2005年8月21日日曜日

「Ishkar」 scene 10


 座席の近くに誰かが立った時、水橋は窓の外で流れていく景色を眺めていた。気配を感じて目を通路側に向けると、赤いシャツを着た男の胸と肩とが見えた。
 「隣、空いてますか?」
 男はやせていて、たぶん四十一、ニ歳くらいだった。髪が短く、メガネをかけていた。
 「ええ、どうぞ」
 景色を見ているのとあまり変わらない気分で、水橋は答えた。男は「ありがとうございます」と言いながら、水橋の隣に腰かける。水橋はまた外の景色を見ていた。男は水橋の横と言うか後ろと言うか微妙な位置で、シートにいっぱいにもたれてほっとしたようなため息をつき、少し姿勢を正してから、カバンから猛然とノートを取り出して何かを書き始めた。先の細いペンが、カリカリカリカリ紙の上で音を立てつづける。
 水橋は何を書いているのか気になって、ノートの方を盗み見た。それは、散文のようだった。黒色の水性ボールペンで、ノートの幅いっぱいに文字が横に連ねられていく。そして、次の行、また次の行。何のことを書いているのか、横から盗み見ている水橋の目には、詳しく読み取ることはできなかった。
 「僕、小説を書いているんです」
 男がそう語り始めたのは、電車が新札幌駅を出てかなり行ってからのことだった。水橋はその時、札幌駅で一緒に乗り込んだ高校生の方を、見るともなしに眺めていた。高校生はネックフォンをかけ、新型の携帯音楽プレイヤーか何かで、音楽を聴いている。手に持った情報誌の表紙には、輪郭のさっぱりとした薄型テレビや、どこか有機的な丸みのあるシンプルな椅子などが並んでいた。それらの写真はどれも小さくて、互いに入り乱れることもなく、格子状に区分けされたそれぞれの領域の中に落ち着いている。
 「へえ、そうなんですか」水橋は、男の方に少し首をひねって、返事した。「どんな小説を書いているんですか?」
 「現代の諸問題の深層をえぐる、人間ドラマです」男は、迷うこともなくそう答える。「それで、今は、取材旅行に来ているんです」
 「取材旅行? 北海道の、……え? なんで北海道の?」
 水橋にはよくわからなかった。取材旅行と言うのが何かもよくわからないし、北海道の何を取材するのか、そしてそもそも、なぜ北海道を取材するのか、彼には見当がつかなかった。
 「やっぱり、今こそ北海道でしょう。知床の世界遺産登録、北海道新幹線の起工、それに、甲子園での駒大苫小牧の夏連覇!」
 男の声が大きくて、水橋はなぜか恥ずかしい思いをした。興奮する彼の様子が、この電車や外の風景から、あまりにも遊離している気がする。女の子は、今は自分の履いている靴や靴下の方をじっと眺めていた。そう思ううちに、バネが跳ね上がるような唐突さで、窓の外に両の視線を投げかける。その目は真剣で、あまりに真剣でどこかおそろしくて、そのおそろしさがとても美しかった。水橋は隣の男のことも忘れて、その、遠くを見るまなざしに見とれていた。

 「その主人公はね、父親はいなくて、ずっと母親にいじめられて育ってきたわけなんですよ」
 電車が北広島の駅で停まっている間、さすがに男は黙っていた。しかし、数人の乗客が降り、新しい乗客が車両に顔を見せ、そうして電車が再び走り出すと、男はまた、待っていたかのように話を再開した。それが何の話だったか、水橋にはもうわからなくなっていた。
 「ここらへん、今の児童虐待をテーマにしているんですよね」
 控え目に微笑むその笑顔に、どこか自信の色が見える気がした。窓の外には、ところどころに寄り集まりながら散らばる家と、ぽつり、ぽつり、と生えているこんもりとした木々が見えるだけで、それ以外の場所には平らな地面が、特に何のためというわけでもなく、ただ、開けていた。
 「それで、彼は大学生になって、偶然知ることになるんです。彼の父親が、今は北海道で住んでいる、と。なぜ父と母は別れたか、なぜ父は自分から遠く離れたのか。それを知りたくて、彼は北海道に向かう。けれど、そこで過酷な運命が待っているんですね。どういうことだったと思います?」
 高校生は、情報誌をバッグにしまって、また、ケータイをいじっていた。しばらくして、そのケータイで電話をかけ始める。隣の男は、水橋の返事を待ちながら、高校生に向かって露骨に眉をひそめた。話題は、駒大苫小牧高校の甲子園連覇のことらしかった。
 「いやあ、……あれはほんとすごいっしょ。信じられない」まるで自分のことのように、まぶしい笑顔で笑っている。「だって、冬なんて雪で雪で、グラウンドなんてカンペキ埋まってしまってるのに。ノックもランニングも、どこでやるんだってくらいだし」
 「なんと、父親は、殺人犯だったんです。それも、母親の無二の親友を強姦して殺してしまったんですよ」
 痺れを切らしたように、男が話をつづけていく。しかし水橋は、話の切れ目ごとに生返事をするのが、精一杯だった。
 「……だべ? ほんと、連覇はありえないって。去年もたまげて、涙出そうなくらい感動して、したら、今年も優勝って、……なあ、もう、最高すぎ」
 高校生は、そう言った後で、右手に持っていたケータイを左手に持ちかえた。その一瞬、水橋の目に、高校生の赤く破れた厚い掌が飛び込んでくる。
 この人も野球をしてるんだな、と、水橋は思った。車両の一番前で立つ彼の、痛々しいまでの傷と、よく焼けた肌。「ノックもランニングも、どこでやるんだってくらい」の冬も越えて、立派に鍛え上げられてきた体格のしずかさと、それとは不釣合いなくらいに弾ける、若々しい笑み。自分の見てきた伊賀や京都と同じく、ここにも野球に励む高校生がいて、そして、生身の人間として生きている。そんな当たり前のことが、水橋を強く強く打ち据えた。
 窓の外の景色の、すき間のように広がっていた地面を、真っ白な雪が分厚く埋めていく。家々の中では火が焚かれ、門の前や屋根の上で、雪かきに汗を流す人もいた。あてもなく建っていたような家は、今は頑丈な防壁となって人々を囲み、強大すぎる雪の侵攻から人間をどうにか守り抜こうとしている。除雪車によって均された車道の上を、ごくまれに車が走っていくのが、長く長く望まれた。空は頻りに閉じられて、それから二日や三日の間はずっと、粉みたいな雪が延々と風に狂いつづける。
 その中で、人は生きていく。時々は笑い、時々は泣く、――そんな普通の表情を、自分の顔に次第に深く染み入らせながら。起き、眠り、食べ、排泄する。水を飲む。怪我もするし、恋もするし、時には具合も悪くなるし、歳もとる。走って息を弾ませることもあるだろう。彼らも生身で、生身の身体で、生きている。自分の場所で。一人の人間として。
 そしてそれは、夏の北海道でも、何も変わらないはずなのだ。高校生の赤い掌を思い出しながら、水橋はそう考えていた。外の景色に雪はなく、陽はどこまでも穏やかだった。走っていく電車の中からは、人々の姿は見ることができない。しかし、それでもここには人がいて、彼らの生きる、毎日の生活と人生とが息づいているのだ、きっと。水橋は、その、北海道の命の息遣いを、もっと肌身で感じたいと思った。
 「……まあ、そういう経緯で、主人公は生まれたんですね。で、それを知って、当然ながら悩むわけです。だって、自分が残虐な殺人犯の息子なんですから。人間の極限状況ですよ。これ、実は三浦綾子の『氷点』のテーマと重なるものでもあるんですけど。『氷点』、読んだことあります?」
 女の子は、外の景色にも飽きたのか、両親の持った旅行ガイドの表紙をじっと見つめていた。そして、ため息を一つつくと、電車の中を見回し始めた。思い出したように、水橋の方を向く。水橋は、今度は自分から、女の子に笑いかけた。女の子は、少し怪訝そうな顔をしてから、小さく笑顔を返してきた。そしてまた、両親の方に向き直る。
 車両の一番前、こちらに向かって立っている高校生は、目を瞑り、ネックフォンから聞こえる音楽に、ゆったりゆったり首を揺らしていた。

 ――うらやましいですね。
 「は?」
 ――自分がどうして生まれたか、自分がどうしてここにいるのか。それを知ることができるというのは、そしてそれを信じることができるというのは、正直うらやましいことだと思います。僕はそれがわからなくて、というか、むしろそれがなくなってしまったような気がして、それで苦しんでいるんですから。
 「……何ですか、それ。それは、彼の苦しみを知らない人の、勝手な言い草ですよ。大体、彼の苦しみを、あなたは想像することもできないでしょう。今の若い人は個人主義的で、自分のことしか考えませんからね」
 ――そうかもしれませんね。でも、あなただって彼の苦しみを知らないでしょう。あなたは作者であって、彼自身ではない。もしかしたら彼も、本当はそのことに苦しんでいるのかもしれません。自分が誰かに作られたものであって、自分に降りかかる苦しみでさえ、それは誰かに書かれたものである。自分の人生を、自分が生きられていない。何ていうか、そういう、事実に。
 「だって、それが小説でしょう。……それに、あれですよ。僕らはみんな、誰かによってどこかに産まれたわけですよね。それなのに、あなたみたいなことを言ってたら、誰も彼もが、自分の人生を生きられないことになりますよ」
 ――そうですね。
 「みんな、それぞれの人生を歩んでるんです。馬鹿にしちゃいけません。それを放棄しているのは、ニートとかオタクとか、あなたみたいなモラトリアム人間ばかりだ。現に僕は、誰に縛られることもなく、自分の人生を歩んでいるんです」
 ――そうでしょうか。
 「そうでしょうか、ではありませんよ。僕らは自分の人生の登場人物じゃなくて、作者なんです。僕は、電車を降りますよ。自分の人生を生きる者として、この電車を降ります」
 ――僕も、もう少し先の駅で降りることにします。それで、最後に一つ、聞かせてもらえませんか?
 「ちょっと、……おい。どこを向いて話しているんだ」
 ――作者は、作品から自由なんですか? 登場人物は、作品の中に本当に生きているんですか? 僕らは、どこにいるんですか? どうすれば、一体どうすれば、僕らは僕らとして存在できるのですか?