歩いていた。踏み出す足はその度に雪の中に埋まり、引き抜いた跡には時折、凍った緑の草が覗く時もあった。歩いていた。ずっと前から、粉のような積雪と吹き上げる地吹雪とで、ズボンの裾は白くうすく凍てついている。歩いていた。見上げる空は一面の鉄色で、そのあまりに重々しい平坦さは、どこまで行っても開けて来そうに思えなかった。というより、その鉄色がどこかで果てると考えることは、空が果てると考えることと同じくらい無理なことに思われた。歩いていた。歩いている。右手には雪に覆われた堤防が遠ざかるように見え、ゆるくカーブを描いて左前方へと曲がっていっていた。目の前にただある、そのなだらかな曲線の向こうに川はあったのか。雪と雲とで薄く紫がかった中空を眺めながら、水橋孝司は、うまく思い出せないでいた。 いま、彼の目の前には、覆いを取り払ったコタツがある。ねずみ色した天板の上に、封筒と皿とが乗っていて、卓上から除けられた置時計は、本棚の一角で九時十六分を指している。部屋の中はすでに明るい。ついたてのように張り出した壁に隠れて、向こうの部屋の少し高いところで、オーブントースターが回っていた。姿は見えず、その音ばかりが聞こえている。二人分のパンはまだ焼けないらしい。 歩いていた。抜け殻みたいな朝のすすきのを、それでもどこかへと歩いていくいくつもの人体があった。言葉を交わし、あるいは一人で黙ったままで、うつむき加減に急ぎ足で通り過ぎていく。その歩いていく先に、彼らを迎え入れる生活がちゃんと待ち構えてくれていて、彼らはそこに着くためだけにここにいるのだろう。水橋は思う。朝のすすきのは彼らにとって、ただ、急いで通り過ぎるべき空白地帯でしかないのかもしれない、と。自らを取り囲む無人のビルから目を反らし、頑なに目を伏せつづけたままで、人々は一刻も早く自分の人生に紛れ込もうと必死なように見えた。その歩みが、目の前で、終わることも繰り返されることもなく、ゆっくりゆっくり広がっていく。 「とうきび食べるよね?」 キッチンの方から野坂が聞いた。水橋が返事をする前に、もう、ついたてのように張り出した壁の向こうを野坂が横切っていく。 「とうきび?」 水橋は訊いたが、返事はしばらく返ってこなかった。ごそごそという音が聞こえる。おそらくこちらに背中を向けて、冷蔵庫の中を探しているのだろう。水橋はそう想像した。 「とうもろこしのこと。実家からたくさん送ってきてね。親戚のおじさんがくれたんだって。ゆでるから、食べて」 声が聞こえて、また、壁の向こうを野坂が横切っていく。その姿が一瞬見えて、見えなくなっている。部屋の片隅で、ガスレンジに火をつける音が聞こえる。 「そういえば、あっちではナンバとか呼んでなかったっけ?」 「うん。僕は呼ばなかったけど」 「大阪の難波とまぎらわしいから?」 かすかな笑い声。水橋は、自分の目の前にあって見えるものを、一つ一ついとおしいと思っていた。覆いを取り払われたコタツの角は、円を四分の一にしたような形をしていた。カーテン越しに差し込む朝の光を、四方八方にやわらかく散らしている。 歩いていた。緋の絨毯が敷かれた薄暗い廊下を渡って、左右対称に広がった階段の奥の方を昇っていった。階段を上がりきったところには絵がかかっていて、そこには開拓が始まったばかりの頃の、測量の様子が描かれていた。どこの地方を開拓した時のものだっただろうか。男の数人はスーツを着て山高帽をかぶり、真っ直ぐに立っている。残りの男は藍の着物を着て猿股をはき、身をかがめたり跪いたりしながら、棒やら何やらを縦にしたり横にしたりしていた。その曲がった背中が、妙に立体的に水橋の目によみがえる。 彼らのいる道は細かった。その両脇や行き先は、無造作に生えて入り組みながら迫ってくる木々と、縦にばかり細長く伸びて荒みながら繁茂する草の群れとに挟まれて、今にも埋め直されてしまいそうだった。その道の向こうには泥炭地が広がっている。ところどころで、濡れた土がため池のように顔を覗かせていて、あとは、細かく生えそろった緑の雑草が大地を覆い尽くしていた。 絵から目を離して、水橋は廊下の端に大きく開いた窓から、外の木々と通りを眺めた。北三条通は太く、まっすぐにつづいていた。両側に背の高いビルが雑多に立ち並び、しかし、通りはそれを寄せつけないほどに逞しく伸びている。水橋にはそれが、どこかバランスの悪い景色のように思えた。 この通りを作るために、一体どれだけの人が血と汗を流したのだろう? 水橋はそう考えていた。不恰好なまでに力強い通りの上を、自動車が夢のように何台も走っている。歩道の上では、カラフルな服を着た人たちがのんびりと歩き、そのまま次第に見えなくなっていく。どこまでも伸びる道の先は、平らだった。水橋は不意に、“地の果て”という言葉を思い出した。 皿の上にはトーストと、ゆでたばかりの「とうきび」が置かれた。野坂はうれしそうな目をして水橋の表情を伺っていたが、突然思い立ったかのようにまた隣の部屋にむかい、コップに牛乳をなみなみ注いで戻ってきた。「北海道産」と称される食べ物は数多くあるし、水橋はこれまでにも、それらを数え切れないほど口にしてきた。しかし、北海道で取れ、そのまま北海道で消費される食べ物というのは、内地の人間である彼にとって、まったく未知の部分があるように思えた。甘く結びついた恋人たちの秘密の中に、自分の身一つで分け入っていく。そんな気分で、彼はゆでたての「とうきび」にかぶりついた。 歩いていた。声の高い男に連れられて、紅い照明に照らされた螺旋階段を昇っていった。照明は平坦で、部屋の細部や人の表情は見えなかった。見えているけれど、つかみにくく、実感を伴って伝わってはこない。周囲がうるさくてよく聞こえなかったが、どうやら満室らしい。カウンターから一旦戻されて、病院の待合室みたいに並べられたソファーの上で、しばらく待たされた。 異様に陽気な声で案内が入った。再びカウンターに向かうと男が待っていた。そして、彼が先に立って歩く形で、カーテンで仕切られた狭いボックス席へと水橋を連れて行く。カーテンを開けて、水橋は座らされた。案内役の男が注文を取って、消える。男はすぐに戻ってきて、グラスに入ったコーラを机の上にポン、と置いた。男は今度こそいなくなった。狭苦しい部屋の片側では、閉められたカーテンが真っ直ぐ下に降りている。 「あ、……。あなたもしかして、コージくんじゃない? ほら、三重県の伊賀で、夏になると蛙ばかり捕っていた」 三人目に入ってきた女は、水橋の顔を一目見て眉を曇らせた。おしぼりとローションが入ったカゴを足元に置いてから、もう一度、水橋の顔をまじまじと見る。次の瞬間には、女は笑っていた。その時の笑顔を、水橋は二日たった今でも忘れることができない。 「どう? おいしい?」 野坂は、コタツの向こうから水橋の顔を覗きこんだ。水橋は、自分の歯形の残るとうきびに目を戻し、深くうなづいた。野坂は、弾けるような笑顔で、笑う。 「そうだと思った。へえ、なっつかしいなあ。北海道に来ているんだ。旅行なの?」 そう言いながら、おしぼりを取り出して、萎えてきていた水橋の性器をゆっくりと拭いていく(水橋は、この時すでに、ズボンと下着を完全にずり下ろしていた。一人目の女が、そうさせたのだ)。女は話しながら、ずっとふにゃふにゃと笑っていて、しかしその手の動きは、驚くほどに丁寧だった。その指先は、ほんの一瞬でも気を緩みを見せることはなく、自分の仕事を黙々と着実に進めていく。きれいな掌だった。 |