2005年10月18日火曜日

「Ishkar」 scene 13 (4) ライブの第一MCまで


 一挙に歓声が湧き上がった。ステージ奥の布製のスクリーンに、緑の、森のような光景が映し出される。客席のあちらこちらで次第に人々が立ち上がり始める。スピーカーからは小鳥の声が聞こえ、その合間に満ちていくように、静かな重低音が鳴っている。スクリーンの緑へと横から当てられる何本もの白いライトの光が、上下に往復を繰り返し、その間にも歓声はとめどなく大きくなっていて、客席では黄色い蛍光色や、紫、さっき見た点滅する赤などの、様々なペンライトが点いていく。周囲のどこかから、はるか遠くへと吠えるような声で、何人かがメンバーの名前を叫んでいる。「ああ、森だ」と水橋は思った。その瞬間スクリーンが落ち、圧倒的な輝きが向こう側から射してきて何も見えない。
 「札幌ー! とばしていくぞー!」
 高く響く、キラキラとしたギターの音。その残響の消えていく後を追って、堰を切ったように歌と演奏とが同時にあふれ出す。客席の前の方では、既に曲に合わせて人々が腕を振り上げたり跳び上がったりしている。ライトの光量は押さえられ、見えるようになったステージの上には四人の女性(少女?)が立っていた。真ん中と左のマイクの前に二人のギター、右のマイクの前にベースの人が立ち、小高くなったドラムを一人の女性が叩いている。全員が歌っていた。全員が演奏していた。皆、白を基調とした衣装を着ていて、細い細いこげ茶色の端切れが、何枚も、その衣装の肩口やら胸元やらベルトやらズボンの片足やらから、トドマツの葉のようにぶら下がっている。
 サビ始まりであった曲は間奏へと入り、真ん中の一人がブルージーで伸びのあるギターソロを決めた。Aメロに帰り、真ん中の人が弾くギターのミュート奏法と、重なり合うベースの低音とが、小刻みに曲を前に進めていく。歌は今は真ん中の人だけが歌っていて、笑顔だ。粒の揃ったハイハットの中に、真っ直ぐなスネアの一発一発が混じる。左のギターはマイクからずっと前に出て、両手を頭の上で叩いて聴衆をあおっていた。彼女も笑顔だった。ベースが自在にうねった後に跳ね上がる、それを合図に、左のギターがアルペジオを弾き始める。真ん中のギターの大人びた歌声と、ドラムの女性の高くて艶のある声が重なっていく。
 水橋は、ただ、信じられない思いでそれを見つめるばかりだった。目の前にある光景は、あまりに自分の予想とかけ離れていた。こういうコンサートは、もっとテレビ然としていて、もっともっと大層な幻想に満ちていると思っていた。しかし、ただ、四人だけがいた。四人だけが歌い、演奏していて、繰り広げられる音楽はこの上なくシンプルだった。どこに幻想の入り込む余地があるのだろう。水橋はそう思う。四人がいる、四人が立っている。それだけなのだ。平らなステージの上に、四人の音が散らばり、散らばりながらまぶしく合わさっていく。歌は前へ前へと進んでいく。
 左のギターが荒々しいコードをかき鳴らし、Bメロが始まる。今度は左のギターとベースの二人が歌っている。真ん中のギターも、今は簡単なコードを全開に弾くばかりだ。水しぶきのように、例のキラキラした一音が高く宙に舞って、再びサビに帰る。シンプルなドラム、直線的なベース、ただコードをかき鳴らすだけの真ん中のギター、ひたすら同じアルペジオを散らしていく左のギター。でも、音の一つ一つがゆるぎなくて、四人それぞれのかけがえのない重さが込められているようで、水橋には、その単純な曲がこれ以上どうにもならないほどの説得力を持って、自分の前に広がっていくような気がした。真っ白な砂浜だった。光を全反射する砂浜のような、ステージだった。
 ブルージーなソロとパキッとした四人の歌声とを何回も経て、曲は終わる。白っぽかった照明が急に暗くなり、紫の光に照らされながら、真ん中のギターがマイクからぐっと前に出てきて、ソロを引き始める。トレモロアームを存分に使った、サーフロック風の長く伸びる音を、彼女は手元を見つめながら響かせていく。曲げられた首や背中が描いている丸みを帯びた線が、水橋にはとてつもない力を秘めたものに思われた。むき出しの肩が、白く輝いている。途端、スキップしながら降りてくるようなドラムと、小刻みな左のギターとが割って入ってきた。トレモロアームを利かせまくる真ん中のギターに立ち向かうように、左のギターとベースとが一つのフレーズをユニゾンで繰り返し、ドラムはさっきよりもさらに軽快なハイハットとスネアで進行する。
 歌はまたもやサビ始まり。照明は再び白く明るくなって、「元気ビーム!」とか何とか、四人一緒に叫んでいる。客席の前の方では、歌に合わせて飛んでいる人々が見えた。左のギターのカッティングと、真ん中のギターのさざ波みたいな細かいストロークとが合わさって、水橋には、会場の光や空気自体が歯切れよく刻まれ、それと同時に流れながら震えているように見えた。フィルインではドラムがタム、フロアと雷のように降りてくる。ベースはしなやかで、かつ、ほどよくこもったぬくもりのある音を出し、曲をたくましく歌い上げている。
 最初の曲とは打って変わって、ハイレベルな演奏の連続だった。左のギターは、AメロでもBメロでも、複雑なソロを弾きつづけ、その手は常に小刻みに動いていた。それでいて、彼女もまた、歌っていた。歌っていて時々、笑った。様々なフィルインで見せるドラム、――スネアの連打、タム、フロア。四人とも歌っている。ポジティブであっけらかんとしていて、バカバカしいくらいの歌詞を、ちゃんと歌として立ち上がらせて、客席の人間に圧倒的に届けてしまう。ベースが、笑いながら前進してきて、首を振りながら難しいフレーズを決める。
 この歌を歌うために、一体、どれだけの強さが必要なんだろう。水橋はそう考えた。水橋も、左のカップルも、斜め前の高校生も、皆腕を組んでステージを見つめていた。水橋の右隣では、痩せた男性が必死に飛び跳ねている。水橋には、隣の男性や前の席の人たちが一体何に合わせて飛び上がっているのかがわからず、――たぶん、その曲をCDなどで聴いてこなかったからだ――そんな自分が少しもどかしかった。
 曲が終わる。客席から歓声と拍手が湧き起こる。それに後押しされるようにドラムがカウントを取り、巨大な音が、四人の楽器から塊になって飛び出してきた。のびやかに、しなやかに、輝くばかりの生命力を込めて伸縮するリズム。それは、どこまでも広がっていく大地のような、ゆるぎなくて果てしないビートだった。そして、そのビートのはるか上空を割って、真ん中のギターの甲高いソロが、高く高く横切っていく。水橋は、空を見た。自分の目には当て所なく見えた北海道の空が、閉じられることもなく夕日に輝いている、そんな途方もない美しさを見た。
 この音だ、と水橋は思う。今、ドラムの女性は椅子から立ち上がり、サンプリングされたリズムに合わせて頭上でスティックを打ち合わせている。左のギターも頭上で大きく両手を叩いていて、力と弱さと光と影とが交錯する歌声で、つまりその人自身でありその人以外の何ものでもない歌声で、笑顔で、歌を歌っている。この音だ、この歌なんだ、と水橋は思う。ベースが自在にうねりを生みながら、大地の底の暗いぬくもりを目の当たりにさせる。真ん中のギターは、今はステージの右端にまで進んできて、頭を左右に揺らしながら息の長いコードを弾き散らす。その音が、キラキラと空に砕け、川のようにまぶしく流れていく。
 電車の中、車両の一番前で高校生が小さくリズムを取っている。バスの窓から、外を流れていく白骨のような木々を見つめている。Bメロに入りドラムと左のギターが演奏に戻って、音はさらに荒々しく息づいていく。真ん中のギターが自分のマイクの所に歩いて戻ってくる。山は暗く、湖は重く、千歳の光景はただただ広く、ひとりで道を歩きながら、いつしか鼻歌を歌っていた。歌はいくつもの場所で鳴っていて、鳴りつづけていて、そして時々、水橋の耳にも聞こえてきた。この音だ、この歌なんだ、と水橋は思った。ベースがリズムに乗りながらダンスのようなステップを踏んで、飛び上がるようにドラムの腕が掲げられ打ち下ろされる。サビ、一斉に襲いかかる巨大な生命力。歌声、音、その中で脈打つこの鼓動こそが、北海道に来て以来、ずっと聴こえていた。
 ――裸の大地に勝負を挑んで
 のびやかでかつ荒々しい歌声で歌い上げられる思い。果てしないものの中で生き、挑んでいく力。それはここで生きてきた人たちの命であるのだろう。ずっとつづいてきたその命を、今、わずか十六、七歳の四人の女性が一身に背負って、立っている。歌っている。まぶしい音、かけがえのないその人だけの声、ゆるぎない笑顔。水橋は、自分の目の前に、照らし出された明るいステージの上に、フィクションではなく確かに人がいるのだと、今さらのように実感した。
 手が叩きたかった。自分の手のひらを打ち合わせて、その音で四人の歌に加わりたかった。しかし、それもできないまま、その曲は轟音の余韻を残して終わってしまう。
 「札幌のみんなーーー、ただいまーーーーー!」
 ドラムの女性が声を張り上げ、照明が一気に明るくなる。観客は一斉に、野太い歓声と拍手とでそれに応えた。真ん中のギターが舞台の袖に引っ込んだが、それに気づかないように、というかそれを観客に意識させないように、彼女は高くハキハキとした声で喋りつづける。今年のライブツアーがこれまでになく長いものであったこと、久しぶりにふるさと北海道に帰ってきて、どこかほっとしていること、ツアーファイナルとなる今日のライブで、完全燃焼したいこと。観客がまた、言葉にならない大歓声でそれに応える。
 つづいて、左のギターが声を張り上げた。顔には、ふわふわと言うかふにゃふにゃと言うか難しい、やわらかい満面の笑みが浮かんでいる。底抜けに元気で、しかし時々翳りの覗く声で、彼女は今年、このグループに新メンバーとして加わった時、皆が自分の名前を覚えてくれるかどうか心配だったことや、このツアーでもファンが自分を受け容れてくれないんじゃないかと思っていたことなどを語る。しかし、スタッフやメンバー、そして各会場でのファンの声援が、そんな自分を支えてくれた。「みなさんと出会えて、本当に幸せです! ありがとうございます!」最後まで笑顔を消さないまま、彼女は最後をそう締めくくった。観客が大声でそれに応える。誰かが「ありがとー!」と叫んでいるのが、水橋の耳に聞こえた。ステージの真ん中には照明が当てられていなくて、そこで着々と、椅子やマイクの準備が進んでいく。何人かのスタッフが腰を屈めて駆け足で行き来している。
 「札幌ー! 気合入ってるかー!」
 ベースの女性が、声が平坦に歪んでしまうくらいの、挑戦的な叫び声を挙げる。叫び返す観客の声は、もはや怒号のようだった。彼女はそれを聞いて、「なはは」と脱力したような笑い声を立てる。一連のやり取りに紛れるように、左のギターも舞台の袖に歩いていった。今、ベースの女性は照明を一身に受けて、どこかくぐもっていて優しい声で、まるで目の前で語りかけているようにしみじみと、久しぶりに北海道に帰ってきた今の気持ちや、今年のツアーを振り返って思うこと、ファンやスタッフ、それにメンバーに対する感謝を口にしていく。
 左のギターがエレキギターを持ち替えて帰ってくる。ステージの真ん中では椅子等のセッティングが終わっていて、アコースティックギターを抱えた女性が腰かけている。
 「皆さん、楽しんでますかー!」
 その声と同時に、ステージの真ん中にライトが当たる。十五、六歳とは思えないようなしっかりした語り口で、彼女はツアーファイナルにかける意気込みや、観客に楽しんで帰ってほしいことなどを伝えていった。そんな中、時々見せる仕草や笑い声、声を張り上げた時の口調などが、年相応と言うかむしろ十分すぎるほどの若さに満ち溢れていて、それが水橋を不思議な気分にさせた。目の前にいる四人が、何歳であるとか、女性であるとかどうとか、そういうことがわからなくなってくる感じだった。ただ、そこに人がいる。そこに人がいて、全力で生きている、震えている。その振動だけが目の前にあり、その振動こそがその人とどこまでも等しくて、その人そのもので、年齢や性別のような瑣末な事項がどんどん見えなくなっていく。大きな振幅を持って存在しているその人自身。それ以上どうにもならないがゆえに恐ろしいその人そのもの。信じがたい思いを抱きながら、水橋はその輝きに、もはやどうしようもなく魅入られていた。