2005年12月31日土曜日

【批評ギルド】 「シャボン玉」 松本卓也


 今年の批評、今年のうーちーに♪ ってか、年末は紅白なんて見てないで、私の批評を読みなさい。
 ということで、今回も無理矢理オープニングを突破して、批評を進めていくことにしたいと思います。

 松本卓也 「シャボン玉」 http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=55840

 スタンダードな抒情詩ですね。びっくりするほどスタンダードです。
 まず、ここに書いてあることについて、というかその内容について、理解できない人はほとんどいないと思います。大人になった「僕」が、シャボン玉で遊ぶ子どもたちの「無邪気」な情景を見て、そのまぶしさに見とれると同時に、その情景の中に自分が一度もいなかったのではないか、ということを感じる、という内容ですね。はい、よくできました。
 しかし、無論、詩を読むと言うのは、このような内容を把握することではないのです。このような内容把握(もっといって要約)からこぼれ落ちていくもの、それを味わうのが詩の楽しみ方であり、その楽しさを伝えるのが批評の最も基本になってくるのではないか。私はそう思っています。

1、形式的な堅牢さ
 この詩を読んでまず驚いたのが、そのあまりに堅牢な形式です。スタンダードな抒情詩と言うと、普通、正直に自分の気持ちを言い表わしたもの、と思われがちです。ところがどっこい、そのようなスタンダードなものほど、形式については極めて堅牢になりがちです。逆説的ですけど、“気持ちを表現する”詩には“気持ちを表現する”ための形式、というか、もっと言えば“こうすれば気持ちを表現したことになる”というフォームみたいなものがあって、“自分の気持ちを表現する”という言葉のもとで、抒情詩人は実際はそのようなフォームの記入欄に自分らしさのコードを入力していく。そういうものだと思います。
 無論、そのようなフォームにも時代により流行り廃れがありまして、過去のフォームは古臭いもの、形式ばったものと呼ばれて断罪され、現在のフォームはこれこそ本当の気持ちなんだ、これこそ自由に表現された自分の感情なんだ、って感じで免罪されるわけですね。この詩のユニークなところは、その時代遅れといわれそうなフォームをあからさまに適用することで、逆にそのフォーム自体の姿を浮き彫りにしていることです。そうすることで、フォームの存在を暴き、最終的にはフォームを裏切っている。そこに、この詩の不思議な面白さがあるのだと思います。

>冷め切った路地に
>泡沫の玩具が舞って
>寒さ堪えて歩く僕の
>肩に弾けて消えていった

 一行目、三行目は「寒さ」をキーにした部分、二行目、四行目は「泡沫」をキーにした部分。交互に出してくることで、詩の場面・状況(小説書きなら、これを設定と言いますが)がわざとらしくなく、それでいて立体的に形成されていってますね。さらにいえば、一・二行目はどちらかというと大きな視点、遠景まで含めていわば広角で捉えられていて、三・四行目は近景であり、自分の状況である、と。このような展開も抒情詩、というより小説に典型的な流れです。設定を作りながら、主人公にピントを合わせていく、という手法なわけです。

>子供達の無邪気さと
>自分の卑しさとを比べ
>小さく息を吐いて
>無造作に首を振る

 この連の前半は、対比ですね。詩の核になってくる位置づけ(子ども=無邪気/自分=卑しい)を、対比という形で明らかにしている。その上、この連の後半は、これもまた対句的な表現で。「小さく」と「無造作に」が連用修飾語として対になっていて、その後も「~を…する」という形で揃ってる。しかも、“~”の部分も“…”の部分も、ともに漢字一字できれいに収まっています。「漢詩かよ!」と驚いてしまいました。
 現代においてここまで堅牢な骨組みを見せてしまうのは、それこそ恥ずかしいことで、僕なんかは対句的表現を使う時も文の形が揃い過ぎないように気を使ったりするわけですが、この詩では真正面からそこに突っ込んでいっている。それがただの形式への意識過剰として上滑りするのならダサイだけなのですが、この詩には、どうもそれだけではすまない空気がある。そのことについては、後で述べます。

>立ち止まり振り返る
>笑い声 遠くに響き
>そよ風 無垢を運んで
>映えた空 吸い込まれ

 第三連は飛ばして第四連。ここも、説明不要なくらいにまで、形式的ですね。ただ、ここはその形式的な同一性が面白い効果を生んでいます。
 少し読み込めばわかりますが、二行目から三、四行目と移るうちに、どんどん視点が遠く、広くなっていっています。そして、それに合わせて、どんどん形が失われていっている。「遠くに響き」と言われた「笑い声」(この時点では、笑っている子どもが見えるということで、まだ「笑い声」にはそれなりの形が見出せる)が、「そよ風」によってどこかに運ばれることで、景色はより遠く、広くなる。また、「そよ風」というものは、「風」という運動としては肌で感じられるのですが、もはや明確な形をもたない、単純に言って、見えない。そして、それがたどりつくのは、「映えた空」と言われる場所、すなわちもはや光と一緒になったような、広々とした空っぽの空間なわけです。
 この移動によって、読んでいる我々も、遠くに広がっていき、形を失っていき、そしてまぶしく光になっていく。この感覚が、気持ちいいです。そして、その移動を一層感じやすくさせているのが、この二、三、四行目の形式的同一性になってくるのです。
 また、ここでの形式的同一性は、話者の立ち位置と言うものにも関わってきます。つまり、

>立ち止まり振り返る

 という部分。ここと関わってくる。後の三行の形式的同一性は、この“立ち止まり振り返っている”話者の立ち姿の同一性、そこでまさに一人の身体が立ち止まっているということを裏付け、その姿を浮き彫りにします。そして、その立ち止まっている人が立ち止まったまま、見ることや聞くことを通して遠くに広がり、光へと散っていく。そこに、我々は普段我々が移動することで感じる以上の広がりや移動を感じるのでしょう。

 (ここで余談。この話者が広がりの中に散っていく、ということはいいとして、それが「立ち止まり振り返る」というスタンスと結びついているところに、私は何か現代の風潮を感じざるをえません)

>あの風景に一瞬でも
>僕は居れたのだろうか
>駆られた衝動を苦笑で抑え
>浮いた造型を思い浮かべ

 「居れた」と言っているくらいだから、子どもたちは座ってたんでしょうかねえ。なんていう皮肉は置いておいて、ここも対句的な表現があからさまに使われている部分です。ただ、ここに来て、対句的表現に少しの隙間が生まれている。

>駆られた衝動を苦笑で抑え

 ここは、具体的にはどのような衝動なんだかわからないわけですが、おおよそ、その子どもたちの輪に加わりたい、か、あるいは子どもたちの輪をぶち壊してしまいたい、かのいずれかでしょう(エロスとタナトス、とわかったように言ってみる)。ともかく、話者はその衝動を抑えるわけですが、これと対になるのは、同じ抑える系の動作か、あるいは抑えるの反対で何かを解き放つ動作でしょう。けれど、この話者がするのは、

>浮いた造型を思い浮かべ

なわけです。なんというか、中途半端ですよね。動作としてではなく、そこでイメージが文字通り浮かぶわけです。けれど、この中途半端さが、意外性などを力に変えて、逆に曖昧な「シャボン玉」のイメージをまさにイメージとして浮かべる。もっと簡単に言って、実際にそこに可視化してしまう、ないかもしれないけれどあるような気もするものとして、ってか、有るものとして、中空にポワンと見えさせてしまう。
 そして、

>ふと風に舞う泡沫が一つ
>目の前をゆらりと横切った

 そのイメージを裏切るものとして、実物が目の前をよぎる。イメージではなく、横切っていく。この時、我々はシャボン玉をそこに見るわけです。そして、シャボン玉をみるものとして、その冷たい路地に立つわけです。
 先に書いた、形式を裏切る、というのはこのことです。形式的な言葉を重ねることで、逆に形式に負荷をかけ、そうすることで形式にすき間を生み、結果、そのすき間を通路として、どのような形式でも捉えようのないシャボン玉そのものを横切らせてしまう、詩の世界というフィクションの中に闖入させてしまう。そして、その闖入者と触れることで、我々はフィクションの中にいながら、そこでリアルな身体を取り戻すのです。
 折角の年末ですので、ここでは腰を据えて、この闖入者と身体とについて、もう少し粘って書いてみましょう。

2、「シャボン玉」とは何か(いささか詩学的に)。
 普通、詩は何かを表現するものだ、と考えられています。例えば、抒情詩なら作者の気持ちなり何なりを表現することがその役割のように考えられています。しかし、先にも述べたように、それらを表現しようとしても、結局は形式に捉えられてしまう。この形式と言うものは、言語と不可分の存在であり、また、言語が自律的に作り上げていくものでもある。いわば、言語の網の目みたいなものですね。
 リアルな何かを表現しようとしても、それは言葉にされた瞬間、言語の網の目に捉えられ、言語の次元に墜落する。リアルな何かを表現したはずなのに、それは結局、フォームの中に項目を入力しただけ、みたいなものになる。そして、それらは実際の事物に我々を導くわけではなく、言葉の上で横滑りさせるだけである。
 たとえば、今年の四月まで、日本にはZONEという音楽グループがあったわけです。んで、ZONEはうら若い女の子たちから成るグループだったことから、「アイドル」と呼ばれていたわけですね。「ZONEは、北海道出身の女の子たちからなるアイドルグループである」とか、こういう説明がなされる、で、我々はそれを聞いて、ZONEを理解した気分になる。
 しかし、それは結局は何も語っていないわけです。北海道出身といわれたら、「そうか、北海道出身なのか」と考え、アイドルといわれたら、「そうか、モーニング娘。とかと同じ感じなのか」とわかった気分になる。でも、それは決してZONEに触れたことではなくて、ZONEという存在のことを、「どこそこ出身のどういうジャンルの人たち」というフォームに落としてきただけなんですね。で、そのような言い方は、「Disturbedはアメリカのヘヴィーロックバンドである」などの言い方との差異によって成り立っている言い方で、北海道/アメリカとかアイドル/ヘヴィーロックバンドとかいう対立構造の中で、位置を見出しているだけに過ぎない。そして、この対立構造は、他ならぬ言語の平面上で成り立っているものであって、そこから抜け出ることはかなわない。
 さらに言えば、このような言語の網の目は、現実を自ら引き摺り下ろすことさえします。アイドルと言う言葉を知っていたら、ZONEを見たときにそれをアイドルと呼ぶことは難しくないでしょうし、そういうジャンル分けができた後は、ZONEが何をしてもアイドルがそうしている、アイドルとしてそうしている、と解釈するほかないでしょう。こうなってくると、我々は言語の網の目の中で生きているだけで、結局その外にあるリアルなものには一生涯触れられないのではないか、ということになってくるわけですね。どれだけ説明を細かくしても無駄で、「ZONEは全員北海道出身といわれているが、そのうちの一人は実は大阪府出身で、……」とか何とか言ってみた所で、やっぱり言語の網の目が細かくなるだけで、そこから外には出られない。リアルなZONEには触れられない。そもそも、言語の外のリアルなんてものはあるのか、我々は所詮与えられたフィクション世界の中だけの存在ではないのか。そんな疑問さえ生まれてきます。
 これが、言語の形式的な側面の、悲惨です。他でもないリアルなものに触れるために言葉を使うのですが、それは結局、既成のフォームに従うことになり、結果、言葉は言語の網の目の中で横滑りしていくだけ。無論、そのフォームを破壊しようという運動は、過去からずっと行われてきました。しかし、それはいわば、身体があるとどうしても鉄格子をくぐれず脱獄できないから、自分の身体をミンチにしてしまえ、というような乱暴なやり方になるか、あるいは既成のフォームを破壊したはずのものが“前衛”というジャンルに絡め取られて、すぐにまた流通し始める、という顛末になるか、そのどちらかが多かったと思います。
 ところが、この詩では、そのどちらにも陥っていない。この詩では、典型的な抒情詩のフォームをその骨組みまで晒すことで、そこにもはや言葉の網の目に収まりきらないものを現れさせるのです。文字通り、言語の平面からは切り離されたものとして“浮かべる”のですね。この、浮かぶものこそ、“イメージ”と呼ばれるものです。この点で、「シャボン玉」というのは、実にイメージに適ったものだと思います。ここにあるのか、どこにあるのかわからないもの。すぐに消えるはずなのに、でもそこに在りながら、我々の前に浮かぶもの。曖昧に光を放ち、けっして一つには意味づけられないもの。意味づけようと手を伸ばすと、すぐにつぶれてしまうもの。そんなあり方が、まさにイメージであり、そして、この詩はそのようなイメージを浮かべてしまう点で、まさに詩だ、と言うこともできるのでしょうか。
 しかし、このイメージはイメージとして浮かんでいるだけでは、実はまだ不十分です。それはいわば、空想上のものであって、それが現実に我々の世界の中にやってくる、――言葉の網の目に絡め取られるのではなく、それをぶち壊し、再生させる、フィクションの世界にリアルの息吹を運んでくる、そのようなものとして飛来する――ことこそが、本当は一番大事になってくる。その時、初めて我々はリアルに触れ、自分自身も言語の網の目から解放され、リアルな存在となれるのです。

(そろそろ余談を入れておきましょう。お年玉とか言いますが、どっかで読んだなんかによると(適当でごめんなさい。柳田国男だとは思いますけどさ)、あの年玉の玉って、魂らしいですね。日本では、魂が異世界からやってきて、それを受けることでその年の命を生きていく、って考えがあったらしい。年の瀬に新年の準備をする、ということには、新年を新たな気分で生きていくために旧年を殺す、というイニシエーション的な意味合いのほかに、新年を迎え入れるための身体を作る(儀式的な配置を通して年玉を迎え入れる構造体(門松立てた家etc)を作るとか、あるいは掃除などを通して自分の身を清めていくとか)という意味合いもあるんじゃないか、と思うのです。あれです。新しいアムロが乗り込むために、ガンダムを補修・新装するようなもんですか(違)。
 リアルを闖入させることによって、自らもまたリアルな身体になる、というのは、この年玉と通じる感じで捉えています。むろん、これを他者と触れ合うことで云々、とレヴィナス的に捉えてくれてもいいんですけど)

 よく、このリアルを招来するために、偶然に任せた創作や、日常雑記などを行う人がいます。これは、まあ、それなりに成功を収めることもあるのでしょうけど、私個人としては、あまりにも言葉をナメすぎなんじゃないか、と思います。言葉はもっと手強いわけで、偶然に任せた創作は結局言葉の網の目に捉えられるかミンチになってしまうかのどちらかだと思います。どちらにせよ、リアルはやってこない、リアルっぽいコードかただのひき肉ができるだけ。チャップリンでしたっけ。本当の奇跡的なシーンを撮るためには、完璧に稽古をして、どんな偶然も入り込まないくらいにまで完璧にすることが大切で、そうした時に初めて奇跡的な偶然がやって来るんだ、みたいなことを言ったのは(うろ覚え)。
 言葉を捨てて言葉以上のものを目指すのもいいですけど、それがミンチやコードになってしまう危険性を我々は知っておいたほうがいいのでしょう。サーフィンとかありますけど、波を征するっていうのは、要するにうまく波に乗ることであって、波に向かってカミカゼを行うことではないはずなのです。
 で、この詩はその点で、非常に典型的な例かな、と思うわけです。抒情詩のフォームに乗ることで、最終的にリアルを招来した。や、本当に招来できているかどうかは意見の分かれるところかもしれませんし、単に私が自分の考えるリアルっぽさに騙されているだけなんかもしれませんけどね。でも、少なくともこの詩は、単純な抒情詩として読むにはちょっと収まりのつかない光が滲み出しているような、そんな作品だと思うのです。

3、抒情詩と小説(例によって、こき下ろす) 
 この詩は、スタンダードな抒情詩だ、と書きました。何度も書きました。ただ、この詩の場合、徹底して抒情詩であろうとするがゆえに、却って抒情詩が成り立たない現状を浮き彫りにしている部分もあると思うのです。
 抒情詩ってのは、話者の気持ちを述べる詩であるわけですよね。でも、この詩ではむしろ、気持ちを述べることとか他のいろんなことに対しての、話者の無力感ばかりが際立っている気がするのです。この詩の情景にしても、第一連について述べたように、えらい距離感を伴って造形されているわけで、そこには話者の心情と景色との乖離があるわけです。この乖離は単に話者の心情を照らし出すためだけの対照なんかではないのでしょう。

>あの風景に一瞬でも
>僕は居れたのだろうか

という風に、話者と子どもたちは完全に別個のものとして、お互いに違う場所で片や集い、片や立ち止まっているからです。で、このような乖離を乖離として把持できることは、それはそれで素晴らしいことだと思います。時には、ここで一気に一般化して、全部を詩人の抒情的な目で水浸しにしてしまう人もいますから(や、この詩の第二連の対比など、その“水浸し”に近いものも感じますし、だからこそ最初は、この詩を血祭りに挙げるつもりでいたのですが)。しかし、こうなってしまうと、抒情詩と言うのは、あまりにも小さくなってしまうのではないか、と思うのです。目の前の景色には無力な目を投げかけるだけで、詩の言葉はというと、ただ小さな個人の中に中にと籠もっていく、そんな詩になってしまう気がする。
 その結果として、この詩の言葉は、形式への過剰な意識を除いては、(一般的な意味で)非常に散文的なものになっている気がするのです。(一般的な意味で)散文的な、というのは、要するに、言葉が言葉としてそこにあるんじゃなくって、ワンクッションを置いて意味へ導くための踏み台程度のものとしてそこにある、って感じでしょうか。こういう言葉は、映画でいえば、表情の問題とつながってきますね。つまり、役者がなんか顔をしかめることで、「今、俺はつらいって感情を内に抱えてるんです。それを読み取ってね」って観客に要求する。それと同じように、この言葉のうちにある話者の気持ちを読み取ってね、みたいな言葉になってる。
 はっきり言いましょうか。そういうことがしたいんだったら、小説を書けよ。キャラクターを動かして、内面を存分に探らせたらええやん。ってか、小説自身もな、そういう近代科学的な言葉の使用法から外れて、もう半世紀も前から別の道を探してるんだってばさ。
 ってのは、もちろん暴論ですよ。抒情詩の限界を見せる、という意味で、この作品はいい仕事をしている、と思うのです。素敵ですよ。皮肉でもなんでもなく、これも本心です。でもね、そういうお勉強的なところから外れて読めば、詩としては割合面倒くさい。何度も書いているように、僕は小説書きであるから、詩と小説との違いにはどうしても意識が行っちゃうし、その目で見た場合、これは詩の小説とは違う面白みみたいなもんを、かなり犠牲にした詩だな、って思えるわけなんです。
 それに、この詩の場を作っている乖離について言うと。これも、かなり現代にマッチしたテーマだと思うのですが、それを小さな抒情詩として書いたことはやっぱり選択としてどうかと思うし、作者のスタンスとしても、何がしたいのかいまいちはっきりしないのね。つまり、距離というテーマ(詩の場)と苦悶している主人公の姿(スタンダードな抒情詩のターゲット)とのどっちつかずになっちゃって、微妙に消化不良な部分が残るわけです。
 ただ、抒情詩がこのように小さくなっていき、結果散文と近いものになる、というのは、やっぱりこれも今の時代性について考えさせられるものがあって、面白いんですけど。この作品自身については、そんなお勉強のサンプルに使われても、かなしいんじゃないか、なんて思います。お勉強のサンプルではなくて、詩として歌いたかったんじゃないかな、なんて、おせっかいですかね、やっぱり。

4、例によって、スペシャリーどうでもいい余談
 先に挙げたZONEですけど、デビューした時は、「アイドルでもない、バンドでもない」って肩書きだったんですよね。で、「バンドル」なんてわけわかんないジャンル名を振ったセンスの悪さには、なんと言うかレコード会社の柱に蹴り入れなければ気がすまない気分なわけですが(冗談ですよ)、でも、実際はアイドル的なアプローチもしたし、バンドとしても活躍した。けれど、そういう意味では型にハマりながら、結局はその型を裏切るようなことを連発してきたわけで(メンバー脱退の時に最後のテレビ出演で、曲が終わったあと全員がハンカチを取り出して、涙を拭くかと思いきやカメラが寄った瞬間全員ハンカチを食いやがった。そういう悪意と言うかなんと言うかが、いつでもあった)。結局、私にとっては「アイドルでもない、バンドでもない、ZONEだった」としか言えないわけです。
 詩も、そういうのになればいいのにな、と思うのです。どのようなジャンルにハマってもいいけどさ、ジャンル内部のいろんな網の目の中で自分の居場所見つけてそこにしがみつくとか、そんなんじゃなくて、ちょうど波に乗ることで波を征するように、そのジャンルを通してジャンルを乗り越え、本当に自由なところに出て行ってほしい。そこで、他でもない「詩」を見つけてほしいし見せてほしい、そう思います。
 (私のZONE大好きキャラというのも、それを通してしか語れないと言うか、ZONEという通路を通ることでしか近づけないものがあるから、こんなことをやっているところもあるわけです。個人としての私はもう、ZONEの思い出ばかりにしがみついているわけにはいかないし、前に進みだそうとしているんだけどさ、やっぱり、詩について語ろうとすると、こうするのが一番考えていきやすい。ジャンルなんて、そういうものでいいんでないかい)

2005年12月21日水曜日

【批評ギルド】 「眠ってしまえばいい」 たりぽん


 「眠ってしまえばいい」 たりぽん http://www.po-m.com/forum/showdoc.php?did=49584

 「眠ってしまえばいい」のフレーズに貫かれた第一~第四連。その後の、話者の意見表明ともなる第五~第八連、そして、再び「眠ってしまえばいい」のフレーズが出てくる最後の二連。極めてオーソドックスな三部形式のようでありながら、実は形式的にブレがある。
 そもそも、この「眠ってしまえばいい」という言葉に込められたものは何なのだろうか。第二、第三連を見ると、「~なら、~すればいい」という突き放したような言い方に、話者の誰かに対する非難を見て取ることができよう。しかし、ここで一旦、最終連に目を向けると、「こんな夜は、歯を食いしばって」という言葉がある。この時歯を食いしばっているのは誰だろうか。もしそれが話者自身だとすると、「眠ってしまえばいい」という非難の裏に、そのように眠ってしまえない話者が抱える苦痛や、眠ってしまえることに対する切ない憧れみたいなものも感じられて、感慨深く思われる。また、もしそれが話者に「眠ってしまえばいい」と言われている者だとすると、そこにはもはや非難ではなくある種の同朋意識(ともに轍を背負うものとしての言葉にしがたい理解、通じ合い)が生まれてくるわけで、皆が死と隣り合わせの生の中で歯を食いしばりながら眠りについている(あるいは眠りのうちで必死に生の痛みを両腕に抱えている)そんな姿が見えるような気がして、やはりぐっとくる。
 けれど、このような読みをこの詩は許さない。

>性交とか愛撫する行為が
>神聖なるラヴとかお笑いだ

 この部分には、もはや非難以外の何物もなく、それゆえ、ここで言われているようなこと(性交とか愛撫する行為を神聖なるラヴと呼び、それを愛する意志と同じものと見ることまでできて、その結果、眠ってしまえること)が切ない憧れの対象になったり、同朋意識のもとになったりすることはない。「眠ってしまえばいい」という言葉は、それゆえ、話者には返ってこない、一方的な非難でしかないのだろう。
 そのような一方的な非難がそれ自体として悪いものであるかどうかは、私にはわからない。ただ、そのように一方的な非難である場合、最終連の言葉がわけのわからないことになる。

>こんな夜は、歯を食いしばって
>眠ってしまえばいい

 もしかして、この時食いしばられる歯も、やはり「物質的な信仰」として話者には非難されているのだろうか。ただ、それならば、“歯を食いしばって眠る”という矛盾しているような言葉の組み合わせ(そこにある発見)が生きてこないような気がする。というかむしろ逆に、そのような「物質的な信仰」に対する非難をこのような形で表すのは、単純にミスではないだろうか。
 しかし、やはり最もたちが悪いのが、ここで歯を食いしばっているのが話者だ、という読みである。そう読むとたしかにドラマティックだし、“歯を食いしばって眠る”という姿がぐっとくるし、「眠ってしまえばいい」という言葉の持つ力が、歯を食いしばっている時の苦難に満ちた必死の力とも重なるようにも見えて、本当にいい表現だと思えるのだ。しかし、そのような読みをした場合、問題の「とかお笑いだ」はどこに行くのか。「お笑い」という限り、誰かが誰かのおろかさを嘲笑して笑っているわけだ。これを話者の自虐として読むこともできると言えばできるのだが、「とか」という言葉が生む距離感、すなわち話者のスタンスと「性愛とか愛撫する行為が/神聖なるラヴ」と言ってしまえることとの離れ具合が、そのような解釈を許さない。やはり、この詩は一方的な非難の詩なのだろう。

 「眠ってしまえばいい」。この詩は、その言葉の持つ攻撃性を原動力とし、我々がリアルと考える様々な感覚から身をふりもぎっていく。その点で、第二~第四連は徹底していて、心地よい。なんというか、読んでいるこちらとしてもぐさっと来ると言うか、居住まいを正すと言うか、とにかく、真剣になってこの言葉と向かい合う姿勢になった。実際に、この言葉の持つパッションをそれとして受け止めた。けれど、やはりここにもブレがあって、第一連は「~なら、~すればいい」の形とは異なっている。さらに、第四連は、第二、第三連のような身体的な事象と自身の存在の確証との関連づけからはずれていて、身体的な事象としても「性愛とか愛撫する行為」と抽象的に語られるばかりだし、しかもそれが結びつけられるのが「神聖なるラヴ」なのであるから、いささか観念的になっている感がいなめない。
 無論、第一連は「生きるということがどこかで/必ず死、何かの死と切り離せない」というところとつながるのだろうし、第四連は、「言葉が信じられないからといって/体を交えるわけではなく」とつながってくるのだろう。それはわかる。それはわかるのだが、――ここで、一番決定的な事を言おうか――これらが互いにつながっていっても、そこでこの詩が見えてくるわけではないのだ。つながったものはつながっただけで、それぞれに孤立している。
 たしかに、第一~第四連に書かれていることは、全部夜に関わることだろう。けれど、先にも述べたように第一連、第二・三連、第四連には、書く際のスタンスや書かれているものの具体性などによってそれぞれに落差があって、まとまりに欠ける。穿った見方をすれば、これらはただ夜に関わると言うことだけで集めてこられたようで、たしかにそれらを通じて言おうとしていることは「生きるということがどこかで/必ず死、何かの死と切り離せない」に通じるだろうし、夜の方は夜の方で「今に残す存在の理由を/誰もが求める理の時間」という形でその意味を明らかにされている。しかし、じゃあこの二つをつなげるものは何なのだろうか。
 もちろん、そこにあるつながりについては、以下の展開が示すとおりだろう。

>生きるということがどこかで
>必ず死、何かの死と切り離せないのに
>繋いだ手にかいたあの汗のような言葉が
>危うく関係を絶とうとする

>言葉が信じられないからといって
>体を交えるわけではなく
>今に残す存在の理由を
>誰もが求める理の時間

 なるほど、つながっているように見える。出てきた言葉がその先できちんと受け取られ、応えられ、展開されていっているように見える。しかし、よく見てみれば、前の連で出てきたモチーフが詩のテーマであるはずなのに、それは後の連で受けられていない。むしろ、さらっと通り過ぎられている。なぜならば、後の連は前の連を夜の説明の方に回収してしまうからだ。じゃあ、「今に残す存在の理由」を「誰もが求める」というのがこの後に活きてくるのか、というと、そうではなくてこれについてはここまで。誰もが求めて、求めたっきりになっている。
 ここに顕著なように、この詩の描くものはすべて孤立していて、一連一連がそれぞれ何かについて語っているけれど、そこから先がない。たしかに、結びついているのはわかる。たとえば第八連の「時計のない太古から」が第九連の「すべての時計が同期する夢を見ながら/眠ってしまえばいい」につながっていたり、――そういう結びつきについては、ちょっと考えればすぐに理解できる。でも、それはまとまっていく感じとは決定的に違うのだ。語り口のパッションとは裏腹に、この詩の言葉たちには、なんと言うか、息吹が無いのだろう。その結果、最終的には「眠ってしまえばいい」という痛烈な言葉でさえ、ただそこだけが目立とうとしているように見えてくる。それを下支えする脈動がないからだろう。

 同じような観点から、第七、第八連を批判することができる。ここでは、特に言葉が言ったきりになっている。「誰かを傷つけたときに流れる涙が/胸に流れるいのち」といきなり言われても、「そ、……そうなんだ? それと血の違いって、これまでの部分でもこれからの部分でも書かれていないからよくわからんけど、そうなんかなあ」とびっくりするくらいしかできないし、「流脈はコトリコトリと/時計のない太古から/水の流れを刻んでいるので」という部分も、「流脈」、「時計のない太古」、「水の流れ」というものがそれぞれ初めて出てくる、あるいはそれに準じる(第七連で唐突に出てきた「涙」を無条件の前提として導き出された言葉であって、そこで納得できなかった読者は置いてけぼりにするがままという)状態なのである。
 言うまでもなく、詩は論文ではない。なので、客観的に証拠やら論理やらを積み上げて人を納得させることを目的にすることはない(や、それが論文の目的ってこともないんだろうけど)。しかし、詩には詩の説得力とか、あるいは詩の論理とでも言えるものがあって、それに触れたとき、我々は感動したり、何かを学んだり、あるいはもっと端的に言って、“触れた”という実感を得たりするのだろう。詩の中で生き、脈打つ論理というものは、印象的なフレーズを積み上げるだけではきっと生み出せないものであって、逆に言うと、どれだけ印象的なフレーズであっても、それが詩の論理によって支えられていないと、たちまち力を失ってしまうのだ。
 先にも言ったように、この詩にはきちんとしたつながりがある。しかし、それは頭で「こことここがつながってるのかあ」と理解できるだけであって、そのつながり自体が説得力をもってせまってくるようなものではない。そこには、詩の論理がないのだ。詩の論理とは、単純に連をまたいでつながっているものがあったり、同じ言葉が言い換えられたりすることによっては生まれず、おそらくそれは言葉やイメージ同士をまとめあげていく(下支えしている)もの、あるいは作者の中で(読者の中で? 作品の中で?)言葉やイメージを生み出していく波のようなリズム(思考回路? 無意識かつ身体的な反能?)として、脈動しているのだ。そしてそれは、おそらく、頭で考えられる色々な主義主張そのものの根底にもあるものである。
 この“脈動”と、「流脈」とは、重なり合ってくるのだろうか。それとも、全然違うものなのだろうか。夜とは何なのか。そこにおいて我々の生とは何なのか。私の考えと寄り添ってくれるせよ、それを完膚なきまでに打ちのめすにせよ、もっとこの詩には見せてほしかった。この夜、この生、この眠り、そして、ここに並べられた言葉たちやフレーズたちの底にある、この詩自身の姿とまなざしを。



・余談一 先に詩の論理とフレーズの話をしたが、無論、ワンフレーズで詩になっているものもあるし、そのようなワンフレーズを散乱させることで独特の風通しのよさ=空虚感を生む詩法も最近はよく見かける。しかし、そのような場合、フレーズが詩の論理を自らのうちに胚胎できたからこそワンフレーズとなるのだろうし、それを散乱させる詩法においても、フレーズを散乱させている拡散した皮膚感覚なり拡散した世界なりが存在しないと、その詩はたちまち「ちょっと言ってみたかっただけ」的な空疎なままごとに堕してしまうのだろう。

・余談二 個人的なことをいうと、この詩の死生観には刺激を受けるし、私自身とつながるところも感じた。「眠ってしまえばいい」という言葉を受けて真剣になったのも本当だし、先に挙げた“最もたちの悪い解釈”をして泣きそうなくらいぐっと来ちゃってたのも、他でもない私なのだ。しかし、この詩はやはり、そのように読んでいるわけにはいかない、と私は思ってしまった。都合のいい幻想を押しつけて愛を語るよりも、相手の姿を良い所も悪い所も込みでじっと見つめて、残酷なくらいに見つめ認めて、そこからお互いにつながっていきたい。歩み寄っていきたい。私はいつでも、そう考えているのだから。

・余談三 上の余談二で私がついうっかり書いた「つながって」という言葉。ここにある「つながり」信仰を、この詩にはもっと最後までぶっ潰してほしかった。「肌の触れあう弾力や/握った手の汗ばむ不快さを/何かとつながっている手応えだと思えるなら/眠ってしまえばいい」という第二連を読んだ時、私はすごくムッとすると同時に、すごくワクワクしたのだ。私の考えがぶち壊されて、そこに何が見えてくるんだろう。その景色に、私は恋焦がれていたんだ。切ないくらいに。切ないくらいに。

・余談四 批評を書くと、自分のバカさ加減が暴露される。だから嫌なんだ。たりぽんさんのような猛者を相手にすると、単にわかってないやつがギャーギャー言っているだけのように見えてくる。自分でも、そう見えてきているのだ。詩作品に対して、作者に対して、そして誰より読者に対して、何とも申し訳ない話である。

2005年12月10日土曜日

【批評ギルド】 「林檎葬」 半知半能


●はじめに
 いまさらながら、私の批評に対するスタンスを少し書いておきたい。別のところでも言っているように、私はもともと小説を書いていた人間で、一時期(といっても、丸三年以上)詩の方に全精力を注いだことはあったものの、今はまた、小説に戻っている。
 そのような私にとって、詩を批評することは、かつてのように詩を書く者としての自分に引き付けた行為ではなくなっている。もっと簡単に言おうか。私が今詩を読む読み方は、非常に冷静で残酷だ。
 小説書きから見た場合、やはり、詩の形式性と言うのは意識せざるをえない。「え? なんでこんな所で改行する必要があるの?」「なんで句読点がないの?」「なんでわざわざこんな形で書いているの?」そのような問いが、読むたびに沸き起こる。そして、詩の内容も何もかも、そのような形式性とともにしかない、とまで思っている。そのため、私の批評は、いきおい技術論的になってくる。少なくとも、技術論という回路を通ってのものとなってくる。それはまた、小説しか書かず、詩のことは反吐が出るほど嫌悪していた私が詩を書けるようになるまでに通った回路でもあり、詩はやはり、何がしか技術的なものと切っても切れないものだと思っている。
 そのような私の批評が嫌ならば、批評ギルド依頼の際に、「あをの過程はご勘弁いただきたい」とでも書いてくれればいい。私と関わり、私の意見を聞いた者の多くが「詩を書きづらくなった」と言う。それは、私の書き方、考え方が、まさにその書きづらさの只中で見出されてきたものであるからに他ならないのであって、詩を自由に歌える人は、私の話を真剣に聞いても却って重石になるだけではないだろうか。私との関わりもまた自らの土壌にして本当に面白くなってくれているのは、ふるる、海賊、最果タヒなどの数えるほどの者たちしかいない、と思っている(今村知晃は、私が何を言おうが動かされないような凄まじい軸を持っていて、だからこそ、私の毒をかなり浴びた後でも抜群に面白くあり続けている)。
 結局のところ、本当に私の重さを背負い込めるものだけが(あるいは、それをかるーく受け流せるものだけが)、私の批評を受け取ってくれればいいのだろう。私は詩の天才ではなく、詩の邪道であり、小説の悪鬼であって、ふつーの詩人たちにとっては、所詮どす黒い敵でしかない。ただ、私はここで、詩と小説の両方に深く入り込んだという珍しい経歴だけを存在価値として、ただ考えることの手抜きの別名でしかない“ジャンル”も自分の枠にほれ込んでいるばかりの“文学”も形ばかり真似して自意識を守っているだけの“前衛”もブチ壊してしまうような、破壊的な批評・小説(時には詩)を書きつづけていくだけである。

●本文
 半知半能「林檎葬」http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=56777

 不穏さを湛えた詩だ。それも、最後までその不穏さを守りきっている。言葉にはこれと言って無駄もなく、カットするような改行の仕方が、切り取られたような各シーンと対応していて、歯切れがいい。

>(中央から濡れていく
>     ひりひりと)

 この出だしは、どうしようもなく性愛を思わせる。「中央」という言葉についてはこの詩の後の部分でも触れられる。食と、かじることの痛みにも似た確かさとの相似性、そして、それらと対照的に浮き彫りになる喪失の感覚とがこの詩のモチーフになると思うのだが、その中央に覆い被せるようにして性愛を読み込むと、よりこの詩が生き生きと(あるいはひりひりと)してくるように思える(このことについては、また後で触れる)。

>赤い林檎を剥いて
>がぶりと噛み付き一口目
>昨日の出来事
>不思議な果実の甘さ が
>歯に沁みる

 この連の冒頭二行は、肉感的な描写が利いている部分だと思う。特に、「がぶりと噛み付き一口目」という部分は、最初の擬音語と最後の体言止めとで七五調を始め、綴じているわけであり、インパクトも体感度も抜群である。
 その後で「昨日の出来事」と突然挿入されるのも素晴らしい。改行が映画のカットバックのように見事に機能している。ただ、「不思議な果実」というのは、何がどう不思議なのか、最後まで明らかにされないので私の中に不満が残った。むろん、その不思議さについてこの詩は書いているのだ、と言われればその通りだろうが、それならば、この詩の展開は明らかに途中から道を踏み外している。

>歯に沁みる

から

>涙が
>(ひりひりと)

へのつながり方は、「歯に沁みる(心に沁みる)→だから涙が出てくる→心と歯と頬とが、ひりひりする」みたいなつながりが読めすぎて、いちいち改行してしかも連まで変えて思わせぶりに書かなくてもいいじゃん、という気になってしまう。
 たしかに、この思わせぶりさもこの詩の緊張度を高めるのに一役買っているだろうし、「涙が」の部分にはそれほど違和感を感じなかった。しかし、ここで(ひりひりと)をリフレインするのは、ちょっとあざと過ぎるのではないだろうか。わざわざここまでやるほどに重い位置づけが、この部分にあるのだろうか。心が痛んでいるということなどなら、別に他の部分でも(あるいは、このようなリフレインを使わなくても)書ける。それでもなおリフレインするなら、それだけこの(ひりひりと)を大事にしてやるべきだ。しかし、この後でこのリフレインは使われていない。作者が途中から、その軸を「がぶり」に鞍替えしている。そのことが、個人的には、ちょっと中途半端に思えた。

>二口目
>には 咽喉が焼ける
>静かに出来上がった誰も居ない空間が
>電撃ヲ走ラセル
>一瞬だけ

 改行の仕方と、行ごとの展開の仕方と言うか、切り返しの仕方と言うか、リズムの付け方と言うか、魅せ方と言うか、――とにかくそんなものとがあっていて、読んでいて心地いい。四コマ漫画とかあるが、あれはコマとコマとの間でどのような展開を作るか、どこまでコマとコマとの間を離すか、そしてその距離を各コマ間でいかに調節して山を作るか、などの判断を必要とする。この詩は、全体的にそのようなリズム感に優れていて、この連については、特にそう思う。
 「一口目」の時は体言止であるため、当然「二口目」でも読者はそこで一旦文章が切れるように思う。それを「には」ではぐらかして、その後独立したワンフレーズとして出される「喉が焼ける」の強烈さ。三行目の長ったらしさはそこに書かれているもの(「静かに出来上がった誰もいない空間」)を正確に形象化し、それが「電撃ヲ走ラセル」で一瞬にして引き裂かれる。その、切り返しの鋭さと速さとが心地いい。「一瞬だけ」というのは、その切り返し(あるいは「電撃」)の速さを受けるとともに、そのいささか大仰な言い方をやわらかく(そしてちいさく)閉じ込める。実に素晴らしいバランス感覚だと思う。
 
>三口目を
>飛ばして四口目 引火

 飛ばすなよ、とも思うが、やはり、ここではそのやり口がきちんとスピード感を生んでいる。「飛ばして四口目 引火」という部分を一行に閉じ込めるのは、これ以上ないほどのいい判断であったであろう。実際、読んでて、ここから身体が一斉に熱くなってくるように感じる。

>追い駆けな かった
>26時
>電車の通る音 の様な  物
>伝道熱の逃げ残りが空気に浮かんでは赤くなり

 改行、そして分かち書きが切り取る事物の、確かな手触り。そして、長文が孕む時間の中で熟していく感覚(ハイデッガーが好きな人なら、ここで時熟と言う言葉を思い出すだろうか。ZONEが好きな人なら、実夕という言葉の持つ広がりについて思い至るかもしれない)。この手の手法の見本のようだと思う。
 「伝道熱」という言葉は「伝導熱」の誤りだろうか。むろん、「伝道」とすることで、「林檎」の持つ一つのイメージにもかなうだろう。というか、これをキリスト教的なシンボルと読むことで、「神を目指しすぎた男がそれゆえに知と肉欲の罪にはまり、しかもその対象たる林檎も食うことで失ってしまった(その芯はついに食しきれないまま)」という読みも可能になろう。そう考え出すと、「三角」という言葉や「三口目」を飛ばすことにも相当な意味合いが出てきそうなのであるが、やはりこれも深読みであろう。なぜなら、この手の路線が、結局、最後の連につながってこないからである。逆に言えば、この手の読みを受けきれるだけのものが、最後の連で提示されていないからである。

>熟れて堕ちる前に甘く香る

 前の行で空き枡無しの長文を使ったのだから、その次で同じような手法を使ってしまうと、この文も一緒に流して読まれてしまう危険があると思う。ってか、正直、この一行で言いたいこと、というか強調したい部分、あるいは与えたい効果はなんなのだろう? いや、もっと適切にこう言おうか。この一行を書いた時、作者はどこが気持ちよかったのだろうか、と。言葉として、作者に驚きにも似た快感(表現した、という満足ではなく)を与えないような言葉は、読者にとってもむろんつまらないものである。

>がぶり がぶり が ぶ ri( )

 語の分割、ローマ字表記、さらには、たぶん虚無や沈黙を表すための丸括弧。自分としてもやったことだから、こういうやり口にはちょっと厳しくなってしまう。いち読者として読んでたら、前の行とこことで鼻について読むのを止めていただろう。括弧についても、後で出てくる「五口目には虚空を噛む」と近すぎて、読んでいて何と言うか、予定調和のようなつまらなさをうけるし、ましてやriについては、「が」「ぶ」とわけて、それでも分けらんなくなったからとりあえずローマ字にしてみました、という風に受け取れてしまう(いや、それは私が悪意を持って読みすぎなだけか)。とりあえず、分割したりローマ字化したり、そういう変わったことをする場合には、それに見合っただけの表現の強さというか、そうすることでたしかに表れる何がしかの効果が要るのだが(それがないと、ただ巧く見せようとして意匠だけを借りてきたように思えてしまう)、ここにはそれが無いように見えるのだ。

>五口目に虚空を噛む
>戸 残った靴下 唇 
>(芯は捨てないでね) 
>果肉を嚥下して胸の中で六口目
>唾液が酸味を惜しんで泣いている

 ここも、この作者の、優れた叙景力、叙情力を表す部分だろう。「五口目には虚空を噛む」という、矛盾していると言えば矛盾していると言える表現が持つ、無力感とかはぐらかされたような感覚。その後で見えてくる、個々の事物の確かさ。無力感と事物が確かに見えることとの間にあるつながりについては、たぶん、多くのものが実感することであろう。
 「唇」というのは、失った女の口づけのようでもあり、虚空を噛んだ自分の唇のようでもあり、さらには、蝶番のようにして、今はいない女の言葉にもつながってくる。

>(芯は捨てないでね)

 不在の者の言葉。そこで語られる「芯」は、話者にとっては二重に不在である。なぜならば、それを語っている女=林檎は既にいないわけであり、さらにその芯=中央となる部分は、「果肉」と違って食うことができない部分だからだ(いや、だからこそ、最終的に話者はその林檎を失うことになったのか)。その、二重に不在の部分である芯=中央が、失われたものの中で手に入れることのなかったものとして、不在でありながら(いや、だからこそ)恐ろしい存在感を持って、声とともに響いた気がした。
 「中央から濡れていく」というのは、最初の行に出てきた言葉だ。そして、ここで出てくる、手に入れることのできない「芯」。最初に濡れ、最後まで犯されないこの場所こそが、人間の生きていることの、核ともなるものではないだろうか。というか、我々はそのような中央を持ちつつ、生きているのではないだろうか。「果肉」が人の人としての部分、奪われ犯される肉体を表しているなら、この「芯」は、不可侵の部分であり、おそらく、神にもつながってくるものなのだろう。しかし、その「芯」は我々人間にとって、二重に不在なのだ。
 林檎と女とを重ね合わせることで、この詩は、普通は書くことのできないはずのものであるものを「芯」という形で見出している。あるいは、その重ね合わせが奇妙なねじれを生むことによって(むろん、女性が濡れ始める「中央」としての女性器は、「芯」ではなくある種の空洞なのだ)、「芯」というものがただの比喩を越えて、倍音のように不在を響かせ、不在であるはずの「中央」がたしかな芯となり、芯となりながらそこから濡れ始める。重ね合わせがきれいにいった場合、比喩はAをA'に移し、BをB'に移す作業の集積のようになってしまうのだが、この詩では、Aが7に至り3がGとなるような、素晴らしい効果を生んでいる。
 ただ、ここで小説家らしいとんでもないいちゃもんをつけるとすると、やはり最後の行、「「唾液が酸味を惜しんで泣いている」って、要するにつばが出てくるってことでしょ? だから?」ということだろうか。「酸味」と言う部分に、女との生活が決して甘い物ではなかったものを比喩しようとしていたり、あるいは林檎を人肉食と結び付けようとしていたり(人肉って、酸っぱいらしいですね)、さらには「泣いている」自分の姿をどうしても書いておきたかったり、という風な作者の思いを読み取ることはできるのだが、でも、そうやって作者の都合だけで比喩的に言い換えたような表現こそが、詩で一番面白くないものだと私は思っている。
 だって、それって「で、それで?」で終わってしまうやん。「このバイオリンの調べは、葉が風に揺れているのを表したものです」って言われても、聴く人にとってはそのバイオリンの調べがいいものかどうか、それが自分に染み入ってきたりあるいは自分を不穏にしたりして、感情を動かしてくれることが大事なわけで、表現が何かの置き換えに終止している場合、もっと言えば「置き換える」という作業の内部に留まっている場合、それは読者にぶち当たらないただのお手玉、要するに作者の自慰にしか過ぎないのではないだろうか。

>短い回顧を
>真空に閉じ込めて
>三角コォナーに放る (gaburi)

 ここの(gaburi)には、やられた。先ほど文句を言った丸括弧の部分だが、そこでも書いた空白の中に、あの音が入って戻ってきた、と感じた。鳴らないはずの音が、存在しないものの中で鳴っている。しかも、食うという行為からは離れて、捨てる際に遠く(言うまでもなく、先ほどまでの平仮名表記から、ここではローマ字表記に変わっていて、それが先ほどまでの音と帰ってきた音との差異というか、ある種の距離を感じさせる)、鳴る。二重の不在である「芯」の、唐突な(そして不在のままの)回帰。
 丸括弧で沈黙を表すのは凡庸だが、その中でさらに音を鳴らした、というか音を回帰させたのには、正直脱帽するしかない。なぜ? この音が、恐ろしいものだからだ。私の近く、というか私から台所の三角コーナーまでの距離くらいの遠くで、その音が確かに鳴ったからだ。それと同時に、私はたぶん、そこに目には見えぬ誰かがいるような(そしてその「芯」が明確な音として聞こえたような)気がしたからだ。作品中の登場人物と言うある種不在(だって、フィクションの中の登場人物は、実際にこの世界にはいないものである。少なくとも、我我はそう思っている)から、現実のこちらの世界へと、これまで存在したこともない体感が“帰って”きたからだ(そしてそれこそが、宗教や芸術の一つの方向性であろう(というのは、むろん余談だが))。

>簡単な葬儀
>謝らなくても良かったのに
>寄りかかった白い壁に
>林檎の赤い爪

 ここも、叙景力・叙情力に優れた部分。けれど、ここまで来ると、もうそろそろその先を見せてほしい、とも思う。この詩は、恋人を失った男の心情を、印象的なシーンを使って印象的に描き出すだけで終わっていいのだろうか。そのシーンや心情の奥にあるもの(あるいは、ずっと手前にあるもの)について、そろそろ真正面から見つめ直し、考えるべきなのではないだろうか。

 この後の散乱している部分については、まあ、それなりに面白いと思うし、「赤い/君が/行ってしまった」というつながり方は、かなりドキッとした。けれど、やっぱりどこかもどっかしいというか、こういう形にすることで誤魔化されている部分があるように感じて、――もっと詳しくいうと、これだけの行数を使って書いてあるものと、これまでの部分を読んできて読者としての私の中で生まれてきている考えや期待なんかとが、どうもつりあいを取れていないようで、いまいちピンと来ないと言うか、作者としてもここまで書いてきて、自分の中で膨らんできたもの、見えてきたものなどがあるはずなのに、それに挑むことをせずこのようなそれなりの手法で薄めた詩行だけでやり過ごされているように感じて、それがちょっと(書くと言う点で、考えると言う点で)手ぇ抜かれているように思えて苛ついた。

>放った手には切ない香りが染み付いて
>消えてしまった何かを
>未だに見つけようとしている

 この最後は、なんか、それこそ未消化な表現であると思った。結局、この三行、この詩のこれまでの道程がなくても書ける気がするのだ。詩は移動、という言い方をしたのはたしか和合亮一だったが、やっぱり、書いていくと言うことは行から行へ、連から連への旅なのだから、それをへて何が見えるか、というのが最後には大事ではないか、と小説家の私は勝手に思っている(いや、あえてそこで移動ではなく反復を見せる、というのも当然ありうべき文学的姿勢なのであるが、けれど、そこまでの意識も、ここからは感じない)。そうしないと、これまでの部分が無駄になってしまうし、読者としても、「ああ、結局、それだけのことだったのね」で終わってしまう。もっと、どこかに辿り着いてほしい、そこで何かを見てほしい(それと同時に我々に見せてほしい)。
 これは読者のわがままかもしれない。しかし、このわがままは同時に、書き手の、そして詩の中で脈打っているわがままでもあろう。そうでなければ、わざわざなぜ、書くのか。

 そうそう。後で書く、って書いた「中央」と性愛について。
 余談なので書かなくてもいいのだが、あえて簡単に書いておくと、性欲は食欲ともつながるものである。しかし、性行為はどうしたって相手との完全かつ永遠な同一をもたらしたりはしない。男性器は、女性の完全な中央には同化しないし、ましてや女性器は男性器によって自らを完全に埋められ一つになることはないのだ。中央の不可侵。それは個人を守るものであるとともに、個人を孤独に追放するものでもある。このことは食とも重なる。なぜならば、我々は果肉を食しても、その芯を食すことはできないからだ。そして、これらの重なり合う場所に、ひりひりとする我々の悲惨が現れている。逆に言えば、そのような悲惨を通して、我々はひりひりする自らの存在を、世界から切り離されてあることの確かさと悲しさとを感じるのであろう。(しかし、逆説的にだが、我々はその悲惨の中央にある空洞を通して、切り離される前の世界につながっているかも知れず。「(芯は捨てないでね)」という言葉が不意に響く場面、あるいは沈黙の中への唐突な「(gaburi)」の回帰などから、そういうことを考えた)
 言うまでもなく、林檎は知恵の実であると同時に、アダムとイーヴに愛ではなく肉欲をもたらした実でもある。そして、その実を食べたことによって、二人は楽園を追放され、肉体を持った人間として、欲と悦楽と喪失と痛みとに晒されるようになった。彼らが食うことのなかったであろう、赤い実の芯は、今も我々の肉の中の空洞として、ひりひりと、そこから濡れ始めている。

●終わりに
 なんか、いつも以上に辛らつかつ長々しい批評になったことを、お詫びします。ここまで読んでいただいた皆様には、心からの感謝を。でも、やはり、話半分で聞いてくれるのが、私の批評に対する最も安全な向き合い方であるでしょう。それは、作者である半知半能さんにとっても、なんら変わりのないことだと思います。
 この分量と気合とで批評を書くことは、正直、かなりしんどいことであります。批評ギルドに名前は載せてありますが、基本的には、月一くらいの活動になることをご了承下さい。ただ、個人的にご指名やご依頼を受けた場合は、極力それに応えたいなと思います。もし、そんな奇特な方がおられれば、の話ですが。