この小説は、私です。 私もかつては、起承転結がしっかりとあり、構想もよく練られ、巧みな伏線が意外なラストを導き出す、という小説を書いていました。高校の時に地方の某文学賞を受賞し、その小説は朝日新聞三重県版で見出しで紹介され、読んだ同級生や教師はおろか、同級生の保護者も数多く泣いた。まったくの見ず知らずの人から、ファンレターまでいただきました。 けれど、そのような反応に触れるにつれて、何か、私は空しさを感じ始めました。人を泣かせられたことはたしかに満足でしたが、そのような満足が、そのような満足を得ることばかりを目的にした小説が、自分にとって何になるのだろう。そして私は、自分の小説では書けないものがあることに、次第に気づいていったのです。 それ以降は、詩の方に行ったりもして、自分の書きたいものをどうやって書けるのか、自分の見たいものを見せてくれる文章とは何か、自分と言葉は一体どこまでいけるのか。どこに辿り着けるのか。それをずっと探ってきました。 たしかに、起承転結や伏線は、小説を面白くします。しかし、それに従うばかりで、本当にあなたは満足なのでしょうか。あなたは、それらに従って「いい小説」(と世間が呼んでいるもの)を書くだけで満足なのでしょうか。それが、あなたが小説を書き始めたそもそもの目的だったのでしょうか。 小説を書く時には起承転結を作って伏線を張って、ということをどうしても私たちは考えてしまいますが、そのように条件反射的に「小説=こういうもの」と考えてしまう私たちは、じつは、何かに騙されているだけなのではないのでしょうか。 来月9日から、緑雨さんの主催で実験小説「新しい文学のために」というイベントが始まります。詳細は企画・意見板でたしかめてほしいのですが、私としては、このイベントが皆様にとって、「この小説が、私だ」といえるような「自分の小説」を探すためのきっかけになれば、と思っております。起承転結も伏線も、比喩も回想シーンも過去→現在→未来という時間把握も何もかも、所詮誰かによって作られた約束事に過ぎません。そういうのはもう、なんと言うか適当にうっちゃっておいて、自由になって、もう一度あれやこれやを新鮮な気持ちで見つめ直してみて、あなたが本当に見たいと思っている(あるいは本当に見ている)世界を、そしてそういう世界を見せてくれる小説を、探してみてはいかがですか? 私自身は、主催者とのスタンスが違うために参加しません(単に私が頑固なだけです)。けれど、今回のイベントに多くの方が参加されて、自分の小説の書き方をいろいろと試したり見つけたりする機会にしていただければ、と思います。 さあ、Let's play!(遊ぼうぜ!=鳴らそうぜ!) |
2005年2月13日日曜日
小説「空走距離」へのコメント
小説 「空走距離」 (4)
(1)http://awono-katei.blogspot.com/2005/02/blog-post.html (2)http://awono-katei.blogspot.com/2005/02/blog-post_13.html (3)http://awono-katei.blogspot.com/2005/02/blog-post_5190.html 地吹雪が過ぎていった。 地吹雪が過ぎていった。 また地吹雪が過ぎていった。 カーテンを閉め切った部屋の中で、僕らは映画を眺めつづけていた。スクリーンの中に突然走りこんできた自動車がぶつかって、あっけなく大破する。また大破する。またまた大破する。 僕らは席について、その光景をいつまでも眺めつづけた。映画が終わった後、教員が前に立って、何かを話し始めた。席についたまま、僕らはその言葉を書き取っていく。モーターの音が鳴って自動式のカーテンが開くと、僕らの席が急に明るくなった。僕らはすでに立ち上がっていた。今日の学科教習は終わりだった。 階段を降り、ロビーの前を通ってドアを開け、また階段を降りて路上に出て行く。二時過ぎだけあって、まだ日が高い。空は今日も、薄墨を流したような淡さを湛えていて、僕はどこか遠くでかなしくなっている自分に気づく。そしてそのまま歩きつづける。 「運転者が危険を察知してから、ブレーキが利き始めるまでの間に、車が走る距離を空走距離と言います」 「空走距離は、車の速度に比例します」 さっきの授業中、テキストの中で見つけた言葉が、いつまでたっても頭を離れていかない。「危険を察知してから、ブレーキが利き始めるまで」の隙間を思うと、そこに何か、真っ白な空白が口を開けているように思えてくるのだ。走るために使われるのではなく、止まるために使われるのでもない、距離。運転者の無意識的な運転も、止まろうとする意志も、ともに働かないゆったりとした空間。 その空白には、「何もない」さえもないのだろう。そして、何もないことで、それはたしかにありつづける。「危険を察知してから、ブレーキが利き始めるまで」のあい間に、いつまでも口を開いている。引き込まれていくような恐怖を覚え、僕は身震いした。僕は歩きつづけていた。空は青く、陽は穏やかだった。今は、もう五月だっただろうか。 車の速度をどこまでも上げると、空走距離はどうなるのだろうか。それが臨界点以上に引き伸ばされることで、車が空白地帯を突き抜ける、なんてことは起こらないのだろうか。そんな抽象的なことを考えていると、僕の向かいから、一人の少女が歩いてきていた。少女に気づいた時には、さっきまでの物思いが消えていた。抽象的な考えなんて、結局その程度のものでしかない。生身の人間の前では。 少女のことは、どこかで見たことがある気がした。しかし、それが誰であったかいまいち思い出せない。近づくにつれて、少女があの屋上にいる四人のうちの誰かのように見えてくる。しかし、彼女はむしろ、四人全員に似ていた。四人全員に似ていて、どの一人とも違っている。 僕は少女とすれ違う。その顔をよく見たい、と思っているのに、僕はそのまま歩みをゆるめない。そのまま僕らはすれ違う。すれ違った後も、振り返ることができない。そして僕が、そのまま歩きつづけている。 その時、僕は自分がどこにもいないことを、今さらのように思い出した。今歩いているのは僕ではないのだ。僕はずっと前から行方知れずだった。今見えている景色のどこにも僕はいない。僕はただ、どこか遠いところから、これらの景色をじっと眺めつづけている。 むしろ、さっきすれ違った少女の方が、僕だったのかもしれない。僕は(というよりも、わたしは、だろうか。もうどうでもいい)、車の教習所から出てきた男の人をちらりと見ながら、歩きつづけた。わたしが向かっている方には、おしゃれなイタリアンレストランが見えた。そのむこうに結婚式場。そして、それらの間に地下鉄の駅がある。 男の人とすれ違う時、わたしは少し、変な気がした。けれど、それがどうしてだったかわからない。男の人が視界から消えた後、わたしは不意に、そこに広がっている空に気づいた。空は青くて、平らに伸びていた。狭苦しく集まった建物のむこうで、空は仄白くなってかすみ、曖昧に消えていた。そこにいってみたい、と思った。何もない空の、本当に何もなくなる場所に、わたしは行ってみたい。 いつからか、わたしはこうして歩きつづけていた。初めて歩いた日のことは覚えていないけど、その日からずっと、わたしは歩きつづけていた。ふとそんなことに気がついて、歩きながら大きく深呼吸した。気持ちよく、胸の中に涼しさが広がっていく。身体が空っぽになって、遠くの風の音が聞こえてくる。ここは、一体どこなんだろう? わたしにはわからない。 気がつけば誰かが、わたしも聞いたことのある歌を歌っていた。歌いながら、春の東京を歩いていく誰か。それは、わたしなのかもしれなかった。 地吹雪が吹き荒れている。さっきからずっと、地吹雪が吹き荒れている。その中を僕は、歩きつづけている。右肩がぱっくりと切れていて、おそらく大量に血が垂れているのだろう。けれど、何と言うか、その腕が他人の腕のようだ。痛みも今は、どくどくと脈打つ大きな肉塊として、客観的に感じられるばかりだった。 僕は何かを探していた。何を探しているのかわからないまま、僕は地吹雪の中を歩きつづけていた。逆巻く雪が、僕を飲み込み、木々と一緒に激しくかき回した。これまで何度も自分の輪郭を忘れそうになった。しかし、「これまで何度も」とは、一体どういうことなのか。わからない。すでにして、時間も回数も関係のない世界に僕(誰?)はいた。ここにあるのは、途方もなくつづいていく風と雪、その狂ったような乱舞だけだった。 屋上には、もう誰もいなくなっていた。四人の少女が何と言って別れたのか、僕にはわからなかった。そこにはもはや、何もない。セメントで作られた平らな地面の上に、風がどこかから吹き込んできて、すぐに消えてしまう。揺れつづけるカーテンも、四方を取り囲む柵もない。音もなく飽和した春の陽の中で。眼下に広がる低い屋根だけが、空しく午後を囁き合っているのが聞こえる。 地吹雪が吹き荒れている。僕は雪に足を取られて、急な坂を転がり落ちた。気がつくと、僕が大の字になって伸びている。厚い雪に顔まで覆われて、もう立ち上がる気力もなくなっていた。何度も何度もやってくる風の音が、耳元で聞こえた。そして、それも段々遠ざかっていく。…… 唐突に、遠くで雪が落ちる音がした。ドドド……という轟音が尾を引いてつづく。そしていつしか静かになっている。 僕は目を開けた。目の前を雪が覆っていて、真っ白だった。それを払おうにも、雪の下の右手が動かない。僕は、左手を力いっぱい押し上げた。何回か繰り返すと、雪が崩れ始め、七回目か八回目で腕が雪の外に出た。その手で顔の上の雪を払う。すると、夜空が見え始める。雪を全部払っても、まだ足りなかった。横たわった僕の視界を超えて、宙いっぱいに、満天の星空が懸っている。 空気が澄んでいて、蒼く燃える星の炎まで見えそうだった。冷え切った闇が、つややかに濡れていた。僕は、呼吸することも忘れて、しばらく夜空に見とれていた。いつの間にか、宙の真ん中で、見たこともない星が金色に輝いている。それは、環のような形をしていて、指輪みたいだった。いくつもの方向に光を放ちながら、その星はくるくる回転しつづけているように見えた。 百万年つづいてきた指輪だ、と僕は思った。前史の昔から、僕らの営みを見つめ、刻みつけたきた指輪だ、と僕は思った。どこかから、聞いたことのある歌が聞こえ始めていた。ギター、ベース、ドラム、そしてある限りの歌声が、裸の大地にどこまでも挑みかかっていくような逞しいビートを刻む。僕らの命は、そのビートの中にあるのだ。澄み切った夜空の中空で、百万年の指輪に指を通す、なめらかで真っ白なひとつの手が見えた。 僕は泣いていた。その僕の上を、いくつもいくつも地吹雪が過ぎていった。歌はずっと聞こえつづけていた。そして、春になった。 屋上には誰もいなかった。雪が水に変わり、雫となって落ちていく音が聞こえている。 屋上には誰もいなかった。陽が穏やかに昇り始め、子どもたちはいつしか大人になっていた。 屋上には誰もいない。平らなアスファルトを割って、いつしか緑の雑草が顔をのぞかせていた。風が吹くたびに、その草が他愛なく、揺れる。 屋上には誰もいない。いや、違う。そこには、四人の女性がいる。女性たちは学生マンションの屋上から、眼下に広がる大らかな街並みを見つめている。こんもりした緑の木々と、不自然なくらいに幅の広い大通り。通り過ぎていく何台もの自動車。帰ってきた札幌の街並みを、女性たちは新鮮な気持ちで眺めている。 「じゃあ、そろそろ帰るわ」 背の低い女性がそう言って、他の三人がしずかにうなづく。背の低い女性は軽く目を伏せ、次の瞬間、前を向いて力強く歩みだしていった。 三人は、その背中を見つめている。すると不意に、女性は振り返った。四人はまったく違う顔立ちをしていて、互いに別人だった。別々の視線が、あたたかくぶつかる。 「ありがとう」 誰からともなく、そう言った。全員が、輝くばかりの笑顔になっていた。そして、女性は再び前を向いた。さっきよりも穏やかな足取りで、屋上から降りていく。二〇〇五年の、四月だった。 僕の部屋からは、やがてカーテンが外されるだろう。開けたままだった窓は閉められ、CDケースは片付けられるだろう。原稿用紙は白いままで、そこに何度も、古い歌、新しい歌がやってくるだろう。すべての歌は、やがて消える。消えながらそれは、その場所でいつまでも、鳴り響きつづけている。 僕の部屋は、誰のものでもない部屋に戻るのだ。そこに誰かがやってきて、そこでまた、生きていく。 「ありがとう」 「ありがとう」 流れつづける水音が、遠くから、ずっと、聞こえつづけていた。 「ありがとう」 「題名だけのスレ3」に、自分で書き込んだタイトルより。 全4回、これでおしまいです。ちなみに、同じタイトルで 最果タヒさんが書いて下さった詩はhttp://www.eonet.ne.jp/~luara/writting/006/0001.htmlにあります。必見。 |
小説 「空走距離」 (3)
(1)http://awono-katei.blogspot.com/2005/02/blog-post.html (2)http://awono-katei.blogspot.com/2005/02/blog-post_13.html 来た時と同じで、窓の外には森しか見えなかった。路肩に積み上げられた雪が山のようだ。そのむこうには、葉のない木々が白骨のように浮かび上がっている。雪の山はなだらかに森の中へと下っていて、その先に人家は一つも見えない。フロントガラスには、さっきからずっと、細かい粉雪が狂ったようにぶつかっている。 「氷濤見に来たの?」 タクシーの運転手が、素っ気ない調子で僕に聞いた。 「はい、それで終バスを逃してしまいまして」 「へえ、大変だねえ」 それきり黙ってしまう。車の中はカタカタ揺れつづけている。スピードメーターは六十キロを指したまま、動かない。 「土日には花火もありますよね。だから、まだ大丈夫だと思ったんですよ」 「ああ、花火っても、あの花火はすぐ終わっちゃうからねえ」 一台の対向車とすれ違った。通り過ぎていくヘッドライトが、まぶしい。一瞬目をつむり、その目を開く。その後はもう、前を行く車の赤いテールランプが、ずっと遠くに見えるだけだった。 「あ、……あれ、何ですか。道の上で光ってる、下向きの矢印。あの、オレンジ色のやつですけど」 「ああ、これはねえ、道路の幅を知らしてくれるの。雪が積もったら、線が見えないでしょ」 「なるほど。そうですね、実際見えてないですもんね」 「もしかしてお客さん、道内の人じゃないの?」 最終バスを乗り過ごしたと言うのに、それでも道民と間違われていたことがうれしい。そして何だかこそばゆい。僕は、「ええ、東京から来ました」と正直に答えた。 その後何を話したのか、よく覚えていない。僕は、道路の上に規則正しく並び、点々と下を指しつづけている矢印を見ていた。路側帯の位置を知らすものだとわかっても、やはりそれは、別の何かを指し示しているように思えた。 たとえば、路肩に連なる雪の山の下には、すでに失われた誰かの記憶が埋もれているのかもしれない。そんなことを考えた。もはや誰にも思い出されない思い出を、オレンジの光だけを頼りに掘り起こしている人。そんな姿が、はっきり見えた気がした。探しているものが何かもわからず、凍えた指先はそれでも、積もった雪を掻き分けつづけるのだろうか。 「!」 僕は、とっさに額を窓に押しつけた。視線をぐっと後ろに送ると、そこに一瞬小さな背中が浮かび、すぐに見えなくなった。道路の脇を、誰かが歩いていったのだ。こんな灯りもない山の中に、一体誰が歩んでいるというのか。僕は激しく動転していた。しかもそれは、まだ年端もいかない少女たちのように見えた。小さすぎる身体に不釣合いなギターケースを背負い、少女たちは一列になって、支笏湖の方へと歩んでいった。 「千歳市内から歩いてこれるんですか?」 僕はそう言いながら前を向いた……はずだった。僕らの前には、大きな雪の壁があった。「あっ!」という声を僕が上げた気がしたが、実際はそんな時間もなかっただろう。「雪の壁がある」とわかるより先に、僕らは森の暗闇の中に弾き出されていた。言葉は遅れてやってきた。そしていつまでたっても、それは僕に追いつかない。 十月から降り始めた雪は、やがて厚く積もり、人々を家の中に閉じ込める。真冬ともなると、屋根からは長く長くつららが垂れ下がる。降った雪はいつまでたっても融けていかない。こうなるともう、雪は雨が変わったものではなく、無尽蔵に置き忘れられていく膨大な物体である。空は鈍色の雲に覆われつづける。朝が来ると、家から人々が出てきて、雪かきをする。しばしば吹雪く。ひどい時には、無理をした人が行き倒れになって、死ぬ。 しかし、春が来ると、雪は不意に水になって滴り始める。ぽたり、ぽたり、ぽたり、ぽたり。昨日までの物体が水に変わって落ちていき、子どもたちがチャンバラに使って遊んでいたつららも、軒先から嘘みたいになくなってしまう。あたたかくなって、遠くに行ってしまったのだろうか、ついこの間まで庭先で遊んでいた子どもたちが、今はどこにもいない。 少女たちは、いつの間にか大きく成長していた。学生マンションの屋上に立ち、四人は後ろを振り返っていた。 「ない……」 髪の短い少女が、ぽっそりとそう呟く。屋上の四方を囲んでいたはずの鉄柵が、いつの間にか全てなくなっていた。頭上を横切ってはるばるとつづいていく、圧倒的な空だけが広がっている。 真っ直ぐな髪をした少女は、何かを納得したようだった。背の低い少女に視線を送ると、彼女も同じような表情をしていて、視線で応えた。背の高い少女は、その目くばせを見て、ほほ笑みながら小さく目を伏せた。背の低い少女が彼女の肩を叩く。背の高い少女がやわらかな笑みでそれに応える。髪の短い少女が、「ふは」と少しだけ笑って、楽しそうな目で三人の方を見た。 僕の部屋には誰もいなかった。僕もいない僕の部屋を、いなくなった僕が眺めていて、窓は開けられたままで風が時折吹き込んでくる。そしてそのままどこかに消えてしまう。膨らんだカーテンはたちまち元の位置に戻り、しかし、かすかに揺れつづけている。部屋では雪が降りつづいている。 「題名だけのスレ3」に、自分で書き込んだタイトルより。 全3~4回を予定しています。ちなみに、同じタイトルで 最果タヒさんが書いて下さった詩は、http://www.eonet.ne.jp/~luara/writting/006/0001.htmlにあります。必見。 |
小説 「空走距離」 (2)
(1)http://awono-katei.blogspot.com/2005/02/blog-post.html 開けたままの窓から風が吹き込んでくる。ベージュ色のカーテンが、まぶしい夏の光に透かされている。カーテンはひっきりなしにはためいていて、部屋は仄暗く、涼しかった。僕らは椅子を鳴らして起立すると、みな一斉に礼をする。頭を上げると、更衣期間を終えた僕らの背中が、うろこみたいに白く光っている。 軽すぎるドアを開けて廊下に出た。真っ白な壁と、群青に白い斑のある床が見える。その中を僕は歩いていく。左手に口を開けた連絡通路から、騒々しい足音が聞こえてきて、たちまち五六人の女子がそこから飛び出した。僕の前を横切っていくその下級生たちの中に、夏服を着たあの背の高い少女はいて、彼女は屋上にいる四人のうちの一人だった。身体の内側から、隠すところも残すところもなく湧き出てくる、彼女の笑顔。僕はたしかにその笑顔を見た気がしたのだが、すでに下級生たちは僕の前から消えていた。真っ白な壁と、群青に白い斑のある床だけが見える。その中を僕は歩いていく。 地吹雪が過ぎていった。逆巻く雪に飲み込まれた木々は、すでに輪郭があやふやになっていた。互いを隔てる夜の闇を、隙間なく覆い、覆いながら掻き回していく、白い幻。その渦の中で、木々は寡黙に耐えていた。暗い沈黙を抱いて、一本一本じっと立ちつづける。 屋上の四人は、今は空を見つめている。いくじなくつづく家並が、嘘のように儚い青空と交わっているあたりの、さらに先の方を、四人ともバラバラの格好で見つめている。視線は交わらない。少女たちは身動きせず、言葉も交わさないまま、ずっと前を向きつづけている。 不意に、背の低い少女が空を見上げ、目をつむって深呼吸した。そして、穏やかな顔でもう一度前を向く。 「ブレーキ、踏まなかったね。うちら」 愉快そうな表情で三人の方を振り返る。語調はしずかで、言葉はそよ風のようにたしかだった。 「壁があっても気づかなくてさ、ブレーキを踏もうなんて思うことも全然なくて、そのまま……」 そこまで言って、彼女は再び前を向いた。その目は、さっきよりさらに先の空を見つめている。しずかなため息をひとつ、ゆっくりとつく。そして、それまでの言葉を忘れたかのように、言う。 「きれいな空だねえ」 「……ふふ」 彼女の隣に立っていた、真っ直ぐな髪をした少女が、笑った。 「そんな、踏む必要なんてなかったっしょ。この七年間」 背の低い少女の方を向いたその顔は、うっすらと悪戯っぽいほほ笑みを浮かべている。なだらかな頬と、真っ直ぐなまなざし。背の低い少女が、それに応えて、小さく笑い返した。 「うちらだけだったじゃん、結局」 さっきまで黙っていた髪の短い少女が、二人の横から唐突に言った。 「壁とかなくて、ブレーキとかも多分なくて、……疲れたり、声が出なかったり、楽器もなかなか弾けない時とかがあったり、……そういう悔しいことも、うれしいことも、うちらだったんだよ。壁とかじゃなくて」 「タイヤだけって感じ?」 明るい顔で、背の低い少女が訊いた。髪の短い少女は笑いながら「そうそう」と答え、髪の真っ直ぐな少女も「何を運んでるんだ」と笑いながらつっこむ。 「ほんとだね。久しぶりに踊った時は、腰がめちゃくちゃ痛かったあ」 背の高い少女が急に話に乗ってきて、そののびのびとした喋り方に、残りの三人が声を立てて笑った。 「でも、……」 風が吹いてうまく聞こえない。三人は、今話している一人の方を、いつくしむような表情で見つめている。いくつかの会話が重ねられ、風のあい間に「うんうん」とか「そうだよね」とかの同意の声、さらには「いやいや、それは違うよー」などの異議の声が時々聞こえた。そして四人で、また前を向く。姿勢はやはりバラバラだった。表情はみな穏やかで、しかし、その底に流れつづける厳しい決意が、水音のように鳴っている。背の低い少女が、残っている鉄柵の断面を指でなぞろうとして、やめた。 僕の部屋には誰もいなかった。CDケースは口を開けたまま散らばっていて、かつてはその中にあった銀色の円皿が、今はどこにもみつからない。窓から風が時折吹き込んでくる。そしてそのままどこかに消えてしまう。膨らんだカーテンはたちまち元の位置に戻り、しかし、かすかに揺れつづけている。 「題名だけのスレ3」に、自分で書き込んだタイトルより。 全3~4回を予定しています。ちなみに、同じタイトルで 最果タヒさんが書いて下さった詩は、http://www.eonet.ne.jp/~luara/writting/006/0001.htmlにあります。必見。 |
2005年2月12日土曜日
小説 「空走距離」 (1)
地吹雪が過ぎていった。身の丈を越える雪だけが見える、真夜中の森を震わせて。 地吹雪が過ぎていった。粉のように小さく、凍った雲のようにきらめいている雪。蹴立てられて逆巻き、逆巻きながら夜空を埋め尽くして進み、地鳴りとともに木々を飲み込んでいく。夜が轟音を立ててけたたましく揺れる。そしていつしか静かになっている。 二〇〇五年の四月だった。僕の部屋の窓は開いていた。そこから時折風が吹き込んできて、開けたままのカーテンを膨らませた。風はそのままどこかに消えてしまう。カーテンはたちまち元の位置に戻り、しかし、かすかに揺れつづけている。 覆いを取り払ったコタツの上には、原稿用紙だけが乗っている。文字は何も書かれていないし、僕がそこに何を書こうとしていたか、今となっては曖昧で思い出せない。また風が吹き込んできて、消える。カーテンは目に見えない呼吸を繰り返していて、それに合わせて領域を伸び縮みさせている春の陽が、まるで打ち寄せつづける遠い波みたいだ。その波打ち際、光と影とが絶え間なく行き交い奪い合っているあたりで、十何枚ものCDケースが散らばっている。どのケースも口が開いていて、その中には、たった一枚のCDも見つけられない。 僕が三年間暮らしたその学生マンションは、住宅地の真ん中、やや小高くなった所にあり、周囲を緑の木々に囲まれていた。五階建てで、僕の部屋はその四階にあった。 僕の部屋には誰もいなかった。窓が開いていて、風が時折吹き込んできてはカーテンを膨らませた。そしてそのままどこかに消えてしまう。 僕の部屋には誰もいなかった。大学三回生の春、すでにして僕は行方知れずになっていた。僕もいない僕の部屋を、いなくなった僕が眺めていて、窓は開けられたままで風が時折吹き込んでくる。そしてそのままどこかに消えてしまう。膨らんだカーテンはたちまち元の位置に戻り、しかし、かすかに揺れつづけている。 どこかから降ってくる話し声が、四階のベランダにさっきからずっと聞こえつづけている。 この学生マンションの屋上からは、いくじなく密集している東京の民家を眼下に見渡すことができた。上空から見ると、正方形に近い長方形に見えるだろうその屋上は、四方をベージュ色の鉄柵に囲まれていたのだが、そのうち片側の長辺の真ん中あたりに、鉄柵が大きく欠けている部分があった。それは、穴が開くとか破れるとか、そういうレベルの欠け方ではなく、その部分が文字通り欠落してしまったかのような無くなり方で、そこに鉄柵があったこと自体、左右に残る柵の断面がわずかに歪んでいることからようやく推測できるくらいだった。 その欠落部分の前に、いつからか四人の少女が立っていて、家並を眺めながら言葉を交わしていた。四人とも私服で、背格好から高校生か大学一回生のように見える。時々声を立てて笑ったり、大げさにふざけ合ったりすることはあっても、四人は基本的に落ち着いた雰囲気で会話していて、彼女たちの浮かべる穏やかな表情には、何か、その底で流れつづけるゆるぎない強さが感じられた。 音もなく飽和した春の陽の中で。家々の低い屋根が空しく午後を囁き合っている。欠落部分から腕を差し出して、背の低い少女がその一帯を指し示した。中空をゆっくり左右に動いていく腕。細い人差し指。高くハキハキした声で何かを喋っているが、その内容はほとんど聞こえてこない。 「……夢のカケラ」 風のあい間にその一言だけが聞き取れて、ちょうどその時、周りの三人が小さくほほ笑んだ。言った本人も「はは」と声を立てて笑ったが、彼女の笑顔が一番さびしそうな色を湛えている。少女たちの肌は白い。しかし、四人ともまったく違う顔立ちをしていて、互いに別人だった。 「題名だけのスレ3」に、自分で書き込んだタイトルより。 全3~4回を予定しています。ちなみに、同じタイトルで 最果タヒさんが書いて下さった詩はhttp://www.eonet.ne.jp/~luara/writting/006/0001.htmlにあります。必見。 |
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