朝だった。外では雨が降りつづいている。ひんやりとしたベッドの上で身体を起こして、水橋は、ほの白く光っているカーテンを眺めていた。ずいぶん前から腹が減っていたけれど、今すぐ何かが食べたいわけでもない。 ビジネスホテルの一室で目覚めるのは、これで何度目だろう。水橋は、そう考えた。これまでの朝は、どれもこれも、同じようなものだった。どれもこれも同じように新しいから、結局のところ、その新しさ自体がある方向性を形作れずに、平面的に並んでしまう。ありふれた朝だ。ベッドの上でそこまで考えてから、水橋は、しかしその朝も今日で終わる、と漠然と予感した。身体を横に回して、掛け布団の下から脚を出す。いつから見ていなかったのだろう。足のつめが伸びていた。スリッパに足を乗せて目を瞑り、耳を澄ますと、昨日の川、そして夜の支笏湖が、自分の中でさざ波を立てているような気がした。 部屋にあった、昨日買ってきたらしいコンビニのパンをベッドの上で食べる。その後、水橋は身支度をして布団を直し、今日要る荷物をカバンにまとめて部屋から出た。重い扉が勝手に閉まる。ノブをひねると、オートロックは既にかかっていた。あとは、エレベーターで下まで降りて、フロントにキーを預けて自動ドアをくぐるだけだった。そこにはもう、歩くほかない今日の道がつづいている。 雨の中、歩道にまで身を乗り出してきている木々を見上げながら、歩いた。大通まで北上し、そこから直角に曲がって大通の南側を東に向かう。西三丁目にある大通駅を通り過ぎ、西二丁目を左折して時計台のところまで来た。ビルとビルとに挟まれて、引っ込むようにして建っている時計台の前には、人がいなかった。何日か前に来た時は、そこにも色とりどりの服を着た人たちがいて、そのうちの何人もが、時計台の正面に設置されたお立ち台の上に登っては、そんな自分の姿を写真に撮ってもらったりしていた。今、お立ち台の上には誰も立っていず、四角く平坦なその表面は等しく雨に打たれている。 そこからさらに北に進んで角を曲がり、次の次の角でまた曲がって、テレビ塔を眺めながら南下した。テレビ塔にかかっている、巨大なデジタル時計の時刻は刻一刻と進んでいった。均整の取れた鉄塔の赤と白、そして、その足元で噴煙のように湧き出ている木々の緑。それらを間近で見つめてから、水橋は左に向きを変え、中央バスターミナルの方へと歩いていった。 通りに面したビルの一階にある待合所で、水橋は他の乗客たちと一緒にベンチに座り、薄暗い沈黙の中、自動販売機で買った熱々のフライドポテトを食べつづけた。バスが来て、アナウンスが入り、乗客はベンチからあっけなく立ち上がって待合所を出て行く。しばらくして、アナウンスが入り、バスはエンジン音を響かせて走り去っていく。さっきまでバスがあったところには、降りつづける雨だけが残っていて、それを眺めながら、水橋は湯気でじっとりとなったフライドポテトをまた一つ、口に運んだ。 フライドポテトがなくなって、何台かのバスが出て行ってから、水橋は立ち上がった。売店の女性と、冬の札幌について言葉を交わした。そして、ガラス戸を押して外に出て、また街路樹を見上げながら歩いていく。 カフェのあるビルの前に着いたのは、十二時三十分を少し回った頃だった。身体中がくまなく濡れていて、水橋は自分が、途方もない時間をかけて大きな森をくぐり抜けてきたような気がした。階段を昇り、言われたとおり手前の方のドアを開ける。ドアの向こうは暗くて、そこに組み合わせられてある木製の柱も机も、白い壁も、まるで住み慣れた家のように落ち着いていた。野坂は既にいた。店の中に既にいて、奥の方のテーブルから、こちらへと小さく手を振っていた。 「早かったね」 水橋が椅子に座るか座らないかのうちに、野坂は小さく声をかけた。 「うん」 野坂の前に置かれたコーヒーカップの中では、フレッシュを入れられたコーヒーが白く斑になっている。コーヒーの表面は、カップの内側に残るかつての表面の跡から二センチくらい下にあって、静止していた。 「ずいぶん濡れてるね。大丈夫?」 「うん、大丈夫」 ウェイトレスが来て、水の入ったグラスを置き、注文を取って帰っていった。 「昨日、支笏湖に行ったんだって?」 少しの間沈黙してから、野坂は思い出したように水橋に訊いた。 「うん」 「どうだった?」 そう訊かれて初めて、水橋は昨夜の光景を思い出す。何も見えなかった。 「何も見えなかった。けれど、なんか、すごかった。山を包む木の気配とか、目の前にある水の重さとか、見えないんだけれど、肌にずっしりと伝わってきて」 「へえ、すごいね」 「とにかく大きくて、広くて、鏡みたいだったな。支笏湖。それに、しずかで、……石油みたいだった」 「あはは。石油みたいだった、かあ。……変わってるね、コージくん」 「んー。たしかにそうかもしれない」 「はは」 厨房から歩いてきたウェイトレスは、フレンチトーストを野坂のそばに置き、サンドウィッチとコーヒーとを水橋の方に置き、裏返しになった伝票を二人から等しく遠い机の端に置いた。そして顔を上げると、「ごゆっくりどうぞ」とほほ笑んで帰っていった。 水橋は、コーヒーカップを手に取った。この黒い液体を口に流し込む時は、いつも、想像することさえできない異物にむかって体当たりをしていくような、一瞬の踏ん切りが必要だった。しかし、その踏ん切りは何も特別なものではなくて、日常の中にいくらでもある、小さな結節点の一つにすぎないのだ。そんなことを感じながら、水橋はコーヒーに口をつけた。飲み込むとそれは、香ばしくてコクがあり、強めに利いた酸味がさわやかで、美味しかった。 「北海道で石油が採れるって、コージくん、知ってた?」 野坂の言葉に驚いて、水橋は思わずカップから目を上げた。真正面から見る野坂の顔は、心なしか、いつもよりも化粧が薄くて若々しく見える。 「知らなかった。どこで採れるの?」 「厚田村にある、ムエンカイガン」 「ムエン……? それって、あの、無縁仏とかの、無縁?」 「まさかあ。煙が無いって書いて、無煙。無煙海岸。海水浴場として有名だったところなんだけど、その海岸近くの丘とか山とかでさ、石油が出るんだって」 そこまで言って、野坂は目を伏せる。またあの表情だ、と水橋は思った。 「もちろん、今ではもう石油採掘はしてないんだけどね。でも、石狩川を越えて厚田村に入って、海に向かう途中で、どことな~く臭いはするんだよ。で、臭いはするけど煙は上がらない、ってことで、無煙海岸」 「なるほど。なんか、納得した」 水橋が相槌を打つと、野坂は悲しそうに笑ってから、目を上げた。 「でも、ほんとのところ、どうしてその名前になったかはわからないんだって。海難事故とか、石狩川の水難事故とかで死んだ人の遺体が、ほとんど全部この海岸に打ち上げられたから、って話もあるし」 「じゃあ、やっぱり、無縁仏のムエンなんだ?」 「その話が正しかった場合、ね。まあ、漢字だけで言えば、今は煙が無いって書いて無煙なんだけどさ。……わからないんだよ。誰がどうしてそんな名前が付けたのか、どうしてその名前が今まで残ってきたのか。本当に」 そして、風のような、ため息。 「でも、いいところよ。しずかで。そこのね、ちょうど海岸を見晴るかす丘のてっぺん辺りに、木を組んで作った見張り台があったんだ。夕方には、それが影になったりしてさ、ほんっときれいだった。今年になって、取り壊されてしまったけど。無煙浜海水浴場も、もう去年から営業してない」 かなり長い間、沈黙がつづいた。水橋がトイレに行き、野坂がトイレに行った。野坂のトイレは少し時間がかかったが、ちゃんと戻ってきて、今は二人とも自分の席に座ったまま、黙っている。コーヒーを飲み干してしまった水橋は、空になったカップと、その底に残る数滴の名残とを眺めていた。野坂のカップも空だった。露の浮いたグラスが屈折させる、か細い光を見るともなく見ていた。野坂の視線に誘われて、水橋もその透き通った光を見つめようとする。しかし、その光は薄く、つかみ所がなくて、本当にそこにあるのかどうか、見えてはいても自信が持てなかった。不意に、野坂がグラスを掴んで口に運び、入っていた水をゴクリ、と飲んだ。 「湿っぽい話をしてごめんね。ほんとは、こんなことで呼んだんじゃないんだ」 野坂はそう言いながら、隣の椅子においてあったバッグをまさぐり始める。そして、一冊の雑誌を取り出した。それは、どこの書店にでもありそうな大衆的な音楽雑誌で、表紙の数字を見るに、二〇〇四年の二月に発売されたものらしかった。野坂は、その雑誌を慣れた手つきでめくり始める。そして、冊子の半ばあたりで手を止めて、そのページを開いたまま水橋の方に雑誌を置いた。 二ページぶち抜きで、四人の若い女性(少女?)が跳び上がっていた。四人とも、黒とピンクを基調にした衣装で、ジーンズやミニスカートなど、どことなく春らしさと元気のよさを感じさせる格好だった。空中で、右のページの二人はカメラに向かって笑顔で蹴りを放ち、左のページの二人は手をつないで口を尖らせている。インタビュー記事らしい細かい活字が、その写真の下の方にかぶせるようにして、縦書きの一段組みで並んでいた。右のページの活字の上には、丸ゴシック体の横書きで「なんてったって」と書いてあり、そのつづきに太字のゴシック体で、その四人のグループ名が書いてある。水橋は、そのグループ名を知っていた。 「ああ、この人たちのことなら、知ってるわ」 思わず関西弁でそう応えた水橋に、野坂は目を輝かせた。しかし、それも一瞬のことだった。 「あの、ドラマの主題歌でヒットを飛ばしたアイドルでしょ。あれ、いい曲だったよね」 「うん、そうだよね……。まあ、何だろ。アイドルでも何でもいいや」 野坂は明らかに落胆したようだった。そそくさと雑誌をバッグにしまうと、またちょっとだけバッグの中をまさぐり、細長い紙切れを取り出して水橋の前に置いた。 「何これ?」 「チケット。今日、この人たちのライブを見に行くの」 そこには、さっきの四人のグループ名が書いてあった。日付は二〇〇四年八月二十八日(土)、開場は十七時三十分で十八時開演、全席指定、四八〇〇円(税込)、場所は北海道厚生年金会館ホールだった。 「大丈夫、座席はわたしと離れているから」 座席を見ると、一階十八列三十番となっている。それがどのあたりの位置になるか、水橋には全く見当がつかなかった。 「いや、……なんで?」 「なんでって……なんで?」野坂は笑った。「や、……この前約束したでしょ。一緒に見に行きたいものがあるって。これなの。大丈夫だよ。気に食わなかったら、途中で抜け出してくれてもいいし。席が離れているから、わたしのことは全然気にしなくてもいいから」 そう言って、野坂はまた笑った。そして、「大丈夫だよ」と繰り返す。その言葉は、水橋を安心させるためと言うよりも、むしろ、自分を励ますためであるようにも思われた。楽観的に笑いながら、野坂の目はどこまでも真剣だった。水橋には、その真剣さが理解できない。理解できないのだけれど、それは、ただ美しかった。 野坂は席を立った。つられるようにして、水橋も席を立つ。会計はそれぞれが自分の分を払った。店から出て階段を降り、ドアをくぐって薄暗いビルを出た。雨はもう上がっていた。昼下がりの穏やかな日差しが、清潔に磨かれて、かすかに色づきながら道に降っている。野坂と水橋は、並んで歩いた。言葉はあまり交わさず、足音も聞こえなかったが、水橋には、隣を歩む野坂の呼吸が、自分の身体の中に波のように打ち寄せては反響し、反響しては鼓膜の内側から聞こえてくるような、そんな気がしていた。そして、このビートをどこかで聞いたことがある、とも。 二人は並んで歩いていた。その歩みは留まることも交わることもないままに、ビルと街路樹の輝く札幌の通りを、ひたすら前へと進んでいった。 |