白い部屋の中で、目を覚ました。時計を見ると十二時を過ぎていて、僕はこの休日もまた寝て過ごしてしまったことを、後悔するともなく後悔した。だらしなく乱れたベッドの上から、パジャマを履いた両脚を下ろす。この冬、毎日履きつづけてきたこげ茶色のスリッパは、ファーの部分がぺしゃんこになってテカっていた。昨晩脱ぎ捨てたままの状態で散らばっているのを足先で引き寄せてきて、履きながら立ち上がる。振り返ると、半開きになったカーテンの向こうで陽の光が午後の色になっていた。向かいの家の洗濯物がいくつも(白いシャツや下着、靴下、それにチェック柄の冬物のシャツ、)風を受けてはためいていた。 ドアを開けて部屋から出る。灯りがついていなくても、どこからか差し込む光で廊下は明るかった。その中を僕は一階の方へ降りていった。ボアつきのベンチコートを羽織っていないことに気がついたのは、たぶん、その途中だったと思う。少し寒かったけれど、コートを着忘れても大丈夫なだけ、やはりあたたかくなってきたのだろう。一階にも誰もいなかった。リビングルームでは、テーブルの上にガラスのコップが一つ置いたままになっていて、テレビの電源がリモコンで消しただけの状態で点いていた。 父さんはまだ寝ているのだろうか。それとも、もうどこかに出かけた後なのだろうか。僕はテレビの電源を消すと、木でできた椅子に腰を下ろした。するべきことは何もなかった。椅子に座ったまま、天井を見上げた。土だか鳥の糞だかで、明かり取りの天窓が薄く汚れている。そろそろ掃除しなきゃあな、と僕は思った。けれど、誰が掃除をすると言うのだろう。父さんはいてもいなくてもわからなくて、午後のリビングルームは仄暗く、しずかだった。 くもりガラスになった窓の外が明るかった。そのことに気づいた僕は椅子から立ち上がり、窓の所まで歩いていって、黒塗りのアルミに縁取られた窓を開けた(スルスルと、頼りない音がした)。網戸越しに見える裏の畑は、葉の大きな作物が光を受けてまぶしかった。畑の向こうは雑草が生えるままになった堤防で、その上に、深くも浅くもない青空がたなびいている。ここからどこに行けるのだろうか。窓際に力なく立ったままで、僕はそのようなことを考えていた。何もないここから、僕は一体、どこに行けると言うのだろうか。とりあえず、玄関先に置いたプランターの中で冬眠させたままになっているカメは、そろそろ起こしてやるべきなのかもしれない。その後は、……何をしよう。僕は二階の方を見上げてみた。二階からも物音は聞こえてこなかった。ドアがずっと閉め切られたままの部屋の中で、父さんは今、起きているのだろうか。それとも、もう出かけた後なのだろうか。五年前に買ってからずっと使いつづけている冷蔵庫が、遠慮の少なくなってきた声でうめき始めた。テレビの上には、うっすらと埃が積もっていた。この家に母はいない。ただそのことだけが、確かだった。 「誰も振り返らないね」 残念がるわけでもなく、かと言って楽しんでいるわけでもない口調で、みどりは言った。僕はどう答えたらいいかわからず、小さく「うん」とうなづいた。 「でも、まあ、……何て言うか、ここってそういう所だから」 「ああ、なるほど。たしかにそうかもしれないね」 みどりは僕の横を歩いている。僕とみどりは並んで歩いている。夜の街はビルの灯りや街灯や車のライトなどに照らされてひっきりなしに明るく、すれ違っては通り過ぎていく無数の人々の顔が一つ一つ見えるくらいだった。けれど、その顔たちはどこか、人工的な光の上澄みにとりあえず漂っているだけのようにも感じられた。覗き込むことも、覚えておくこともできない。そんな中で、僕の横を歩くみどりの小さな身体だけが僕には心強くて、恐ろしかった。ギターケースを背負っていないみどりはいつも以上に小さく見えた。けれど、黒いTシャツを着たその背中は、石狩で見た時よりもずっとしなやかに伸びていた。僕は、前の日の夕方に見たインストアライブの感想を、どんな言葉で伝えたらいいかわからないまま、みどりと並んで歩いている。みどりも黙っていた。黙って歩きながら、道沿いに並ぶビルや店舗の灯りを一つ一つ目で追っていた。 「昨日は楽しかったね。みんな、楽しそうな顔をしていた。ありがとう」 不意にみどりがそう言って、僕は、何だかいたたまれない思いがした。他の観客と同じように、僕も楽しそうな顔をしていたんだろう、それは間違いない。実際、昨日のライブは本当に楽しかったのだ。そこで、僕はみどりを見た。みどりとそのバンドの音楽を通して、たしかに何かを見せてもらった。ありがとう。その言葉を言わなければならないのは僕の方だったのに、それをみどりが言ってしまった。 「こちらこそ、本当に楽しかった」 そこまで言って、後がつづかない。街の灯りに照らされて、何人もの人々が僕らとすれ違っていく。誰も振り返らないまま、通り過ぎていった。 「そう言えば、失踪――、どうなったの?」 僕が言うと、みどりは少し意外そうな顔をした。しばらくこちらを見つめて、それから(ようやく思い出したのだろうか)、笑った。 「ああ、あれね。……どう言えばいいのかな、わたしもいつの間にかね、自分の場所を見つけたのさぁ。どこにいても大丈夫って言うか、それがあるからこそどこにでも行ける、って言うか……」 みどりは歩きながら目を伏せた。その横顔がとてもうれしそうだった。その横顔を見つめながら、僕はこの人と自分とが別の景色の中を歩んでいるんだと、今さらのように思い知らされた。 そして、みどりが目を上げた。 「だってほら、ね? 昨日見たっしょ」 そこでまた笑う。 「また来てよ、孝司くん。わたしたちの場所に。絶対。そこでまた、みんなと一緒に会いたいのさ」 ――ありがとう。 その言葉は、やっぱり言葉にならなかった。僕は手を差し出した。その手を、みどりの手が、握った。みどりの手のひらは小さく、少し冷たかった。けれど、この手のひらと指とから、あの音楽たちは生まれたのだ。この手につながる身体から、あの音楽たちは鳴り響き、今でも鳴り響いている、海鳴りのように、巡りつづけ流れつづける川のように、この命(みどりの命、僕の命、そして誰のものでもない二人の命)が終わるまで、そこでいつまでも脈打ちつづけている。 やわらかな手のひらだった。やわらかで、底知れないほどに深かった。 「もう、起きたんだね」 僕の顔を覗きこみながら、みどりが訊いた。顎までするっと落ちていく、すっきりした両頬の線。思いつくとおりに切り散らかしたような、雑草みたいな短い金髪。深みのある光沢をさらに深く沈めているために、どことなく緑色がかって見える黒くて細い眉。目も細く、白目がちだけどどこかやさしくて、笑うとその目がもっと細くなる。僕はそれを知っていた。そして、みどりは今ここにはいない。僕はそのことも、知っている。 「うん。起きた。……ありがとう」 白い部屋の中で、僕は目を覚ました。窓の向こうはまだ夜が明け切っていなくて、空は淡く青紫色に透き通っている。僕は布団から起き上がると、自分の形に馴染んでいるその布団を、たたんだ。ユニットバスに行き、歯を磨いて顔を洗う。洗顔用石鹸を洗い流して顔を上げると、鏡に他でもない僕の顔が映っていた。髪を梳かし、顔を拭きながら部屋の中に戻る。ワイシャツを着込んでネクタイを締めた。早朝の空気は、部屋の中にいてもまだ肌寒く感じられたけれど、そうは言ってもコートが必要なほどではない。スーツを着込み終えてから、僕はヘッドフォンをかけた。これまで何回も聴いてきたCDをまた、再生する。それが終わるとヘッドフォンを外して、僕は出入り口の方に歩いていった。 「生きていますよー(笑)。おかげさまで(ほんとにおかげさまですね・笑)色々と親孝行もできて、心からうれしく思ってます。やっぱり、お母さんには何だかんだで心配もいっぱいかけてるからね。その分、これまでの恩返しとかできるのが本当にうれしい。そして、何より、今のわたしたちのことを楽しみにしてくれてるっていうのが、本当に本当にうれしい」 先日届いたばかりのみどりからのメールを、僕は扉の前で読み返していた。メジャーで二枚目のアルバムを出した後も、みどりは時々メールを送ってくれている。けれど、中島の消息については、ずっと聞けないままだった。「働かなければ、生きていけないだろう?」かつて彼が言ったあの言葉に対して(それに背中から支えられながら)、今では自分なりの答えを見せられているような気がする。僕も、みどりも。それぞれのあり方で、僕らは生きていた。 僕はケータイを閉じると、重い鉄の扉を開けて外に出た。今日の講義に、学生たちはどんな顔をしてやって来るのだろう。新入生たちは一体どんな顔をして、講師になりたての僕が綴る言葉を、聞くのだろう。外の空気は一層澄み切っていて寒かった。振り返ると、今は閉まった扉の向こうで、みどりのギターが鳴りつづいているような気がした。白い部屋は白い部屋のまま――家が一つの楽器のようだった。 (終) |
2006年3月22日水曜日
小説 「みどり」 (9)
2006年3月19日日曜日
小説 「みどり」 (8)
言葉は何も聞こえなかった。見渡しても、見回しても、空は鈍色で平らだった。風の生む音の高い沈黙が、その空を一面に満たしている。あとはただ、雪が見えるばかりだった。雪の中からは、ところどころで葦のような枯れ草が顔を覗かせていた。僕の右手のずっと遠くの方に、建て直しの途中で忘れられてしまったような大きな家が一軒(旅客用のログハウスか何かだろうか)、置き去りにされている。その家を横目に見ながら、僕は歩いていた。道らしきものはなく、既になくなっていて、たぶん植物の見えない辺りがそうなんだろうけれど、そうだと思って足を踏み出してもその度に膝まで雪の下に埋まってしまう。僕は歩いていた。どこまでもなだらかにつづく雪の中を、とりあえず、あの壊されかけたままの家の方へ。けれど、本当に辿り着くのだろうか。辿り着いたとしてもその後のことはわからないし、雪と空しかないここでは、それらのことはどうしたって考えられるはずもなかった。 昨日見たライブの光景がよぎる。真っ暗なライブハウス、顔の見えないたくさんの聴衆とそれを抱え込んだ箱型の空間、熱気、頭上で叩き合わされる無数の手のひら、あるいはじっと聴き入っている呼吸の川肌のようなさざめき、青を基調とした照明の中でステージは浮かび上がり、フットライトに明々と照らし出されたみどりは椅子に座って身体を前後にゆすりながら弾いて、弾いて、弾いて、子どもみたいな笑顔でギターを弾きつづけている。ステージの中央ではヴォーカルの女性が立っていて、マイクだけを持った身体を屈めたり、手を前に伸ばしたり、楽しそうに飛び跳ねたりしている。その歌声はのびやかな脈を打ちながらどこまでも姿を変えていき、そこからまた塞がれて巡る川のように大きく戻ってくるけれど、そこでどんな言葉が綴られていたのか、僕には思い出すことができなかった。引き裂いていくような風が吹きつづけていた。音の無いうなり声ばかりが僕の耳元を埋め尽くしていて、言葉は何も聞こえなかった。ステージ右手では、もう一人の女性が二人の方を時々笑顔で見遣りながら、ピアノに指を吸い込ませている。リズミカルでやわらかで、濡れながらきらめくような音がたしかに鳴っている。けれど、その音もやはり思い出すことはできなかった。重苦しく平面的につづいている空と、宛てもない雪原だけが見えていた。ズボンの膝下は真っ白で、ジャケットもその表面が薄く凍りついていた。昨日の音楽も昨日の熱気も、ライブハウスのあの暗さでさえ、ここからは切り離されてただ、遠くにあった。 海から離れていくにつれて、雪はいつしか深くなくなってきたようだ。どこにも道は見えなかったけれど、植物と植物との間は拓かれたように広くなっていた。先ほどまで足を苦しめていたいびつで荒々しい傾斜も、ここからずっと、平坦に延べられている。足が雪に取られてバランスを崩すこともずいぶん少なくなった。大きな家は、さっきよりも少し近く、大きくなっていた。隙間の目立つ壁を覆うようにかけられた、緑色の網が見えていた。 均されたような一面の雪の中で、目は自然と(なんとなく)道を見つけ出していく。ゆるやかなカーブを描いて家の脇を通り過ぎ、そのままずっと先まで進みつづける、まだつけられてもいない自分の(誰かの)足跡が見えた。それが本当に道である保証は誰もしてくれなかったけれど、僕は自分が見た足跡に沿って歩いた。歩くばかりだった。風と雪とが、僕の顔や上着を強弱をつけて打ちつけつづけている。 やがて、家の前に着いた。僕は立ち止まり、今は使われていないその建物を見上げていた。窓ガラスの向こうは暗く、古ぼけた色をした壁板の何枚かは剥がれ落ちていた。屋根は多角錐(たぶん、十二角錐)の形をしていて、その上には厚く雪が積もっている。緑色の網は壁を覆うようにかけられていたけれど、壁の一部やドアなどはそのまま僕の目に(そして、外の白い光に)晒されていた。役目を果たしているのか果たしていないのかもわからない状態で、その網は風にもあおられずに垂れ下がっていた。 僕はまた歩き出した。家の右手には、間隔を空けて真っ直ぐに列ぶ杭が見えていて、それがたぶん、道だった。けれど、杭はわずかに五、六本あるだけで、そこから先は雪の下に埋もれている。僕は、杭がなくなっている辺りから左に進むことにした。左に曲がって一歩踏み出した瞬間、また足が膝まで埋まってしまう。けれど、ここまで歩いてきたのだ。もう、雪の深さを恐れることもなかった。 ずっと向こうに、赤と白に塗り分けられた小さな灯台が見えた。とりあえず、今度はあそこまで歩いてみよう、と僕は思った。中島の立ち姿、「働かなければ、生きていけないだろう?」という言葉、そしてギターを弾くみどりの笑顔がどこかに浮かんで、浮かんでは風に千切れていく。足がももの辺りまで埋まってしまい、次は死ぬかもしれない、という思いがごく身近なものとして感じられた。言葉は何も聞こえなかった。みどりの母親が、プリントやらノートやらがいっぱいに入ったカゴを片腕から提げて、立っている。ピンクと言うよりは淡い橙色と言った方がいいような色をした、あったかそうなベッドに腰かけて、部屋のドアを開け放したままでみどりが音楽を聴いている。身体を小さく揺らしている。「おい、みどり!」彼らは生きてきたのだ。この寒さの中で彼らは強く(そして弱く)生きてきて、――今も生きつづけていて、――ここでただつづけられていく彼らの暮らしとともに、労働も、音楽も、身体も生まれた。ここで何度でも生まれつづけている。「大学のサークルでもバンドはやってたんだけどね、もっと、……もっと、ね」 僕は歩いていた。耳に貼りついた風の轟きと一緒になって、自分の呼吸がいつからかずっと聞こえていた。灯台の向こうに何があるのか、僕は知らなかった。帰ることができないかもしれない、いや、帰ることなどできるはずもないその一本道を歩きながら、僕は、あの家のあたたかさのことを思い出していた。テーブルの向こうから身を乗り出して、みどりは深い瞳で覗き込む。中島はまだ帰ってきそうになかった。壁にかけられた時計は、もう三時に届きそうだった。ペチカが焚かれたダイニングキッチンで、みどりの淹れてくれたコーヒーがしずかに湯気を立てていた。 |
2006年3月17日金曜日
2006年3月7日火曜日
異稿と作品 3×2篇
ふりかえることもせず ふりかえることもせず また あなたの素肌に出会えた 正午 繰り返さない朝を積もらせ 僕は目覚めつづけていたのだ それまで 二人の約束は一瞬の川だった 赤紫色の星空の坩堝の 底の底で それは音もなく流れつづけた 互いに放さなかった両端を 僕がいま ふと思い返すとき あなたの素肌は透き通っていて ここにはいないから 二人の石ころのような瞳で また 約束を交わそうと思う ほんとの名前で 二人して こんどは未開の原野のように濡れよう 信じることは ふりかえることもせず また あなたの素肌に出会えた 正午 繰り返さない朝を積もらせ 僕は目覚めつづけていたのだ それまで 小石のような瞳を濡らした 約束とも呼べない 一瞬の川 その端を放さなかった掌が 砂を払って彼岸はここにある 信じることは 流れつづけるせせらぎの透明さだと知り 僕は 深く眠るだろう 目覚めたら あなたはいないから だからこそまた会える 残酷なくらいに そう 信じている (大好きな町、町田を言葉にしようとする。そのための速記) 親子であるか、 援交であるか、 行き先を決めてしまわないと、 降りることさえできない、 巨大な歩道橋。 JR町田駅東出口直通の、 空中交差点を、 午後もまた、たくさんの人々が、 すれ違っていく。 楽しそうに。 この、一階のない二階では、 なつかしい友人をみつけて、 ふと立ち止まることも、 自由 だが、 夜を越えて宿泊することは、 できないらしい。 今日もホテルを探して歩く。 親子であるか、 援交であるか、 旅先ですれ違う女性はみな、 はかない。 旅先ですれ違うやさしさはみな、 はかない。 呼びとめたいけれど、 それも出来ぬまま、 くずれてゆく。黒いスカートの半透明の裾のように。 たえまなく散る陽の光だけを、 見つめつづけている。 町田 行き先を決めてしまわないと、 降りることさえできない、 巨大な歩道橋。 JR町田駅東出口直通の、 空中交差点を、 午後もまた、たくさんの人々が、 すれ違っていく。 楽しそうに。 遠くまで伸びる視界。 道は百貨店にもつながり、 小田急の駅にもつながっている。 高く、なめらかに整列したビル群と、 均しく瞬かれている、 空。 その手前、歩道橋上で立ち止まり、 ひととき談笑する若者たちの上、 あるいは彼らの横を、 白く通りすぎる娘と母の上に、 穏やかな温度が、 崩れ落ちてきて、降る。 町田。 通り過ぎていく人々の、 うつくしい歩行を誰も呼び止められない。 町田。 まつわりつくはかなさを、 スカートの裾が淡々と払う。 卵のように寡黙なひかり、 町田。 なじまない眼差しが、 影よりも伸びる。 宇多田ヒカルが聞こえている。 町田。 はかなさを払いつづけてはかない。 日の名残さえも冷めていき、 カン。 カン。 カン。 と、 それぞれの水平線のむこう、 暮れる。 誰のものでもない日没 町田。 あてもなく巡るうちに夜は来て、 一枚の地図を覗き込む、 少女と中年男性の姿を見た。 17歳の夏 脱ぎ捨てた空 懐かしい傷さえ残さずに 肌はさらにやわらかく おどる まわっている風が 幾重にも剥がれていく そのあい間に宿された ひと夏 青にゆられていた 昼寝から醒めて全力でダッシュした 砂浜は 焼けた骨よりもまぶしくて 刻まれた名前さえ見えない わたしたちはみな真っさらだ 白い痛みの中で赤ん坊のように笑う 生まれたままの、17歳の夏だ 新生 脱ぎ捨てた空 懐かしい傷さえ残さずに 肌はさらにやわらかく おどる まわっている風が 幾重にも剥がれていく そのあい間に宿された ひと夏 わたしたちは笑っている 青くゆれているハンモックから 起き上がってダッシュする 海辺の砂の上 焼けた骨よりもまぶしい 真っさらな白い板を抱く 刻まれた名前は見えない 亡くした人さえいなくなるひと夏 本来、「信じることは」「町田」はそれぞれ縦書きなのですが、「新生」に合わせて横書きにしました。 |
2006年3月5日日曜日
小説 「みどり」 (7)
家が一つの楽器のようだった。すでに夜の暗さへと傾ききった夕空は、一面に透き通り、いつまでも留まっている。その空を埋めることもしないまま、さっきからの粉雪が果てもなく降りつづいていた。家が建っている。それは頑丈そうな造りをした二階建ての一軒家で、近くから見ると(いや、遠くから見ていた時でさえ)、まるで空と雪の中に聳え立つようだった。屋根や窓枠には雪が分厚く積もっていた。窓から漏れる光は黄色がかっていてあたたかだった。その家が震えていた。音楽を内に篭もらせながら共鳴し、家はしずかに震えていた。 家はまだ見えてこない。久しぶりに会う中島の顔はしずかな落ち着きを蓄えていて、体つきも一回り、がっしりしたように見えた。中島は僕の隣を歩いていた。学生時代と変わらない熱い口調で話しつづけているけれど、その声にはどこか、自信にも似たあきらめが影を落としている。僕は、僕らが過ごしてきた一年の遠さを思った。夕闇は暗くも深くもなくて、それだけに一層、すぐ近くを歩く中島の身体が底知れないものに感じられた。中島の両手は、モスグリーンの上着のポケットに固く突っ込まれている。バスから降りた僕を抱きとめようと、中島が腕を大きく広げた時(学生時代、彼はそんなことをしなかった)、その先に見えた両手は傷だらけで傷口まで黒く薄汚れていた。僕は、自分が何を見たのか、何を見て何を覚えておけばいいのかもわからないまま、中島と並んで粉雪の中を歩いている。 「あいつらが何て言うかわからないけどさ、工場もすごいところだよ。労働者にも労働者としての必死の生き様があるんだし」 僕の学部から工場に就職したのは、中島だけだった。就職が決まってから大学卒業までの間、同期はよくそのことを話の種にして笑っていた。時には中島自身にその話を振る者もいて、そんな時いつも、中島は頑固に言い張るのだった。人の生き方はめずらしい見世物なんかではなくてただその人の人生であり、それ以外の何ものでもない、と。 「たとえば俺の機械の機長さんなんてさ、いつも物静かで知識も豊かな人なんだよ。どんなに機械がトラブっても慌てず、いろいろ考えて解決策を見出してくれて。そういう人の指が一本、なかったりする。普通に。働き始めて三ヶ月くらいの頃に、スリッターで落としたんだって。それでも働きつづけて、何十年と働きつづけて、物静かに笑ってたりするんだよ。まあ、怒る時は怒る時で、あの人に怒られるのがマジで一番怖いんだけど」 両手をポケットに突っ込んだまま、親しみと尊敬のこもった口調で中島は話しつづけた。苦笑いにも似た、それでいて堪えようもない喜びにも似た笑顔を、時々浮かべながら。そして、ふと思い出したように付け加える。 「それにあれだ。働かなければ、生きていけないだろう?」 ベッドの上で、僕の隣にみどりはいなかった。階下の方から、冷蔵庫を開ける音が聞こえる。グラスの音が冷たく鳴って、消えた。見えないみどりに向かって伸ばそうと思った手は、いつまでも、伸ばそうと思った時のまま、僕の横にだらしなく横たわっている。 みどりのアコースティックバンドが全国デビューする、という話を、僕は一人で思い返した。さっきまで見ていたみどりの肩は円く、二の腕はまぶしかった。裸になったおなかが引き締まっていて、どこか寒そうにも思われた。バンドは今年の春先、海を越えて東京へ行き、その後名古屋や大阪でもライブをするらしい。隆起した筋肉が二つの山を描きながら、みどりの背中を真っ直ぐ降りている。乳房は大きくもなく派手でもなくて、けれど、そのなだらかさの中に他に代えることのできない光を抱いていた。確かに色づいた乳首が二つ、部屋の空気の中で小さく孤立していた。 インストアライブとその後のCD即売会(兼サイン会・握手会)。内地での活動の予定は、まだそれがほとんどだと言う。けれど、東京では、ライブハウスで対バンなどもするらしい。握手会という言葉に引っ張られたのだろうか、僕はベッドの上で、みどりの手のひらのことを思い出そうとしていた。何度でも。いくら試みてみてもそれだけは無理で、やがてドアが開き、みどりが戻ってきた。 僕の眠っているベッドの端に、みどりは腰かけた。僕に背中を向けたままで、ため息をひとつ、大きくつく。みどりは(そして僕は)何を考えているのだろう。自分が目覚めているのかどうかもわからず、僕はただ、耳を澄まして、そこにいる一人の人間のことを感じ取ろうとしていた。それだけの部屋だった。手は伸ばせないし、たとえ今伸ばしたとしても、たぶん届かない。 家が一つの楽器のようだった。オレンジ色した電球の光に照らされて、僕とみどりは階段を降りていた。前を歩くみどりの後ろ姿が、曲がった階段の向こうに見えなくなりそうになりながら、つづいていく。音楽はもう止んでいた。けれど、みどりの部屋で聞いたいくつもの曲が、僕の中で見えない渦を巻いていて、僕はふらつきそうになる視線をしっかりとみどりに据えながら、丸木の手すりに手を添えて後をついていく。階段を降りていく。 降りきった所には壁があって、正面右手に扉が付けられていた。先に降りたみどりがその扉を開ける。すると、さっきまで二人でいたダイニングキッチンが、開いた扉の向こうにつながっていた。みどりはその中に入っていった。僕もみどりにつづいて入ろうとして、ふと、自分の左側に目が行った。短い廊下の突き当たりにトイレを区切っているらしい木の扉があり、その手前で、見慣れたスリッパが前向きに揃えて置かれてあった。 ダイニングキッチンに入ると、僕はテーブルを挟んでみどりの向かいに腰かけた。 「何か、飲む?」 先に座っていたみどりが声をかけてくるけれど、僕は笑って首を横に振る。 「ううん。別に喉、渇いてないから。ありがとう」 「いいえいいえ。私もほんとは、そんなに飲みたくないんだ。何も」 みどりはそう言って、時計の方を見る。壁にかけられた時計は、既に六時を回っていた。 「兄さん、遅いね」 「ほんとだ。いつもこんなに遅いの?」 「うん。時々、すごく遅くなる。そう言えば、最近はそういう時の方が多いなあ」 「仕事、大変なんだろうね」 みどりは時計の方を見たまま、曖昧に「うん」とだけ答えた。それから、急に僕の方に向き直る。 「孝司くん、帰りのバスとか、大丈夫?」 不意をつかれて、僕は驚いた。たしかに、僕はここから帰らなければならないのだ。そして、一時間に一本しか走らないバスは(たぶん)夜の早い時刻になくなってしまう。 「そうだね。そろそろ帰らないと」 僕がそう言うか言わないかのうちに、玄関の引き戸が開く音がした。 「ただいまー!」 疲れを感じさせる声で(けれど大きな声で)、誰かが叫ぶ。廊下を渡る足音が聞こえ、それが近づいてきてすぐ扉が開き、そこからこちらを覗き込んだのは年配の女性だった。 「あれ? お客さん?」 女性はぼわぼわしたタータンチェックの上着を着ていた。プリントやらノートやらがいっぱいに入ったカゴを、片腕から重そうに提げている。 「うん。兄さんの学生時代の友だち。兄さんに会いに来てくれたんだけど、最近兄さん帰りが遅いっしょ。だから二人で話してたのさ」 みどりが早口で説明すると、女性はきょとんとした顔で「ふうん」とうなづいた。その顔のどこにも、化粧っぽさは見えない。頭には白髪が何本も走っている。 「そうなんですか……。ごめんなさいね、待たせてしまって」 「いえいえ。こちらこそ、先に確認してから来ればよかったんですし」 「そうねえ……。まあ、何もない家ですけど、よかったらゆっくりしていって下さいね」 そう言い残して、女性は扉の向こうに引っ込んだ。今は閉じられた扉に向かって、みどりが「お帰りい!」と声を張り上げる。ダイニングキッチンの裏手から(つまり、扉の方を向いた僕らの背中側から)、「ただいまあ!」と声が返ってきた。その後で、みどりはすっと小声になり、「あれが、私たちのお母さん。近くの小学校で教師をしてるんだ」と説明してくれた。僕は笑ってうなづくと、もう一度、時計の方を見る。六時十五分。 「さて。そろそろ帰らないと」 「そうだね。送っていくよ」 僕の立ち上がるのに合わせて、みどりも立ち上がった。僕は遠慮したが、みどりは聞かなかった。 「でも、せっかくお母さんが――」 「大丈夫。あとで説明しておくし」 強い口調で、みどりが言い切る。それから穏やかな表情に戻っていって、 「それに、まだここに慣れてない人を一人で帰らしたら、逆に怒られるよ」 「……そうかあ。じゃあ、よろしく」 僕が折れると、みどりは笑顔になった。「ちょっと待ってて」と言ってダイニングキッチンを飛び出し、階段を小走りで駆け上がっていって(トントントン、とリズムよく二階へと昇っていく足音が聞こえた)、すぐにまた駆け下りてきて開けたままの扉をくぐり、僕の前に立った。頬は上気していて、口元はうれしそうに緩み、黒くてフードにファーのついたハーフコートを小脇に抱えている。 「じゃあ、行こうか」 玄関で靴を履き、二枚の引き戸をくぐって、外に出た。外は夜だった。降ったばかりではねられてもいない雪が、なだらかな曲線を描きながらぼうっと浮かび上がり、夜の闇の中へ果てもなく広がっていた。数歩歩いて、僕は振り返る。家が建っていた。今はもう音楽は鳴っていなくて、けれど、窓から見える灯りはますますあたたかそうだった。扉も窓も閉じきったまま、聳え立つように家が建っている。その内側で、(たとえ耳には聞こえなくても)音楽は今も鳴り響いているような気がする。一軒の家の形をとって。底のない夜に立ち尽くしながら。震えている。家が一つの楽器のようだった。 「どうしたの?」 「ううん。……何でもない」 僕とみどりは、また歩き始めた。道は積もった雪のおかげで仄かに見えていて、いやに広い道幅を浮かび上がらせながらつづいていた。ところどころを街灯が照らしている。けれど、夜の寒さの中で熱も光も失って、自分の足元だけを照らす灯りの帯はただ薄く赤紫色に透き通るばかりだった。 |
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