2005年10月9日日曜日

「Ishkar」 scene 13 (3)


 一時間を本当に待って、ただ待って、空では八月の残照が薄紫の夕闇へとなだらかに移り変わり、それに合わせて、水橋の中では今自分が何かを待っているという意識すら、自然に次第に薄らいでいった。列が急に動き出し、時計を見ると六時五分過ぎだった。物販の時とは違い、列はほとんど立ち止まることもなく、進む。角を曲がり、入り口が見え、そこでは人だかりが何かをしながら、次々に建物の中へと吸い込まれていた。
 「あ、もしかして、カメラとか持ってない?」
 野坂が水橋の方を振り向いて、訊く。
 「ん? 僕は持ってないけど、何で?」
 「あの、……ほら、肖像権とかの関係でさ、カメラとかレコーダーとかの持ち込みはできないの。カバンが点検されてね、もし入ってたら、取り上げられちゃう」
 「ああ、そうか。なるほど。でも、持ってない。大丈夫」
 そう答えるうちにも列は減っていて、野坂は歩きながら、自分のチケットを取り出した。水橋もチケットを取り出して、確認する。一階十八列三十番。
 「旅行に来るのにカメラを持ってこないって、やっぱりコージくん、変わってるね」
 野坂は思い出したようにそう言って、笑った。
 物販の時は入り口を塞ぐように並んでいた長机が、通路に沿って両側に並んでいる。そこには若い男性の係員が何人も並んでいて、チケットを受け取ったりビラを渡したりしていた。人々の流れはスムーズだった。水橋もチケットを渡し、半券と何枚ものビラをもらって、それを片手に進んですぐ、今度はカバンの口を開けて係員のチェックを受けなければならなかった。チェックが済むと、そこはもう広々とした一階ロビーで、正面で両翼を広げている煉瓦造りの壁にはいくつも、今日のコンサートを祝う花輪が立てかけてあった。地元の放送局や、雑誌等々、様々な名前がそこに書かれている。階段は見えなかったが、ロビーの両端にあるらしい。大きな二枚扉からホールに入っていく人もいれば階段に向かって歩いていく人もいて、たくさんの人々が、黄色っぽい照明に照らされたその空間を行ったり来たりしている。
 「じゃ、コージくんの席はそっちだから」
 正面の壁に二つ作ってある扉のうち、左の方を指差して野坂が言った。
 「わたしはあそこのから入るね。席も遠いし、こういう入り口はやっぱり、わたし、違う方がいい」
 悲しそうな、そのくせどこかうれしそうな、よくわからない笑顔を残して、野坂が去っていく。野坂に言われた扉を引いて、水橋はホールの中に入っていった。厚い扉の向こうにあった暗い空間を抜けると、横から後ろから無数の座席が前へ前へと下って行っていて、それはまるで途方もなく広くて長い斜面のようだった。白い照明に照らされて、座席の一つ一つが光って見える。川原の石みたいだ、と水橋は思った。扇状に広がるその土地が流れ着く先に、四角くて平らな今日のステージがある。
 ステージの上には、既にセットが組まれていた。二階建て、とでも言うのだろうか。ステージ奥側に、二メーター半くらい高くなっている部分があって、その両側から、板を組んで作ったらしい白い階段が、ゆるやかな弧を描きながら降りてきている。二つの曲線に包まれるようにして、アンプやらスピーカーやらがごたごたと置かれてあり、その中の丸く小高くなった部分に、ドラムセットが設置されていた。ドラムセットにはマイクもつけられていて、他のマイクはステージのずっと前の方に、真ん中、左、右、と等しい間隔をおいて用意されていた。これら三つのマイクは、どれかが前に出ることもなく、横一直線に並んで立っている。
 二つの階段の外側、つまりステージ奥の両端にあたる部分には、分厚い紙を切り抜いて作ったような巨大な木のオブジェが密集していた。いや、それが本当に木なのかどうか、水橋にははっきりとはわからなかった。それらの「木」は、どの一本もこの一本も、頭の方で二股に分かれていた。分かれてから先は円を描くように曲がり、先端は刺すように尖っている。枝らしい枝はなく、三角形をした葉が、幹や二股に分かれた部分から直接生えていた。それは、見ようによっては、虫の触覚のようにも見えるオブジェだった。
 二階になっている部分のさらに奥には、いくつもの巨大な輪が、互いに一部を重ね合わせながら並んでいた。その輪を覆い隠すようにして、というよりはむしろ、自分自身が一つ一つの輪になるようにして、そこにも二股に分かれて円くなる幹と、三角形の葉とがあった。その輪の上からもまた「木」が何本も生え、舞台の天井のすぐ近く、ぶら下がっているライトよりもまだ上の方にまで届いている。水橋は、南国の密林を思い浮かべた。そこに息づく、野蛮なまでの繁茂と生命力を思い浮かべた。しかし、それは水橋のイメージの中だけの話で、実際、ステージの上はまだ照明もついていなくて、暗い。その暗さの中で、紙を切り抜いて作ったようなオブジェは、結局、作り物でしかない自分たちの白さをただあからさまにするばかりだった。
 舞台のこちら側、座席の間を、何人もの人たちが歩いている。みんな、自分の席を探しているのだろう。そう思って振り向くと、水橋の後ろにもずっと席がつづいていて、奥の壁にさっき入ってきたのと同じ二枚扉が見えていた。水橋は、自分が一階の扉から入ったことを思い出し、そうすると一階と二階とが、僕の今いる傾斜によってつながっているんだな、と理解した。二階までつづく一階席のはるか上空、たぶん四階か五階くらいの高さになるところに、壁から張り出すみたいにして二階席が設けられている。そこにも、もう何人もの聴衆が姿を見せていて、自分の席に座っている人もかなりの数、いた。
 水橋は前に向き直り、自分の席を探し始める。縦に何本も走る通路のうち、一番近い通路を通って客席を下りていくと、十八列は扉のすぐ近くにあった。通路を挟んで二十七番と二十八番とが分かれていて、水橋の席である三十番は、通路の右側三番目の席だった。そこは、ステージからはやや遠いが、ステージをほぼ正面から見られる位置で、三つ並んだマイクを基準にすると、真ん中のものよりほんの少し左に寄っていた。
 二十八番と二十九番の席は、まだ空いていた。三十一番には痩せこけて背の高い、三十代前半くらいの男性が座っている。男性は地黒い肌には不似合いな赤いTシャツを着ていて、それはツアーグッズの一つだった。ぎょろっとした余裕のない目から見ても、その人が俗にオタクとか呼ばれる類のファンであることは明らかで、水橋は、少し嫌な気分がした。しかし、だからと言って席を変えることもないと思い、その男性の隣に腰かけた。男性は例の黒いバッグの中をあさり、売られていたのとは別のペンライトを二本出してくると、それを両手に持ち、ストラップを手首にぐるぐると巻いて固定した。
 水橋は平静さを保とうと、脚を組み、さっきもらったビラに目を通す。そこには、今日の主役である四人と同じスタジオに所属する、名前も知らない後輩たちが次に行うライブのビラや、地元のラジオ局が作った情報誌などが入っていた。何枚も何枚もめくり、見るともなしに見ていくうちに、水橋は、紙ヒコーキについて書かれたプリントに行き当たった。そこには、紙ヒコーキをどの曲のどの部分で飛ばすのかの指示があった。水橋は紙ヒコーキセットをカバンから取り出す。メンバーの写真入りステッカーと一緒に、黄色とエメラルドグリーンの紙が入っていて、ご親切なことに、紙ヒコーキの折り方が書かれた紙まで同封されている。
 水橋は小さく苦笑しながら、黄色の紙を取り出して、書いてある通りに紙ヒコーキを折っていった。紙を縦に半分に折り、広げて、残っている折り目に合わせて左側を斜めに折る、右側を斜めに折る。そして、折り目に合わせてもう一度左側を斜めに、右側を斜めに、そうしてできた尖った先端を、こちら側に折り曲げてくる。人に当たっても大丈夫なように、しっかりと先端を折り曲げた後、紙を裏返して最初とは反対側に縦半分に折り、半分に折った片側をさらに半分に折り返してきて翼を作る。紙を裏返して、もう片側も同様に半分に折り返す。こうして折り込んだ両翼を広げると、それは黄色の紙ヒコーキだった。
 目を上げると、もう座席は八割がた埋まっていた。ステージのすぐ近くには、コスプレとでも言うのだろうか、四人がプロモーションビデオか何かで着た衣装を真似て、それと同じ格好をしてきたと思しき男の人たちが集まっていた。彼らは席にもつかず、一ところに固まり、互いにべらべらとまくし立てては旧交を温めていた。その中に、白に近い金髪をした、細身で背の高い若者がいて、その人が普通に街でいれば確実に格好いいと言われるような顔立ちをしていることが、水橋を軽く驚かせる。物販の列で見かけた浴衣の男性もその輪の中にいて、水橋は「やっぱりそういうことか」と納得した。
 水橋の斜め前の席には、野球部に所属していそうな男子高校生が二人いた。水橋が気づいた時、二人は小声で、メンバーの誰それがかわいい、とか、テレビと違って生で見たら、やっぱり、もう、信じられないくらいにかわいいんだろうな、とかいうことを語り合っていた。「お前、あれ持ってきた?」と言われて、片方がカバンの中からオペラグラスを取り出す。それを見たもう一方はうれしそうに笑った後、「ここから、ちゃんと撮れるかなあ」と言って、カメラ付ケータイを自分の胸元で構えた。撮る気なのか。野坂から聞いた肖像権の話を思い出し、水橋はよっぽどか注意しようと思ったが、結局諦めた。水橋の隣には二十代半ばごろのカップルが到着した。二人は前の方に集まっている人たちを見て「うわ、すごいね」と言い、水橋の方をちょっと見てから、席に着く。二人の顔には、どうしようもないな、とでも言いそうな苦笑いが浮かんで、消えなかった。
 後ろを振り向くと、そこには中学生くらいの女子が三人で並んで座っていた。その幾分緊張したような表情が、水橋にはいとおしく感じられる。もしかしたら、今からステージに上がる四人は、この子達にとっては憧れのヒロインなのかもしれない。もしそうならば、今、この三人は、四人を取り巻くこの光景をどんな思いで見ているのだろうか。
 いや、違う。こんなことを考えたいのではない。こんなこと、想像したってどうにもならない。そう思って、水橋は前に向き直る。自分が、電車の中で会ったあの小説書きと同じ見方をしていたような気がして、胸の中が気持ち悪くなった。これまでと一緒だ。僕はそう、自分に呼びかける。これまでと一緒なんだ。ここまで来たって、僕のスタンスは何も変わらない、変えてはいけない。
 場内に、開演間近を知らせるアナウンスが入った。つづいて、ライブに関する諸注意が読み上げられ、その中には写真撮影や音声の録音に関する禁止も入っていたが、斜め前の高校生は一向に気にしないようだった。
 「それでは、開演まで、もうしばらくお待ち下さい」
 アナウンスが終わると、会場内は一層騒然としてきた。しかし、もう前に固まっていた人たちもいず、みな、自分の席に座っている。そうなると、騒がしいのは私語のせいだろうか。水橋はそうも考えたが、実際、誰かと誰かが大声で話しているということもなく、その騒がしさがどこから来ているのかは、ついにわからなかった。客席の照明が、少し暗くなったような気がする。水橋は紙ヒコーキをカバンにしまい、それからふと思い出して、ペンライトを取り出した。包装を剥がし、野坂がしていたようにして、ボタン電池を装着する。半球形をした銀色のボタンを押すと、ライトは点滅した。もう一回押して点きっぱなしになることを確認すると、水橋はライトを消してペンライトをポケットに突っ込んだ。もうすぐだ、と思った。それからもまた待ち、まだかな、と思ってからもしばらくは何もなくて、唐突に客電が落ちた。