2004年12月20日月曜日

エッセイ 「生と死と詩と小説と」 (終盤)


 僕の詩は簡単な感情移入を拒絶する。ある時期までは、僕だって自由に歌っていたし、実際メモ帳などに残る断片・素材を見ると、恐ろしく感情的なもの、メロディーに満ちたなものもある。けれど、そういう詩をいつからか僕は自分の詩として認めなくなっていた。情感に満ちた詩集『一行目から書き始める、』と、「どうにも入りにくい」とか「抽象的」とか言われる詩集『寄せる波、世界へ、』とを分けるものが、その断絶だ。そして思い出す。この二つの詩集を分けることになったもの、それは桃井望の死(参考URL:http://awono-katei.blogspot.com/2004/11/blog-post.html)であったのだと。その時のノートに書いてある。「死者の言葉で語れ」と。
 それ以降、僕の詩は明らかに異常をきたし始めた。だから僕の詩は、それがいいものであればあるほど、うかつに好きだと言うことができない。自分で書いたものとして愛してはいるのだが、けれど、自分でも好きだと言えない何かがある。

 小詩集『無煙の海』(参考URL:http://awono-katei.blogspot.com/2004/11/blog-post_5791.html)は、死者の側から、無煙ヶ浜まで近づこうとした作品であったと今は思う。書いている当時は、そんなことはあんまり考えていなかったのだが、「遅れる。」に対してワタナベさんから「無機質な死の情景」というコメントをいただいたときに、僕は今僕を書かせているものの恐ろしさを知った。結局それは入院へと僕を誘ったし、「ZONEの「太陽のKiss」へのオマージュ」あたりからやばいことになってきているのには気づいていたので、『無煙の海』はタイトルまで決まっていながら、まとめなかった。
 けれど、「新生」完成後5ヶ月ほど経ってから、不意に何かにせかされるようにして僕はそれをまとめ、ここに発表した。高校時代からの友人の父親が、ちょうどそのころに若くして亡くなったらしいことは、あとで知らされた。どうやら、悪魔祓いは上手くいかなかったようだ。

 けれど、不思議なことだ。僕はまだ、無煙浜に魅せられ続けている。このあいだ小説でそこにたどり着こうとした時は、どうしても先に進めなくなってしまったけれど、また、挑戦するのかもしれない。なぜ? たぶん、そこに去来する死の闇の深さ、そこに現れる生のまぶしさを、見極めてみたいからだろう。死の側から交霊的な詩の作業を通してたどり着いた「無煙の海」へと、僕は今度は生きている側から、水平的なこの足の歩みで以て、すなわち小説で以て、たどり着いてみたいのだ。生み直しながら、生きていくために。生まれ直しながら、生きていくために。今度こそ。また、

   (余談)

 「新生」において書いた「亡くした人さえいなくなるひと夏」という景色を、僕は2004年のZONEの夏ツアーを通して見せていただいた。それには、新メンバーとして加入したTOMOKAさんの破壊的な成長があったことが大きい(むろん、ほかのメンバーもすばらしい成長を見せたし、彼女たちが新メンバーにいい働きを与えたことも、TOMOKAさんの成長に、そしてグループとしてのZONEの成長にも当然寄与したであろう。とにかく、彼女たちは2003年とはまったく違う光を放つ、ものすごいステージを見せてくれた)。
 祖父の死と前後する形で脱退した元リーダー。そして、ZONEに加わり彼女たちが「新生」するための核にもなったTOMOKAさん。この前、ずっと18日だと思っていた祖父の命日が、9月19日だったと知らされて驚いた。それは、TOMOKAさんの誕生日でもあった。

エッセイ 「生と死と詩と小説と」 (中盤)


 祖父の死から生き直していく詩作の過程は、やがて生きることの不思議さへとつながっていき、「ナマナマしいはら」や「その気」などのバカっぽくもまぶしい詩も経て、「旅に病んで」(参考URL:http://awono-katei.blogspot.com/2003/12/blog-post_11.html)へとつながっていった。もともとはZONEの2003年夏のライブツアーにとっかかりを見つけて書き始めたこの詩は、自分では気がついていなかったのだけれど、如実に死の色を帯びていた。読んでいただいたオフラインの友人は皆「恐ろしい」と言ったし、祖父の死について話を聞いてもらったある人からは、次のようなことも教えてもらった。
 「この、「箱から箱へ」の連が好きなんだよ。「夜の車体」の、ガガガガガ……って音まで聞こえてきそうで。これって、お祖父さんを抱いて乗った車でしょ?」
 この言葉で、僕はこの詩の恐ろしさをはじめて知った。今読んでみても、この詩にはその底部で流れ続ける止まざるもの、その死の闇の深淵と、それに浸されながら駆け巡っていく「美しい」生の足が見えるような気がしている。そしてこの詩はさらに、2003年ライブツアーで僕を一番感動させた当時のZONEのリーダーが、この詩の中に書いてある言葉とほぼ同じ内容の言葉でもってZONE脱退を発表する、ということまでつながっていったのだった(むろん、この一致はただの偶然だろう。しかしもしかしたら、僕はライブツアーを見ながら、その時にはすでに固まっていたという彼女の意思をどこか感じ取ったのかもしれない)。

 当時のリーダーのZONEとしてのラストシングルが、「僕の手紙」。そのプロモーションビデオの撮影された場所が、北海道厚田村の無煙海岸だった。「無煙」……。不思議な名前だ。この名前にはいろいろ謂れがあり、沖合いで石油の湧き出るこの海岸では、石油の臭いはするけど煙はあがらない、ということで「無煙」と呼ばれた、という説もあれば、この近辺で座礁した船から、潮流の関係でこの海岸にたくさんの遺体が打ち上げられた、ということから「無縁海岸」と名づけられ、それがあまりにも不吉であるため「無煙」になった、という説もある。
 石油が、そもそも太古の植物の死体が地中で変質したものということまで考えれば、この海岸はひとつの死のイメージを僕らに思い描かせる。大きな時間を経て、光の元に湧き上がる真っ黒な奔流、あるいは、無名のものとしてある日浜に打ち上げられるいくつもの身体。この「無煙海岸」で撮られたプロモーションビデオでは、秋の儚い光の中で、酸欠状態で見る時みたいにまぶしい白い衣装を着て、メンバーは美しい夢、あるいは亡霊みたいだった。

 僕がある時期以降、映画の下のスクリーンの白を問題にしてきたことは、ここに発表させてもらったいくつもの文章の中に現れている(参考URL:http://awono-katei.blogspot.com/2003/12/blog-post_31.html, http://awono-katei.blogspot.com/2004/11/blog-post_03.html)。僕にとって、祖父のお骨の白さと、あの台の平らさは、その生きることのゼロ地点、闇としての死ではなく光としての生でもない、絶対的な沈黙と空白の地点だった。また、ゼロは「O(オー)」でもあり、それは円環と空白と空虚ゆえの充実と自由な変転(ゼロからオーへ、オーからゼロへ)と拡散とを感じさせるものだった。そして、本の中のページの空白のように、この空き地は言葉と言葉を、輪郭と輪郭を、そして存在と存在を隔てながらつなげているものなのだ(参考URL:http://awono-katei.blogspot.com/2004/08/blog-post_11.html)。
 僕はいつからか、この空白地点に、「無煙浜」へとたどり着こうとしていたのかもしれない。そして、その白さを通して、生きることのまぶしさと貴さ(とうとさ)とをもう一度照らし出してみたかったのかもしれない。しかし、それは言葉の果てる場所、言葉が散り散りになっていく場所、我々の存在が、真っ白な骨になり、砕かれて、砂浜の真っ白な砂の名もない一粒一粒へと帰っていく場所でもあったのだ。だから、それは映画の中からスクリーンの白にぶつかろうとする不可能な試みであり、それゆえ僕は、最終的にそのまぶしさを垣間見ることができたと思えた詩篇「新生」(参考URL:http://awono-katei.blogspot.com/2004/06/blog-post_25.html)のあとで(この詩について、今村知晃さんは「光を全反射する言葉」と言ってくれた)、神経がぼろぼろになって入院する羽目になってしまった。

エッセイ 「生と死と詩と小説と」 (序盤)


 生きることと死を分けて考えることがわたしは嫌いだ。生は、死を抱き合わせにして生きている。誰の身体の中にも内蔵があるように、内臓の奥にどうしても見ることができない闇があるように、われわれは死と抱き合わせであるのだ。それは、海があるから陸があり、宇宙があるから星があるようなもので、そういう自分の背景となる沈黙――あるいは常に語り続けているもの、語り終えることも語り始めることもない何か。それを時間の外の時間といってもいいのだが――があるからこそ、われわれは輪郭をもってそこから浮き上がって「存在」している。浮き上がっているけれども、浸されている。逆に言えば、そうやって島があるからこそ、われわれはそれを取り囲む海の存在を予感するように感じ取れる、ということもできるのだが(だって、光のない闇は、本当にもうなんと言い表すこともできない闇でしかないし(いうまでもなく、言葉はある方向から闇に光を当てるものだ)、見るもののない世界のことを、われわれはどのようにしても思考することができない)。

 僕の祖父が亡くなったのは、2003年9月19日のことだった(ずっと18日だと思っていたが、どうやら覚え違いであったらしい)。僕と祖父とは、高校受験や政治的思想、文学・映画についての考え方など、様々な場面で熾烈な争いを続けてきていて、その関係はかなり悪かったと思う。
 その祖父が亡くなった。ほとんど最後まで意識を失うこともなく、看護師さんや医者の言葉にはどれだけ苦しくても律儀に対応し、自分の病気の原因や解決法を自分なりにいろいろと考えては提言し、そして、自分の乱れた姿を人に見せることを最後まで嫌った。親戚が見舞いに来た時も面会を拒否したし、我々にも極限の苦しさの中で「もうほっといてんか」という言葉を言った。自分のことは自分でしたいと願い、誰にも迷惑をかけまいとし、そのことで結果として周りを遠ざけながら亡くなっていった。けれど、その奥で、故郷や家族を慕う気持ち、愛情や責任感をどうしようもなく滲ませていたし、何より、最後の最後まで彼は踏ん張ろうとした。
 それは、僕の知っている祖父の姿が、極限まで突き詰められた姿だった。学校を出ていない身分から、厳しすぎるまでの己の頑張りだけで異例の昇格を果たし、わが一家を作り上げてきた。彼とさほど仲がよくなかったと思われた祖母であっても、僕が祖父を冒涜する時には激しく怒った。祖父の苦労と頑張りを知っていたから。僕は、正直言ってそのあたりのことを知らなかった。知ってはいても、身をもって理解してはいなかった。
 けれど、その一生を、死の床のお世話をさせていただいて、僕は祖父から見せてもらったように思う。見せてもらったというよりも、身をもって理解させていただいた。「人は、その死において最大の教育を施す」。僕は、祖父の生きることを、自分の身にまるごといただいたような気がしていた。

 祖父が亡くなる前後のことを、僕は詩に書いた。それは、単に自分の悲しみを克服するためとかではなく、まして悲しいから言葉があふれて、とかいういわゆる自己表現でもなくて、祖父から見せていただいた彼の一生を、自分の中で一度砕き、自分の土壌にしていくための作業であった。
 死の間際に彼がつぶやいた言葉をもとにした「あおに、帰る」。祖父の臨終の瞬間まで続いた「踏ん張り」をじっと見つめた詩「モルヒネ」。そして、祖父の遺体を抱いて叔母の車に乗り、家に帰るまでの夜道のことを書いた「後部座席にて」。今読んでみても、感情の発露が多い第一作から、静かなまなざしに満ちた「モルヒネ」、そして、もはや祖父のことではなく死んだ恋人のこととして、フィクションを取り入れながら書いている「後部座席にて」まで、この制作過程は自分にとって、祖父の死を潜り抜けて、その死を背負いながら、なお生きたものとして自分の詩を生みなおし、自分としても生まれなおしていく過程だったと思う。

 ところで、この一連の詩は、本当は四作立てになるはずだった。けれど、最後の詩はついに書くことができなかった。書けなかったのは、荼毘に付された祖父のお骨を見た時のことである。それは、かなしくなるくらいに骨だった。箸の先でもろく崩れたそれは、僕とあれほど熾烈な争いをした祖父にしてはあまりにも白い、骨だった。煙は立っていなかった。平板な平板な素焼きの台の上で、祖父の骨はかすかに原型を残しながら、しかしもはやあらわ過ぎるほどに物として、しずかにそこに置かれていた。
 祖父の身体を支えていたものの静かさと小ささ、そして軽さ。どれだけ生きても、どれだけ高く上り詰めても、人は結局、平らな台の上に転がる白い骨となってしまうのであり、逆に言うと、生きているということは、結局、この台の平らさと骨の白さ、その静かで穏やかな沈黙の上に繰り広げられる、必死の夢でしかないのかもしれない。そう思った。

   (つづく)


※編者注
『「あおに、帰る」ほか一篇及び散文』
http://awono-katei.blogspot.com/2003/12/blog-post_09.html

2004年12月14日火曜日

返詩 即興


   (ふゆさんの「ここからはいつもうみがみえる」に)


「海はあちらです」
「海はあちらです」
「海はあちらです」

そう三回つぶやいて
すべてがうそになっていく

大きなつむじ風に巻き込まれた人たちが
今日 しずかな陽になってテレビの上で
寝返りを打つ

何も燃え上がらない こんな朝には
抜けた前歯を 屋根の上に投げ上げて

その屋根が 他人の家の屋根であることに
もう なんの笑いもこぼれない

そんな喜び
シニカルなシニカルな
弟たち 先生たち
の あおぞら

どんな歯が 生えるだろう


すべての道しるべは屈折し
矢印は 世界の人の数だけの
方角をさし 動きを止める

「海はあちらです」
「海はあちらです」
「海はあちらです」

そんなこと わかっているさ
ここからはいつも海が見えるんだ
白い砂浜で いつまでも矢印は砕け散り
散り続け

ほら 菫色の妹たちの遠足は
声もなく 突堤を踏み切る



     二〇〇四年一月二十三日


注)この詩の第四、五、六連には、入沢康夫さんの詩「遐い宴楽」からの引用と替え歌が混じっています。

「帰り道」(異稿と作品)


   無題

 (『千と千尋の神隠し』へのオマージュ 6)


見えない。
見えない。
ふり返ることのできない、
草深き道を、行く途中。
干上がった小川を飛びこえて、
残された石のまるさに、
しずかに呼吸をとめる
十歳の少女。
しかしふり返ることはできず、
立ち止まることさえできず、
すぐにまた、あるきだす。
いきをしながら。
目に映る景色を、
次々、後ろに追いやりながら。

見えない。
見えない。

          (未完)



   無題

 (『千と千尋の神隠し』へのオマージュ 6
  『害虫』へのオマージュ 1)


見えない。
見えない。
振り返ることのできない、
草深き道を、行く途中。
干上がった小川を飛びこえて、
残された石のまるさに、
しずかに呼吸をとめる
十三歳の少女。

しかし、振り返ることはできず、
立ち止まることさえできず、
すぐにまた、
あるきだす。
いきをしながら。
目に映る景色を、
次々、後ろに追いやりながら。

見えない。
やっぱ見えない。
駆け抜けていく少女の頭上で、
空の青さが、
白くかすれていく。
かすかに磁気を帯びた、
花びらが、流れているせいだ。

          (未完)



   無題

 (『害虫』へのオマージュ 1)


空の青さは、
白く、かすれ始めていた。
かすかに磁気を帯びた花びらが、
風に乗って、何枚も流れていくせいだ。

切り裂いていく、
鉄の花びら。
前髪をゆらしつづけている、
なまあたたかな、風。

草深い、九月の川の堤から、
少女は立ち上がる。
夕暮れ。

制服のスカートからのびた、
少女の、十三歳の、まっ白な二本の足は、
すでに、光にさらされていた。
たくさんの切り傷を負いながら、
その足は、白く、立っていた。

そして、靴と靴下だけを履いた、その足は、
家にむかって、また歩き出す。
軽やかな足音を立てて、
少女の帰り道は、
日に日に家から遠ざかっていった。



   帰り道

 (『害虫』へのオマージュ 1)


空の青さは、
白く、かすれ始めていた。
かすかに磁気を帯びた花びらが、
風に乗って、何枚も流れていくせいだ。

川原に舞い降りてくる夕暮れは、
どこか、鉄のにおいがした。
わたしの前髪をゆらして、
なまあたたかい風が、
遠くから、吹きつづけていた。

むこう岸の空で、
鳥が、
手紙のように千切れていく。
白く。
白く、横切っていく。

 (「宛テ名ノ、モジガ、
   マチガッテイルヨウデス。」)

青空の底のほうに、
屋根の低い家々が見える。
この叢で、

わたしは、十四歳になろうとしていた。
ひとりで鼻歌を歌いながら。
制服のスカートから、
切り傷だらけの二本の足を、さらけ出しながら。

のろしのように、
錆びたドラム缶を叩く音が聞こえる。
沈んでいく夕日に合わせて、
わたしの帰り道が、
キリキリと、その角度を変えていった。

自由詩 「メモ帳」


   二〇〇二年十月二十二日


ワタシタチノ
カラダ ニ
コンナニモ〝いろ〟!
ガ アッタトハ
シラナカった った
ノデス デシタ

タトエバ
脳ニハ
アオイ〝ハン〟ガ
アルソウデス
世界ニアオイバラハアリマセンガ
ソラハ
アオイ



   二〇〇二年十二月一日


はばた、け
はばた、け
ひかりの、 小鳥。

はばた、け
はばた、け
ひかりの、 小鳥。



   二〇〇二年十二月二十六日


・沖縄へ飛ぶ。
 予定していた上空三万九〇〇〇フィートは〝交通渋滞〟のため、
 しばらく三万五〇〇〇フィートをとぶ、とのこと。
  「ごめんね、そら、いたいだろ」
 片方のつばさに、日の丸。
・こんなに高い所に、さすがに言葉はないように思う。ここまで
 来ると、ぼくたちのことばは皆内向き(下向き?)になってい
 くようだ。しかし、それでも〝交通渋滞〟。(乗客の僕は、こ
 んなに高い所をとびかっているらしいことばたちを、想像でき
 ない。仕方がないので、眠ることにする。
  寝て、起きて、まだ空。
・雲の上であやとりする姉妹。



   二〇〇三年二月三日


 風呂屋では湯女が浴客の垢かきをするのは七ツ時(午後四時)
までで、暮方からは板の広間を金屏風などをめぐらした座敷に模
様替して遊客を集め、湯女は美しく着飾って三味線囃子に小唄な
どで興を催し、望みに応じて春を売った。この湯女風呂は明暦三
年(一六五七)に厳禁された。(国史大辞典 吉川弘文館 一九
九一年


注)「ごめんね、そら、いたいだろ」は、谷川俊太郎「ひこうき」より
  形を変えて引用しました。


2004年12月8日水曜日

無煙浜まで(4)


 どれだけ立ち止まっていただろう。空はいつの間にか、深くて暗い青紫色に変わっていた。僕は、とにかく歩き出すことにした。横断歩道を渡って、曲がり、真っ直ぐ歩いてはまた曲がって横断歩道を渡った。そうするうちに、コンビニが通りの向かい、横断歩道の少し右手に見えてきた。伊丹空港で昼食を摂って以来何も食べていないことを思い出し、僕はその横断歩道を渡ることにした。信号はすぐに変わった。通りを渡りきり、コンビニに向かって右折した。その時だった。僕が「それ」を見たのは。
 黒々とした重さだった。「それ」は、黒々とした重さだった。その重さにしばらく魅入られていた僕がいた。目を下に移していくと、「それ」はほとんど同じ太さのままで、けれど地面近くでぐっと広がってアスファルトに根――そうだ、これは根だ――を張っていた。少し離れると、視界の上の方に、大きく広がった枝と緑の葉らしきものが辛うじて入ってくる。首を上に向けても、全貌はつかめなかった。また、何歩か後ろ向きに下がって、僕はやっと、それが大きな針葉樹であることを理解した。
 その木は、車道側、つまり僕の右手に立っていて、左側にあるビルと比べてみると、三階をぶち抜いて四階の床から頭を出しそうなくらいの高さがあった。幹が太く、黒々としていて、枝葉の部分は美しい二等辺三角形を描いている。他には木など見えないその通りにおいて、その木は一本だけ、何ものにも揺るがされない姿で立っていた。その黒々とした樹皮のむこう、太い幹の内奥には、生きているものの底知れぬ深さがあって、たしかにあって、僕は伝わってくる重量感にただもう沈黙することしかできなかった。
 僕はこの時、一気に思い知らされた。自分が、なんと失礼なことを考えていたのだろう、と。屈従の繁栄? どこでもない場所? かき消えていく輪郭? たしかに旅行客としての目からは、そのようにも見える。しかし、ここにあるのは他でもない、命だ。重さと深さと傷と歓びとを抱き合わせた、何ものもゆるがせにできない確かな命だ。自転車を漕いでいた女子高生のあの力。誰が忘れたとしても、誰が見なかったとしても、あの力はあり、たしかに存在した。そして、その力の中に現れているのもまた、厳しい自然条件の中で泥の汗を流しながら、この土地を切り拓いて来た人々のたしかな命であり、彼らがここに来る前からこの場所に住み、この場所に「Sapporo」と名をつけたアイヌの人々の、命でもあるのだ。それを見たからこそ、僕はあれほど驚いたのだろう。
 あの時、じっと見つめていても彼女は消えなかった。当たり前だ。もし彼女が消えたとしても、そこに見えてくるものは観念的に語られるばかりの「無」なんかではない。そこにあるのは、ここにあるものすべての輪郭の中へと流れ込み、あるいはそこから流れ出し、さまざまに交わり変形し結節点を描く、止まらない流れ、その、風のような百年だ。そしてその百年が宿るのは、今目の前にあるような、たしかな重さの中においてだけなのだ。
 何歩か前に進み出て、黒々とした重さに手を伸ばす。硬い樹皮に触れていると、北海道に着いてから初めて、名前を知りたい、と思った。この木の名前を知りたい。今こそ、この木の名前を発音できる。そう思った。
 「おおきに」何に気を遣うこともなく、伊賀弁でお礼を言った。沖縄で陥った失語は、もはやどこにもなかった。僕はもう、旅行者ではないのだから。ただ、伊賀の百年を背負って、この島の百年に向かい合う――僕はただそれだけの、それだけの一人の人間だった。「おおきに。あんたに会えてほんまうれしいわ」
 その瞬間、僕の脳裏で、いつからかずっと忘れていたあの真っ白な頭の少女が振り返って、消えた。


 誠に勝手ながら、「無煙ヶ浜まで」はここで一旦中断とさせていただきます。
 もともと、この小説は、僕が自分の小説を見つけ直すために始めたものでした。目指すべきゴールも従うべき設定も決めず、ただこの文章の旅を旅として持続することで、その先に見えてくるものを見てみたい、という思いがあったのです。
 けれど、別のところで小説を書いたことや、卒論の執筆などを通して、この旅で見つけ直したかったものが先に見えてきてしまった。もう、旅をつづけることはできません。この旅を書き続けていくためには、もう一度この文章の地点に戻らなければならず、それは今の自分にとっては、逆戻りになってしまいそうな気がするのです。
 コメントをいただいた方へのお返事などもあり、なんとか前半部分だけは書ききりましたが、ここまでとさせていただきたく思います。旅の動機の種明かしすら終わっていない状態での誠に半端な終わり方ですが、ご深慮いただけると幸いです。
 読んで下さったみなさま、本当にすみません。そして、ありがとうございました。


無煙浜まで(3)


 「清田新栄」。たしかそのようなバス停の名前がアナウンスされていたような気がするが、それが目覚めてすぐのことだか、それとも目覚める前のことだか、いまいち記憶がない。誰も、ボタンを押さなかった。穏やかでさびしげな夕焼けの中、バスはしずかに走り続けていた。かすかな振動が、ずっと身体に伝わっている。
 外の景色は、まばらな町並みになっていた。遠くの方になだらかな丘があり、そこに何軒かの家が見える。大きな木が、丘のそこここに二、三本だけ立っていた。車道の近くには、大型のホームセンターやガソリンスタンド、釣具店などが並んでいて、どの店も駐車場が広かった。そして、丘と店との間に、何軒もの住宅が集まって建っている。
 それは、僕が生まれた本州とあまり変わりのない景色だった。たしかに、駐車場の広さなどから、ある種の拠り所のなさを感じることはある。けれど、そのむこうに見える住宅地、あるいはそこへと伸びていく曲がりくねった細道などは、そこにたしかに生活が息づいていることを感じさせて余りあるものだった。
 「屈従の繁栄」。僕は、さっき思いついた自分の言葉が、この町の景色から少しずつずれていくのを認めざるを得なかった。窓に額を押しつけるようにして、流れていく町並みをじっと見つめる。やがて、バスは赤信号で止まった。
 止まったバスからじっと見ていると、やはりそこは本州ではなかった。外は寒そうだった。何本かの木々は大きく、けれど夕映えの中で、今にも拡散してしまいそうだった。熱もない夕焼けにしずかに燃やされている、あるいは燃やされる時を待っている木々、町並み。そしてそれらを燃やす空もまた、わびしささえかき消えてしまうほどのわびしさで満たされている。やはりそれが北海道なんだと、僕は思おうとした。その時だった。
 窓の向こう側を、一人の女子高生が自転車に乗って通り過ぎていった。寒そうな風を受けて長い髪をなびかせながら、それでも彼女は、一こぎ一こぎ力強くペダルを踏みこんで進んでいった。僕は、その姿をじっと見つめていた。千歳で見た時には紙細工だとさえ思った町の中で。ゆるやかな傾斜を上っていく彼女は、いつまでも消えなかった。
 信号が青に変わったのか、バスは再び走り出した。僕は今さっき見たものが一体なんだったのか、整理できないままでいた。いや、自転車に乗った女子高生だってことぐらいはわかっている。問題は、それになぜ僕がこれほどまでに驚いているのか、ということだ。それはちょうど、空港で「……べさ」を聞いた時の驚きと似ていた。あの女子高生の姿に、僕はきっと何かを見たのだ。自分でもよくわからない、何かを。それが何なのかわからないまま、バスに運ばれて僕は今日の目的地へと近づいていく。

 外の建物は、いつしか巨大なビルがほとんどになっていた。今年の夏、名古屋で見たのと少し似ていると思った。けれど、名古屋のそれが道路に沿って統一された景観を作っていたのに対し、ここのビル群はそれぞれ形が不揃いで、その輪郭は洗練されているというより、大味だった。ビルとビルとの間の空間に目が行って、空はやっぱり寒々としていた。そこから目を戻すと、車道沿いの比較的新しいビルの一階に、錆だらけの古い商店が見える。北海道には、様々な土地から来た人々の文化がモザイク状に生きているらしくて、そのことなら大学でレポートを書いている時に本で読んで知っていたけれど、実際には時間までもが、ここではモザイク状になっているのかもしれない。北海道と言う巨大な平面の上で、どの文化もどの時代も、確たる根を晴れないまま併行に存在し、せめぎあっている。そしてそれぞれがそれぞれのまま、この厖大な空の下で震えているのだ。
 やがて、僕は「すすきの 南3西3」でバスを降りた。今晩泊まるのは、南5条西7丁目にあるビジネスホテルだった。区画に名前がついているのでわかりやすい。けれど、バスを降りた途端どこを向いたらいいのかわからなくなって、その場で360度回転して辺りを見回してしまった。交差点が見えたので、とりあえずそちらに進んでみることにした。
 バスから降りて見てみると、やはり建物は圧倒的に大きかった。赤いネオンサインなども光っていて、大阪梅田のがんこ寿司を思い出した。けれど、そこはやはり大阪ではなくて、通りの彼方へ目を移すと、たちまち薄ら寒い気分がよみがえってくる。空は平坦で、果てしなく伸びていた。ビルは統一されてどこかに昇りつめていく、という風ではなく、広大すぎる大地の上に、ごろり、ごろりと転がっているみたいだった。まっすぐに伸びる通りをどこまでも歩いて行けそうで、けれどそうやってたどり着くのは、ただ何もない地の果てでしかないことが感じられた。そこから先には、何もない。
 沖縄の海も、平らに伸びていた。けれどもそれは、周囲に対してどこまでも開かれていた。その外にまだ見ぬ世界があること、そこから何かが海を渡ってうちなーにやってくること。各地に残るニライカナイの拝所から見ると、海を通じて世界に開かれていることの希望と不安がともに感じられた。鏡のように平らで、青くうつくしい海。その彼方に明るいものを見晴るかしたからこそ、琉球びとは海を渡って世界をかけめぐり、また、海を渡ってくる客人をどこまでももてなしたのだろう。めんそーれ、くゎっちぃーさびたん、いちゃりばちょーでー。実際にそのむこうからやってきたものが、やまとゆー、あめりかゆー、望まざる戦乱と蹂躙と支配であったとしても、なお、拝所から眺める海はうつくしくてしずかなまま、外の世界へ開かれていた。
 北海道の空と大地に感じたのは、それとは反対のものだった。そこには、外がなかった。どこかへ渡っていこうとしても、否応なしに地の果てとぶち当たってしまう場所。果てがあるということで、広大な大地はその広大さを増していた。
 どこかにつながっていると感じられるからこそ、僕らはあらゆる広さに耐えられる。どんなに大きな大陸であっても、それが世界とつながりその中で位置を持っているとわかった瞬間、その広大さは相対化され、僕らは自分の立っている場所がたしかにある、と実感できるのだ。しかし、どこにもつながっていない、この場所より他にないと知らされると、そこがどんなに小さい場所であっても、たちまち広大無辺なものになってしまう。自分がどこにいるのかわからなくなって、僕らは居場所を見失う。僕が札幌の街中で感じたのは、生きていくことのそんな途方もなさだった。
 本州でもよく見かけるような、若い人たちが通りを何人も何人も歩いていく。沖縄のように顔立ちに特色が見えないからこそ、却ってその光景は異様に思えた。陽が落ちてきて、がんこ寿司みたいなネオンサインはいよいよその赤さを鮮やかにしている。ここはどこなんだ。僕のその問いも、もはや明確な形をとどめることが出来なかった。ここはどこなんだ。漫然と問いが繰り返されてはたちまちのうちに消える。自分が日本の北にいることはわかっている。わかっているけど、ここはどこなんだ。ここはどこで、僕は一体、一体どこにいるんだ。ここにいるのは、そもそも僕なのか。誰なんだ。
 まだ明るい夕闇の空へと、輪郭もろともかき消えてしまいそうだった。