVを見ていて新曲で踊っている彼女たちの姿を偶然見かけて、その友人からダンスも踊れるということを聞かされた時は冬だったけど部屋の中はほのかに温かくて《誰の記憶だ》、Mステで初めて見た時は帽子をかぶっていてぱっとしなかった髪の短い子のダンスが挑むような目つきでカッコイイというか怖いくらいででも彼女のやわらかな人柄も一緒に滲み出していたから《誰がそれを見たというのだ》、今はない友人の部屋のカーペットの柄やコンポの鈍い銀の光などと一緒にぼんやり覚えているし《誰が覚えているのだ。誰も覚えてはいない。……は知っている》、次の年の六月にポップジャムでその子が片足をぐっと前に出した姿勢でベースを弾きながら大サビを歌う時、客席の心持ち高くてずっと遠いところを真っ直ぐ見つめながら高音部を眉をしかめて歌ってふとその目のままで笑った、その時のはっとしたような感動も彼女のあたたかくナイーヴでたくましい声もその時の白い衣装ときれいになった顔立ちとともに覚えているのに、それらはもう驚きでもなんでもなくて僕を大きく包むばかりだ《「僕」とはどこにいる。増田考志がこれを打っていた京都の一室も、今は人の手に渡っている。それも「今はない」のだ。そして、彼は三重県の実家にもいない。……は知っている》。 階段はマンションの外壁に取り付けられている。深夜バイトを終えて帰ってきた彼は、大体決まって、疲れた足取りでそこを昇っていった。三階にたどり着き、依然昇りつづけている階段からのっそりと外れ、濃緑に塗られた廊下を歩いて自分の部屋の前まで行く。鉄製の重い扉を開けるとその度ごとに、湿気に満ちた部屋の空気が彼の頬を親しげに打った。 その部屋に彼はいない。十数分前まで彼が寝転んでいた布団の上には、今は一つの死体が転がっている。やせた胴体に淡い水色のパジャマを着、顔には半透明のポリエチレン製のビニール袋をかぶっていて、姿勢は真っ直ぐだった。仰向けになって、布団の上に転がっている。そのまま動かない。 部屋の空気はずっと滞っている。しかし、それは完全に静止しているわけではなかった。よく見てみると、ついさっき生まれたばかりの小さな埃が、つけっぱなしの蛍光灯の光に照らされてかすかに上下している。様々な菌類を含んだ空気もしずかに渦を巻いていて、その渦がたどり着いた先、家具の裏側や流しの下など目に見えない片隅では、今この瞬間にも新たな命が花を開きつつあった。死体は現れて以来ずっと、この止むことのない腐食にさらされつづけている。いずれ、その皮膚や内臓からも花が咲くだろう。 部屋の外は一面の雨だ。 (まつくらな画面。岩に砕ける波頭だけが見える。) * * * * 差出人: 栄安津子 送信日時: 二〇〇四年九月十九日 〇時十五分二十秒 宛先: 増田考志 件名: 増田くん、元気? 栄です。私は昨日、熊本から帰ってきました。増田くんも、もう京都に帰ってるよね。よかったら、今度の火曜日、一緒に飲みませんか? まさか、まだ北海道にいたりなんかしないよね。この前一度、聞きたいことがあってケータイにメールしたんだけど、返事ももらえなかったし。最近連絡ないし。どうしてるんだろう、と、ちょっと心配しています。 それから、もしまだ北海道にいるようなら、お土産はチョコがいいなー、なんて思ったり(笑)。いろんな話も聞かせて下さいね。楽しみ。じゃあ、またね。 * * * * 《二〇〇五年二月二十六日、増田考志は死んだ。その部屋には、彼の怠惰な生活を推測させる衣服の山、食べ散らかされたいくつものインスタント食品の容器や箸、読んだのか読んでいないのかさえ定かではない雑多な本、包丁、数枚のCD、鍵のないキーホルダーなどに混じって、一つのPCが発見された。そこには数多くの文書が保管されていた。どうやら彼は、インターネット上に(もちろんハンドルネームを使って)文章を発表していたらしい。事実、PCに保管された文書に記されているハンドルネームで検索をかけると、優に一万を越える記事がヒットする。しかし、彼が一つのハンドルネームで活動していたとも限らないし、彼の全人間像は、どうしたって収集しようのないものなのだ》 (まつくらな画面。岩に砕ける波頭だけが見える。) いろいろな段階を踏んで僕らが今ここにいるのはたしかなはずなのだし、その到達の喜びみたいなものも当然こうやって物語る時にはあっていいはずなのだけれど、でも正直なところ段階が今ここにいる僕らの背中の方、振り返って目をこらさなければ見えないような辺りを遠巻きに流れていっているだけのような気がして、それはさびしいといえばさびしいのかもしれないけれど、たとえば夜、橋の下の川が立てつづけるせせらぎの音を思うなら、まるで子守唄に包まれながらそれにも気づかずに眠っている子どもみたいで僕はやはりしあわせだ《彼がこう書いた例のバンドは、二〇〇五年の四月に解散した》。 僕はやはりしあわせだ。 外は夜だ。摺りガラスの向こう、最近出来たばかりの四角い高層マンションの明かりが、点々と白い《死体はまだ、そこに転がっている。かつて毛であったもの、かつて指であったもの、かつて性器であったもの、かつて唇であったもの、……それら一つ一つから無数の細かい虫が這い出して、かさかさと音を立てて部屋の四方に散らばっていき、壁と床の隙間、天井の角、窓のサッシなどのところに辿り着くと溶け込んでいくように見えなくなった》。 《……はそのことを覚えていない。覚えているのとは違っている。ずっと前からそんなことがあったし、これからもあるだろうから、これは記憶などではないのだ。あえて言えば、――いや、これについて語る言葉など、あるはずもない。だから……はいつまでも……でありつづけるのであって、時々それが「わたし」や「彼」になる。それだけの物語だ》 付けっぱなしになっていたPCの上では、暗くなった画面の上、水道管みたいなパイプが三次元的につながり、枝分かれして、広がっては消え、広がっては消えしている。 * * * * 差出人: 増田考志 送信日時: 二〇〇五年十一月十三日 二十三時五十七分二十秒 宛先: 栄安津子 件名: お久しぶりです。 栄さん、お久しぶりです。増田考志です。ながらくお返事できなくて、すみませんでした。 私はまだ、北海道にいます。いま、すすきのの外れにあるインターネット喫茶から、このメールを打ってます。帰るのは、まだ先になりそうですが、京都に戻ったら必ず真っ先に連絡して、おいしいチョコを持っていきますから。食べて下さいね。私も楽しみにしています。 * * * * (まつくらな画面。岩に砕ける波頭さへも見えぬ。) |
2005年11月12日土曜日
「Ishkar」 scene 13 (5) ライブ四曲目の途中まで
「えー、……それでは。次の曲、聴いて下さい」 椅子に腰かけたまま、照れ笑いのような表情で真ん中のギターが、言う。つづいてその顔が少し引き締まり、まるで両手で大切に置くように、次の曲のタイトルが告げられて照明が暗くなった。静かな拍手が、野を渡る風のように自然に湧き上がる。そのさざめきはやがて会場をいっぱいに埋め尽くし、けれど、その上をさらにおおらかに覆っていくように、広々としていながら星空のように切ない、ピアノとシンセサイザーの音が鳴り響いていた。 真ん中の女性の声が、伸びていく。誰も楽器を弾かず、録音された音だけが鳴っている会場を、一人の女性の生きている声がひたむきに進んでいく。水橋はその曲が、彼女たちを有名にしたあのドラマの主題歌であることに、ようやく気がついた。さっきの拍手のあたたかさが、今さらのように胸に沁み入ってくる。真ん中のギターだけを残して、後は真っ暗になった会場の客席で、曲に合わせて赤いペンライトが揺れていた。平らに切り取られたステージは海岸みたいで、そこへと下っていく草深い野原では、金色の穂が――何百本もの光と腕とが――ゆったり左右に呼吸している。 Aメロが始まって、金属的にささやかなアコギの音が、淡々と鳴っていく。真ん中の女性の歌声は、今は歌の主人公たちの出会いを綴っていた。言葉は感傷的になることもなく、一つ一つ、景色とともに見出されていく。シャッフルビートで弾んでいるドラムは、静かだった。ハイハットの音はほとんど聞き取れないくらいに小さく、バスに時折スネアが混じるだけのように聞こえる。ベースが通奏低音のようにいつしか響いていて、歌の主人公の気持ちが、今は遠い懐かしい喜びが、女性の声を借りて夕べの涼しさのように象られて、佇む。 (中断) 長らくこの場を借りて進めさせてもらってきた「Ishkar」ですが、やはり、どうしたってこれ以上前には進めなくなりました。正直、中断だけは、自分としては何としても避けたかったのですが、どうしたって無理な以上、もはやどうしようもありません。 辞めるべきタイミングはこれまでにも何回もありました。これさえ辞めればどれだけ楽になるか、ということも何回となく考えました。けれど、自分が今探しているもの、自分が書こうとしているもののことを信じていましたので、その度ごとに気力を振り絞って乗り越えてきました。けれど、今回の敵は、やはり大きすぎた。強すぎた。いつかの作者コメントで書いたように、書き手としての自分が、完膚なきまでにぶっ潰されてしまったのです。いや、既にぶっ潰された状態で、それでも最後の最後まで力を搾り出して進みつづけてきたのですが、しかし、ここで本当に、力尽きてしまいました。 読者のみなさまに対して、そしてこの小説自体に対して、申し訳ない気持ちでいっぱいです。自分としても、ひどく悲しい。けれどいつか、この小説のことを掬い上げるようなものが書けること(あるいは、知らないうちに誰かの手で書かれてしまっていること)を宛てもなく期待して、今は、仮初の眠りにつきたいと思います。ありがとうございました。そして、すみませんでした。 |
2005年10月23日日曜日
悪鬼ウラ話 ――「Ishkar」のこととか
かつて私が、プロフィールで「詩の邪道 小説の悪鬼」と名乗っていたことを、一体どれくらいの人が覚えてくれているだろうか。私の創作の原動力となっているものの中には、敬愛や感動とともに、怒りや悪意もたしかにあって、それらは一つの車の両輪のように、私の作品を前に進めている。 今、私が自分の小説についてあれこれ語ろうとするのも、そのような悪意の現れである。昨今の風潮として、作者が自分の作品について語るのを嫌う向きがあるし、私も補足として語られるそれは激しく嫌悪する。その一方で、理由もわからずとりあえず風潮に乗って否を唱えているだけの人もいるように感じていて、この文章はある点で、そのような人々に対する挑戦でさえある。 私が書いてきた「Ishkar」は、疑うべくもなくひっでぇ小説である。描写は回りくどく、起承転結はなく、ストーリーは平坦で、登場人物は少ない。その上、作者がコメント欄でこれ見よがしに「つらいつらい」と言い募る。洗練された読者たる皆様におかれましては、こんなヘボい文章を小説と呼ぶこと自体、許しがたいことであるだろう。 特に、scene 8以降、コメント欄で作者が後半と呼んだ部分に入ってくると、「Ishkar」はその酷さをより顕わにする。前半はまだ、ヌーボーロマンとかある種の実験を意識させる部分もあったりして、なんとなく雰囲気があったのだが、後半はもう、何もないのだ。scene 13に至り、確実にバランスは崩れ始め、scene 12までが原稿用紙約110枚なのに対し、scene 13の途中までで、すでに60枚以上を使っている。どう考えても、無計画的な浪費である。 大体から、「Ishkar」は長すぎる。主人公が北海道をほっつき歩いているだけの小説で、ここまで長くなる必要はないだろう。そもそも、起承転結もはっきりしていなくて、主人公の旅の動機すらよく分かってなくて、読者は何を読まされているのかわからない。その上、scene 13では中心的なシーンであるはずのライブが始まるまでに、膨大な量の描写をしていて、その上ライブは22曲全部書くつもりなのだ。この作者は、何がしたいのだろうか。 実際、自分としても、scene 13は自分の首を絞める結果になったと思っている。後半に入って俄然厳しさを増してきたこの小説を書きながら、私はいつも、このシーンを書けば次は楽になるはずだ、ここが峠で、これを越えれば次からは楽に行けるはずだ、と念じていた。しかし、先に進めば進むほど、山は下ることなく登りつづけ、そればかりか、ますます傾斜はキツクなってきた。特に、scene 13は、依然その頂上さえ見えていない。現在の位置も先の様子も見えないほどの濃霧に覆われた山裾(しかし、もうずいぶん高い所まで上ってきたはずなのだ)で、途方に暮れているのが現状である。 そもそもこうなったのは、私が高校時代から得意としてきた一番の技法を、scene 13で自分に禁じたからである。それは、カットバックといわれる手法で、互いに離れた複数のシーンを交互に登場させることで、ストーリーに往還運動を生むものである。16歳の頃に書いた「White Tears」では、主人公を二人立ててこの技法を使ったし、17歳の時の「Smile Several Smiles」では、問答無用でよみがえる思い出を、この手法を使って割り込ませた。最近では、「空走距離」がこれをよりソリッドに発展させて使っているし、「celebrate」なんかも、話者の感傷と工場の無機質との間でカットバックを行っているともいえる。 実際、この手法さえ使えば、私はいつでも小説を書けた。困ったときはカットバック。しかし、そんな自分の手馴れた作業に、自分で飽きてきたと言うか、それなしでどうなるかが見てみたくなったのだ。読んでくれた人はわかるだろう。scene 13は、回想すらほとんど挟むことなく、ひたすら前から順番に書いている。それも、ほとんど省略なしで。 小説を書いてみたことのある人は、この書き方を一度やって見るがいい。自分でもびっくりしたのだが、前から順番に書いているつもりでも、主人公がトイレに行っていないとか、昼食をとっていないとか、色々とヌケが出てきた。それは、小説を書く者が、いかに自分勝手に現実を切り刻んでいるか、話にならないところをいかにあっさり切り捨てているか、というかむしろ、そもそもそれを見ることさえいかに完璧に忘れているか、ということを思い出させるだろう。 私が抵抗してきたのは、このような書き手の怠慢である。たしかに、何でもかんでも書けばいい、というわけでもない。一日を分刻みに分解して、実際の行為にかかる時間に応じて文字数も分配する、という書き方もできるにはできるが、それはそれで時間の一般性をあまりにも信じている点で、考えることに対する書き手の怠慢である。何でもかんでも書くことと、省略をしないことは互いに違うのであって、その違いはまた、だらだらとした身辺雑記と小説を分かつものでもある。 とにかく、省略をせずに現実を直視する、というこのスタンスは、私に余りにも大きなものを課した。それが、後半になって一気に調べものの量が増えたことにも関係する。前半は、自分の記憶を基に、わからないところは適当にごまかして書けた。そういう手法を使っていた。しかし、その手法を前半で決算してしまったため、後半はそうは行かなくなったのだ。なけなしの手法で、私は現実と素手で戦わなくてはならなくなった。 この部分は本当のウラ話で、全然余興の域を出ないのであるが、私が後半をここまで書くために参照したものは、膨大な量にのぼる。北十八条の駅からさっぽろまで何分かかるのか、さっぽろ駅から出た後である地下街はどういう構造になっているのか、その地下街に入っている商店街(?)は、本当に主人公の進むルートに沿って存在しているのか、そして、その商店街のロゴの色は何色か。色が画像でわかったとして、それを何色と呼べばいいのか。JR札幌駅はどのような外観、内装をしていたか。快速エアポートに乗るホームの頭上にかかっているカードには、様々な急行車両の名称が書かれていた気がするが、では千歳線で走っている急行車両にはどのようなものがあったのか。エアポートが停車する駅は何か。駅から駅の間は何分ずつかかるのか。千歳駅の前にあったあの連絡通路は、一体なんだったのか。そして、その連絡通路を持っている店舗の色は、何と呼べばいいのだろうか。千歳川は、どこからどこへ流れているのか。私が見たと思った川沿いの景色は本当にあるのか、あるとしたらそれはどの橋の上から、どのように見えるものなのだろうか。その時、川はどちらからどちらに流れているか。 無論、小説は地図を見ながら書くものではない。そのように取材して得た知識を寄せ集めても、それはいわば死体をつぎはぎしただけであって、それらは個体として生き返りはしない。生きている時間はよみがえらない。そして、つまらないボロを出すのだ。頭でっかちのインテリ派小説家がやってしまいがちなミスだ。 私の場合は、記憶や欲求と、現実との戦いであった。自分としてはこういうものを見た、という記憶があって、あるいはそういう幻視があって、しかし、現実の場所を舞台としている以上、それが本当にあるものでなければ話にならない。右から流れる川を左から流すわけには行かないのだ。では、どうするか。私は、自分の記憶や幻視を信じ、それと重なり合うものをひたすら探していった。千歳川にしても、自分の記憶とぴったりくる一地点をついに見つけたし、そこで自分が幻視したのと、果たして川は同じ方向に流れていたのだった。 なお、この現実と向かい合うという姿勢が、否応なしに私に重荷を課した例として、もう一つ、「無煙浜」のことが挙げられるだろう。この小説が「無煙浜まで」という文書グループに加えられていて、未完の小説「無煙浜まで」と重なる部分を持つことなどから明白だと思うが、この小説の最終目的地は、はなっから厚田村の無煙海岸であった。そこにある見張り台は、私にとっていわばまだ見ぬ憧れの場所で、今年の一月石狩まで行ったときも、本当は厚田村まで行きたかったのだ。バスの都合でいけなかったが。 scene 13で無煙浜の話を出すことに応じて、一応その命名についてもう一度確かめておこう、と思って厚田村のホームページを訪れた。そこで私は知った。無煙浜の見張り台は、今年(すなわち、小説の舞台にもなっている2005年)、既に取り壊されてしまっていた。無煙浜海水浴場自体、昨年から営業していなくて再開の目処も立っていないらしい。 小説は、ここまで来て最後の目的地を失ってしまった。どうすればいいか、まだ決まっていない。とりあえず、何もない無煙浜に、主人公には行ってもらいたいと思っている。そこで何かが起こるだろう。ここにこそ、現実やらなにやらと向き合う小説の醍醐味、すなわち現実をごまかさずにそれと対峙して、激烈に見ることによって幻視に至り、作品を完成させる、という禊修行にも似た道行きのたのくるしさがあると思っている。 しかし、最もつらいのは、そのような自分の記憶と記憶外の現実との戦いではない。むしろ一番私を苦しめているのは、自分の記憶の中にある光景から目を反らさず、それを書いていく、という作業である。すなわち、記憶の中の現実との戦いである。自分の内側にあるだけに、この敵は非常に厄介だ。 たとえば、scene 13の、物販待ちの列。あそこを簡潔にまとめることなど、私にとっては造作もないことだ。たとえば、同じようなシーンを、次のように書いたことがある。 > 去年の夏、Zepp Tokyoでのライブに行った時にも見た光景だ。しかし、去年のは正直おぞましかった。物販開始のたしか二時間前、下見がてらに寄ったのに、くねくねと曲がりくねった長蛇の列が既に出来ていたのだ。ほとんどが男の方で、大半が何人組みかでにたにたしながら(いや、にこにこしながら、というべきなのか)話していた。残りの男の方は一人で来たみたいで、みな一様にせっぱ詰った顔をしている。女性はせいぜい一割弱だろうか。真上から照りつける夏の日と、行き場のない男たちの熱気で、彼女たちは今にも押し潰されてしまいそうに見えた。 > その時の物販では、写真入りミニうちわ(メンバーの顔写真が裏表に一人ずつ、計二名分入っているやつ)が飛ぶように売れていた。購入したばっかりのライブTシャツに着替え、しかもショッキングピンクとネイビーの二本セットになっていた派手なリストバンドを両腕にはめて(その着こなしは絶対に間違っている!)、その出で立ちで近くのハンバーガー屋に入っている人たちが多くいた。 ファンの醜悪さを感じさせてあまりある名文(!)である。しかし、これを今読むと、私はそのピックアップの仕方が気に食わない。この文章の後には、次のような文章が続くのだが、これもまた、同じ理由で気に食わない。 >大阪の物販待ちの人々は、会場がホールだったこともあってか、かなりまともに見えた。待っている様子も、公園に多めに人がいる、というだけで、少なくとも異様な空気は漂っていない。スタッフが出てきて物販のための列を作った時にも、駆け出す人とかも特にいず、大人しくきれいな列が出来た。よく見ると、見た目にも美しいカップルや、男前なバンドマン、男女問わず中高生多数、小さな女の子と母親の二人連れなどがいた。京都・大阪・神戸のアイドルショップについて、その博識を語り合っている人たちもいるにはいたが、その表情には周りに配慮する余裕が見えた。そして僕が見た限り、誰もモーニング娘。の雑誌は持っていなかった。 ここには、去年のファン=醜悪→今年のファン=いい感じという印象を与えようとする意図が見え見えで、読んでいて吐き気がする。実際は、もっと色んな人がいたと思うのだ。それを、自分がこう見せたい、こう見たい、という願いに沿って、いとも簡単に捨象してしまう。scene 13で私が自分に禁じたのは、これであった。その結果、自分としては目を反らしたいようなものも、じっと見つめて、書いていかなければならなくなった。 > 戸惑う水橋と、黙ったままの野坂は、列を左手に見ながら建物の横の空間を進んでいく。奥へと進むにつれて道は狭くなり、列を成す人々とほとんどすれ違うような格好になったが、それでも列の終わりはなかなか見えなかった。その代わり、入り口を目指して並び、入り口の方を向きながら止まっている人たちの、様々な顔が見える。満面の笑みで喋っている髪の黒い男子高校生三人組、赤いTシャツを着て腕組みをしている毛深い金髪男性、軽妙なトークをしていると思わしきカップル、やや子どもっぽくも元気なデザインの服を着た女子中学生と落ち着いた雰囲気のその母親、深刻そうな目で下の方を見つめている、三十代くらいの太ってメガネをかけた男性、なぜか女物の浴衣を着た髭の青い男性、ブランド物を身にまとったきらびやかな女子大生二人組、明らかにロックバンドをやっているような服装をして、涼しい表情で辺りを見回している若者二人組、などなど。それらの顔の一つ一つを、野坂と水橋は後ろへ後ろへ追い越していく。 たとえば、この中に、どれだけこの小説に書きたくない人たちがいただろう。しかし、書かねばならなかった。それがつらかった。しかも、どれだけ書いてもそれが全てではないことも私は知っている。それもまた、つらい。 そして、そのつらさは、ライブシーンに極まる。正直言って、ライブを書くなら、それだけで一つの完結した小説とするべきだった。カットバックとかリプライズとかの現代的手法を満載にして、感覚として伝える方向を目指すべきだった。しかし、先にも言ったとおり、scene 13はそのようなやり口を自分に禁じている(ちょっとつかっちゃったけど)。結果、ライブを真正面から見つめて書かなければならなくなった。真正面から見つめて、ライブを書けるものか。それも、自分が見た、大切な思い出であるライブのことが。 それは、自分の中で一番放っておきたい部分、美しい思い出としていつまでも持っているつもりでいたい光景や時間、手付かずのままで時々思い出しながら、実際はどこまでも目を反らしていたい曖昧な感触を、真正面から見ることであった。私は、身を切られるような苦痛を感じた。逃げることを禁じられ、見たくない真実を真正面から見つめなければならない状況なのだ。適当に書いてごまかすことはできないのだ。かといって下手なやり方をとると、書けば書くほどそれは実際のライブの感触から遠ざかっていく。 上に引用した小説中、私は今回の北海道とほぼ同じ分量を持つ大阪でのライブを、実に短くしかし印象的に書いている。こうすれば、自分は傷つかないし、ライブの感じもうまく伝えられる。これを禁じて、私はどこに向かおうと言うのか。 > その日のライブで、僕はヘビメタ曲「Bible」のブレイクで高々とジャンプをかまし、ハードコアパンクな「ROCKING」では、間奏中、喉が裂けるほどオイ・コールを続けた。そして、抜けのいいスネアの連打と絶妙なタイミングで入るまっすぐなバスドラムが利いたドラムソロでは、MIZUHOが拳を突き上げた瞬間に誰よりも早く彼女の名を叫んでいた。 > そのあと、ギーザー・バトラーのような勇壮なパフォーマンスも飛び出すベース&ドラムのセッション、さらにはギター隊二人がそれぞれ熱いソロをぶち上げる四人のセッションへとつながっていく中で、僕は何回メンバー個々の名を叫んだだろう。アンコールでは、かつてテレビで初めて見かけた時、嫌悪のあまりテレビを蹴っ飛ばした「大爆発No.1」を、完璧なフリで踊っている自分がいた。 「映画とは、いわば幻視に至るまで激烈に現実を見つめることだ」。私の敬愛する映画監督塩田明彦の言葉である。そして、私は文字通り自分を殺すつもりで、ここまで見つめ、進んできた。すでに、手持ちのカードは残っていない。残していない。なけなしのまなざしだけを持って、一体どこまで進んでいけるかわからない。曲はあと19曲もある。しかも、その後で野坂との会話があって、ホテルについて眠るまでがscene 13なのだ。私は、ベッドに辿り着けるのか。永遠の不眠の予感が私を苦しめている。 あなたたちは、どうぞ勝手にそれぞれのベッドで安楽な眠りをむさぼるがいい。素敵な小説が、簡潔で読みやすい描写が、あらかじめ加工済みの「人間の真実」が、そして楽しいお話が、あなたたちをより深くまで眠らせてくれるだろう。 |
2005年10月18日火曜日
「Ishkar」 scene 13 (4) ライブの第一MCまで
一挙に歓声が湧き上がった。ステージ奥の布製のスクリーンに、緑の、森のような光景が映し出される。客席のあちらこちらで次第に人々が立ち上がり始める。スピーカーからは小鳥の声が聞こえ、その合間に満ちていくように、静かな重低音が鳴っている。スクリーンの緑へと横から当てられる何本もの白いライトの光が、上下に往復を繰り返し、その間にも歓声はとめどなく大きくなっていて、客席では黄色い蛍光色や、紫、さっき見た点滅する赤などの、様々なペンライトが点いていく。周囲のどこかから、はるか遠くへと吠えるような声で、何人かがメンバーの名前を叫んでいる。「ああ、森だ」と水橋は思った。その瞬間スクリーンが落ち、圧倒的な輝きが向こう側から射してきて何も見えない。 「札幌ー! とばしていくぞー!」 高く響く、キラキラとしたギターの音。その残響の消えていく後を追って、堰を切ったように歌と演奏とが同時にあふれ出す。客席の前の方では、既に曲に合わせて人々が腕を振り上げたり跳び上がったりしている。ライトの光量は押さえられ、見えるようになったステージの上には四人の女性(少女?)が立っていた。真ん中と左のマイクの前に二人のギター、右のマイクの前にベースの人が立ち、小高くなったドラムを一人の女性が叩いている。全員が歌っていた。全員が演奏していた。皆、白を基調とした衣装を着ていて、細い細いこげ茶色の端切れが、何枚も、その衣装の肩口やら胸元やらベルトやらズボンの片足やらから、トドマツの葉のようにぶら下がっている。 サビ始まりであった曲は間奏へと入り、真ん中の一人がブルージーで伸びのあるギターソロを決めた。Aメロに帰り、真ん中の人が弾くギターのミュート奏法と、重なり合うベースの低音とが、小刻みに曲を前に進めていく。歌は今は真ん中の人だけが歌っていて、笑顔だ。粒の揃ったハイハットの中に、真っ直ぐなスネアの一発一発が混じる。左のギターはマイクからずっと前に出て、両手を頭の上で叩いて聴衆をあおっていた。彼女も笑顔だった。ベースが自在にうねった後に跳ね上がる、それを合図に、左のギターがアルペジオを弾き始める。真ん中のギターの大人びた歌声と、ドラムの女性の高くて艶のある声が重なっていく。 水橋は、ただ、信じられない思いでそれを見つめるばかりだった。目の前にある光景は、あまりに自分の予想とかけ離れていた。こういうコンサートは、もっとテレビ然としていて、もっともっと大層な幻想に満ちていると思っていた。しかし、ただ、四人だけがいた。四人だけが歌い、演奏していて、繰り広げられる音楽はこの上なくシンプルだった。どこに幻想の入り込む余地があるのだろう。水橋はそう思う。四人がいる、四人が立っている。それだけなのだ。平らなステージの上に、四人の音が散らばり、散らばりながらまぶしく合わさっていく。歌は前へ前へと進んでいく。 左のギターが荒々しいコードをかき鳴らし、Bメロが始まる。今度は左のギターとベースの二人が歌っている。真ん中のギターも、今は簡単なコードを全開に弾くばかりだ。水しぶきのように、例のキラキラした一音が高く宙に舞って、再びサビに帰る。シンプルなドラム、直線的なベース、ただコードをかき鳴らすだけの真ん中のギター、ひたすら同じアルペジオを散らしていく左のギター。でも、音の一つ一つがゆるぎなくて、四人それぞれのかけがえのない重さが込められているようで、水橋には、その単純な曲がこれ以上どうにもならないほどの説得力を持って、自分の前に広がっていくような気がした。真っ白な砂浜だった。光を全反射する砂浜のような、ステージだった。 ブルージーなソロとパキッとした四人の歌声とを何回も経て、曲は終わる。白っぽかった照明が急に暗くなり、紫の光に照らされながら、真ん中のギターがマイクからぐっと前に出てきて、ソロを引き始める。トレモロアームを存分に使った、サーフロック風の長く伸びる音を、彼女は手元を見つめながら響かせていく。曲げられた首や背中が描いている丸みを帯びた線が、水橋にはとてつもない力を秘めたものに思われた。むき出しの肩が、白く輝いている。途端、スキップしながら降りてくるようなドラムと、小刻みな左のギターとが割って入ってきた。トレモロアームを利かせまくる真ん中のギターに立ち向かうように、左のギターとベースとが一つのフレーズをユニゾンで繰り返し、ドラムはさっきよりもさらに軽快なハイハットとスネアで進行する。 歌はまたもやサビ始まり。照明は再び白く明るくなって、「元気ビーム!」とか何とか、四人一緒に叫んでいる。客席の前の方では、歌に合わせて飛んでいる人々が見えた。左のギターのカッティングと、真ん中のギターのさざ波みたいな細かいストロークとが合わさって、水橋には、会場の光や空気自体が歯切れよく刻まれ、それと同時に流れながら震えているように見えた。フィルインではドラムがタム、フロアと雷のように降りてくる。ベースはしなやかで、かつ、ほどよくこもったぬくもりのある音を出し、曲をたくましく歌い上げている。 最初の曲とは打って変わって、ハイレベルな演奏の連続だった。左のギターは、AメロでもBメロでも、複雑なソロを弾きつづけ、その手は常に小刻みに動いていた。それでいて、彼女もまた、歌っていた。歌っていて時々、笑った。様々なフィルインで見せるドラム、――スネアの連打、タム、フロア。四人とも歌っている。ポジティブであっけらかんとしていて、バカバカしいくらいの歌詞を、ちゃんと歌として立ち上がらせて、客席の人間に圧倒的に届けてしまう。ベースが、笑いながら前進してきて、首を振りながら難しいフレーズを決める。 この歌を歌うために、一体、どれだけの強さが必要なんだろう。水橋はそう考えた。水橋も、左のカップルも、斜め前の高校生も、皆腕を組んでステージを見つめていた。水橋の右隣では、痩せた男性が必死に飛び跳ねている。水橋には、隣の男性や前の席の人たちが一体何に合わせて飛び上がっているのかがわからず、――たぶん、その曲をCDなどで聴いてこなかったからだ――そんな自分が少しもどかしかった。 曲が終わる。客席から歓声と拍手が湧き起こる。それに後押しされるようにドラムがカウントを取り、巨大な音が、四人の楽器から塊になって飛び出してきた。のびやかに、しなやかに、輝くばかりの生命力を込めて伸縮するリズム。それは、どこまでも広がっていく大地のような、ゆるぎなくて果てしないビートだった。そして、そのビートのはるか上空を割って、真ん中のギターの甲高いソロが、高く高く横切っていく。水橋は、空を見た。自分の目には当て所なく見えた北海道の空が、閉じられることもなく夕日に輝いている、そんな途方もない美しさを見た。 この音だ、と水橋は思う。今、ドラムの女性は椅子から立ち上がり、サンプリングされたリズムに合わせて頭上でスティックを打ち合わせている。左のギターも頭上で大きく両手を叩いていて、力と弱さと光と影とが交錯する歌声で、つまりその人自身でありその人以外の何ものでもない歌声で、笑顔で、歌を歌っている。この音だ、この歌なんだ、と水橋は思う。ベースが自在にうねりを生みながら、大地の底の暗いぬくもりを目の当たりにさせる。真ん中のギターは、今はステージの右端にまで進んできて、頭を左右に揺らしながら息の長いコードを弾き散らす。その音が、キラキラと空に砕け、川のようにまぶしく流れていく。 電車の中、車両の一番前で高校生が小さくリズムを取っている。バスの窓から、外を流れていく白骨のような木々を見つめている。Bメロに入りドラムと左のギターが演奏に戻って、音はさらに荒々しく息づいていく。真ん中のギターが自分のマイクの所に歩いて戻ってくる。山は暗く、湖は重く、千歳の光景はただただ広く、ひとりで道を歩きながら、いつしか鼻歌を歌っていた。歌はいくつもの場所で鳴っていて、鳴りつづけていて、そして時々、水橋の耳にも聞こえてきた。この音だ、この歌なんだ、と水橋は思った。ベースがリズムに乗りながらダンスのようなステップを踏んで、飛び上がるようにドラムの腕が掲げられ打ち下ろされる。サビ、一斉に襲いかかる巨大な生命力。歌声、音、その中で脈打つこの鼓動こそが、北海道に来て以来、ずっと聴こえていた。 ――裸の大地に勝負を挑んで のびやかでかつ荒々しい歌声で歌い上げられる思い。果てしないものの中で生き、挑んでいく力。それはここで生きてきた人たちの命であるのだろう。ずっとつづいてきたその命を、今、わずか十六、七歳の四人の女性が一身に背負って、立っている。歌っている。まぶしい音、かけがえのないその人だけの声、ゆるぎない笑顔。水橋は、自分の目の前に、照らし出された明るいステージの上に、フィクションではなく確かに人がいるのだと、今さらのように実感した。 手が叩きたかった。自分の手のひらを打ち合わせて、その音で四人の歌に加わりたかった。しかし、それもできないまま、その曲は轟音の余韻を残して終わってしまう。 「札幌のみんなーーー、ただいまーーーーー!」 ドラムの女性が声を張り上げ、照明が一気に明るくなる。観客は一斉に、野太い歓声と拍手とでそれに応えた。真ん中のギターが舞台の袖に引っ込んだが、それに気づかないように、というかそれを観客に意識させないように、彼女は高くハキハキとした声で喋りつづける。今年のライブツアーがこれまでになく長いものであったこと、久しぶりにふるさと北海道に帰ってきて、どこかほっとしていること、ツアーファイナルとなる今日のライブで、完全燃焼したいこと。観客がまた、言葉にならない大歓声でそれに応える。 つづいて、左のギターが声を張り上げた。顔には、ふわふわと言うかふにゃふにゃと言うか難しい、やわらかい満面の笑みが浮かんでいる。底抜けに元気で、しかし時々翳りの覗く声で、彼女は今年、このグループに新メンバーとして加わった時、皆が自分の名前を覚えてくれるかどうか心配だったことや、このツアーでもファンが自分を受け容れてくれないんじゃないかと思っていたことなどを語る。しかし、スタッフやメンバー、そして各会場でのファンの声援が、そんな自分を支えてくれた。「みなさんと出会えて、本当に幸せです! ありがとうございます!」最後まで笑顔を消さないまま、彼女は最後をそう締めくくった。観客が大声でそれに応える。誰かが「ありがとー!」と叫んでいるのが、水橋の耳に聞こえた。ステージの真ん中には照明が当てられていなくて、そこで着々と、椅子やマイクの準備が進んでいく。何人かのスタッフが腰を屈めて駆け足で行き来している。 「札幌ー! 気合入ってるかー!」 ベースの女性が、声が平坦に歪んでしまうくらいの、挑戦的な叫び声を挙げる。叫び返す観客の声は、もはや怒号のようだった。彼女はそれを聞いて、「なはは」と脱力したような笑い声を立てる。一連のやり取りに紛れるように、左のギターも舞台の袖に歩いていった。今、ベースの女性は照明を一身に受けて、どこかくぐもっていて優しい声で、まるで目の前で語りかけているようにしみじみと、久しぶりに北海道に帰ってきた今の気持ちや、今年のツアーを振り返って思うこと、ファンやスタッフ、それにメンバーに対する感謝を口にしていく。 左のギターがエレキギターを持ち替えて帰ってくる。ステージの真ん中では椅子等のセッティングが終わっていて、アコースティックギターを抱えた女性が腰かけている。 「皆さん、楽しんでますかー!」 その声と同時に、ステージの真ん中にライトが当たる。十五、六歳とは思えないようなしっかりした語り口で、彼女はツアーファイナルにかける意気込みや、観客に楽しんで帰ってほしいことなどを伝えていった。そんな中、時々見せる仕草や笑い声、声を張り上げた時の口調などが、年相応と言うかむしろ十分すぎるほどの若さに満ち溢れていて、それが水橋を不思議な気分にさせた。目の前にいる四人が、何歳であるとか、女性であるとかどうとか、そういうことがわからなくなってくる感じだった。ただ、そこに人がいる。そこに人がいて、全力で生きている、震えている。その振動だけが目の前にあり、その振動こそがその人とどこまでも等しくて、その人そのもので、年齢や性別のような瑣末な事項がどんどん見えなくなっていく。大きな振幅を持って存在しているその人自身。それ以上どうにもならないがゆえに恐ろしいその人そのもの。信じがたい思いを抱きながら、水橋はその輝きに、もはやどうしようもなく魅入られていた。 |
2005年10月9日日曜日
「Ishkar」 scene 13 (3)
一時間を本当に待って、ただ待って、空では八月の残照が薄紫の夕闇へとなだらかに移り変わり、それに合わせて、水橋の中では今自分が何かを待っているという意識すら、自然に次第に薄らいでいった。列が急に動き出し、時計を見ると六時五分過ぎだった。物販の時とは違い、列はほとんど立ち止まることもなく、進む。角を曲がり、入り口が見え、そこでは人だかりが何かをしながら、次々に建物の中へと吸い込まれていた。 「あ、もしかして、カメラとか持ってない?」 野坂が水橋の方を振り向いて、訊く。 「ん? 僕は持ってないけど、何で?」 「あの、……ほら、肖像権とかの関係でさ、カメラとかレコーダーとかの持ち込みはできないの。カバンが点検されてね、もし入ってたら、取り上げられちゃう」 「ああ、そうか。なるほど。でも、持ってない。大丈夫」 そう答えるうちにも列は減っていて、野坂は歩きながら、自分のチケットを取り出した。水橋もチケットを取り出して、確認する。一階十八列三十番。 「旅行に来るのにカメラを持ってこないって、やっぱりコージくん、変わってるね」 野坂は思い出したようにそう言って、笑った。 物販の時は入り口を塞ぐように並んでいた長机が、通路に沿って両側に並んでいる。そこには若い男性の係員が何人も並んでいて、チケットを受け取ったりビラを渡したりしていた。人々の流れはスムーズだった。水橋もチケットを渡し、半券と何枚ものビラをもらって、それを片手に進んですぐ、今度はカバンの口を開けて係員のチェックを受けなければならなかった。チェックが済むと、そこはもう広々とした一階ロビーで、正面で両翼を広げている煉瓦造りの壁にはいくつも、今日のコンサートを祝う花輪が立てかけてあった。地元の放送局や、雑誌等々、様々な名前がそこに書かれている。階段は見えなかったが、ロビーの両端にあるらしい。大きな二枚扉からホールに入っていく人もいれば階段に向かって歩いていく人もいて、たくさんの人々が、黄色っぽい照明に照らされたその空間を行ったり来たりしている。 「じゃ、コージくんの席はそっちだから」 正面の壁に二つ作ってある扉のうち、左の方を指差して野坂が言った。 「わたしはあそこのから入るね。席も遠いし、こういう入り口はやっぱり、わたし、違う方がいい」 悲しそうな、そのくせどこかうれしそうな、よくわからない笑顔を残して、野坂が去っていく。野坂に言われた扉を引いて、水橋はホールの中に入っていった。厚い扉の向こうにあった暗い空間を抜けると、横から後ろから無数の座席が前へ前へと下って行っていて、それはまるで途方もなく広くて長い斜面のようだった。白い照明に照らされて、座席の一つ一つが光って見える。川原の石みたいだ、と水橋は思った。扇状に広がるその土地が流れ着く先に、四角くて平らな今日のステージがある。 ステージの上には、既にセットが組まれていた。二階建て、とでも言うのだろうか。ステージ奥側に、二メーター半くらい高くなっている部分があって、その両側から、板を組んで作ったらしい白い階段が、ゆるやかな弧を描きながら降りてきている。二つの曲線に包まれるようにして、アンプやらスピーカーやらがごたごたと置かれてあり、その中の丸く小高くなった部分に、ドラムセットが設置されていた。ドラムセットにはマイクもつけられていて、他のマイクはステージのずっと前の方に、真ん中、左、右、と等しい間隔をおいて用意されていた。これら三つのマイクは、どれかが前に出ることもなく、横一直線に並んで立っている。 二つの階段の外側、つまりステージ奥の両端にあたる部分には、分厚い紙を切り抜いて作ったような巨大な木のオブジェが密集していた。いや、それが本当に木なのかどうか、水橋にははっきりとはわからなかった。それらの「木」は、どの一本もこの一本も、頭の方で二股に分かれていた。分かれてから先は円を描くように曲がり、先端は刺すように尖っている。枝らしい枝はなく、三角形をした葉が、幹や二股に分かれた部分から直接生えていた。それは、見ようによっては、虫の触覚のようにも見えるオブジェだった。 二階になっている部分のさらに奥には、いくつもの巨大な輪が、互いに一部を重ね合わせながら並んでいた。その輪を覆い隠すようにして、というよりはむしろ、自分自身が一つ一つの輪になるようにして、そこにも二股に分かれて円くなる幹と、三角形の葉とがあった。その輪の上からもまた「木」が何本も生え、舞台の天井のすぐ近く、ぶら下がっているライトよりもまだ上の方にまで届いている。水橋は、南国の密林を思い浮かべた。そこに息づく、野蛮なまでの繁茂と生命力を思い浮かべた。しかし、それは水橋のイメージの中だけの話で、実際、ステージの上はまだ照明もついていなくて、暗い。その暗さの中で、紙を切り抜いて作ったようなオブジェは、結局、作り物でしかない自分たちの白さをただあからさまにするばかりだった。 舞台のこちら側、座席の間を、何人もの人たちが歩いている。みんな、自分の席を探しているのだろう。そう思って振り向くと、水橋の後ろにもずっと席がつづいていて、奥の壁にさっき入ってきたのと同じ二枚扉が見えていた。水橋は、自分が一階の扉から入ったことを思い出し、そうすると一階と二階とが、僕の今いる傾斜によってつながっているんだな、と理解した。二階までつづく一階席のはるか上空、たぶん四階か五階くらいの高さになるところに、壁から張り出すみたいにして二階席が設けられている。そこにも、もう何人もの聴衆が姿を見せていて、自分の席に座っている人もかなりの数、いた。 水橋は前に向き直り、自分の席を探し始める。縦に何本も走る通路のうち、一番近い通路を通って客席を下りていくと、十八列は扉のすぐ近くにあった。通路を挟んで二十七番と二十八番とが分かれていて、水橋の席である三十番は、通路の右側三番目の席だった。そこは、ステージからはやや遠いが、ステージをほぼ正面から見られる位置で、三つ並んだマイクを基準にすると、真ん中のものよりほんの少し左に寄っていた。 二十八番と二十九番の席は、まだ空いていた。三十一番には痩せこけて背の高い、三十代前半くらいの男性が座っている。男性は地黒い肌には不似合いな赤いTシャツを着ていて、それはツアーグッズの一つだった。ぎょろっとした余裕のない目から見ても、その人が俗にオタクとか呼ばれる類のファンであることは明らかで、水橋は、少し嫌な気分がした。しかし、だからと言って席を変えることもないと思い、その男性の隣に腰かけた。男性は例の黒いバッグの中をあさり、売られていたのとは別のペンライトを二本出してくると、それを両手に持ち、ストラップを手首にぐるぐると巻いて固定した。 水橋は平静さを保とうと、脚を組み、さっきもらったビラに目を通す。そこには、今日の主役である四人と同じスタジオに所属する、名前も知らない後輩たちが次に行うライブのビラや、地元のラジオ局が作った情報誌などが入っていた。何枚も何枚もめくり、見るともなしに見ていくうちに、水橋は、紙ヒコーキについて書かれたプリントに行き当たった。そこには、紙ヒコーキをどの曲のどの部分で飛ばすのかの指示があった。水橋は紙ヒコーキセットをカバンから取り出す。メンバーの写真入りステッカーと一緒に、黄色とエメラルドグリーンの紙が入っていて、ご親切なことに、紙ヒコーキの折り方が書かれた紙まで同封されている。 水橋は小さく苦笑しながら、黄色の紙を取り出して、書いてある通りに紙ヒコーキを折っていった。紙を縦に半分に折り、広げて、残っている折り目に合わせて左側を斜めに折る、右側を斜めに折る。そして、折り目に合わせてもう一度左側を斜めに、右側を斜めに、そうしてできた尖った先端を、こちら側に折り曲げてくる。人に当たっても大丈夫なように、しっかりと先端を折り曲げた後、紙を裏返して最初とは反対側に縦半分に折り、半分に折った片側をさらに半分に折り返してきて翼を作る。紙を裏返して、もう片側も同様に半分に折り返す。こうして折り込んだ両翼を広げると、それは黄色の紙ヒコーキだった。 目を上げると、もう座席は八割がた埋まっていた。ステージのすぐ近くには、コスプレとでも言うのだろうか、四人がプロモーションビデオか何かで着た衣装を真似て、それと同じ格好をしてきたと思しき男の人たちが集まっていた。彼らは席にもつかず、一ところに固まり、互いにべらべらとまくし立てては旧交を温めていた。その中に、白に近い金髪をした、細身で背の高い若者がいて、その人が普通に街でいれば確実に格好いいと言われるような顔立ちをしていることが、水橋を軽く驚かせる。物販の列で見かけた浴衣の男性もその輪の中にいて、水橋は「やっぱりそういうことか」と納得した。 水橋の斜め前の席には、野球部に所属していそうな男子高校生が二人いた。水橋が気づいた時、二人は小声で、メンバーの誰それがかわいい、とか、テレビと違って生で見たら、やっぱり、もう、信じられないくらいにかわいいんだろうな、とかいうことを語り合っていた。「お前、あれ持ってきた?」と言われて、片方がカバンの中からオペラグラスを取り出す。それを見たもう一方はうれしそうに笑った後、「ここから、ちゃんと撮れるかなあ」と言って、カメラ付ケータイを自分の胸元で構えた。撮る気なのか。野坂から聞いた肖像権の話を思い出し、水橋はよっぽどか注意しようと思ったが、結局諦めた。水橋の隣には二十代半ばごろのカップルが到着した。二人は前の方に集まっている人たちを見て「うわ、すごいね」と言い、水橋の方をちょっと見てから、席に着く。二人の顔には、どうしようもないな、とでも言いそうな苦笑いが浮かんで、消えなかった。 後ろを振り向くと、そこには中学生くらいの女子が三人で並んで座っていた。その幾分緊張したような表情が、水橋にはいとおしく感じられる。もしかしたら、今からステージに上がる四人は、この子達にとっては憧れのヒロインなのかもしれない。もしそうならば、今、この三人は、四人を取り巻くこの光景をどんな思いで見ているのだろうか。 いや、違う。こんなことを考えたいのではない。こんなこと、想像したってどうにもならない。そう思って、水橋は前に向き直る。自分が、電車の中で会ったあの小説書きと同じ見方をしていたような気がして、胸の中が気持ち悪くなった。これまでと一緒だ。僕はそう、自分に呼びかける。これまでと一緒なんだ。ここまで来たって、僕のスタンスは何も変わらない、変えてはいけない。 場内に、開演間近を知らせるアナウンスが入った。つづいて、ライブに関する諸注意が読み上げられ、その中には写真撮影や音声の録音に関する禁止も入っていたが、斜め前の高校生は一向に気にしないようだった。 「それでは、開演まで、もうしばらくお待ち下さい」 アナウンスが終わると、会場内は一層騒然としてきた。しかし、もう前に固まっていた人たちもいず、みな、自分の席に座っている。そうなると、騒がしいのは私語のせいだろうか。水橋はそうも考えたが、実際、誰かと誰かが大声で話しているということもなく、その騒がしさがどこから来ているのかは、ついにわからなかった。客席の照明が、少し暗くなったような気がする。水橋は紙ヒコーキをカバンにしまい、それからふと思い出して、ペンライトを取り出した。包装を剥がし、野坂がしていたようにして、ボタン電池を装着する。半球形をした銀色のボタンを押すと、ライトは点滅した。もう一回押して点きっぱなしになることを確認すると、水橋はライトを消してペンライトをポケットに突っ込んだ。もうすぐだ、と思った。それからもまた待ち、まだかな、と思ってからもしばらくは何もなくて、唐突に客電が落ちた。 |
2005年10月3日月曜日
Ishkar」 scene 13 (2)
右手には、大通公園がつづいている。緑の葉を支える赤褐色の太い幹が、一本、また一本と並んで立ち、公園の外周を一重に囲っている。地面は整備されていて、平らだった。その地面の上、時には噴水が見え、時には休日の午後を過ごす人々の歩みが見え、また時には、子どもたちが舞うように駆け回りつづけていた。区画を分かつ縦横の通りに四角く区切られて、公園はいくつも現れては、いくつも過ぎていく。 繰り返す光景に既視感を覚え始めた頃、道の先に地下鉄の駅への降り口が見えてきた。その向こうに大きな交差店が現れる。駅への降り口を通り過ぎ、道幅の広い交差点をまっすぐ横断し、野坂は不意に右折した。水橋もそれについていく。左手の公園の片隅に、立方体に近い形をした建物が垣間見え、その壁や屋根の灰色がかった白さが水橋の目をしばらく惹きつける。しかし、それも長くはつづかなかった。水橋の目が逸れている間も、野坂は水橋の横で歩みつづけているのだし、自分を引きずっていくその歩みに置いていかれないように、水橋はすぐに目を前に向け直さなければならなかった。そこには、また新しい交差点があった。それに沿って、野坂と水橋は左折した。 曲がってすぐ、右手に平べったい形をした背の高いビルが見えてくる。そして、通りを挟んでその左隣に、茶色のずんぐりした建物が鎮まっていた。 「ほら。あれが、厚生年金会館」 野坂は歩きながらその建物を指差した。それがチケットに書いてあった「会場」であることに、水橋はしばらくしてからようやく思い至った。しかし、そのことを思い出しても、まだ、水橋にはそこで今晩ライブがあるということが、少し信じられなかった。野坂の指の先で、その建物は大きな分銅のようにそこにある。それも、ただ留まっているというのではなく、むしろその重さによって自らの内へ内へと引っ込んでいくように思われて、その中に華々しい光景が広がる空間があるなんて、どうしても想像することができなかった。そもそも、中に入れるのだろうか。水橋はそうまで思ったが、野坂の指は、確かにさっきその建物を指したのだ。 「あれ?」 「うん。あれ」 道を横切る。建物の正面、敷地への入り口辺りに丸く囲まれた草地があり、黒く「北海道厚生年金会館」と浮き彫りにされた石碑が、そこで横置きになっていた。野坂と水橋はその脇を通り、建物向かって右側から、敷地内に入っていく。たくさんの人がいた。開場の三時間ほど前だというのに、そこにはたくさんの人がいて、入り口から建物の外郭に沿って右の奥へと伸びていく、横四列くらいの長蛇の列が既に出来上がっていた。 「これ、……何の列?」 野坂は答えなかった。戸惑う水橋と、黙ったままの野坂は、列を左手に見ながら建物の横の空間を進んでいく。奥へと進むにつれて道は狭くなり、列を成す人々とほとんどすれ違うような格好になったが、それでも列の終わりはなかなか見えなかった。その代わり、入り口を目指して並び、入り口の方を向きながら止まっている人たちの、様々な顔が見える。満面の笑みで喋っている髪の黒い男子高校生三人組、赤いTシャツを着て腕組みをしている毛深い金髪男性、軽妙なトークをしていると思わしきカップル、やや子どもっぽくも元気なデザインの服を着た女子中学生と落ち着いた雰囲気のその母親、深刻そうな目で下の方を見つめている、三十代くらいの太ってメガネをかけた男性、なぜか女物の浴衣を着た髭の青い男性、ブランド物を身にまとったきらびやかな女子大生二人組、明らかにロックバンドをやっているような服装をして、涼しい表情で辺りを見回している若者二人組、などなど。それらの顔の一つ一つを、野坂と水橋は後ろへ後ろへ追い越していく。 やがて、顔が果てて地面と向こうの景色とが見え、そこが列の終わりで、野坂と水橋は百八十度向きを変えた。そのまま列の一部になっていた。たくさんの背中と後頭部がずっと前までつづいていく。その先には、見えないけれども入り口があり、僕もこの人たちと同じところを目指して立ち止まっているのだ。というか、今僕は、長くつづくこの頭たちの一つになっているのだ。そう考えて、水橋は少し、不思議な感じがした。 列は、長らく動かなかった。人々は立ち止まったまま、会話したり、じっとしたり、ケータイをいじったりしていた。待つことばかりで、日が傾いていく。列の中には、疲れの見える人もいた。何人かは、今にも地面に座り込みそうだった。しかし、その近くで、楽しそうに喋っている人もいる。日が傾いていく。 野坂と水橋の少し前に、男子中学生と思しき二人組がいた。水橋はふと、二人の肩に同じバッグがかかっていることに気がついた。バッグ本体は、ビニールかフェルトかよくわからない真っ黒な生地でできていて、そこから赤い丸紐が出て、伸びている。あまり目立たないが、本体にはよく見ると赤い線でロゴが描いてあり、燃え盛り回転する火の玉のような、というかむしろ一気に北上する巨大な台風のような渦の中で、いや、その渦を突き破ってこちらに飛び出してくるみたいにして、デフォルメされた四人のグループ名が大きく波打っていた。一旦気づくと、列のあちらこちらの肩や腕に、それと全く同じバッグ――黒い本体と赤い紐、そしてロゴ――がかかっているのが見えてくる。同じバッグを持った二十五、六歳くらいの男性がまた一人、歩いてきて、列の最後に加わった。その人はやせ気味で肌が浅黒く、身体と比べてかなり大きめの青いシャツを着ていた。列に着くとすぐ、ケータイを取り出して高い声で話し始める。「今着いた今着いた。うん、厚生年金会館。……え? そうだな、結構並んでる。お前も早く来いって。え? だから、早く来いって。……何だよ、お前もじゃねえかよ。ははは」 「物販の列なんだ、これ」 独り言のように、野坂がそう言った。 「え?」 「ほら、ライブ・ツアーとかってさ、その会場だけでしか買えないグッズを売り出したりするでしょ。ツアーTシャツとか」 「ああ、……うん、たしかに。そうかもしれない」 「これ、そういうグッズを買うための列なんだ。開場三時間前から事前販売があって、本当は開場後でも中で買えるんだけどさ、品切れになることとかあるし、みんなできるだけ早く買おうと、こうやって並んでるんだよ」 「へえ。そうなのか」 その列の中に自分がいることが、水橋には何か場違いのように感じられた。自分の財布の中身を勘定してみても、ここで色々買えるだけの余裕はない。とはいえ、よほど無茶をして買い漁らない限り、今日一日過ごす分は大丈夫だし、今日さえ乗り切ればまた明日の朝、郵便局でお金を降ろすことができる。貯金は残り少なくなっているけれど、それでもまだしばらくは、この旅をつづけていくこともできるはずだ。水橋はそうも考えたが、この列の先にそこまでして買いたい何かがあるとは、正直思えなかった。 やがて、スーツを着てネクタイを締めた若い男性が何人か出てきて、拡声器で整列を呼びかけた。そのあと、これから売られるツアーグッズの紹介を始める。メンバーの誰それがデザインしたロゴが入ったTシャツや、メンバー個々の写真入りのうちわ、などなどがある中に、曲中で飛ばしてほしい、というメンバーの意向によって作られた(らしい)紙ヒコーキセットなどがあって、水橋は小さく苦笑した。いかにもアイドル的な演出だ、と思ったからだった。 「それでは、販売開始まで、いましばらくお待ちください」 そう言って、若い係員たちは帰っていく。物販待ちの列は、いつの間にか騒々しくなっていて、おそらく、何を買うかということについて話し合っているのだろう、後ろから見る頭や背中が、身振りに合わせてそれぞれ頻りに動いている。野坂と水橋との後ろに並んだ青いシャツの男性も、グッズ紹介の最中に着いた同じ年頃の男性と二人で、お互いの買いたいものを言い合ったり、いくつかのグッズに対して難癖をつけたりしていた。 列は、なかなか動き出さなかった。少しの間待ってから、野坂はカバンの中を探して、紙切れを出してきた。 「これ、ツアーグッズの一覧だから」 そう言って、水橋に紙を渡す。そこには、さっき拡声器越しに紹介されたいくつものグッズが、写真になって並んでいた。 「で、何か、買う?」 「いや、……まだ決めてないけれど。何か、お薦めみたいなもの、ある?」 できることなら、何も買いたくなかった。 「そうねえ。この、ペンライトなんか、あったらきっと盛り上がると思うんだ。普通に点くのと点滅するのが選べるし、光も赤で、きっとカッコイイと思う」 野坂が指差したペンライトは、例のロゴが赤く入った白いボディーの上で、真っ赤に光っていた。カッコイイかどうかは別にして、たしかにアイドルらしくないな、と水橋は思った。これなら、持ってもそれほど恥ずかしくないだろう。 「あと、ビラとかアンケートとか入れるために、この、ショッピングリュックでしょ」 「あ、この黒いバッグね。これ、少しカッコイイ」 「そう? よかった」 野坂は、自分のことのように喜んだ。 「それから、あと買ったらいいと思うのは……これ。紙ヒコーキセット」 「これ?」 「うん。そんなに高くないしさ、絶対買って損はないと思う。絶対」 どうして紙ヒコーキセットなのか。野坂の言う「絶対」の意味が、水橋にはわからなかった。やはり、この人と僕とは全然違うものを見ているのかもしれない。そう思って、水橋は今さらながら、どこかさびしい思いがした。北海道に着いてから何回も見た、彼女の遠い表情を思い出す。 しかし、結局、水橋は野坂に任せてみることにした。そもそも、今ここにいること自体、野坂に強引に運ばれてきた結果なのだ。どうせなら、行ける所まで行ってみよう。ここから。水橋は、そう決心した。 「わかった。じゃあ、僕はペンライトとショッピングリュックと、紙ヒコーキセットを買うわ」 「うん」 野坂は、うれしそうにうなづいた。 列が動き始めたのは、それから二分ほどたってからのことだった。列は、一気に五列分ほど前に進んだかと思うと、立ち止まり、そのまま何分も止まったままになった。それが何回も繰り返される。野坂と水橋の位置からは見えなかったが、きっと、入り口の方は込み合っているのだろう。そこから出てきた人々は、ほとんど全員が例のバッグを提げていて、ポスターが入っているのだろうか、筒みたいに細長い形をした箱をそこから覗かせている人もいた。それらの人々のうち、三、四割くらいは敷地の外に出ていき、他の六、七割は敷地内に残って、列から離れたところで談笑したりグッズを見せ合ったりしている。さっき見かけた、女物の浴衣を着た男性は、メンバー写真入りのうちわをバッグから取り出して、早速その包装を剥がしにかかっていた。 ぞろぞろと動き出してはまた立ち止まり、それでも列は確実に短くなっていた。建物の角が見えてくる。係員が出てきて、売り切れが出たことを拡声器で告げる。建物の壁にはめ込まれた大きなガラス戸から、休憩室のような一角が暗く覗かれる。ライブに合わせて片付けられたのだろうか、白いテーブルの上に、白い椅子が逆さまになって乗せられている。そのガラスには、自分と周囲の人々が映っていて、その中の一人が、こちらをぼうっと見返していた。みんな立ち止まっている。そして歩き出す。建物の角を曲がる。入り口が見えてくる。立ち止まる。係員がまた出てきて、グッズ紹介と、売り切れ商品をアナウンスする。そして二回ほど、進む。係員が出てくる。売り切れ商品は、またまた増えたらしい。 入り口は、すぐ近くになっていた。そこには長机が並べられていて、群がるような人々の向こう、四、五人の女性スタッフがせかせかと動き回って、グッズをまとめたり電卓を叩いたり商品を渡したり代金を受け取ったりしていた。机の前の人々と、列の先頭との間にはほんの少し間隔があって、机の前が空いてから、列の人々を誘導する仕組みになっているらしい。 水橋は自分の注文を何度も頭の中で確認する。ペンライトと、ショッピングリュックと、紙ヒコーキセット。思えば、このような行列に並ぶこと自体、水橋にとっては初めてと言ってもいいくらいだった。前は一体、どこでこんなことがあったのか。前の列がはけて視界が一気に開け、「次の方も、空いてる列にお並び下さい」と整理役の係員に言われて、水橋は一番右の列に並んだ。 水橋の前の人は、もごもごとした声で注文を言っていて、スタッフは何回も聞き直さなければならなかった。その人は、八千円以上の品物を買い、一万円を出してお釣りをもらっていた。そして、水橋の番になる。長机の前に立ち、スタッフと向かい合ってみると、途端に、水橋は言うべき言葉を失ってしまった。今年の二月の、石狩の郵便局のことを思い出した。「何かを探していたんです。それが何かわからなくて……、でも、だからこそずっと探していたんです」――いや、違う。何かを言わなければ。今、何かを言わなければ。 「ペンライトと、あの、黒くて赤い紐のついたバッグと、……それから、紙ヒコーキセットを、下さい」 三点で、一八〇〇円だった。水橋は商品を受け取った。そして人々の間をすり抜けて、敷地の空いている方に歩いていく。野坂は先に買い物を済ませたらしく、草地の縁に腰かけて、ぼんやりと水橋を待っていた。 野坂の隣に、水橋も座る。野坂は、メンバーの名前入りドッグタグや、うちわ、それにツアーパンフレットなども買ったと言った。実物を見せながら話す野坂は心底楽しそうで、それを見ていて、聞いていて、水橋も自然に笑っていた。空は、ずいぶん薄暗くなっている。物販の列はなかなか果てず、やがて開場一時間前になって、係員が拡声器で事前販売の終了を告げた。 「なお、今現在お並びになっているこの列の先頭を、ご入場の際の列の先頭とさせていただきます。ツアーグッズにつきましては、ご入場後にもお求めになられますので、いましばらく、開場をお待ち下さい」 敷地内で談笑していた人々が、一斉に動き出し、残っている人々の後ろに静かに進んで、建物の右奥へとつづく列を再び作る。野坂と水橋も、その動きに遅れなかった。今度は、水橋にもわかった。これは、入場を待つ列だ。そこに並んでいる人々の顔は、心なしか、さっきよりも少し引き締まって見える。野坂の表情も、明らかに真剣だった。 野坂と水橋は、建物の角の見える位置、壁にはめ込まれた大きなガラス戸のちょうど前辺りにいた。開場を待つ間、水橋はますます暗くなったガラスの向こうを覗き込み、逆さまになった白い椅子の、中空に投げ出された四本の脚を眺め、それから視線をガラスの表面に戻して、そこに映る自分たちの立ち姿を何回も確かめた。野坂と水橋の後ろには、ラフな装いの女子高生三人組がいて、小さな声で何かを語り合っている。 野坂はふと思い出したように、さっき買ったペンライトをバッグから取り出して包装を剥がし、赤いストラップのついた本体の尻部を外して、ボタン電池をはめ込んだ。蓋を閉めて、銀色で半球形をしたボタンを押す。すると、ライトは赤く点滅し、もう一度押すと、点いたままになった。そして、もう一度ボタンを押して光を消すと、野坂はペンライトをバッグにしまった。「ちゃんと点くね」と言ったきり、あとは何も言わなかった。 |
2005年9月25日日曜日
ときどき、
彼は ガスレンジをときどき きれいにする こびりついたふきこぼれをけずり 濡れた台ふきで 平らに、 ぬぐいとっていく その指のうつくしさを わたしは知っている ときどき、 知っている 彼は 植木鉢にときどき 水をやらない 朝のひかりの中パジャマ姿で立ち ジョーロ片手に 緑の、 まぶしさに目を細めている そのまなざしがないことのうつくしさを わたしは知っていない ときどき、 知っていない 冷えた布団の中からひとり わたしは、 見つめているのだ 台所の彼を ベランダの彼を そして 寝返りをうつ いつだって いや ときどき、 背を向けるわたし まぶたを閉じるわたし 彼のことが見えないわたし に 彼は声なんかかけてはくれない ときどき、 声なんかかけてはくれない わたしの背後から 濡れていくガスレンジの音 あるいは濡れていかない植木鉢の音が聞こえ ゆらめく水面の上で 白い泡になって結ばれていく ときどきのわたし ときどきの彼 ふたりのための小さなプールから うつくしく 流れ落ちていく やがて わたしはまぶたを開け もう一度 寝返りをうつ 振り返ったわたしの前に ときどき、 彼はいる ときどき、 彼はいない (詩集『きみよ きみよ』より) |
2005年9月19日月曜日
「Ishkar」 scene 13 (1)
朝だった。外では雨が降りつづいている。ひんやりとしたベッドの上で身体を起こして、水橋は、ほの白く光っているカーテンを眺めていた。ずいぶん前から腹が減っていたけれど、今すぐ何かが食べたいわけでもない。 ビジネスホテルの一室で目覚めるのは、これで何度目だろう。水橋は、そう考えた。これまでの朝は、どれもこれも、同じようなものだった。どれもこれも同じように新しいから、結局のところ、その新しさ自体がある方向性を形作れずに、平面的に並んでしまう。ありふれた朝だ。ベッドの上でそこまで考えてから、水橋は、しかしその朝も今日で終わる、と漠然と予感した。身体を横に回して、掛け布団の下から脚を出す。いつから見ていなかったのだろう。足のつめが伸びていた。スリッパに足を乗せて目を瞑り、耳を澄ますと、昨日の川、そして夜の支笏湖が、自分の中でさざ波を立てているような気がした。 部屋にあった、昨日買ってきたらしいコンビニのパンをベッドの上で食べる。その後、水橋は身支度をして布団を直し、今日要る荷物をカバンにまとめて部屋から出た。重い扉が勝手に閉まる。ノブをひねると、オートロックは既にかかっていた。あとは、エレベーターで下まで降りて、フロントにキーを預けて自動ドアをくぐるだけだった。そこにはもう、歩くほかない今日の道がつづいている。 雨の中、歩道にまで身を乗り出してきている木々を見上げながら、歩いた。大通まで北上し、そこから直角に曲がって大通の南側を東に向かう。西三丁目にある大通駅を通り過ぎ、西二丁目を左折して時計台のところまで来た。ビルとビルとに挟まれて、引っ込むようにして建っている時計台の前には、人がいなかった。何日か前に来た時は、そこにも色とりどりの服を着た人たちがいて、そのうちの何人もが、時計台の正面に設置されたお立ち台の上に登っては、そんな自分の姿を写真に撮ってもらったりしていた。今、お立ち台の上には誰も立っていず、四角く平坦なその表面は等しく雨に打たれている。 そこからさらに北に進んで角を曲がり、次の次の角でまた曲がって、テレビ塔を眺めながら南下した。テレビ塔にかかっている、巨大なデジタル時計の時刻は刻一刻と進んでいった。均整の取れた鉄塔の赤と白、そして、その足元で噴煙のように湧き出ている木々の緑。それらを間近で見つめてから、水橋は左に向きを変え、中央バスターミナルの方へと歩いていった。 通りに面したビルの一階にある待合所で、水橋は他の乗客たちと一緒にベンチに座り、薄暗い沈黙の中、自動販売機で買った熱々のフライドポテトを食べつづけた。バスが来て、アナウンスが入り、乗客はベンチからあっけなく立ち上がって待合所を出て行く。しばらくして、アナウンスが入り、バスはエンジン音を響かせて走り去っていく。さっきまでバスがあったところには、降りつづける雨だけが残っていて、それを眺めながら、水橋は湯気でじっとりとなったフライドポテトをまた一つ、口に運んだ。 フライドポテトがなくなって、何台かのバスが出て行ってから、水橋は立ち上がった。売店の女性と、冬の札幌について言葉を交わした。そして、ガラス戸を押して外に出て、また街路樹を見上げながら歩いていく。 カフェのあるビルの前に着いたのは、十二時三十分を少し回った頃だった。身体中がくまなく濡れていて、水橋は自分が、途方もない時間をかけて大きな森をくぐり抜けてきたような気がした。階段を昇り、言われたとおり手前の方のドアを開ける。ドアの向こうは暗くて、そこに組み合わせられてある木製の柱も机も、白い壁も、まるで住み慣れた家のように落ち着いていた。野坂は既にいた。店の中に既にいて、奥の方のテーブルから、こちらへと小さく手を振っていた。 「早かったね」 水橋が椅子に座るか座らないかのうちに、野坂は小さく声をかけた。 「うん」 野坂の前に置かれたコーヒーカップの中では、フレッシュを入れられたコーヒーが白く斑になっている。コーヒーの表面は、カップの内側に残るかつての表面の跡から二センチくらい下にあって、静止していた。 「ずいぶん濡れてるね。大丈夫?」 「うん、大丈夫」 ウェイトレスが来て、水の入ったグラスを置き、注文を取って帰っていった。 「昨日、支笏湖に行ったんだって?」 少しの間沈黙してから、野坂は思い出したように水橋に訊いた。 「うん」 「どうだった?」 そう訊かれて初めて、水橋は昨夜の光景を思い出す。何も見えなかった。 「何も見えなかった。けれど、なんか、すごかった。山を包む木の気配とか、目の前にある水の重さとか、見えないんだけれど、肌にずっしりと伝わってきて」 「へえ、すごいね」 「とにかく大きくて、広くて、鏡みたいだったな。支笏湖。それに、しずかで、……石油みたいだった」 「あはは。石油みたいだった、かあ。……変わってるね、コージくん」 「んー。たしかにそうかもしれない」 「はは」 厨房から歩いてきたウェイトレスは、フレンチトーストを野坂のそばに置き、サンドウィッチとコーヒーとを水橋の方に置き、裏返しになった伝票を二人から等しく遠い机の端に置いた。そして顔を上げると、「ごゆっくりどうぞ」とほほ笑んで帰っていった。 水橋は、コーヒーカップを手に取った。この黒い液体を口に流し込む時は、いつも、想像することさえできない異物にむかって体当たりをしていくような、一瞬の踏ん切りが必要だった。しかし、その踏ん切りは何も特別なものではなくて、日常の中にいくらでもある、小さな結節点の一つにすぎないのだ。そんなことを感じながら、水橋はコーヒーに口をつけた。飲み込むとそれは、香ばしくてコクがあり、強めに利いた酸味がさわやかで、美味しかった。 「北海道で石油が採れるって、コージくん、知ってた?」 野坂の言葉に驚いて、水橋は思わずカップから目を上げた。真正面から見る野坂の顔は、心なしか、いつもよりも化粧が薄くて若々しく見える。 「知らなかった。どこで採れるの?」 「厚田村にある、ムエンカイガン」 「ムエン……? それって、あの、無縁仏とかの、無縁?」 「まさかあ。煙が無いって書いて、無煙。無煙海岸。海水浴場として有名だったところなんだけど、その海岸近くの丘とか山とかでさ、石油が出るんだって」 そこまで言って、野坂は目を伏せる。またあの表情だ、と水橋は思った。 「もちろん、今ではもう石油採掘はしてないんだけどね。でも、石狩川を越えて厚田村に入って、海に向かう途中で、どことな~く臭いはするんだよ。で、臭いはするけど煙は上がらない、ってことで、無煙海岸」 「なるほど。なんか、納得した」 水橋が相槌を打つと、野坂は悲しそうに笑ってから、目を上げた。 「でも、ほんとのところ、どうしてその名前になったかはわからないんだって。海難事故とか、石狩川の水難事故とかで死んだ人の遺体が、ほとんど全部この海岸に打ち上げられたから、って話もあるし」 「じゃあ、やっぱり、無縁仏のムエンなんだ?」 「その話が正しかった場合、ね。まあ、漢字だけで言えば、今は煙が無いって書いて無煙なんだけどさ。……わからないんだよ。誰がどうしてそんな名前が付けたのか、どうしてその名前が今まで残ってきたのか。本当に」 そして、風のような、ため息。 「でも、いいところよ。しずかで。そこのね、ちょうど海岸を見晴るかす丘のてっぺん辺りに、木を組んで作った見張り台があったんだ。夕方には、それが影になったりしてさ、ほんっときれいだった。今年になって、取り壊されてしまったけど。無煙浜海水浴場も、もう去年から営業してない」 かなり長い間、沈黙がつづいた。水橋がトイレに行き、野坂がトイレに行った。野坂のトイレは少し時間がかかったが、ちゃんと戻ってきて、今は二人とも自分の席に座ったまま、黙っている。コーヒーを飲み干してしまった水橋は、空になったカップと、その底に残る数滴の名残とを眺めていた。野坂のカップも空だった。露の浮いたグラスが屈折させる、か細い光を見るともなく見ていた。野坂の視線に誘われて、水橋もその透き通った光を見つめようとする。しかし、その光は薄く、つかみ所がなくて、本当にそこにあるのかどうか、見えてはいても自信が持てなかった。不意に、野坂がグラスを掴んで口に運び、入っていた水をゴクリ、と飲んだ。 「湿っぽい話をしてごめんね。ほんとは、こんなことで呼んだんじゃないんだ」 野坂はそう言いながら、隣の椅子においてあったバッグをまさぐり始める。そして、一冊の雑誌を取り出した。それは、どこの書店にでもありそうな大衆的な音楽雑誌で、表紙の数字を見るに、二〇〇四年の二月に発売されたものらしかった。野坂は、その雑誌を慣れた手つきでめくり始める。そして、冊子の半ばあたりで手を止めて、そのページを開いたまま水橋の方に雑誌を置いた。 二ページぶち抜きで、四人の若い女性(少女?)が跳び上がっていた。四人とも、黒とピンクを基調にした衣装で、ジーンズやミニスカートなど、どことなく春らしさと元気のよさを感じさせる格好だった。空中で、右のページの二人はカメラに向かって笑顔で蹴りを放ち、左のページの二人は手をつないで口を尖らせている。インタビュー記事らしい細かい活字が、その写真の下の方にかぶせるようにして、縦書きの一段組みで並んでいた。右のページの活字の上には、丸ゴシック体の横書きで「なんてったって」と書いてあり、そのつづきに太字のゴシック体で、その四人のグループ名が書いてある。水橋は、そのグループ名を知っていた。 「ああ、この人たちのことなら、知ってるわ」 思わず関西弁でそう応えた水橋に、野坂は目を輝かせた。しかし、それも一瞬のことだった。 「あの、ドラマの主題歌でヒットを飛ばしたアイドルでしょ。あれ、いい曲だったよね」 「うん、そうだよね……。まあ、何だろ。アイドルでも何でもいいや」 野坂は明らかに落胆したようだった。そそくさと雑誌をバッグにしまうと、またちょっとだけバッグの中をまさぐり、細長い紙切れを取り出して水橋の前に置いた。 「何これ?」 「チケット。今日、この人たちのライブを見に行くの」 そこには、さっきの四人のグループ名が書いてあった。日付は二〇〇四年八月二十八日(土)、開場は十七時三十分で十八時開演、全席指定、四八〇〇円(税込)、場所は北海道厚生年金会館ホールだった。 「大丈夫、座席はわたしと離れているから」 座席を見ると、一階十八列三十番となっている。それがどのあたりの位置になるか、水橋には全く見当がつかなかった。 「いや、……なんで?」 「なんでって……なんで?」野坂は笑った。「や、……この前約束したでしょ。一緒に見に行きたいものがあるって。これなの。大丈夫だよ。気に食わなかったら、途中で抜け出してくれてもいいし。席が離れているから、わたしのことは全然気にしなくてもいいから」 そう言って、野坂はまた笑った。そして、「大丈夫だよ」と繰り返す。その言葉は、水橋を安心させるためと言うよりも、むしろ、自分を励ますためであるようにも思われた。楽観的に笑いながら、野坂の目はどこまでも真剣だった。水橋には、その真剣さが理解できない。理解できないのだけれど、それは、ただ美しかった。 野坂は席を立った。つられるようにして、水橋も席を立つ。会計はそれぞれが自分の分を払った。店から出て階段を降り、ドアをくぐって薄暗いビルを出た。雨はもう上がっていた。昼下がりの穏やかな日差しが、清潔に磨かれて、かすかに色づきながら道に降っている。野坂と水橋は、並んで歩いた。言葉はあまり交わさず、足音も聞こえなかったが、水橋には、隣を歩む野坂の呼吸が、自分の身体の中に波のように打ち寄せては反響し、反響しては鼓膜の内側から聞こえてくるような、そんな気がしていた。そして、このビートをどこかで聞いたことがある、とも。 二人は並んで歩いていた。その歩みは留まることも交わることもないままに、ビルと街路樹の輝く札幌の通りを、ひたすら前へと進んでいった。 |
2005年9月10日土曜日
「Ishkar」 scene 12
突然の電話に夢から引き離されて、仕方なく目を開くと、バスの中は暗くものさびしかった。 「もしもし、水橋孝司くんですか。野坂夕香です。元気?」 電話口から聞こえる野坂の声は、トーンも低くどこかしら元気がなかった。しかし、その声でさえ、バスのさびしさにはまだまだそぐわないように感じられた。まるで、何かの手違いで、まったく別の世界から言葉だけが届いたみたいだ。僕は、そう思った。 「うん、元気」 寝起き独特の定まらない声で、とにかくそう答える。僕の席は後ろから二列目だったが、そこから見ても、人の頭は四つしか見当たらない。まだ山の中を抜け出られていないのか、窓の外も、フロントガラスの向こうも、灯り一つなくて真っ暗な夜だった。ただ、バスの中だけが、今にも消えそうな蛍光灯の光にかろうじて照らし出されている。 光は、小さな明滅を頻りに繰り返した。あまりに暗いためだろうか、バスの中が一面、かすかに緑がかって見える。 「そう? それならいいんだけど。実は、明日のことなんだけどさ、……」 そこまで言われて、僕はようやく、約束の日が明日に迫っていたことを思い出した。「うん、うん」と慌てて相槌を打つと、野坂はそれに気づいたのか気づかなかったのか、遠慮がちな声で、待ち合わせの場所と時間とを指定した。――午後一時、地下鉄大通駅を出て北に行ったところにある、カフェで。 「わかった。……ところで、何を見に行くの?」 簡単に返事が返ってくると思ったのに、野坂はなぜか、少し戸惑ったようだった。 「や、……それはまだ、秘密、……にしておかせて。だめ?」 「ううん。別にかまわないけど」 特に何の拘りもなかった僕は、軽い口ぶりでそう答える。電話の向こうで、野坂がほっと息をついた。その息が、聞こえた。 「ありがとう。明日は、ちゃんと言うよ。それから、……そうそう! 危ない、言い忘れるところだった。さっき言ったビルの二階、カフェがあるフロアーね、実はそこ、もう一軒カフェがあって、しかも二軒が並んでいてさ、紛らわしいんだ。でも、わたしたちが会うのは、手前のお店だからね。間違えないでね。階段の途中にある、手前の方のお店だから」 「オッケー。大丈夫……だと思う。まあ、もし、万が一迷ったら、また電話するよ」 「ははは。そうだね。電話くれるの、待ってる。……って言うのも変なのか。あはは」 受話器から聞こえる野坂の声が、急に元気になった。そして、思い出したように、僕に訊いてくる。 「ところで、コージくん。今、どこにいるの?」 バスの中は依然暗くて、かすかに緑がかっている。 「わからない」僕には、そう答えることしかできなかった。「わからないけど、ちょっと前までは支笏湖にいた。今朝、千歳市に着いたんだ。今、バスに乗っていて、湖の畔から帰る途中」 ――帰るって、どこへ? ――僕にもわからない。実際、帰るところなんてないもんな。僕のふるさとも、なで斬りにされて焼き払われ、滅ぼされた後の、贋物なんだし。 (伊賀に忍者ってもういないんだね。) ――みんな、見えるようになってしまった。格好だけが残ってて、 (ほら。誰もいない、誰もいない) 明日の約束を何回も確かめると、野坂は電話を切った。しばらくして、水橋はまた眠った。森の中にいる夢を見た。 次に目が覚めた時、窓の外には荒れ果てた野原がつづいていた。時々、寂れた民家が沿道に現れて、消える。雨が降っていた。 |
2005年8月31日水曜日
「Ishkar」 scene 11
* * * * 差出人: 栄安津子 送信日時: 二〇〇四年九月十九日 〇時十五分二十秒 宛先: 増田考志 件名: 増田くん、元気? 栄です。私は昨日、熊本から帰ってきました。増田くんも、もう京都に帰ってるよね。よかったら、今度の火曜日、一緒に飲みませんか? まさか、まだ北海道にいたりなんかしないよね。この前一度、聞きたいことがあってケータイにメールしたんだけど、返事ももらえなかったし。最近連絡ないし。どうしてるんだろう、と、ちょっと心配しています。 それから、もしまだ北海道にいるようなら、お土産はチョコがいいなー、なんて思ったり(笑)。いろんな話も聞かせて下さいね。楽しみ。じゃあ、またね。 * * * * 暑い盛りを歩いてくぐり抜けてきた。今、日は大空の西に傾き切って、仄白んだ青に懸かりながらゆっくり落ちてきている。 取材旅行に来ていた男は、恵庭の駅で降りた。水橋も新千歳空港までは行かず、千歳の駅で電車から降りた。まだ九時前だった。それからはずっと、千歳市の中で時間を過ごしている。 駅前のロータリーは広く、その右側、交差点の角になったところに、スカイグレーの四角い建物が建っていた。敷地面積も大きくなく、こぢんまりとしていて、壁の下の方に横一直線に並んでいる窓ガラスには、何の装飾もされていない。建物の角になったところに、有名衣料品店のロゴなどが並んでいることから、ショッピングモールか何かだろうと推測された。雪が積もらないように縦になった信号。その向こう側の中空を、建物と同じスカイグレーの連絡通路が横切っていて、その壁にも横一直線にガラスが並んでいる。 信号が青に変わり、まだ誰もいない連絡通路の下を、何台かの自動車が通り抜けていく。その流れに沿って、水橋も横断歩道を渡り、通路の下をくぐり抜けた。建物の陰は涼しく、剥き出しの首筋や両腕には、どこかひんやりと冷たかった。 それから、どこをどう歩いたのか。水橋にはよくわからなかった。ビジネスホテルなどが立ち並ぶ街の中心部には、土曜日だと言うのにスーツ姿の人たちもいた。その中を、肌にぴったりと吸いつくようなタンクトップとズボンを着て、淡い色の茶髪に白いエクステを付けた女性が二人、のんびりとした足取りで歩いてくる。そして、そのままの足取りで、水橋とすれ違う。見渡す限り、道を行き止まりにする山などは見えない。時々、建物の向こうに、不穏な形をした小山が頭を覗かせるだけだ。広々とした朝の光景の中、人々は歩いていた。歩いていて、そこにいた。 水橋は、少し進んでは角を曲がり、また進んでは角を曲がって、どんどん奥の方へと入っていく。いつの間にか、日は青空の真上近くに昇っていたようだ。突然目の前に現れた中学校のグラウンドでは、陸上部だろうか、炎天下のトラックを何周も走っている集団がいた。砂の舞う地面の上、いくつもの身体と足音、そして全員のかけ声が、遠ざかっていく、ゆるやかなカーブを描いて戻ってくる、しばらく真っ直ぐ走ってきて、またこちら側でカーブを描きつつ、もう、次第に遠ざかっている。そのグラウンドの辺縁をかすめるような気持ちで、水橋は中学校の前の歩道を歩いていく。 それからまた何回か曲がりながら進むうち、道の際に立つ建物は再び大きくなってきて、水橋は幅の広い通りに行き当たった。横断歩道を渡りきった向こう岸は、民家の立ち並ぶ住宅地だった。この景色ならバスの中から見たことがある、と水橋は思う。新千歳空港から札幌に向かうバスの中から、水橋はこれに似た景色を眺めていた。アメリカの開拓時代の形式を取り入れた民家は、傾斜の急な屋根と造りの頑丈な窓ばかりが目立ち、四角ばった建物それ自体はかえって小さく感じられた。バスから見ていると、それらはまるで、規則正しく立てて並べられたマッチ箱のようだった。 建物に対して庭や空き地があまりにも広いことも、バスから見ている水橋の目を引きつけた。それは、家が庭を持っていると言うよりは、あてどない風土の上にかろうじて家が乗っている、といった感じだった。バスが千歳市を過ぎて恵庭市に入った時、水橋はその広すぎる庭に生えているイトススキに気がついた。しずかな風に揺られながら、その細い細いススキの群生は、今にも夕暮れにかき消えてしまいそうだった。 今、その時の景色が目の前にある。歩きながら見る家も、やはり四角ばっていて小さく感じられたが、その小ささは、重かった。急な屋根と頑丈な窓との重みを抱えて、分厚い壁の内へ内へと力を蓄えていく、そんな印象を受けた。冬には、この家の庇からも長くつららが垂れ下がるのだろう。水橋は、二月の石狩で見た、雪に埋もれた暗い民家を思い出した。あの時、僕は歩いていた。そして今も、歩いている。 二、三軒先の家のガレージから、オレンジ色の原付を押して女性が一人、出てきた。銀色のヘルメットの円い輪郭が、日差しをまぶしく弾き返している。女性は、水橋の方を少し見た。水橋と同じで、大学生のようだった。軽く会釈を交わした後、女性は原付にまたがると、エンジンをかけ、そのまま道の上を向こうへと走り去っていった。少ししてから、一台の自動車が水橋の横を通り抜けた。自動車は、原付の走りに吸い寄せられるかのように、その後をついていく。二つの後ろ姿は、ともに小さくなり、やがて影かスピードそのもののようになって、道のずっと遠くで一つに重なった。その同じ道を、水橋も自分の足で、歩いていく。 何かの音が聞こえた気がして周囲を見回したが、辺りには、広すぎる庭で揺れる草以外、動くものは何も見当たらない。水橋は、また前を向いた。自分が鼻歌を歌っていることに気がついたのは、その時だった。 暑い盛りを歩いてくぐり抜けてきた。今、日は大空の西に傾き切って、仄白んだ青に懸かりながらゆっくり落ちてきている。 昼過ぎには汗ばんでいた肌も、もう乾いている。足取りは少し重く、身体全体を、ほどよい疲れがやさしく包む。目に映る光景は、どこか遠く、涼しかった。弱まった日差しは、今はオレンジ色の淡い光となって、そこにある草を、家を、道を、木を、人を、車を、雲を、電信柱を、犬を、空を、靴を、そして声や音までも、果てしなく水平に照らしている。澄み切った夕べの空気が、水橋の腕をさびしくさせた。あらゆるものの輪郭は、黄昏のほの暗さに紛れるどころか、むしろ鮮やかに縁取られて佇み、佇みながら、しずかな光を放っていた。そして、その光の中で、輪郭は溶け出すようにほどかれていく。風が吹いていた。風は、かすかに色づいていて、まぶしかった。 僕は今、ここで、一人でいる。風を受けて歩きながら、水橋はそう感じ取っていた。目を瞑り、深呼吸する。息を吐き出すと、自分もほどかれたように軽くなった。そして目を開ける。景色はさっきと変わらず、そこにあった。そこにあって、風に揺れていた。そのことが、水橋にはこの上なくうれしかった。 駅へと帰る途中だった。鼻歌はいつしか止んでいた。それに気づいてふたたび歌い出そうとしたものの、水橋は、自分が何を歌っていたのか、うまく思い出せなかった。のびやかで、逞しい歌だったと思う。一日目、バスが山の中を走っているくらいの時分に、その歌が湧き上がるようにして聞こえてきた。今朝の電車の中でも、いつからか断続的に聞こえていた気がする。とは言え、これらの記憶ももちろん、後からでっち上げられたものなのかもしれない。水橋はその危険性を十分知っていた。しかし、さっきまでその歌を歌っていたという、自分の胸に残るこの感覚だけは間違いではない。決して間違いではない。水橋はそう信じた。そして、ふたたび目を瞑って、深呼吸をした。 目を開くと、川が流れていた。道の少し先に、歩道の外側に立った白い手すりが見え、それは欄干でどうやらそこには橋が架かっていて、その橋の下に、川があった。左手から右手へと、川はゆらゆらと輝きながら流れている。幅が広く、色が暗かったが、水深はそんなにあるわけでもないらしい。上から見た限り、川底は平らだった。両岸には護岸工事が施され、二段になった土手を登ったところには、街路樹が横一列に並んで枝を広げている。木々のすぐ向こうには、住宅街が横たわっていた。 住宅街は、川の向こう側いっぱいに広がっていた。それはまるで、染み出した水が周囲を宛てもなく浸していったような広がり方だった。そのため、水橋には、街路樹は川の氾濫から家を守っているのではなく、むしろ、家が川の中に流れ込んでくるのをギリギリで塞き止めているのではないか、と思われた。住宅の白と、木々の緑と、空に残る青と、そしてそれらすべてを淡く包み込んでいる夕日のオレンジと。閉じられることのない景色の中、川はその景色さえ通り抜けて、ずっと遠くからずっと遠くまで、止むこともなく流れていた。 どこから流れてきたのか、どこに流れていくのか。どれだけ見晴らしても、川の両端は見えなかった。風が吹いていた。風は時々、水橋の周りで小さく渦を巻き、散り散りになって風下に消えていく。じっと川と景色とを眺めた後、水橋はゆっくりと歩き始めた。橋の向こうには、犬を連れた背筋の真っ直ぐな老人がいて、こちらにむかって歩みを進めている。水橋とすれ違う時、老人はにこやかにほほ笑んで頭を下げた。水橋も頭を下げた。北海道に来てから初めての、ほころぶような自然な笑顔が、彼の顔から足元の川へと、手紙みたいに落下していった。 |
2005年8月28日日曜日
[おすすめリンク]色見本の館
色んな色とその名前が見られるサイトです。 「色見本の館」http://www.color-guide.com/ 見ているだけで、世界の果てしない多様性や、 それに挑む言葉の全力の創造性などを感じられて、 不思議な気持ちになります。詩人なら、必見(?) あと、小説の下調べでも、けっこう重宝します。 |
2005年8月22日月曜日
生鮭喰い
どっちでもいい。 夕暮れはあかい。 足元の川にこぼれる肉片、 どっちでもいい。 滴る血はあかい。 僕らの短い爪と鼻の先の、 背中。 黒い森の暮れ方に燃える、 僕らには聞こえない愛を叫びながら。 燃える。燃え上がる。 けれど熱くはないから、 僕らはそれを剥ぐ。簡単に。 その中の肉が、 旨い のだ。 どっちでもいい。 生命は美しいか、 生命は汚いのか。 どっちでもいい。 鮭は何かの比喩であるか、 夕空の赤は血の赤よりも残酷か。 僕は川に入り、捕まえて、食う。 こぼれ落ちる肉片と、 滴る血。黄昏の空はすでに涼しく、 僕は川に入り、捕まえて、食う。その度ごとに、 何を思ってか、黒い森の四方から、 けたたましく湧き上がる人間の嬌声。 |
2005年8月21日日曜日
「Ishkar」 scene 10
座席の近くに誰かが立った時、水橋は窓の外で流れていく景色を眺めていた。気配を感じて目を通路側に向けると、赤いシャツを着た男の胸と肩とが見えた。 「隣、空いてますか?」 男はやせていて、たぶん四十一、ニ歳くらいだった。髪が短く、メガネをかけていた。 「ええ、どうぞ」 景色を見ているのとあまり変わらない気分で、水橋は答えた。男は「ありがとうございます」と言いながら、水橋の隣に腰かける。水橋はまた外の景色を見ていた。男は水橋の横と言うか後ろと言うか微妙な位置で、シートにいっぱいにもたれてほっとしたようなため息をつき、少し姿勢を正してから、カバンから猛然とノートを取り出して何かを書き始めた。先の細いペンが、カリカリカリカリ紙の上で音を立てつづける。 水橋は何を書いているのか気になって、ノートの方を盗み見た。それは、散文のようだった。黒色の水性ボールペンで、ノートの幅いっぱいに文字が横に連ねられていく。そして、次の行、また次の行。何のことを書いているのか、横から盗み見ている水橋の目には、詳しく読み取ることはできなかった。 「僕、小説を書いているんです」 男がそう語り始めたのは、電車が新札幌駅を出てかなり行ってからのことだった。水橋はその時、札幌駅で一緒に乗り込んだ高校生の方を、見るともなしに眺めていた。高校生はネックフォンをかけ、新型の携帯音楽プレイヤーか何かで、音楽を聴いている。手に持った情報誌の表紙には、輪郭のさっぱりとした薄型テレビや、どこか有機的な丸みのあるシンプルな椅子などが並んでいた。それらの写真はどれも小さくて、互いに入り乱れることもなく、格子状に区分けされたそれぞれの領域の中に落ち着いている。 「へえ、そうなんですか」水橋は、男の方に少し首をひねって、返事した。「どんな小説を書いているんですか?」 「現代の諸問題の深層をえぐる、人間ドラマです」男は、迷うこともなくそう答える。「それで、今は、取材旅行に来ているんです」 「取材旅行? 北海道の、……え? なんで北海道の?」 水橋にはよくわからなかった。取材旅行と言うのが何かもよくわからないし、北海道の何を取材するのか、そしてそもそも、なぜ北海道を取材するのか、彼には見当がつかなかった。 「やっぱり、今こそ北海道でしょう。知床の世界遺産登録、北海道新幹線の起工、それに、甲子園での駒大苫小牧の夏連覇!」 男の声が大きくて、水橋はなぜか恥ずかしい思いをした。興奮する彼の様子が、この電車や外の風景から、あまりにも遊離している気がする。女の子は、今は自分の履いている靴や靴下の方をじっと眺めていた。そう思ううちに、バネが跳ね上がるような唐突さで、窓の外に両の視線を投げかける。その目は真剣で、あまりに真剣でどこかおそろしくて、そのおそろしさがとても美しかった。水橋は隣の男のことも忘れて、その、遠くを見るまなざしに見とれていた。 「その主人公はね、父親はいなくて、ずっと母親にいじめられて育ってきたわけなんですよ」 電車が北広島の駅で停まっている間、さすがに男は黙っていた。しかし、数人の乗客が降り、新しい乗客が車両に顔を見せ、そうして電車が再び走り出すと、男はまた、待っていたかのように話を再開した。それが何の話だったか、水橋にはもうわからなくなっていた。 「ここらへん、今の児童虐待をテーマにしているんですよね」 控え目に微笑むその笑顔に、どこか自信の色が見える気がした。窓の外には、ところどころに寄り集まりながら散らばる家と、ぽつり、ぽつり、と生えているこんもりとした木々が見えるだけで、それ以外の場所には平らな地面が、特に何のためというわけでもなく、ただ、開けていた。 「それで、彼は大学生になって、偶然知ることになるんです。彼の父親が、今は北海道で住んでいる、と。なぜ父と母は別れたか、なぜ父は自分から遠く離れたのか。それを知りたくて、彼は北海道に向かう。けれど、そこで過酷な運命が待っているんですね。どういうことだったと思います?」 高校生は、情報誌をバッグにしまって、また、ケータイをいじっていた。しばらくして、そのケータイで電話をかけ始める。隣の男は、水橋の返事を待ちながら、高校生に向かって露骨に眉をひそめた。話題は、駒大苫小牧高校の甲子園連覇のことらしかった。 「いやあ、……あれはほんとすごいっしょ。信じられない」まるで自分のことのように、まぶしい笑顔で笑っている。「だって、冬なんて雪で雪で、グラウンドなんてカンペキ埋まってしまってるのに。ノックもランニングも、どこでやるんだってくらいだし」 「なんと、父親は、殺人犯だったんです。それも、母親の無二の親友を強姦して殺してしまったんですよ」 痺れを切らしたように、男が話をつづけていく。しかし水橋は、話の切れ目ごとに生返事をするのが、精一杯だった。 「……だべ? ほんと、連覇はありえないって。去年もたまげて、涙出そうなくらい感動して、したら、今年も優勝って、……なあ、もう、最高すぎ」 高校生は、そう言った後で、右手に持っていたケータイを左手に持ちかえた。その一瞬、水橋の目に、高校生の赤く破れた厚い掌が飛び込んでくる。 この人も野球をしてるんだな、と、水橋は思った。車両の一番前で立つ彼の、痛々しいまでの傷と、よく焼けた肌。「ノックもランニングも、どこでやるんだってくらい」の冬も越えて、立派に鍛え上げられてきた体格のしずかさと、それとは不釣合いなくらいに弾ける、若々しい笑み。自分の見てきた伊賀や京都と同じく、ここにも野球に励む高校生がいて、そして、生身の人間として生きている。そんな当たり前のことが、水橋を強く強く打ち据えた。 窓の外の景色の、すき間のように広がっていた地面を、真っ白な雪が分厚く埋めていく。家々の中では火が焚かれ、門の前や屋根の上で、雪かきに汗を流す人もいた。あてもなく建っていたような家は、今は頑丈な防壁となって人々を囲み、強大すぎる雪の侵攻から人間をどうにか守り抜こうとしている。除雪車によって均された車道の上を、ごくまれに車が走っていくのが、長く長く望まれた。空は頻りに閉じられて、それから二日や三日の間はずっと、粉みたいな雪が延々と風に狂いつづける。 その中で、人は生きていく。時々は笑い、時々は泣く、――そんな普通の表情を、自分の顔に次第に深く染み入らせながら。起き、眠り、食べ、排泄する。水を飲む。怪我もするし、恋もするし、時には具合も悪くなるし、歳もとる。走って息を弾ませることもあるだろう。彼らも生身で、生身の身体で、生きている。自分の場所で。一人の人間として。 そしてそれは、夏の北海道でも、何も変わらないはずなのだ。高校生の赤い掌を思い出しながら、水橋はそう考えていた。外の景色に雪はなく、陽はどこまでも穏やかだった。走っていく電車の中からは、人々の姿は見ることができない。しかし、それでもここには人がいて、彼らの生きる、毎日の生活と人生とが息づいているのだ、きっと。水橋は、その、北海道の命の息遣いを、もっと肌身で感じたいと思った。 「……まあ、そういう経緯で、主人公は生まれたんですね。で、それを知って、当然ながら悩むわけです。だって、自分が残虐な殺人犯の息子なんですから。人間の極限状況ですよ。これ、実は三浦綾子の『氷点』のテーマと重なるものでもあるんですけど。『氷点』、読んだことあります?」 女の子は、外の景色にも飽きたのか、両親の持った旅行ガイドの表紙をじっと見つめていた。そして、ため息を一つつくと、電車の中を見回し始めた。思い出したように、水橋の方を向く。水橋は、今度は自分から、女の子に笑いかけた。女の子は、少し怪訝そうな顔をしてから、小さく笑顔を返してきた。そしてまた、両親の方に向き直る。 車両の一番前、こちらに向かって立っている高校生は、目を瞑り、ネックフォンから聞こえる音楽に、ゆったりゆったり首を揺らしていた。 ――うらやましいですね。 「は?」 ――自分がどうして生まれたか、自分がどうしてここにいるのか。それを知ることができるというのは、そしてそれを信じることができるというのは、正直うらやましいことだと思います。僕はそれがわからなくて、というか、むしろそれがなくなってしまったような気がして、それで苦しんでいるんですから。 「……何ですか、それ。それは、彼の苦しみを知らない人の、勝手な言い草ですよ。大体、彼の苦しみを、あなたは想像することもできないでしょう。今の若い人は個人主義的で、自分のことしか考えませんからね」 ――そうかもしれませんね。でも、あなただって彼の苦しみを知らないでしょう。あなたは作者であって、彼自身ではない。もしかしたら彼も、本当はそのことに苦しんでいるのかもしれません。自分が誰かに作られたものであって、自分に降りかかる苦しみでさえ、それは誰かに書かれたものである。自分の人生を、自分が生きられていない。何ていうか、そういう、事実に。 「だって、それが小説でしょう。……それに、あれですよ。僕らはみんな、誰かによってどこかに産まれたわけですよね。それなのに、あなたみたいなことを言ってたら、誰も彼もが、自分の人生を生きられないことになりますよ」 ――そうですね。 「みんな、それぞれの人生を歩んでるんです。馬鹿にしちゃいけません。それを放棄しているのは、ニートとかオタクとか、あなたみたいなモラトリアム人間ばかりだ。現に僕は、誰に縛られることもなく、自分の人生を歩んでいるんです」 ――そうでしょうか。 「そうでしょうか、ではありませんよ。僕らは自分の人生の登場人物じゃなくて、作者なんです。僕は、電車を降りますよ。自分の人生を生きる者として、この電車を降ります」 ――僕も、もう少し先の駅で降りることにします。それで、最後に一つ、聞かせてもらえませんか? 「ちょっと、……おい。どこを向いて話しているんだ」 ――作者は、作品から自由なんですか? 登場人物は、作品の中に本当に生きているんですか? 僕らは、どこにいるんですか? どうすれば、一体どうすれば、僕らは僕らとして存在できるのですか? |
2005年8月16日火曜日
「Ishkar」 scene 9
さっぽろ駅に着いた。黒と暗褐色の壁に囲まれた駅構内を出て、白とサックスブルーの地下街を歩く。周囲の明るさは変わっても、道幅の広さと床の明るさは変わらなかった。湿度は低く、目に触れてくるものの肌合いはどれもさっぱりしていて、清潔だった。水橋は、自分の足音が聞こえないことにぼんやりと気がついている。重さも軽さもない歩みが、まぶしくてだだっ広い地下の通路に、空気みたいなテンポで重ねられていく。 地下街を抜けて長いエスカレーターを昇る。歩くことなく、上の方を眺めがら乗りつづけると、前方に外の光が見え始めていた。その光が照明の光と交じり合いながら、やさしく包み込む。歩かなかった。地上だった。水橋はエスカレーターから降りた。そのままJR札幌駅構内に向かうこともできたが、彼はその直線的なルートから外れ、駅前の広場に進んでいった。 広場には、何もなかった。いや、実際は、広場を突っ切って道が南に伸び、その両側には灰色の石柱が、均整を保って並んでいる。柱のさらに外側、地下街へ降りていく部分には、ガラス製の四角い建物が建っていて、朝の日の光をしずかに反射していた。道の向こうには、枝を広げる緑の木々と駅前通の入り口とが合わさって見え、そこから先は、巨大なビル群が通りを左右から挟みこむように迫り出して、ずっと遠くまで真っ直ぐ立ち並んでいる。左後方を振り向けば、愛嬌のある形をしたガラスドームが、青みがかった光を放っていた。 しかし、やはり、広場には何もなかった。たくさんの物に囲まれて、広場は景観の中になじんでいくどころか、むしろ、その剥き出しの平らさを晒していた。物があって、何もない。どんなオブジェもその大地を支配することができず、逆に、オブジェを越えて地面そのものが、空白の荒々しさで浮かび上がってくるようだった。物はその地面の上に、今にもかき消されそうになりながら、かろうじて乗っている。ここでは自分もそうなのだ。水橋は、そう思った。 見上げると札幌駅ビルは、右に背の高いオフィスタワー、左にヨーロッパ風の百貨店を従えて、大きすぎるケーキ箱みたいにそこに置かれてある。 ホームは、暗く、湿っていた。JR札幌駅二階。一番ホームから十番ホームまでを一挙に含み込む内部空間は、そのために十分すぎるどころか、かえって無駄にさえ思えるほどの幅、奥行き、高さを持っていた。しかし、造りはどこか粗末だった。光はほとんど差し込まず、地面は濡れていて、壁や天井は陰鬱な色に朽ちている。窓や、線路のずっと先の方から差し込んでいる光も、ホームを明るく照らし出したりはしない。むしろその光は、まるで古ぼけた炭小屋の屋根板のすき間から落ちてきているみたいで、その光のせいで、内部の粗末さが余計に顕わになるように感じられた。 それぞれのホームには、目を少し上げればすぐに見える辺りの中空に、ロープが張られている。そこには色分けされた小さなプラスチックカードが何枚も懸かり、カードには「スーパーおおぞら」、「スーパー北斗」、「エアポート」など、様々な特急・急行・快速列車の名前らしいものが書かれてあった。その下に書かれてある番号と組み合わせて、各列車各車両の乗車位置がわかる仕組みらしい。 水橋は、「エアポート」のカードの下に並んで、周囲を眺めていた。これまで見てきた北海道とは別の北海道があるようで、水橋は、自分の気持ちが次第に身を屈め、自分の胸を抱え込むように黙りこくっていくのを、感じた。この、背骨が押しつぶされそうなほどに重い、暗さ。その内部にみっしりと籠もっている、発せられない無音のうめき。藍の着物を着た男の、曲がった背中がふたたび水橋の目によみがえった。 息継ぎをするように、水橋は辺りを見回した。まだ朝早くであることもあり、人は少ない。しかし、もっといてもいいはずのサラリーマンやOLが、ほとんどいないのは気にかかった。 しばらく考えてみて、水橋は今日が土曜日であることに思い当たった。とうとう曜日感覚もなくしてしまったか、と自分に苦笑いする。暗く湿ったホームには、早起きの観光客や部活の試合に向かう高校生、それにどこに行くのか、一人二人で立っている若者が見えるばかりだった。 水橋の隣を、小学生くらいの女の子が駆け抜けていく。ホームの縁ギリギリまで行って、線路を覗き込み、少し後ろに下がって自分の足元を見つめ、それから顔を上げて前に進んでもう一度線路を覗き込んだ。「危ないなあ。落ちたりせえへんのかなあ」と、水橋は関西弁で心配しながら、その一部始終を見守っていた。すると、子どもが急にこちらを振り返った。満面の笑みだった。 「ミズエ、ほら、危ないよ。こっちに戻ってって」 母親らしい女性から声がかかり、ミズエと呼ばれたその子は戻っていった。両親は、二人で観光案内に見入っていたらしい。父親は今にもハイキングに行きそうなかっこうをしていて、その手に持った冊子の表紙では、カラフルに彩られた文字の下、乳牛が緑の草を食んでいる。 三人の向こうでは、よく日焼けした高校生が一人、大きなスポーツバッグを肩からぶら提げて立っていた。その高校生は、周囲の物事にまるで関心がないように、手元のケータイをずっと触りつづけていた。屋根の向こうでは、今、雲が太陽と建物との間を、次々横切っているのだろうか。毀れるように差し込んでくる日の光が、様々に陰り、様々に照る。しかし、高校生はその変化を見ようともせず、目の前にある陰鬱な壁にも興味を示さずに、手の中に持った小さなディスプレイへと、若い首を折り曲げている。 こういうものかもしれない、と水橋は思った。普通の人にとって、北海道とは、こういうものかもしれない。通り過ぎていくだけの観光客からすれば、それはただ自分が楽しむための観光地でしかなく、一方、そこに前から住む人間にしてみれば、それは何もめずらしくないいつもの背景なのだろう。きっと、それで普通なのだ。それで普通なのに、僕は、その二つの間にはまり込んでしまった。 彼らと僕との違いは何なのか。彼らにあって僕にないのは、一体何なのか。ぐるぐると考えつづけるうちに電車は着いて、水橋は他の乗客と一緒に車両に乗り込んだ。彼は車両の左後方、窓側の席に座り、さっきの家族連れはそこから二つ前、通路を挟んで右側の席に座った。高校生は、車両の一番前に立ち、引き戸に背をもたせかけて――つまり、水橋の方を向くかっこうで、――ケータイをいじりつづけている。ミズエと呼ばれた女の子は、電車に乗った後も落ち着かなくて、窓に顔をつけて外を眺めたり、急に座席から降りて通路を行ったり来たりした。何かの拍子に、水橋と目が合うことが何回かあった。その度に、その子は何を思ってか、うれしそうな笑みを浮かべた。 |
2005年8月14日日曜日
「Ishkar」 scene 8
足音が聞こえる。洗面所の方から、ひたひたと戻ってくる。ずいぶん長く、鏡の前にいたらしい。蛇口がひねられ、水が流れる音、また蛇口がひねられ、水が止まる音。しずかに動く手の気配や、軽く叩かれる顔の肌のみずみずしさまでが、聞こえていた。そして今、それらすべての音は止んで、足音だけがこちらに戻ってくる。 野坂が部屋に帰ってきたのは、朝六時過ぎになってからだった。フローリングの上に敷かれた布団で眠りながら、水橋はそのことに気づいていた。野坂が鍵を外し、ドアを開け、入ってきてドアを閉め、靴を脱ぎながら鍵をかける、そして椅子のところまで歩いてきて腰をかけ、しばらくして、ため息を何回かつく。長らく座った後、ゆっくりと立ち上がって風呂場の方へと歩いていく。その、切れ目なく過ぎていく時間に合わせて、水橋の意識も次第に醒めていた。 洗面所から戻ってきた野坂は、水橋の背中近くで立ち止まった。水橋は目を瞑ったまま、自分が野坂に見られているのではないか、と感じた。それは最初、息が詰まるような感覚だったが、いつしか安心に変わり、部屋の中は朝の空気に満ちていて、水橋の背中側にある部屋の方から野坂の寝息が聞こえてきた。水橋は音を立てないように立ち上がった。振り返るとベッドの上で、すっぴんの野坂がかすかに口を開けて眠りこけている。 部屋を出て、野坂がくれた合鍵で鍵を閉めた。そして、地下鉄の駅へと歩いていく。北海道に来てから、四日目の朝だった。一日目は新千歳空港から札幌まで来て、すすきののピンサロで野坂と会った。二日目は北海道庁旧本庁舎や時計台、それに大通公園などを周り、夜は野坂の部屋に泊まった。そして、昨日は、何をしたのだろうか。野坂は昼過ぎから部屋を空けた。それからずっと、部屋の中で寝たり起きたり、時には外をうろついてみたりしただけで、特に成すこともなく一日が過ぎた。その何もない一日の長さあるいは短さを思い、水橋は悲しくなった。薄暗くもすっきりとした地下鉄の階段を降りながら、彼は昨日のような一日が、昨日を越えて今日へ、今日を越えて明日へと、区切られることもなくつづいているような気がしていた。 北海道に着いたばかりの頃は、水橋にも強い思いがあった。カタカタ鳴りつづける封筒。それをどうにかしなければ、という焦りにも似た感情があった。とはいえ、どうすればいいのか、宛ては最初からなかった。ただ、北海道を旅するうちに、何かが見えてくるに違いない、と漠然と予感していた。 なぜ、北海道なのか。確たる理由はない。あえて挙げれば、封筒に書かれている最初の住所が北海道石狩市だったことだろうか。しかし、そこに封筒を渡すべき「北野菜穂」がいるとは、水橋も思ってはいなかった。もしかしたら、自分の中でつづく歪んだ記憶、果てもなく伸びていく石狩の雪道に、何らかの答えを見つけたかったのかもしれない。とにかく、北海道に行けば何かがある、何かがわかるはずだ。鳴りつづける封筒の音に急かされながら、そう、水橋は考えていた。 しかし、封筒の音は止んでしまった。最初は、また聞こえなくなっただけだろう、と思った。封筒の音は鳴っていて、ただ、自分がそれを聞けていないだけだろう。水橋はそう簡単に思っていた。しかし、いつまでたっても封筒はしずかだった。試しに振ってみても、カタリとも言わない。手に持ったそれはあまりに軽く、何も中に入っていないみたいだ。水橋はいつしか、これまで聞こえていた音の方が間違いで、本当は最初から、封筒はしずかなままだったんじゃないか、と疑い始めていた。 北十八条の駅に、電車が到着した。タイヤで走る地下鉄の、独特の唸り声。銀色の車体。白い内壁。鮮やかな橙色のロングシート。自動ドアが開いて、何人もの乗客とともに、水橋も電車の中に踏み込んでいく。 札幌市営地下鉄は、輪切りにした時に断面が六角形になるような、特徴のある形をしていた。そのため、車両の中で立っていると、どこか真っ直ぐに立っていられなくなってきて、水橋はピカピカ光る手すりにしっかりつかまった。向こう側へと引っ込んでいく、平らな窓の向こうは真っ暗だ。乗客のほとんどは、橙色のシートにしずかに腰を落ち着けている。タイヤのゴムの立てる音が、小さく、切れ目なく、つづく。 なぜ僕はここにいるのか。封筒の音が失われた今、水橋は自分が、北海道にいるための根拠をなくしてしまったことを知った。彼の存在は、ただ空気を包んでいるだけの封筒のように軽く、無意味だった。 全く無根拠にここにいる以上、いかなる理由を以ってしても、ここを離れることは不可能なのだ。無根拠に適う根拠はない。根拠があれば、それに対抗する根拠を見出せばいいだけの話だし、目的があれば、それを果たせばその場所は終わる。しかし、自分が無根拠にここに存在する場合、その存在はどうしたって拭い去ることはできず、自分が今いるこの場所は、そこから先にいかなる場所も持たない、行く宛てのない無限の広野となってしまう。地の果てを持つ大地。地の果てがあるがゆえに、余計に途方もなく広がっていく北海道の空と土。この年の七月、アイヌの言葉で地の果てを意味する「知床」が、日本で三つ目の世界自然遺産に登録された。 野坂は、思い出話を出し尽くした後、水橋に対して急に冷たくなった。それまでのように過去とともに水橋を見るのではなく、ただ、現在の水橋を見るようになったからかもしれない。自分の部屋に彼がいることが、邪魔とは言わないまでも、どこかしっくり来ないようだった。絶えず加減悪そうに野坂はうろついた。 「まだ、当分道内にいるの?」 水橋がうなづくと、野坂は喜ぶことも嫌がることもなく、「じゃあ」と言った。 「じゃあ、二十八日、空けといてくれる? 一緒に見に行きたいものがあるんだ」 水橋はまたうなづいた。野坂は薄手のキャミソールに無表情を纏い込んで、昼過ぎには部屋を出て行った。 とりあえず空港へ。水橋は、そう考えていた。地下鉄でさっぽろに出て、快速エアポートで新千歳空港に向かう。そこからもう一度旅をやり直せば、きっと何かがみつかるはずだ。この旅を通じてポロポロ落としてきたものを、水橋はひとつひとつ、自分の手に拾い集めて行きたかった。 |
2005年8月7日日曜日
「Ishkar」 scene 7 (後半)
気がつくと、野坂は天板の上に置かれた水橋の手の甲を眺めていた。いや、実際のところ、その視線は手の甲までは届かず、彼女の目と水橋の手の甲との間の中空で、宛てもなく留まっている。昨晩、すすきのの居酒屋でも、彼女は同じような目をしていた。そう、水橋は思い出す。じゃがチーズとかサーモンのカルパッチョとかをさんざん突っつき、思い出せる限りの思い出話を語った後で、野坂は不意に斜め下の方を眺めて沈黙し、しばらくして、ふと、悲しそうな笑顔を浮かべた。 「どうしてなんだろ? おんなじ思い出を持つ人といると、こんなに安心してしまうのは」そこまで言って、また空っぽになる。しばらくしてまた笑い、斜め下を向いたままで、こう付け加えた。「何だか、この安心が、どうしようもなく切ないよ」 「わたしね、野坂夕香っていうの。小さい頃、コージくんと同じ小学校にいたんだけど、覚えてないよね?」 一人目の女で射精したと言うのに、三人目の口の中で、水橋の性器はまた精液を噴き出した。まるでそれが別の生き物であるかのような、制御できない痙攣が済んでから、女はゆっくりと口を性器から離し、吐き出されたばかりの精液をおしぼりの上に移し取った。そして、新しいおしぼりで、口を拭う。女が自分の名を名乗ったのは、その時だった。 「覚えてないよね、やっぱり。わたしだって、コージくんの顔見るまで忘れてたんだから」 「……いや、覚えてるよ。野坂さんだろ。たしか、二年生から五年生までの間、うちの学校に転校してきていたよね」 「そうそう! そうだった、そうだった」 「たしか、二人で天神さんのところを歩いている時にさ、伊賀に忍者ってもういないんだね、って残念そうに言った。……うん。よく、覚えてるよ」 「そうなんだあ! うれしいなあ」 こうやって話す間にも、カゴから取り出された新しいおしぼりで、野坂は水橋の性器を丁寧に拭っていた。そして、裸の下半身に両手で下着をはかせ、ズボンもはかせる。水橋は立ち上がって、ベルトを締め始めた。その時、野坂が水橋の頬に向けて、唇を近づけてきた。キスではなかった。耳元に彼女の息がかかり、かすかな声で、ケータイの電話番号がつぶやかれる。 「わたしのケータイだから。ここにいるうちに電話してね、絶対」そう言って、野坂はさっと水橋から離れた。穏やかな笑顔を浮かべながら、真正面から、水橋と向かい合う。「勘違いしないでよ。営業トークなんかじゃないからね」 そしてまた、満面の笑み。 歩いていた。天板の上には封筒だけが置かれ、キッチンで野坂が皿とコップを洗っている。歩いていた。カタカタという封筒の音を、水橋も野坂も昨晩からずっと聞いていた。しかし、お互い、そのことについてはもう何も言わなかった。歩いていた。朝のすすきのを通り過ぎる人々。藍染を着た男の、曲がった背中。平坦な照明と螺旋階段。泥炭地。赤レンガから見る緑と大通り。バスの中でしずかに前を向いている人々。一人目の女、二人目の女、三人目の女。それらすべてが、粉のように細かい雪になって舞い狂い、地面に積もってはまた風に巻き上げられる。歩いていた。歩いている。この地方一帯を、いくつもの支流に枝分かれしながら流れ、隅々まで潤していく大河、石狩。しかし、そこを歩いていく水橋の目には、川は見えなかった。ヘリコプターから撮られた写真のように、僕らは生きているわけではない。 右手には雪に覆われた堤防が遠ざかるように見え、ゆるくカーブを描いて左前方へと曲がっていった。封筒の上には、いくつもの赤いスタンプが押されてある。「あて所に尋ね/あたりません」。そこに広がる、終わることのない金色の薄野。あるいはすき間。地の果てを持つ北の大地は、そこより他にどこにも行けないことにより、かえって果てしなく広がっていくようだった。ここは、どこなのだ。 「……でも、やっぱりどうしようもないですね。住所と名前がわからないと、どうしようもないですね」 いま、この文章を打っているインターネット喫茶には、人が少ない。あちらこちらに散らばって、四人ほどの人間がマンガを読んでいるのだろうか。大体の席は空いていた。僕の隣では、薄いついたての向こうで、男が一人、アダルトサイトを眺めている。カウンターの男子店員はつまらなさそうに立ち尽くしたままだ。男が眺めるPCの上で、モロ出しの性器が、往復運動を繰り返している。男は無感動な表情で、その動画を何回も再生している。PCの時計は二十三時四十七分を表示しているが、この表示があっているのかどうか、僕にはわからない。 野坂が帰ってきた。コタツの向こう側に座り、「お待たせ」と軽い声で、言う。水橋は、「ごめん」と言って小さく笑った。「とうきび、おいしかった」 別ウィンドウで開いている、投稿小説のホームページでは、いま、チャットが盛んに行われている。小説を書いているというたくさんの人々が、今日は暑いとかなんとか言うことを、それぞれに色分けされサイズも変わる文字を使って、賑やかに会話している。別に、誰が誰でも変わらない、と水橋は思った。いや、僕が思ったのだ。僕は、あをの過程という名前でチャット室にログインして、一通りの挨拶をした後はずっと、書き込みもせずに窓を開いたままにしている。僕がどこにいて、書き込みをしない間に何をしているか、チャット室にいるほとんどの人は知ろうともしないだろう。 いや、そもそも、そこには本当に人がいるのだろうか。チャット室というこの場所には、結局のところ、誰もいないのではないだろうか。同じ表情をして同じことばかり喋ろうとする文字を、色とサイズでどうにか差異化しながら、チャットの話題は、いつしか海の話に移っていた。 人は、どこに行ってしまったのか。僕らは、一体、どこにいるのだろうか。僕らの平野に、それを縫って流れる川は、本当に、あるのだろうか。 気がつけば、封筒の音は、もう聞こえなくなっていた。歩いていた。歩いていた。歩いていた。歩いている。視界を遮るものは何もないはずなのに、たしかにさっきまで雪景色のどこかにぽつんと立っていた灯台が、今はない。それでも、水橋は歩きつづけていた。ただ、吹き荒れる風の音と自分の息の音だけが聞こえる。鉄色の空を、いやに白い雲が吹き飛ばされるように通り過ぎていった。 「これから、どうするの?」 野坂が訊いた。 「わからない」 水橋はそう答えた。そしてそれは、僕も同じだった。 |
「Ishkar」 scene 7 (前半)
歩いていた。踏み出す足はその度に雪の中に埋まり、引き抜いた跡には時折、凍った緑の草が覗く時もあった。歩いていた。ずっと前から、粉のような積雪と吹き上げる地吹雪とで、ズボンの裾は白くうすく凍てついている。歩いていた。見上げる空は一面の鉄色で、そのあまりに重々しい平坦さは、どこまで行っても開けて来そうに思えなかった。というより、その鉄色がどこかで果てると考えることは、空が果てると考えることと同じくらい無理なことに思われた。歩いていた。歩いている。右手には雪に覆われた堤防が遠ざかるように見え、ゆるくカーブを描いて左前方へと曲がっていっていた。目の前にただある、そのなだらかな曲線の向こうに川はあったのか。雪と雲とで薄く紫がかった中空を眺めながら、水橋孝司は、うまく思い出せないでいた。 いま、彼の目の前には、覆いを取り払ったコタツがある。ねずみ色した天板の上に、封筒と皿とが乗っていて、卓上から除けられた置時計は、本棚の一角で九時十六分を指している。部屋の中はすでに明るい。ついたてのように張り出した壁に隠れて、向こうの部屋の少し高いところで、オーブントースターが回っていた。姿は見えず、その音ばかりが聞こえている。二人分のパンはまだ焼けないらしい。 歩いていた。抜け殻みたいな朝のすすきのを、それでもどこかへと歩いていくいくつもの人体があった。言葉を交わし、あるいは一人で黙ったままで、うつむき加減に急ぎ足で通り過ぎていく。その歩いていく先に、彼らを迎え入れる生活がちゃんと待ち構えてくれていて、彼らはそこに着くためだけにここにいるのだろう。水橋は思う。朝のすすきのは彼らにとって、ただ、急いで通り過ぎるべき空白地帯でしかないのかもしれない、と。自らを取り囲む無人のビルから目を反らし、頑なに目を伏せつづけたままで、人々は一刻も早く自分の人生に紛れ込もうと必死なように見えた。その歩みが、目の前で、終わることも繰り返されることもなく、ゆっくりゆっくり広がっていく。 「とうきび食べるよね?」 キッチンの方から野坂が聞いた。水橋が返事をする前に、もう、ついたてのように張り出した壁の向こうを野坂が横切っていく。 「とうきび?」 水橋は訊いたが、返事はしばらく返ってこなかった。ごそごそという音が聞こえる。おそらくこちらに背中を向けて、冷蔵庫の中を探しているのだろう。水橋はそう想像した。 「とうもろこしのこと。実家からたくさん送ってきてね。親戚のおじさんがくれたんだって。ゆでるから、食べて」 声が聞こえて、また、壁の向こうを野坂が横切っていく。その姿が一瞬見えて、見えなくなっている。部屋の片隅で、ガスレンジに火をつける音が聞こえる。 「そういえば、あっちではナンバとか呼んでなかったっけ?」 「うん。僕は呼ばなかったけど」 「大阪の難波とまぎらわしいから?」 かすかな笑い声。水橋は、自分の目の前にあって見えるものを、一つ一ついとおしいと思っていた。覆いを取り払われたコタツの角は、円を四分の一にしたような形をしていた。カーテン越しに差し込む朝の光を、四方八方にやわらかく散らしている。 歩いていた。緋の絨毯が敷かれた薄暗い廊下を渡って、左右対称に広がった階段の奥の方を昇っていった。階段を上がりきったところには絵がかかっていて、そこには開拓が始まったばかりの頃の、測量の様子が描かれていた。どこの地方を開拓した時のものだっただろうか。男の数人はスーツを着て山高帽をかぶり、真っ直ぐに立っている。残りの男は藍の着物を着て猿股をはき、身をかがめたり跪いたりしながら、棒やら何やらを縦にしたり横にしたりしていた。その曲がった背中が、妙に立体的に水橋の目によみがえる。 彼らのいる道は細かった。その両脇や行き先は、無造作に生えて入り組みながら迫ってくる木々と、縦にばかり細長く伸びて荒みながら繁茂する草の群れとに挟まれて、今にも埋め直されてしまいそうだった。その道の向こうには泥炭地が広がっている。ところどころで、濡れた土がため池のように顔を覗かせていて、あとは、細かく生えそろった緑の雑草が大地を覆い尽くしていた。 絵から目を離して、水橋は廊下の端に大きく開いた窓から、外の木々と通りを眺めた。北三条通は太く、まっすぐにつづいていた。両側に背の高いビルが雑多に立ち並び、しかし、通りはそれを寄せつけないほどに逞しく伸びている。水橋にはそれが、どこかバランスの悪い景色のように思えた。 この通りを作るために、一体どれだけの人が血と汗を流したのだろう? 水橋はそう考えていた。不恰好なまでに力強い通りの上を、自動車が夢のように何台も走っている。歩道の上では、カラフルな服を着た人たちがのんびりと歩き、そのまま次第に見えなくなっていく。どこまでも伸びる道の先は、平らだった。水橋は不意に、“地の果て”という言葉を思い出した。 皿の上にはトーストと、ゆでたばかりの「とうきび」が置かれた。野坂はうれしそうな目をして水橋の表情を伺っていたが、突然思い立ったかのようにまた隣の部屋にむかい、コップに牛乳をなみなみ注いで戻ってきた。「北海道産」と称される食べ物は数多くあるし、水橋はこれまでにも、それらを数え切れないほど口にしてきた。しかし、北海道で取れ、そのまま北海道で消費される食べ物というのは、内地の人間である彼にとって、まったく未知の部分があるように思えた。甘く結びついた恋人たちの秘密の中に、自分の身一つで分け入っていく。そんな気分で、彼はゆでたての「とうきび」にかぶりついた。 歩いていた。声の高い男に連れられて、紅い照明に照らされた螺旋階段を昇っていった。照明は平坦で、部屋の細部や人の表情は見えなかった。見えているけれど、つかみにくく、実感を伴って伝わってはこない。周囲がうるさくてよく聞こえなかったが、どうやら満室らしい。カウンターから一旦戻されて、病院の待合室みたいに並べられたソファーの上で、しばらく待たされた。 異様に陽気な声で案内が入った。再びカウンターに向かうと男が待っていた。そして、彼が先に立って歩く形で、カーテンで仕切られた狭いボックス席へと水橋を連れて行く。カーテンを開けて、水橋は座らされた。案内役の男が注文を取って、消える。男はすぐに戻ってきて、グラスに入ったコーラを机の上にポン、と置いた。男は今度こそいなくなった。狭苦しい部屋の片側では、閉められたカーテンが真っ直ぐ下に降りている。 「あ、……。あなたもしかして、コージくんじゃない? ほら、三重県の伊賀で、夏になると蛙ばかり捕っていた」 三人目に入ってきた女は、水橋の顔を一目見て眉を曇らせた。おしぼりとローションが入ったカゴを足元に置いてから、もう一度、水橋の顔をまじまじと見る。次の瞬間には、女は笑っていた。その時の笑顔を、水橋は二日たった今でも忘れることができない。 「どう? おいしい?」 野坂は、コタツの向こうから水橋の顔を覗きこんだ。水橋は、自分の歯形の残るとうきびに目を戻し、深くうなづいた。野坂は、弾けるような笑顔で、笑う。 「そうだと思った。へえ、なっつかしいなあ。北海道に来ているんだ。旅行なの?」 そう言いながら、おしぼりを取り出して、萎えてきていた水橋の性器をゆっくりと拭いていく(水橋は、この時すでに、ズボンと下着を完全にずり下ろしていた。一人目の女が、そうさせたのだ)。女は話しながら、ずっとふにゃふにゃと笑っていて、しかしその手の動きは、驚くほどに丁寧だった。その指先は、ほんの一瞬でも気を緩みを見せることはなく、自分の仕事を黙々と着実に進めていく。きれいな掌だった。 |
2005年8月3日水曜日
「Ishkar」 scene 6
自転車でどれだけ走り抜けても、地面まで降りた夕焼けは街のあらゆる空間を塞いでいる。昼間には四十度を超えた暑さもどうにかやわらぎ、どこかから細く、風が吹いていた。けれど、息苦しくてたまらない。大学からの帰り道、水橋は隙間のない夕空を見上げながら、どこか遠くで窒息しつつある自分を想像した。 学生マンションに着くと、まず郵便受けを調べる。これは、特に意味もない日課だった。格子みたいに上下左右に隣接して並ぶ、いくつもの四角い銀色の扉から、自分の名前の振られている一つを選び、手を伸ばす。扉がわずかに歪んでいるのを無理矢理力で引き開けて、その中の薄暗がりに無造作に手を突っ込む。そして、ひんやりとした平らな底をこちらへと、撫でる。 「ああ、今日も何も入ってへんな」 時には、声に出してそうつぶやくこともあった。特に待っている手紙があるわけでもないのだから、その言葉には何の感慨もこもらない。そして、そこに何の感慨もこもらないことが、却って水橋を途方に暮れさせた。一体、僕は何を待っているのだろう。何を待つためにここにいて、何のために気のない行為を重ねているのだろう。郵便受けの前の虚しい身体を引き下げて、彼はそれから階段を昇り、湿気のこもった自分の部屋へと帰っていくのだった。 その日も、彼はいつものように郵便受けの扉を無理矢理引き開けた。そして、目の前の薄暗がりの中に、何の注意も払わないまま右手を突っ込んだ。その時、何かが彼の指の先に触れた。ひんやりとしたステンレス製の底ではない、ふくらみと反発とがそこにあったのだ。彼は少し驚いて、自分の指が押さえているものを見た。見ながら、手を、こちら側に引きずってくる。そこには、一通の封筒があった。 ボロい封筒だ。何よりもまず、そのくたびれ具合が水橋の気を惹いた。形態としてはよくある茶封筒なのだが、縁の方は擦り切れて紙がほぐれていて、四隅となると色も落ちて白っぽくなっていた。折りジワも何本か入っていて、砂埃なのか手垢なのか、斜めに走るその直線はうっすら汚れを乗せている。封筒の口は山折りと谷折りに折れ曲がり、糊付けされていたであろう部分の一端が、かすかに浮かび上がりかけていた。 水橋は、その封筒を手にとってじっくり眺めていた。封筒は軽く、何が入っているかわからなかった。宛名は北海道石狩市の、全く知らない人の名前になっていて、住所の付近にさらにいくつかの住所が、赤いボールペンやら鉛筆やらで走り書きされてある。黒のボールペンで書かれた元の住所は、それが個性的な字であったとはいえ、割合簡単に読むことができた。しかし、走り書きされた住所の方は汚い字だったので、何と書かれてあるのかよくわからなかった。そして、それら肉筆に混じって、名前の周りに散らすように、――と言うかむしろ、散らすと見せかけて巧妙にその端を名前に被せていくように、――三つ、四つと、赤いスタンプがくっきり押されてある。 あて所に尋ね あたりません 不恰好に改行され、四角い枠の中に押し込められている、文字。それを見て、水橋は言いようのない胸騒ぎを覚えた。「あて所」という言葉がぎこちなかった。「尋ね/あたりません」という二行の間がどこか遠かった。読もうとしてもいまいち滑らかに発音できなくて、喉と声とがもたもたしている間に、周囲の世界はそんな自分を置いていつものように進んでいく。そこに開ける一瞬の遅れは、どんなに一瞬でももはや追いつきようのない距離となって広がり、その、あるはずもない時間の空白の中に、水橋は一つのぎこちなさとして立ち尽くしていた。 きっと、郵便配達の人もそうだったに違いない。水橋はそんなことを考えた。どこにいるのかわからない人の住所を尋ね、いつかどこかでその人に尋ねあたるだろうと尋ねつづけ、そうして、彼は宛てもなく行ったり来たりしつづけたに違いない。行き先のない場所に放り出された彼の迷いそのもののように、道は何回も曲がりくねり、時には重なり、交差し、すれ違って、それでもいつまでも広野の上にあったのだろう。道がどこかに抜け出て広野が終わる、そんな場所を見つけることもできないまま、先の見えない塞がる歩みが伸びていく。「あて所に尋ね/あたりません」。赤く四角いスタンプの文字の中に、彼の歩みが、そこに費やされた彼の時間が、そっくりそのまま込められている気がした。 一体、どれくらいの数の人が、これまでにこの封筒と関わってきたのか。自分の部屋で座布団に腰を下ろして、水橋はなおも考えつづけていた。目の前の卓上には、さっきの封筒が置かれてある。宛先は「北野菜穂」。誰にしたって全く知らない人であることには変わりがない。消印の日付は、二〇〇四年八月三十日になっていた。すると、もう一年近く前に投函された封筒になるのか。そう思いながら、水橋は封筒を裏返す。差出人の住所は、水橋が座っている部屋になっていた。そして、その左には、「水橋孝司」……ではなく別の名前が、おそらくその人本人の手で書かれてあった。「増田考志」 水橋がこの学生マンションに引っ越してきたのは、今年の三月だった。越してきたばかりの頃には、「増田考志」宛の手紙がけっこう頻繁に、「水橋孝司」の郵便受けに舞い込んだ。管理人の話によると、増田は水橋の前にその部屋に住んでいた学生で、一月下旬に増田が退室してから水橋が入居するまでの間にも、その部屋に増田宛の手紙が届くことがよくあったらしい。 「せっかく転送してもですねえ」水橋が増田宛の手紙を渡しに行った時、管理人は少し怒った口調で愚痴をこぼした。「どこに行かはったのかわからへんのです。新しい転居先もだめ、実家として聞いていた住所もだめでねえ。どちらも宛先不明で返ってくるんですわ」 そう言えば、増田への手紙が届くことはよくあったけど、増田からの手紙は初めてだな。ふとそう思い、水橋は少し笑いそうになった。なに勘違いしてんねん。そう、自分にツッコミを入れる。目の前にある封筒は、たしかに増田からのものだった。しかし、決して、水橋宛てのものではない。それはそもそも「北野菜穂」に宛てられていて、しかし、「北野菜穂」はどこに行ったのかわからなくなっていた。だから、封筒は返ってきたのだ。返ってきたのだが、だからといってそれは、決して、増田へ宛てられたものでもない。 自分の出した封筒が、受け取る人もないままに、一年かかってそのままの姿で自分の許に返ってきた。それを見つけたとしたら、増田はどのように思っただろうか。水橋は、その時の増田の気持ちを想像した。きっと彼は、まず、ないはずのものがあることに驚くだろう。目の前にそれがあるということが、しばらく信じられないに違いない。そして、その封筒が現にそこにあるということを無理無理認めた後で、あると思っていたものが既になくなっていたということに気づき、急に支えを失ったような気分になるだろう。 水橋は、自分で思い浮かべた増田の姿に同情した。その同情は水橋にとって、ちょうど切ないドラマを見ている時のように、心地よく自己陶酔に満ちたものだった。しかし次の瞬間、郵便受けの前で封筒を持っている増田が自分であることに気づいて彼は戦慄した。 ――カタカタ。カタカタ。カタカタ。カタカタ。カタ、……カタカタ。カタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタ…… 封筒の中からは、いつしか音が鳴っていた。窓の外は、すでに夜になっていた。水橋は自分がどれくらいの時間そこに座っているのか、もはや思い起こすこともできなくなっていた。ただ、封筒の中身が震える音だけが、断続的に、いつ終わるともなく鳴りつづけている。 その音はきっと、ずっと鳴っていたのだろう。僕が気づく前から。いや、郵便受けから取り出す前から。いや、もしかしたら、封筒が郵便受けに届く前から。カタカタ震えるこの音は、僕の部屋で、あらゆる郵便受けで、そして、世界のそこら中で、ずっと鳴りつづけていたのかもしれない。けれど、汚れとか折り目とか余計なことばかりに気を取られて、今の今まで気がつかなかった。水橋はそう思って、もう一度、目の前にある封筒を凝視する。中に何が入っているのかはわからない。わからないけれど、それはもはや何かを包み届けるものではなかった。そうではなくて、それはただ、そこにある“物”として、目の前の卓上に置かれてある。 これをどうにかしなければならない。水橋は、そのことを強く思った。どういう理由であれ、僕のところに届いてしまった以上、僕はこれをどうにかしなければならない。水橋はそう強く思いながら、コンビニに行って弁当と野菜ジュースとを買い、部屋に戻ってきて座布団の上でもそれらをもそもそと食べ、食べ終わると、ゴミを捨て、シャワーを浴びて、一人分の布団を敷いてその中に潜り込んだ。電気を消す。すると部屋の中は真っ暗になる。その時どこかで、火が焚かれているのが窓越しに見えた。 水橋が二度目の北海道旅行を決心したのは、その晩のことだった。 |
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