2004年6月25日金曜日

新生


脱ぎ捨てた空
懐かしい傷さえ残さずに
肌はさらにやわらかく
おどる

まわっている風が
幾重にも剥がれていく
そのあい間に宿された
ひと夏

わたしたちは笑っている
青くゆれているハンモックから
起き上がってダッシュする
海辺の砂の上

焼けた骨よりもまぶしい
真っさらな白い板を抱く
刻まれた名前は見えない
亡くした人さえいなくなるひと夏


(2004年6月23、24、25日)


2004年6月21日月曜日

二〇〇一年八月十六日 京大病院にて


エレベーターで団扇を見たり夜八時



点滴の音を囃子にて人の寄る



北病棟しろき頭に浴衣うつくし



病室の灯を消して見む大文字



送り火を送りてもどる廊下かな



二〇〇一年の夏休みは、私にとって大学生として初めての夏休みでした。そのとき私は、持病の潰瘍性大腸炎を悪化させ、京都大学医学部付属病院に入院していました。私の入院していた北病棟には、面会謝絶の部屋があったり、癌患者の方もいたりして、普段はとてもひっそりとしていました。
 しかし、忘れもしない八月十六日だけは、五山の送り火(大文字焼き)のせいで、たくさんの人たちが行き来して大変賑やかでした。もう外に出られないかもしれない、あるいはこの夏休みのうちに死んでしまうかもしれない、そんな不安を抱えた人たちが笑顔をこぼして歩き回り、病棟全体がうきうきしていたようなあの時の雰囲気は、とてもとても印象深いものです。
 しかし、不慣れゆえ、その場で句を作ることはできませんでした。私の記憶が正しければ、四句目の句を、たしか退院後の八月末か九月冒頭に書いたのが最初でした。そして残りの四句ですが、当時のことを思い出しながら今書きました。参考までに。



2004年6月18日金曜日

ZONEの「太陽のKiss」へのオマージュ


かづく朝に
また飛び込んで

夏のど真ん中

やどかりが
かりそめの境界線の上
石舟のように
這う と

二人で作った砂の城が
(しかし、誰と誰とが?)
そこで何度も生まれ直しては
また 濡れる

足跡ばかり駆けていく
掴める夏
太陽のKiss
ザクロみたいな夕空が降るまで


(2004年6月17,18日)


たまには真剣っぽく自註でも。鼻で笑える人だけが読んで下さい。

・かづく…被る、潜るの意を持つ古語。万葉集巻16には、三人の男性に求婚されたため入水自殺をする女性の話があり、この女性の死を悼んで歌われた歌の中で、「かづく」は入水自殺を指す言葉として出てくる。また、「かづく」の枕詞は「鳰鳥の」である。「鳰鳥」とは、カイツブリのことで、黒いこの鳥が何度も水の中に潜っては魚を取って上がってくる、その繰り返し作業、すなわち、海面の下に見えなくなったと思ったら何かを得てまたひょこっと現れてくる、という往来が、特に印象的である。ちなみに、「太陽のKISS」のPVの最後には、メンバーが一斉に海に沈むジェスチャーをするシーンが挿入されていて、その後カメラは彼女らの上の青空だけを映すのである。

・やどかり…「太陽のKISS」のPVに登場する。2003年夏ツアーのグッズ&2004年度のカレンダーの準備で彼女らが沖縄に行って以来、ヤドカリと彼女らは不思議な関係にある。

・石舟…日本の各地には、神様が石の舟にのってやって来た、という伝説が残っている。また、舟形石棺など、死者にも非常に関係のあるアイテムである。これとヤドカリとの関係づけは、ワタナbシンゴ氏の「ヤドカリ兄たちへの賛歌」に触発された部分があると思われる。

・二人で作った砂の城…原作の歌詞より引用。

・掴める夏…原作の歌詞を改変して使った部分。

・太陽のKISS…原作のタイトル・歌詞からの引用。

・ザクロみたいな夕空…PVの最後の方で、ロケ場所になったグアムの海辺は、何とも言えない夕空に包まれている。それを最初は「カシスのような夕空」としていたのだが、あまりにも印象に正直に従っただけの、つまらない表現になったので、自分の印象をかなぐり捨てて、なにか面白い表現を目指してみた。その結果、「ザクロ」が出てきた。ギリシャ神話でペルセフォネが食べる果実。ペルセフォネのザクロが、結果的に言えば死の世界と生の世界とを架橋する存在であること、そして、彼女の生の側への定期的帰還が、季節としては「春」にあてられてあること。これらは、私にとってはとても意義深いことである(「ZONEの「恋々・・・」へのオマージュ」「春について」参照)。また、ザクロは日本では、人肉の味がする果実として知られている。映画では、『富江 ――最終章――』の中で出てくるのが印象的だった。不老不死の怪物である富江が、主人公の登美恵に人肉と偽ってザクロを食べさせるシーン。多少、ペルセフォネの話とも通じていると思う。書いてから思い出したが、そのシーンでの夕空の美しさが、グアムの夕空のそれと酷似していたような気がする。しかしこれは、さすがに私の覚え違いかもしれない。なお、私の詩にとって、富江と登美恵のような二重身的関係は、非常に重要なファクターでもある。