この舟にひとりひとりと菜種梅雨 |
2006年4月17日月曜日
「私」という技術
ええ~っと。何だかむずかしそうなタイトルですけど、今回は、くだけた感じで書いてみますね。まず、何で書くかと言うとですね、よく、詩を書いている方で、技術のことをすごく嫌いな方がいますよね。そういう人にとっては、たぶん、詩の技術って言うのは、「詩を綺麗にまとめるためのもの」「詩をかっこよく見せるためのもの」って感じだと思うんです。で、そういう技術が嫌で、「自分はありのままの気持ちを書くんだ!」みたいなことを主張していらっしゃる。いらっしゃるわけです。 でも、私にとっては、技術ってそう言うものじゃないんじゃないかな、って思うんです。じゃあ、どういうものなんだ?と言われると、なんか、「「私」という技術」としか言えないんですけどね。でも、それじゃあ意味不明でしょ?(笑) だから、何とかその「「私」という技術」のことを書こうかな、と思ったわけです。 いきなり話はトビますけど、みなさん、「正座」にどんなイメージを持ってますか? 窮屈? 足がしびれる? 体罰のひとつ? 束縛されていた古い日本の遺物? たしかに、私もそのように考えてました。足もしびれるし、こんな姿勢を強要されてた昔の人って不幸だったんだな、なんて思ってました。でもね、大学に入って合気道をやるようになって、そこで、膝行(しっこう)っていうのを教えてもらったんですね。これは、正座した姿勢から立ち上がらずに移動するってものなんですけど、むずかしいんです、これがまた。でも、これができなきゃ話にならないってことで、頑張って稽古しました。膝が破れて胴着の腰下(こした)が血だらけになるくらいに稽古しましたよ、ええ(笑)。 そしたらね、どんどん楽になってきたんです。正座でいることも、そこから動くことも。なんにも無理しなくても、正座の姿勢から自然に前に進めるし、後ろにも下がれるし、くるりん、と180度回転することもできる。た~のしいんだな、これが。いちいち立ち上がらなくても、何でも出来ちゃうんですから(笑)。 これが楽だってことは、うちのおじいちゃんが亡くなった時のご葬儀で実感しました。ご焼香とかの時に、「よっこいしょ」って立ち上がって前に行って、戻って来て、また座って、なんてことしなくてもいいんですよ。正座している所からさっと前に出て、そのままご焼香を済ましてさっと後ろに下がって、はい、おしまい(笑)。 そもそもね、正座っていう姿勢は、今のように椅子やテーブルのある時代に生まれたわけではないわけです。腰かけるところもなくって畳に直に座らなければならなかった時代、それにくぐり戸とかの背の低い戸とかが普通にあった時代に生まれたわけですよ。足を伸ばしていてそこから「よっこいしょ」と移動したりするんじゃなく、いちいち腰を曲げてくぐり戸をくぐったりするんじゃなく、正座を基本にしてそのままで移動できたら、動きもスムーズだったろうし、何より、そういう建築の条件に束縛されなくて自由だったと思うんですね。逆に言うと、正座と言う一つの姿勢の中に、日本の建築が生み出す空間が現されていたんだと思うし、そのような建築空間を生んだこの日本の風土とか精神性とかも全部現されていたと思うんだわ。正座は、そういう日本の世界観と言うか宇宙観みたいなもの、そういうものが形になったものの一つだったんじゃないかな。それも、ただその環境の中で束縛されてるって言うんじゃなくて、その環境の中にいながら、同時にその環境を超えて自由であるってことだったんじゃないかな。そう思うんですね。 こういうことを書く時、いつも思い出すんですけど、みなさん、『千と千尋の神隠し』は観ました? あの映画の中で、主人公の千尋は最初、引越しで小学校の友だちと離れることが嫌で、駄々をこねているんですね。それこそ、手足をばたばたさせて。で、そういう千尋が古い日本みたいな別世界に紛れ込んじゃうわけです。その時、千尋はずっこけまくっているわけです。くぐり戸では頭を打ち(たしか)、雑巾がけをしては滑ってぺしゃんこになって。 そんな千尋が、たしか映画の後半になった辺りで、くぐり戸をくぐるシーンがあるんです。その時、千尋が正座の姿勢のままですっと戸をくぐって、戸をぴしゃっと立て切るんですね。ここ、私にとっては、「わー」としか言えないシーンなんですよ。そして、千尋はその別世界から帰ってくる時には、自分の身体の扱い方も心得ていて、友だちと離れる悲しさに向かい合うやり方も知っている。そして、自分の気持ちに引っ張られて駄々をこねるんじゃなくて、その気持ち全体を抱えることも見つめることも誰かに伝えることも出来るようになっている(少なくとも、観客である私には伝わっちゃった)。それが、すごいなあ、と思ってしまったんです。 もちろん、こんなことを書いているからと言って、私は「今の若者に正座を教えるべきだ」なんてことを考えているわけではないですよ(笑)。だって、私たちは椅子とテーブルのある時代に生まれたわけだし、正座は日本の建築空間や宇宙観と結びついてこその正座であるわけで、結びついているからこそ、そこから自由にもなれる姿勢だったわけでしょ? そういうものから切り離されたただの正座、正座のための正座を練習したって、そんなの、意味ないっしょ。だべ?(笑) んでね、ここから詩と技術の話に戻りますよ。やっとだわ(笑)。 私たちってね、どこにいても、その環境から自由ではないんだと思うんです。例えば、「自分の気持ちを自由に書きます!」って言っても、それは私たちが持ってる日本語を使って書かなきゃいけないでしょ? それに、私たちが「自分の気持ちを正直に」って言っても、それは結局は、「自分の気持ちを正直に表現する文章」を真似ることになっちゃうかもしれないわけです。 悲しいから「悲しい」って書いたとしても、それは、元々は言葉で書かれていない感情と言うか、もっと大きいもののことを、ただ「悲しい」っていう言葉にしただけで、その感情の中にあるもっと大きいもの、悲しいと感じている私の全体とか、そもそもその何かを悲しいと思う自分のこととか、その自分と関わってくるこの世界の色々なこととか、それと自分が関わっている関わり合い方とか、……そういうものは、書けないことになっちゃうよね。 しかも、そういうのって結局、「あなたが今直面していることは「悲しい」って言う感情なんですよ。それを「悲しい」と書くことが、あなたの気持ちを正直に表現したことになるんですよ」っていう誰かのささやき(笑)にそそのかされただけだべ? 騙されてるよ(笑)。それって、本当に自分をありのままに表現したことになるのかなあ? それってね、私にとっては、なんだか駄々をこねてる千尋みたいに思えるのさ。自分の気持ちを全身で表現しているように見えても、実際は自分の気持ちとか、気持ちを超えてもっと大きいもの、えーっと、世界って言うか「私」? その「私」全体のことを見られていないし、見るための術も持ってないし、その全体を伝える術も持っていなくて、ただ、不自由さの中でもがいているだけ。そういう風に見えてしまうんです。 でもね、そんな千尋も、その術を手に入れるわけなんです。ちょうど正座と言う一つの姿勢がね、一つの姿勢の形をとって日本の建築空間や宇宙観を現していたように、表情だとか言葉だとか歩き方だとか、あー……生き様って言うのかな、何かそういうものなんですけど(笑)、そういうものを通して、千尋全体を現すことができるようになってしまうのですよ。この時、千尋は一人の「私」として存在したな、なんて私は思うわけです。映画っていうフィクションの中でですよ、一人の「私」として立ち、座り、歩いていくことが出来るようになった。その動作とか静止とかの一つ一つの形が、すべて千尋の「私」と結びつきあって、形にはならないような大きなその「私」を形一つ一つの中に表現している、そんな一人の「私」としてゆるぎなく存在できるようになった。……う~ん、うまく言えてるのかな……。まあ、そんな風に感じちゃったわけです、はい(笑)。 ちょっと前の部分で、私は悲しいことを「悲しい」って書くことを非難するみたいなことを書いちゃいましたけどね、実際は、それもそれでいいんだと思ってるんです。その「悲しい」って言う言葉の中に、「悲しい」っていう一言では現しきれないような「私」全体が込められているんだったら、それはそれですごい言葉なんじゃないでしょうかしら。 って、こんなことを書くと、何て言うんだろ、詩の技術ってものが、Aっていうものをどれだけ正確にAとして読者さんに届けるか、っていうものになっちゃう気がして、それだったら最初に書いた「詩の技術」と何にも変わりなくて堂々巡りになっちゃうんだけど。違います!(笑) ええ~っと、……詩の技術ってそういうものじゃなくて、そもそもAである「私」を見つけられるようになるための技術って言うか、本当にありのままに見られるようになるための技術って言うか、そう言うものだと思うんですよね。自分でも見られるようになって、それが文章になるから、読者さんにも届く、と言うか。これって、逆に言うと、ありのままに書けるようになることで、自分のありのままの見方が初めてそれとして見つかるって言うことだとも思うんです。再発見みたいに思えるかもしれないけれどね。でも、形になったものと出会うってことは、やっぱり初めての出会いでもあるんじゃないのかな。何度でも見つけて、何度でも初めて会う(笑)。 して、そこで見つかるAである「私」っていうのもね、Bである「私」とかCである「私」とか、そういうものと結びつきあって、「私」全体になっちゃう。そんな「私」全体を、見られるようになる技術。そんな「私」全体が見えてしまうような形や、それを現す形としての技術。詩の技術って、結局そう言うものだと思うんです。それはもっと言っちゃうと、詩なら詩、小説なら小説、音楽なら音楽って言う形を通して、っていうかそういう形を通ることで、そこには収まり切らない自分を、一人の「私」を存在させる技術でもあるんですよ、たぶん。一つの形を取りながらね、その形から自由になっていく。あらゆる形から自由になっていく。昔の日本人が、正座をすることで、日本の建築空間の中で自由になっていったように、ね。 したっけ、そうやって自由になった「私」ってのは、今ここにいるしかない私って言う個人からも、やっぱり自由になれるんですよね。「私」全体を見つけることで、「私」を通して色んな「私」と結びついていくって感じかなあ。逆に言うと、一つの形を取ることで、それを通して、その形の中に「私」と関わる世界や時代とか、もっと言うと時代も何もかも超えた様々な「私」の全体を、現してしまう。よく、芸術の意味みたいなものを、感情移入に求める人がいるっしょ? でも、私にとっては、その感情移入みたいなものも、上に書いたようなところとつながってくるものに思われるんです。 んで、神話とか、非人称の芸術みたいなものもね、これと同じことに、逆の方向からライトを当てているだけなんだと思う(と言ったら、言いすぎかな)。そういうものって、いち個人としての「私」の側から書かれたものなんじゃなくて、それらが結びついていって世界全体になって、いち個人が見えなくなったような側から書かれたものなんじゃないでしょうか。でも、その誰も見えないような世界の中には、やっぱりいち個人としての「私」も含まれていくんですよ。でなきゃ、そもそも神話が人の手によって書かれる必要はなかったと思うし、それが人々の口から口へ伝えられてくることもなかったと思うのね。っていうか、神話の話に限っちゃうと、神話は基本的には口承文芸であるわけで、そこにはそれを謡う人の声や、その人なりの表現とか改作とか、それを聞く人たちの声とかも宿っているはずなんです。して、その人たちの死も越えて、神話はその人たちの声を含みこみつつつづいていく。それはちょうど、「私」が死んでも世界はつづいていくっていうことを言ってくれているみたいで、それだからこそ、神話の口承に関わった人たちやそれを聞く人たちは、「私」の声っていう形を通して、いずれ死ぬしかない私から自由になれたんじゃないかな、なんて思うわけですよ。 現代の非人称芸術になったら、ちょっと話は変わっちゃうんだけどね。口承文芸でもないわけですし。でも、それも結局は、「私が死んでも世界はつづいていく」っていうことを言おうとしているようにも思えるし、映画の中に取り込まれちゃって駄々をこねるしかなくなった私を、私を超えた「私」全体として存在させるために、世界全体を存在させようとしているようにも思うんです。それは別の言い方をすると、個々の映画の世界を一旦更地に返す芸術、個々の映画を超えて広がるスクリーンの白へと還元していく芸術、個々の映画の色に紛れて見えなくなっている白い根底を剥き出しにする芸術、なんじゃないかな。してそれって、やっぱり、世界全体という方向から「私」全体へとつながって、最終的には「私」を存在させる、「私」全体を取り戻させつつ自由にする、そういう芸術だと思うんです。って、やっぱ、いつもの思い込みかな?(笑) なんか、すごいところまで行き着いちゃいましたね。はい、勉強になりました(笑)。このままだと収拾がつかないので、ちゃんとおさらいしておきますね。詩の技術って言うのは、「詩を綺麗にまとめるためのもの」「詩をかっこよく見せるためのもの」なんかじゃなくって、ありのままに見られるようになる形、ありのままに見られるようになることを通してありのままに書けるようになる形、逆に言うと、ありのままに書けるようになることを通してありのままの自分の見方を発見する形、ありのままの自分の見方を何度でも見つけて、それと何度でも初めて出会う形、一つの世界の中でそれに収まり切らない「私」全体を存在させる形、そうすることで「私」を自由にしていく形、世界全体を存在させる形、……なんか、「ありのまま」と「形」ばかりになっちゃいましたけど!(笑)そういうものだと思うのです。一言で言って、詩の技術とは、「私」と世界を存在させる技術、「私」という技術です。まとまりましたね、うわーやったー!(笑) |
2006年4月15日土曜日
小説 「明日のない今日」 (後半)
「何してるの? さっきから」 不思議そうな顔をして、朋子が僕の顔を覗きこんでいる。僕は、自分の右手が胸の前で奇妙な動きを繰り返していることに、その時唐突に気がついた。 「ああ、これね、トリプル・ストラムっていうんだ。ウクレレの弾き方」そう言って、僕はゆっくりやってみせる。「四つの弦を人差し指で弾いて、――あ、ウクレレはギターと違って四弦しかないからね、――その四つの弦を人差し指でこう、下向きに弾いて、次は親指で上向きに弾く、で、最後はこうやって人差し指で上向きに弾く。これがトリプル・ストラム」 「へえ、すごいね」そう言って、朋子はミルク・ティーを飲む。コーヒーは苦手なのだそうだ。店の引き戸の前で、積もった雪を払っている時に、独り言のようにぽそりとそう言っていた。カップを置いて、彼女がいたずらっぽく笑いながら僕をたしなめる。「どうでもいいけど、コーヒーこぼさないでね」 僕は小さく笑って応えると、いつからか自動的につづいていた動きをやめて、コーヒーカップを手に取った。 「でも……」と朋子が急にさびしそうな顔になって、口を開く。「やっぱり、違うね」 「何が?」僕は、変に不安になる自分を感じながらも、できるだけ自然にそう聞いた。 しばらく黙ってから、朋子はしずかに話し始める。「さっきのトリプルなんとかだけどさ」 「うん」 「いや、……波」 「波?」 「うん、波」 そう言って、それきり朋子は黙ってしまった。僕は、再び辛抱強く待たなければならなかった。 「右手の動きとか、それが作るリズムとかが、わたしたちのギターとは違うなあ、と思って」彼女がまた口を開いた時には、僕のコーヒーはぬるく、残り少なくなっていた。「手首のふわふわした動き、バネみたいに弾ける指の動き、わたしたちには、きっと無理だから」 そう言って、彼女は笑ってみせる。それは特別かなしそうな笑顔ではなく、むしろ朗らかなくらいだったのだが、そのために却って、彼女の表情は僕の心にまっすぐ入り込んできた。テーブルの向かいの奥まったところ、僕の手も届かないほど遠いところで、白い顔がさばさばとした表情で笑っている、ずっと笑っているのだ、今でも。 この時、僕は彼女を慰めるべきだったのだろうか。「いや、やってみたら意外とできるようになるもんだよ。気にしないで」とか軽々しく言うべきだったのだろうか。しかし、その言葉は何か、根本的に間違っている気がした。朋子が言っているのは、努力とか身につける能力とか、そういうことでは多分ないのだろう。では、いったい彼女は何のことを言っていたのか。そして僕は、この時彼女にどう答えればよかったのか。 「ねえ、ちょっとお願いがあるんだけど」と朋子は言った。「ウクレレのコード、やって見せてよ。エア・ギター、――いや、エア・レレって言うのかな、――まあ、とにかく、エアでいいからさ」 「え? ……うん、いいよ」さっきまで言うべき言葉について悩んでいた僕は、突然の申し出に不意をつかれ、少々戸惑った。けれど、この言葉で彼女の中の何かが切り替わったような気がしたので、僕も気持ちを切り替えて、いくつかのコードをやって見せた。できるだけ、明るいコードが多くなるように。 ほの暗い店内の何もない中空に、僕の指が、いくつもの形を一瞬固定させては、たちまち崩れていく。それをずっと見つめていた朋子が、「同じだ」と言って、笑った。その目は涙で濡れているようにも見えたが、本当に彼女が泣いていたのかはわからないし、今となっては聞くこともできない。「わたしたちと、同じだ」 彼女は笑いながら、テーブルの上に左手を置いた。すぐ近くにあるキャンドルの光で、手の甲がより一層なめらかに見える。小刻みにゆらめく光に照らし出された彼女の指先は、一見してわかるほど皮が分厚くなっていた。おそらく、これまで相当ギターを弾いてきたのだろう。僕は不意に、すぐ近くにあるその手を握りしめたくなった。けれど、それはいくらなんでも唐突だろうと、あと少しのところで我慢した。自分の指先に集中している僕の視線に気がついて、彼女は恥ずかしそうに左手を引っ込める。 「手を見られると、照れるよね」そう言って、照れ笑いを浮かべた。「わたしの父さんや母さん、お祖父ちゃんやお祖母ちゃんの手は、きっと他の人にも誇れるんだろうけど。わたしの手は、まだまだきれい過ぎる。だから、汚い」 それから、朋子はしずかにミルク・ティーを飲み干した。そして、こんな言葉を最後に残して、彼女は席を立った。「ああ、あったかくなった。これでやっと歌えるべさ」 コートを脱いでニットだけになった背中は、雪でできたあたたかい壁みたいだった。右手には、ギターケースを提げている。喫茶店の奥の方に、小さなステージのような所があり、そこにはマイクもおかれていた。彼女はそこに立ち、ギターをケースから取り出して、コードをアンプにつないだ。スピーカーのヴォリュームを調整し、ピックを持って軽くコードをひとつ弾いた。その時だった。小刻みに揺れていた僕のテーブルのキャンドルが、消えた。 彼女の歌は、淡々としていて、それでいて切実に胸の中に染み入ってきた。札幌の夜気のようだと思った。ギターのストロークは、特別うまくも激しくもなかったが、ひとつひとつ、まさに今ここで刻まれている音で、今ここでふるえ、そして消えていく音で、僕はその音の流れにいつしかいっぱいに満たされてしまっていた。他のお客さんは、何人かは彼女の方を見ていて、何人かはそこで何も起こっていないかのようにコーヒーを飲みつづけている。それが、マイクの前でただギターをストロークしているだけの彼女の姿、本当にただそれだけなのに、他の何ものにも変えがたくかっこいいその立ち姿を、しずかに引き立てていた。彼女のピックが独特の曲線を描きながら六つの弦を撫でるたび、僕は彼女が言った「波」という言葉が、どんどん僕の内部へと差し込まれてくるのを感じていた。 キャンドルは消えている。彼女はギターを弾きつづけている。僕は暗いテーブルから、やや明るいステージの上の彼女を見ている。僕から彼女は限りなく遠い。誰も、僕の方を見ない。彼女はこちらを向いているが、きっと、僕のことなど見えてはいないし、僕のことなど知りはしないだろう。朋子は歌いつづけている。彼女の左手が、六つの弦の上にいくつもの形を一瞬固定しては、たちまち崩れていく。僕は、その店内にもいない。僕は、どこからも引っ込んだ場所にいて、結局のところどこにもいない。そこは暗く、こちらからは色々なものが見えるけど、むこうからこちらのことは、一切見ることができない。逆に言えば、僕はどこにもいないからこそ、さまざまなものを絶望的に見つめつづけているほかないのだ。そして、どこにもいない僕のことは、僕自身からも見ることができない。僕は、この席から立ち上がることすらできない! しかし、朋子は歌を歌い終わってしまった。彼女は片づけを終えると、ギターケースを提げてステージからこちらへと戻ってきた。僕は、ポケットの中を必死に探した。火を灯さなければならなかったからだ。僕はキャンドルに火を灯し、このテーブルをもう一度照らし出さなければならない。しかし、ポケットの中にマッチはなかった。どれだけ探してもマッチはなく、それはホテルの部屋のテーブルの上にある。僕はそれを、目の前に見つめつづけている。 部屋はしずかだった。橙色の照明に、どこからともなく照らされて、木製のテーブルが薄暗さの中で四角く縁取られている。その上に小さなマッチ箱がひとつだけ乗っていた。マッチ箱は薄っぺらだったが、しかし、あまりにも濃い紺色をしているせいか、持ち上げることができないくらいに重く見えた。いや、むしろ、手を触れることさえできないみたいだ。それは影のように実体がなく、目にはたしかに見えるのだけれど、光によって見えているのではなく暗さによって見えている感じで、奥行きがない。奥行きがないのだけれど、それが薄っぺらさや軽さを感じさせるかといえば、必ずしもそうとばかりは言えず、軽いことでどこまでも重く、薄っぺらなことでどこまでも深くて、けれど、鉄をもった時のように重いわけでも谷底を見つめた時のように深いわけでも当然ないのだから、結局のところ、何を言ってもそれはやはり影のようだった。 もちろん、こうやって語っている間にも、こんな言葉とは無関係にマッチ箱はテーブルの上にあって、僕の目から離れない。僕は夜の札幌で立ち止まり、生き物みたいに渦を巻く雪を見つめているのだ。僕の方へと、朋子が何回でもすうっと背中を向けて、滑るように闇の中へと歩き出していく。狸小路を二度通り過ぎる。足元に僕が倒れていて、「オンガクですよ」と朋子が言う。声がしたのは左の方だったけど、誰もいない。朋子がすうっと背中を向ける。「僕はヤドカリですかいな」「遠くから来たの?」震える帽子、あるいは吐きそうな帽子だ。朋子がすうっと背中を向ける。「あなたが朋子なら、わたしは紀浩でいいでしょう」 そして、ステージから戻ってきた朋子が、僕の向かいに腰かける。この時、一斉に闇が轟音を立てた。ピアノのすべての鍵盤を一斉に叩いたような不協和音が響き、それは不思議ときれいな和音のようにも聞こえ、あるいはそもそも音など何も聞こえなかった。いつまでも消えないその残響の中に腰を落ち着けて、朋子がこちらへと親しげに笑いかけている。そして僕には、もはや答えるべき言葉も伸ばすべき手もない。 海岸にいた。海を見ていた。空は鈍色で、小さな粉雪を狂ったように舞い躍らせている。振り返ると、雪に埋もれたなだらかな丘が見え、雪かきもされていないその丘には、たった一つの足跡もない。丘の斜面に棒杭が何本か並んで立っていて、雪の下から、蓬の穂が顔を覗かせているのがかすかに見える。丘の上の方に、民家が一軒だけ見えている。丘のむこうには、きっと人が住んでいるのだ。電信柱が等間隔に何本も立っていて、そこから繋がっている電線が横様に空を切り分けている。しかし、空は圧倒的に大きく、重い。 丘を降りてきた所には、何のためにあるのかわからない、骨組みだけの粗末な観測台がぽつんと建っていて、もちろんそこには誰も乗っていない。観測台は一つだけではなく、海と平行に点々と建っていて、それを追って視線を横に移動させると、視界の彼方で雪をかぶった巨大な山脈が、凍った高波のように鎮座している。かすかにのぞく砂浜の砂は、溶けた雪に濡れて黒々と硬く、その上で打ち寄せた波のいくつかが凍りついていた。積もった粉雪が、風に吹かれて海の方へとささあっと駆け出していく。そしてそのまま暗く重たい海の中に消えてしまう。 真っ白な貝殻が、粉々に砕けて、黒い砂浜に陶器の破片のように埋もれていた。それは、白く凍りついて砕けた、ウクレレの欠片なのかもしれなかった。弾くべき楽器も、借りるための宿も、この海岸にあるはずがない。明日はなく、夜も朝もなく、ただ途方もない今日だけが、影のようにありつづける。重々しい波音。また波音。 ここには誰もいない。「あなた」も、「僕」さえも。鈍色の空に投げるためのマッチは、丘のむこうの民家の中にだけ、あるのだろう。つららの垂れ下がる、要塞のような遠くの小学校から、子どもたちの嬌声が海鳴りのように聞こえつづけている。 |
小説 「明日のない今日」 (前半)
部屋はしずかだった。橙色の照明に、どこからともなく照らされて、木製のテーブルが薄暗さの中で四角く縁取られている。その上に小さなマッチ箱が一つだけ乗っていた。マッチ箱は薄っぺらだったが、しかし、あまりにも濃い紺色をしているせいか、持ち上げることができないくらいに重く見えた。いや、むしろ、手を触れることさえできないみたいだ。それは影のように実体がなく、目にはたしかに見えるのだけれど、光によって見えているのではなく暗さによって見えている感じで、奥行きがない。奥行きがないのだけれど、それが薄っぺらさや軽さを感じさせるかといえば、必ずしもそうとばかりは言えず、軽いことでどこまでも重く、薄っぺらなことでどこまでも深くて、けれど、鉄をもった時のように重いわけでも谷底を見つめた時のように深いわけでも当然ないのだから、結局のところ、何を言ってもそれはやはり影のようだった。 もちろん、こうやって語っている間にも、こんな言葉とは無関係にマッチ箱はテーブルの上にあって、僕の目から離れない。それを手に取ったかどうかは覚えていない。僕はマッチ箱を手に取ると、振り返って鏡の前を通り過ぎ、自動ロックのドアを開けて外に出た。廊下には赤の敷物が敷き詰められていて、同じような外観ではありながら、実際のところ一枚一枚違う表情をしたドアが、白い壁にふたつずつセットになって並んでいる。僕の後ろで重い音をたててドアが閉まった時、僕は不安になってポケットを布地の上から触ってみたけれど、部屋の鍵はちゃんとあるようだった。少し安心した。僕は廊下を歩きながら二度ほど曲がり、エレベーターを使って一階まで降りた。そして、フロントに鍵を預け、「いってらっしゃいませ」との声にわりと自然な笑顔で応えてから、一枚の自動ドアと一枚の引き戸をくぐり、雪が舞い狂う夜の札幌へと踏み出していった。 しかし、こう言ってみても、やはりマッチ箱はテーブルの上にある。それは僕の目を離れず、僕はしずかな部屋の中で、じっとそれを見つめつづけている。 外は、ひどく吹雪いていた。粉のように小さくてあたたかい雪が、夜の闇をほとんど隙間もないくらいに覆っている。薄く赤紫がかった街灯の下、積もった雪も風に巻き上げられて再び舞い上がり、降る雪と混ざり合いながら自由自在に大きな渦を巻く。それは、何か巨大な、それでいて塊でも有機体でもない生き物だった。それは僕の前にカーテンのようにかかっていて、けれどその中をほとんど抵抗もなく進んでいくことができる。僕の歩みによってあまりにも簡単にかき分けられていく波立ち。しかし、それでいて僕の頬に冷たく触れ、いつの間にか僕の上着を真っ白に変えてしまっている小さな粉粒。 雪はしずかだった。風はびゅうびゅう鳴っていたのかもしれないし、そう思うとたしかに聞こえていたような気もしてくるのだが、僕が覚えているのは、夜闇の中で悠々としかし激しく巻き上げられている粉雪のしずけさだけなのだ。道も建物も駐車場の車も、みんな厚い雪に覆われている。なだらかに曲線を描くそのやわらかな面は、わびしくなるほど穏やかに止まっている街灯の光によって、白く照らし出されていた。 どこをどう歩いたのか。街灯の灯りから灯りへと、僕は雪に足を埋めながら進み、僕の肩を越える積雪をあたたかく思いながら進み、曲がり角で曲がり、進んでまた曲がり、夜闇のむこう、葉を落とした高木の幾多の枝先が白骨化した指のように絡み合うのを感じておびえ、そして除雪車と乗用車によって均された道を横切ってまた曲がり、気がつけば、自分がどこにいるのかわからなくなっていた。 一度、狸小路を左手に見ながら歩いていたのは覚えている。商店街のアーケードの上に雪が積もっていて、サラリーマンが二人ほど、その下で服の雪を払いながら騒いでいた。それを横目に見ながら通り過ぎ、それから何回か曲がって、もう一度狸小路の近くを通ったのだろうか。わけのわからないアーケードがあって、やはりその上でも雪が崩れ落ちそうに隆起している。震える帽子、あるいは吐きそうな帽子だ。アーケードの下に人はいない。何か棒切れみたいなものが二本落ちていて、その上にも少し雪が積もっていた。灯りが消えて薄暗い商店街は、ずっと奥へとつづいていて、果ては見えなかった。僕はその光景を右手に見ながら進むと、道路を渡って向かい側の街灯の下へと歩いていった。 いい加減、ホテルに帰りたいと思い始めていた。第一、何をしに出てきたのかすら定かではない。コンビニで明日の朝食を買うためだったかもしれないし、夜中に急にラーメンを食べたくなったからかもしれない。とにかく、僕は道に迷っていた。唯一たしかなことはそれだけで、僕にはもはや時間感覚はおろか、自分が歩いている感覚さえもなくなっていた。寒さも空腹もまったく感じない。あるのはただ、降り続く雪のしずけさと、代わり映えのしない景色、そして碁盤目状に規則正しく現れてくる道また道なのだ。本当に帰られるという気はとうに失せ、それによって支障を来たすであろう明日の予定についても、何一つ具体的に思い描くことが出来なかった。第一、明日とは本当にあるのだろうか。僕はいつしか立ち止まり、舞い狂う雪をしずかに眺めていた。 道を渡り、しばらくまっすぐ進んでいく。そうすると、道の長さや幅などから、どうやら自分が東西に走る道の上を歩いているらしいことがわかってきた。奥へ奥へと突き進んでいたはずの自分の歩みが、実は横に移動していたのだとわかるのは奇妙な気分だ。僕は急いでいた。僕は帰らなければならなかったからだ。僕は帰って、明日迎えることになる明日に備えなければならない。誰がそんなことを決めたのかわからないが、とにかく僕はホテルに帰って明日を迎えなければならないし、そのことで明日は明日として僕とともに明日にならなければならない。 札幌の交差点は、僕が生まれ育った京都の交差点よりも親切で、そこからの区画が何条何丁目になるのか、四つの信号の脇にそれぞれ案内を出してくれている。しかし、白地に青のその文字も、今晩は積もった雪にところどころ隠されていて、うまく読むことができない。バス停があると助かるのだが、と思いながら僕は歩きつづける。何となく、北に行くと帰られる気がしていたのだが、どちらが北かわからない状態で適当に曲がっても、それで南に進んでしまう危険性が非常に高い。そう考えていると、不意に雪に足を取られてふらついた。僕の脇、雪かきで積み上げられた雪の山は僕の身長を越え、その上の方から、風にあおられた粉雪がひっきりなしに逆巻いて、僕の頬を打つ。 足元に倒れていた。本州のような形に積もり、なだらかな稜線を描いている分厚い雪の下で、足元に倒れていた。雪の下からのぞく細長いもの――それは、僕だった。そして、これまでずっと歩きつづけてきた誰かが、倒れたままで顔も上げない僕を、すぐ近くから茫然と見おろしている。 いや、違う。それは、バス停の標識だった。それを茫然と見下ろしている、僕がいた。バス停に書かれた文字はやはり読めない。しゃがんで雪をぬぐう気にもなれなかった。第一、これは本当にバス停なのだろうか。「オンガクですよ」と朋子が言った。 「え?」 僕は不意をつかれ、声のした方を見る。声は左から聞こえてきたが、そちらには誰もいなかった。紺色に塗られた自動販売機が、雪の上にいやに白々しい光を広げている。 「だから、これはオンガクなんです」 もう一度声がした。バス停を見つめていた僕は不意をつかれ、声のした方を見る。声は左から聞こえてきて、そちらには背の低い女性が立っていた。彼女の肩越しに、紺色の自動販売機が放つ、いやに白々しい光が見える。 女性は、黒いコートを着ていた。髪は短く、ゆるやかにウェーブがかかっていた。黒目がちの目はつぶらで、やや幼さを残す白い頬の上に二つ、濡れたサファイアのようにちょこんと並んでいる。僕と同じで、二十一歳頃だろうか。あるいは、彼女の方が二つか三つ年上なのかもしれない。黒い袖の下にのぞく手の甲は、透き通るように白く、なめらかで、かなしくなるほど小さく見えた。 「音楽……ですか」 僕は、彼女からバス停(らしきもの)に目を戻しながら、言う。 「ええ、オンガクです」 女性が、のびのびした声で答える。「オンガク」というのが、僕が思うとおり音楽なのか、それとも何か別の漢字で書かれるものなのか、そしてそれが、このバス停の名前なのか、それとも今ここで倒れているものそれ自体の名前なのか、僕には一向にわからない。 「遠くから来たの?」と朋子が聞く。僕は、「うん、京都から」と正直に答える。「その割には、寒さに強いんだね」と言って、朋子が人懐っこい笑顔で笑う。テーブルの上で組んだ彼女の両手の、すぐこちら側で、一本のキャンドルの火が、小刻みにゆらめいている。 いや、違う。それはもっと後の話だ。僕らは、札幌の街をさらに歩いた。彼女が僕をあたたかい店に連れて行くと言ってくれたからだ。というのも、僕が帰るべきホテルの名前さえ忘れていたからで、その上彼女がちょうどその店に行く途中だったからだ。彼女は、自分の名前を朋子と言った。僕は、自分の名前を紀浩と言った。彼女は僕にすうっと背を向けると、夜闇の中へと滑るように歩き出した。僕も彼女の背中を追ってたどたどしく歩き出した……かどうか、いまいち定かではない。 「その、背負っているもの、何なんですか?」 不意に、朋子が僕に聞いた。 「あ、……これですか?」言われて初めて、僕は自分が何かを背負っていることに気づく。赤紫の街灯に照らされた雪の中で、背中の荷物を肩越しに確かめながら、僕は答える。「これ、ウクレレです」 「へえ、貝殻かと思った」 そう言って、朋子が愉快そうに笑い出した。その様子に、僕もつられて笑ってしまう。「そうそう、貝殻背負ってはるばる北海道までね……って、僕はヤドカリですかいな」 人がいることの安心からだろうか。一旦吹き出た笑いはなかなか止まらなかった。倒れているオンガクのそばで、僕らは声を立てて笑い合う。その後、彼女は僕にすうっと背を向けると、夜闇の中へと滑るように歩き出した。彼女の背中に、エレキギターの黒いケースが背負われていて、それが彼女の見えない足取りに合わせてかすかに左右に揺れている。それを見つめながら、僕はたどたどしく彼女の後を追った。しかし、彼女との距離は一向に縮まらず、むしろ、僕が追えば追うほどその背中はどんどん遠くなっていくようだった。 とはいえ、気が遠くなるほどに彼女が離れていったとしても、よく見ると彼女はいつも追いつけるくらいの距離にいた。そして、滑るように歩きつづけている。ギターケースはかすかに左右に揺れていて、僕は、目に飛び込んでくる細かい雪を払いのけながら、その背中を追いつづけていた。しずかだった。自分の足音すら聞こえなかった。もしかしたら、僕は立ち止まっているのかもしれない。いや、それは多分違うだろう。もしそうなら、彼女はすぐに見えなくなるはずだ。しかし、彼女の背中はいつも目の前にあり、僕の前を今まさに遠ざかっていく最中なのだ。そして、僕はその背中をいつからか追いつづけていて、いまだに立ち止まることもできないままでいる。あるいは、最初から立ち止まりつづけていて、目の前を歩いていく彼女のことを、闇の中からずっと見つめつづけている。 「僕はヤドカリですかいな」 「へえ、貝殻かと思った」 |
2006年4月4日火曜日
【批評ギルド】 「放牧」 ティラノサウルス
気がつけば、3月度批評を4月に持ち越してしまっています。真に申し訳ありません。しかし、正直な所、今は自分の小説「みどり」で全力を使い果たしてしまっている上、仕事の方も大変で全然バイタリティーのない状態です。とても、これまでのような重厚なものは書けそうにありません。そんな私の批評でもよろしければ、目を通し、適当に参考にして下さいませ。 では、参ります。 ティラノサウルス 「放牧」 http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=62303 一読すれば、恐らく誰でも、米国産牛肉再禁輸のことが思い出されるでしょう。確かに、この詩はそれをモチーフにしています。しかし、この詩が見せてくれる景色は、例えばその問題に賛成とか反対とかを唱える次元のものではありません。 この詩には、少なく見積もっても4人の話者が出てきます。一人は、詩の話者。第一連、第二連、第三連、そして「小山のような生物が群れ」の連も、彼が語っていると思われます。二人目は、アメリカの農場の男の人。「俺」という一人称で出てくる人ですね。この人は、後でも歌を歌ってます。三人目は、抗議しようとしている人。おそらくは日本人でしょう。そして四人目は、CIA。CIAの癖に、やたらと陽気に天気予報をしています。 しかし、実際、この四人の区別は明確なものではなく、そこには揺らぎが見えます。たとえば、第七連では詩の話者の言葉と見えた1、2行目から、「<テキサス・>と形容される」あれこれ(日本人である我々には実体は持たなくても、なんとなくピンときちゃうあれこれ)が並び、そこから牧場主の言葉が出てくる。さらに顕著な例では、 >抗議します、断固 >お願いしますほんとうに >ところであなた誰ですか? >毎日窓口が変わるので >不便でしかたがありません >リピートします >抗議します、断固 >お願いしますほんとうに >ところであなたこそ誰ですか? ここですね。五行目までは、たしかに日本人(?)が喋ってます。断固抗議してられます。けれど、その断固としてなされた抗議は、リピートされる。リピートされることで、その断固とした存在感、あるいは深刻さを失ってしまう。そしてリピートするその声(誰の?)に、逆に問いかけられる。「あなたこそ誰ですか?」 ここにおいて、断固としてなされた抗議も、その抗議主も、リピートされる音声の中で根づいている“自分”みたいなものを見失わされている。そこに見えてくるのは、リピートされる音声の、異様な軽さと朗らかさです。それは、パロディーの持つ軽さともつながってくるもので、そこでは人は、深刻さを持ち得ない一種のキャラクター、人のパロディーに変えられてしまう。 パロディーの手法というのは、旧来、権威を持つものから権威を奪ってしまう、という点で非常に反権力的な手法でした。しかし、この詩の場合はどうでしょうか。CIAが陽気に天気予報をしている様、アメリカの牧場主が歌っている様などは、たしかに小気味いいものですが、その小気味よさは、決してこの詩がこれらの権威を茶化しているからではありません。むしろ、この小気味よさにこそ、我々は注意しなければならないのでしょう。なぜならば、この小気味よさは詩が彼らを脱権力化しているからのものではなくて、むしろ、彼らが自ら選び取っているものだからです。 繰り返される映画俳優の名前、リーバイスなどの商品名、そして、牧場主やCIAのまるで古き良きアメリカのラジオ放送のような陽気さ、うそ臭さ。それらが我々を包囲し、小気味よく詩を読ませていく。そのこと自体が、私には恐ろしくてたまりません。この軽さは、パロディーのそれではなくて、むしろコマーシャルのそれではないでしょうか。彼らが生み出す軽さの中で、我々はそこにあるものの権威性について見失わされてしまう。恐怖心をどこかになくしてしまう。そして、その軽さを媒体として、商業的なもの、消費社会的なもの、どこかに根ざすのではなく生み出されては消費されていくもの、そのようなものが流通していく。我々の根底を知らず知らずのうちに掻き消えさせていく。 そして、実際、彼らは彼らでその軽さの奥に、ちゃんとした「質感」を持っているのです。軽く、陽気で、のどかなように見えても、「俺の鼻はいつでも/濡れているんだぜ」なわけです。この、濡れている鼻の存在感。この二行の持つ「質感」の確かさ。それが、コマーシャルの中で希薄化した我々を打ち、我々は最終的には「絆されて」しまう。そんな我々に、これまた素晴らしい質感を持った言葉が(具体的には誰から誰宛のものか明確ではないがゆえに(詩の中でそうなるようになっているゆえに)、余計に力を持った言葉が)届けられます。「君たちはまるで羊だ」と。 牛は、偶像崇拝の象徴。その偶像崇拝を否定するところからユダヤ教は始まり、それがキリスト教へとつながっていった。キリスト教において人々は迷える羊であるわけで、そんな自覚を持つキリスト教をニーチェなんかは「奴隷道徳」と呼んだわけですが。ここでは、無宗教であると言われているジャパニーズが羊になっていて、キリスト教が支配的であるはずのアメリカンが牛になっている。無宗教な我々は何も信じていないように見えて、その実コマーシャルとか情とかの形ないものを信じるともなく信じることで、彷徨える群れた奴隷となり、形ない偶像を流通させながら彼らは(奴隷道徳から脱け出て放牧され、肥えていき、)確かに濡れつづけている。牛をその質感ごと灰に変えても同じことで、それが逆に、彼らの濡れっぷり(アンジェリーナ・ジョリーの唇のような)の恐ろしく強かな影響力(灰になっても、というか灰になることで、余計に我々を絆してしまう)の証左になる。繰り返される「moo」という鳴き声は、どこか間延びしていてのどかなのですが、それゆえ余計に、したたかなのです。 この鳴き声に、この軽さと濡れっぷりの両立に、我々はどうやって立ち向かうことができるのでしょうか。 >抗議しましたわ >ええ、もちろん、断固として >止めてやりましたわ >水際でがっちり >でもそろそろ潮時かなって >あたしの無念を >同郷のあの方は >晴らしてくれるかしら なんて、ふらふらしたことを言っていてはならないのでしょう。無論、この日本人像もかなり誇張されたもの、キャラクター化されたもの、もっと言って“嘘”です。でも、この“嘘”を越える自分を、我々は見せることが出来ているのでしょうか。あらゆるものが実体を失って流通するこの時代に生きている我々は、そこでの違和感を抱いていて、ちゃんと根ざした自分を見つけようとしている。それが昨今の詩の流行(あるいは、小説の言葉ではなく詩の言葉に対する我々の欲求)でしょうし、あるいは方言のプチブームなども、そういう点から理解できる面はあります。しかし、そうやって見つけ出されたものは、いわば小さなもの、囲い込むコマーシャルの中でかろうじて自分の部屋に引きこもって身を守り震えているにすぎないものであって、この包括的な“嘘”を越える強度がそこにあるのか、少々疑問です。やっぱり最後は、絆されてしまうんでしょう?と。 この時代や状況の中で、我々はどうすればいいのか。この詩は、そこに対しての答えは提示しません。それは、我々個々が見出していくものなのかもしれません。ただ、一つ考えられることは、彼らがコマーシャルという“嘘”を通して我々を囲いつつ濡れつづけているのなら、我々もそれを逆手に取ることはできないか、ということです。つまり、“嘘”に“嘘”で立ち向かうのです。騙まし討ちを騙まし討ちにしてしまうのです。キャラクター化した時代をさらにキャラクター化することで、それを通してそこにある地金のような根っこを、そして自分を見つけ出す。あるいは権威ならざる権威を暴き出す。つまり、この詩(「放牧」)を書くことです。この詩では、たしかに、彼らのものとしてそれ(騙まし討ち)は書かれました。しかし、この詩がやったこと(この詩のスタンス、この詩のリズム、この詩の展開、この詩の言葉の軽さと確かな質感)を、(彼らのものではなく)我々のものとしてすることできるなら、それはこの時代に対抗する(我々の)方法になるのではないでしょうか。つまり、――たしかにこの詩は答えを提示していませんが、――この詩自体が、答えなのかもしれません。 珍しく、技術的なことは何も言いませんでした。正直、俺ごときがどうこう言えるものではない、と思います。だって、これはこれで出来上がってますもん。詩として自律して生きてますもん。ただ、ただ一つだけそれでも言わせてもらうなら、ジュリア・ロバーツが可哀想、ということです。と言っても、別にガムテープで口を塞がれそうだからではなく、この詩は明らかに、アンジェリーナ・ジョリーが出てきたところから出発しているんですね。第一連はその点で、行き場がない。逆に言うと、この第一連はこの詩の中には収まり切らない部分を持っているわけで。それはこの詩にとって失敗といえば失敗なのですけれど、ある意味可能性でもあると思います。この第一連が持つ暴力的なパワー、その確かさから、またもう一つの詩が生まれるかもしれない。そしてその力こそが、もしかしたら上で書いた「答え」ともつながってくるかもしれない。 でも、これは所詮夢想ですし、それに、そっちの方(暴力的なパワーを詩にしていく方)に進んだ方がよかった、とは口が裂けても言えません。これはこれで、とても素敵な詩なのですから。ただ、作者さん(ティラノサウルスさん)には、そっちの方とこっちの方の二つの方向性があることは覚えておいてもらいたいな、とは思います。どちらの方向性も、それだけだと思って進むと、おそらく道は狭くなってきて行き着く所は袋小路でしょう。この二つの方向性を往還することを通して、あなたの詩はらせん状に深まっていくでしょうし、その果てで(あるいはその最深部で)、離れていたと思った二つのスタンスの、いわば裂け目の奥でつながっているものが、きっと見つかると思いますので(無論、これはティラノサウルスさんに限ったことではないのですが)。 それでは。長くなりましたが、この辺で。適当に参考にしていただければ幸いです。 |
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