2005年10月3日月曜日

Ishkar」 scene 13 (2)


 右手には、大通公園がつづいている。緑の葉を支える赤褐色の太い幹が、一本、また一本と並んで立ち、公園の外周を一重に囲っている。地面は整備されていて、平らだった。その地面の上、時には噴水が見え、時には休日の午後を過ごす人々の歩みが見え、また時には、子どもたちが舞うように駆け回りつづけていた。区画を分かつ縦横の通りに四角く区切られて、公園はいくつも現れては、いくつも過ぎていく。
 繰り返す光景に既視感を覚え始めた頃、道の先に地下鉄の駅への降り口が見えてきた。その向こうに大きな交差店が現れる。駅への降り口を通り過ぎ、道幅の広い交差点をまっすぐ横断し、野坂は不意に右折した。水橋もそれについていく。左手の公園の片隅に、立方体に近い形をした建物が垣間見え、その壁や屋根の灰色がかった白さが水橋の目をしばらく惹きつける。しかし、それも長くはつづかなかった。水橋の目が逸れている間も、野坂は水橋の横で歩みつづけているのだし、自分を引きずっていくその歩みに置いていかれないように、水橋はすぐに目を前に向け直さなければならなかった。そこには、また新しい交差点があった。それに沿って、野坂と水橋は左折した。
 曲がってすぐ、右手に平べったい形をした背の高いビルが見えてくる。そして、通りを挟んでその左隣に、茶色のずんぐりした建物が鎮まっていた。
 「ほら。あれが、厚生年金会館」
 野坂は歩きながらその建物を指差した。それがチケットに書いてあった「会場」であることに、水橋はしばらくしてからようやく思い至った。しかし、そのことを思い出しても、まだ、水橋にはそこで今晩ライブがあるということが、少し信じられなかった。野坂の指の先で、その建物は大きな分銅のようにそこにある。それも、ただ留まっているというのではなく、むしろその重さによって自らの内へ内へと引っ込んでいくように思われて、その中に華々しい光景が広がる空間があるなんて、どうしても想像することができなかった。そもそも、中に入れるのだろうか。水橋はそうまで思ったが、野坂の指は、確かにさっきその建物を指したのだ。
 「あれ?」
 「うん。あれ」
 道を横切る。建物の正面、敷地への入り口辺りに丸く囲まれた草地があり、黒く「北海道厚生年金会館」と浮き彫りにされた石碑が、そこで横置きになっていた。野坂と水橋はその脇を通り、建物向かって右側から、敷地内に入っていく。たくさんの人がいた。開場の三時間ほど前だというのに、そこにはたくさんの人がいて、入り口から建物の外郭に沿って右の奥へと伸びていく、横四列くらいの長蛇の列が既に出来上がっていた。
 「これ、……何の列?」
 野坂は答えなかった。戸惑う水橋と、黙ったままの野坂は、列を左手に見ながら建物の横の空間を進んでいく。奥へと進むにつれて道は狭くなり、列を成す人々とほとんどすれ違うような格好になったが、それでも列の終わりはなかなか見えなかった。その代わり、入り口を目指して並び、入り口の方を向きながら止まっている人たちの、様々な顔が見える。満面の笑みで喋っている髪の黒い男子高校生三人組、赤いTシャツを着て腕組みをしている毛深い金髪男性、軽妙なトークをしていると思わしきカップル、やや子どもっぽくも元気なデザインの服を着た女子中学生と落ち着いた雰囲気のその母親、深刻そうな目で下の方を見つめている、三十代くらいの太ってメガネをかけた男性、なぜか女物の浴衣を着た髭の青い男性、ブランド物を身にまとったきらびやかな女子大生二人組、明らかにロックバンドをやっているような服装をして、涼しい表情で辺りを見回している若者二人組、などなど。それらの顔の一つ一つを、野坂と水橋は後ろへ後ろへ追い越していく。
 やがて、顔が果てて地面と向こうの景色とが見え、そこが列の終わりで、野坂と水橋は百八十度向きを変えた。そのまま列の一部になっていた。たくさんの背中と後頭部がずっと前までつづいていく。その先には、見えないけれども入り口があり、僕もこの人たちと同じところを目指して立ち止まっているのだ。というか、今僕は、長くつづくこの頭たちの一つになっているのだ。そう考えて、水橋は少し、不思議な感じがした。
 列は、長らく動かなかった。人々は立ち止まったまま、会話したり、じっとしたり、ケータイをいじったりしていた。待つことばかりで、日が傾いていく。列の中には、疲れの見える人もいた。何人かは、今にも地面に座り込みそうだった。しかし、その近くで、楽しそうに喋っている人もいる。日が傾いていく。
 野坂と水橋の少し前に、男子中学生と思しき二人組がいた。水橋はふと、二人の肩に同じバッグがかかっていることに気がついた。バッグ本体は、ビニールかフェルトかよくわからない真っ黒な生地でできていて、そこから赤い丸紐が出て、伸びている。あまり目立たないが、本体にはよく見ると赤い線でロゴが描いてあり、燃え盛り回転する火の玉のような、というかむしろ一気に北上する巨大な台風のような渦の中で、いや、その渦を突き破ってこちらに飛び出してくるみたいにして、デフォルメされた四人のグループ名が大きく波打っていた。一旦気づくと、列のあちらこちらの肩や腕に、それと全く同じバッグ――黒い本体と赤い紐、そしてロゴ――がかかっているのが見えてくる。同じバッグを持った二十五、六歳くらいの男性がまた一人、歩いてきて、列の最後に加わった。その人はやせ気味で肌が浅黒く、身体と比べてかなり大きめの青いシャツを着ていた。列に着くとすぐ、ケータイを取り出して高い声で話し始める。「今着いた今着いた。うん、厚生年金会館。……え? そうだな、結構並んでる。お前も早く来いって。え? だから、早く来いって。……何だよ、お前もじゃねえかよ。ははは」
 「物販の列なんだ、これ」
 独り言のように、野坂がそう言った。
 「え?」
 「ほら、ライブ・ツアーとかってさ、その会場だけでしか買えないグッズを売り出したりするでしょ。ツアーTシャツとか」
 「ああ、……うん、たしかに。そうかもしれない」
 「これ、そういうグッズを買うための列なんだ。開場三時間前から事前販売があって、本当は開場後でも中で買えるんだけどさ、品切れになることとかあるし、みんなできるだけ早く買おうと、こうやって並んでるんだよ」
 「へえ。そうなのか」
 その列の中に自分がいることが、水橋には何か場違いのように感じられた。自分の財布の中身を勘定してみても、ここで色々買えるだけの余裕はない。とはいえ、よほど無茶をして買い漁らない限り、今日一日過ごす分は大丈夫だし、今日さえ乗り切ればまた明日の朝、郵便局でお金を降ろすことができる。貯金は残り少なくなっているけれど、それでもまだしばらくは、この旅をつづけていくこともできるはずだ。水橋はそうも考えたが、この列の先にそこまでして買いたい何かがあるとは、正直思えなかった。
 やがて、スーツを着てネクタイを締めた若い男性が何人か出てきて、拡声器で整列を呼びかけた。そのあと、これから売られるツアーグッズの紹介を始める。メンバーの誰それがデザインしたロゴが入ったTシャツや、メンバー個々の写真入りのうちわ、などなどがある中に、曲中で飛ばしてほしい、というメンバーの意向によって作られた(らしい)紙ヒコーキセットなどがあって、水橋は小さく苦笑した。いかにもアイドル的な演出だ、と思ったからだった。
 「それでは、販売開始まで、いましばらくお待ちください」
 そう言って、若い係員たちは帰っていく。物販待ちの列は、いつの間にか騒々しくなっていて、おそらく、何を買うかということについて話し合っているのだろう、後ろから見る頭や背中が、身振りに合わせてそれぞれ頻りに動いている。野坂と水橋との後ろに並んだ青いシャツの男性も、グッズ紹介の最中に着いた同じ年頃の男性と二人で、お互いの買いたいものを言い合ったり、いくつかのグッズに対して難癖をつけたりしていた。
 列は、なかなか動き出さなかった。少しの間待ってから、野坂はカバンの中を探して、紙切れを出してきた。
 「これ、ツアーグッズの一覧だから」
 そう言って、水橋に紙を渡す。そこには、さっき拡声器越しに紹介されたいくつものグッズが、写真になって並んでいた。
 「で、何か、買う?」
 「いや、……まだ決めてないけれど。何か、お薦めみたいなもの、ある?」
 できることなら、何も買いたくなかった。
 「そうねえ。この、ペンライトなんか、あったらきっと盛り上がると思うんだ。普通に点くのと点滅するのが選べるし、光も赤で、きっとカッコイイと思う」
 野坂が指差したペンライトは、例のロゴが赤く入った白いボディーの上で、真っ赤に光っていた。カッコイイかどうかは別にして、たしかにアイドルらしくないな、と水橋は思った。これなら、持ってもそれほど恥ずかしくないだろう。
 「あと、ビラとかアンケートとか入れるために、この、ショッピングリュックでしょ」
 「あ、この黒いバッグね。これ、少しカッコイイ」
 「そう? よかった」
 野坂は、自分のことのように喜んだ。
 「それから、あと買ったらいいと思うのは……これ。紙ヒコーキセット」
 「これ?」
 「うん。そんなに高くないしさ、絶対買って損はないと思う。絶対」
 どうして紙ヒコーキセットなのか。野坂の言う「絶対」の意味が、水橋にはわからなかった。やはり、この人と僕とは全然違うものを見ているのかもしれない。そう思って、水橋は今さらながら、どこかさびしい思いがした。北海道に着いてから何回も見た、彼女の遠い表情を思い出す。
 しかし、結局、水橋は野坂に任せてみることにした。そもそも、今ここにいること自体、野坂に強引に運ばれてきた結果なのだ。どうせなら、行ける所まで行ってみよう。ここから。水橋は、そう決心した。
 「わかった。じゃあ、僕はペンライトとショッピングリュックと、紙ヒコーキセットを買うわ」
 「うん」
 野坂は、うれしそうにうなづいた。
 列が動き始めたのは、それから二分ほどたってからのことだった。列は、一気に五列分ほど前に進んだかと思うと、立ち止まり、そのまま何分も止まったままになった。それが何回も繰り返される。野坂と水橋の位置からは見えなかったが、きっと、入り口の方は込み合っているのだろう。そこから出てきた人々は、ほとんど全員が例のバッグを提げていて、ポスターが入っているのだろうか、筒みたいに細長い形をした箱をそこから覗かせている人もいた。それらの人々のうち、三、四割くらいは敷地の外に出ていき、他の六、七割は敷地内に残って、列から離れたところで談笑したりグッズを見せ合ったりしている。さっき見かけた、女物の浴衣を着た男性は、メンバー写真入りのうちわをバッグから取り出して、早速その包装を剥がしにかかっていた。
 ぞろぞろと動き出してはまた立ち止まり、それでも列は確実に短くなっていた。建物の角が見えてくる。係員が出てきて、売り切れが出たことを拡声器で告げる。建物の壁にはめ込まれた大きなガラス戸から、休憩室のような一角が暗く覗かれる。ライブに合わせて片付けられたのだろうか、白いテーブルの上に、白い椅子が逆さまになって乗せられている。そのガラスには、自分と周囲の人々が映っていて、その中の一人が、こちらをぼうっと見返していた。みんな立ち止まっている。そして歩き出す。建物の角を曲がる。入り口が見えてくる。立ち止まる。係員がまた出てきて、グッズ紹介と、売り切れ商品をアナウンスする。そして二回ほど、進む。係員が出てくる。売り切れ商品は、またまた増えたらしい。
 入り口は、すぐ近くになっていた。そこには長机が並べられていて、群がるような人々の向こう、四、五人の女性スタッフがせかせかと動き回って、グッズをまとめたり電卓を叩いたり商品を渡したり代金を受け取ったりしていた。机の前の人々と、列の先頭との間にはほんの少し間隔があって、机の前が空いてから、列の人々を誘導する仕組みになっているらしい。
 水橋は自分の注文を何度も頭の中で確認する。ペンライトと、ショッピングリュックと、紙ヒコーキセット。思えば、このような行列に並ぶこと自体、水橋にとっては初めてと言ってもいいくらいだった。前は一体、どこでこんなことがあったのか。前の列がはけて視界が一気に開け、「次の方も、空いてる列にお並び下さい」と整理役の係員に言われて、水橋は一番右の列に並んだ。
 水橋の前の人は、もごもごとした声で注文を言っていて、スタッフは何回も聞き直さなければならなかった。その人は、八千円以上の品物を買い、一万円を出してお釣りをもらっていた。そして、水橋の番になる。長机の前に立ち、スタッフと向かい合ってみると、途端に、水橋は言うべき言葉を失ってしまった。今年の二月の、石狩の郵便局のことを思い出した。「何かを探していたんです。それが何かわからなくて……、でも、だからこそずっと探していたんです」――いや、違う。何かを言わなければ。今、何かを言わなければ。
 「ペンライトと、あの、黒くて赤い紐のついたバッグと、……それから、紙ヒコーキセットを、下さい」
 三点で、一八〇〇円だった。水橋は商品を受け取った。そして人々の間をすり抜けて、敷地の空いている方に歩いていく。野坂は先に買い物を済ませたらしく、草地の縁に腰かけて、ぼんやりと水橋を待っていた。
 野坂の隣に、水橋も座る。野坂は、メンバーの名前入りドッグタグや、うちわ、それにツアーパンフレットなども買ったと言った。実物を見せながら話す野坂は心底楽しそうで、それを見ていて、聞いていて、水橋も自然に笑っていた。空は、ずいぶん薄暗くなっている。物販の列はなかなか果てず、やがて開場一時間前になって、係員が拡声器で事前販売の終了を告げた。
 「なお、今現在お並びになっているこの列の先頭を、ご入場の際の列の先頭とさせていただきます。ツアーグッズにつきましては、ご入場後にもお求めになられますので、いましばらく、開場をお待ち下さい」
 敷地内で談笑していた人々が、一斉に動き出し、残っている人々の後ろに静かに進んで、建物の右奥へとつづく列を再び作る。野坂と水橋も、その動きに遅れなかった。今度は、水橋にもわかった。これは、入場を待つ列だ。そこに並んでいる人々の顔は、心なしか、さっきよりも少し引き締まって見える。野坂の表情も、明らかに真剣だった。
 野坂と水橋は、建物の角の見える位置、壁にはめ込まれた大きなガラス戸のちょうど前辺りにいた。開場を待つ間、水橋はますます暗くなったガラスの向こうを覗き込み、逆さまになった白い椅子の、中空に投げ出された四本の脚を眺め、それから視線をガラスの表面に戻して、そこに映る自分たちの立ち姿を何回も確かめた。野坂と水橋の後ろには、ラフな装いの女子高生三人組がいて、小さな声で何かを語り合っている。
 野坂はふと思い出したように、さっき買ったペンライトをバッグから取り出して包装を剥がし、赤いストラップのついた本体の尻部を外して、ボタン電池をはめ込んだ。蓋を閉めて、銀色で半球形をしたボタンを押す。すると、ライトは赤く点滅し、もう一度押すと、点いたままになった。そして、もう一度ボタンを押して光を消すと、野坂はペンライトをバッグにしまった。「ちゃんと点くね」と言ったきり、あとは何も言わなかった。