2006年6月25日日曜日

新しい(?)日本語文学のために


 言うまでもなく、日本の自由詩と小説とは、海外から移植されたものだ。それは、多くの者にとっては、翻訳された形で受け容れられた。ここに、現在までつづく日本語文学のしょうもなさの、重要な一因がある。

 例えば、英詩と言うものは、当然ながら、英語の中で書かれたものだ。そこには、英語の発音が生む音韻はもちろん、英語独特の文の構造から生まれる言葉の展開法、さらには、これまで積み重ねられてきたものに支えられて息づく一語一語の確かさ、などがある。しかし、翻訳された詩の中には、それがない。翻訳されてきたものは、大体においては意味の側面だけなのだ。いや、それを意味と言ってしまっては語弊があるかもしれない。本当の意味とは、それら言葉のリズムや言葉が宿す世界観、さらにはそのリズムや世界観に支えられた言葉の脈動、そのようなものとともにあるからだ。少なくとも言語の次元においては、形態と意味とは不即不離の関係にあり、形態を伴わない意味はただの薄っぺらな情報にしかすぎず、意味を孕まない形態は言葉の死骸にしか過ぎない。
 海外文学の受容において、大抵のものはこの薄っぺらな情報か言葉の死骸ばかりを受け取ってきた。海外から文学を学び取ろうとして、ガラクタばかりをつかんできた。そして、その掴み取ったガラクタを文学と思い込み、海外文学の形態から離れたその作品の意味が文学のテーマとされ、海外の言語の持つ世界から離れて、日本語に訳し移された際の形態ばかりが文学的手法だとされてきた。

 祖国の心からなる感謝の念に包まれ、
 斃れし勇者、今、静かに眠る!
 露に濡れて冷たき指もてる春の女神、
 花を捧げんとて勇者らの聖なる墓地に帰りきたりし今、
 勇者らの眠る台地は、乱れ咲く百合のため、
 「想像」の及びがたき美しき大地へと変貌す。

 (平井正穂訳 ウィリアム・コリンズ 「述懐――一七四六年の初めの頃に」)

 これを読んで、「ああ、詩的だわ」と思う方もいらっしゃると思う。たしかに、日本の詩などは、きっとこのようなものを手本にして出来上がってきたものだろう。しかし、

 How sleep the Brave who sink to rest
 By all their Country's wishes blest!
 When Spring, with dewy fingers cold,
 Returns to deck their hallow'd mould,
 She there shall dress a sweeter sod
 Than Fancy's feet have ever trod.

 (William Collins "Ode, Written in the Beginning of the Year 1746")

 この本文にある音韻は、どこにいったのか。「cold」と「mould」の響き合い、そこに現れる空間は? 感嘆文が持つ強烈さとその奥に宿る屈折した情感は、英語的な感嘆文を持たない我々にはなかなか現しがたいものだ。文頭に「How sleep」がきてしまうことの効果も消えてしまう。「sink to」という言葉がしずかに引き込まれていくような移動や、それが向かっていくある方向を感じさせるのは、どこにいったのだろうか。その先に待っている「rest」という言葉の持つ切ない安らぎは? それを受け止める「blest」の広大さとやさしさは?
 「hallow'd」という言葉が内に孕む空虚も、「sod」という言葉が持つ、死骸が積もってできた、雨に流されることもある、しかし人々はそこに種をまき、そこから様々な収穫も得られる、そんな土壌の多面性もそれと結びついた人間的感情も、「trod」という言葉の持つ独特の歩行のリズムも、すべて、英語とともにあるもので、この詩では、それら空虚さや多面性や人間的感情や歩行のリズムなどが入り混じって、響くみたいに、世界を空間として広げていく。しかし、邦訳では、そこに広がる空間のことは書けず、その手前の字面、ディスプレイみたいな表面をなぞることしかできないのだ。
 そして、恐らく、最も日本語文学にとって有害だったと思われるのは、「Spring」や「Fancy」の受け取り方だ。春も想像力も、日本人にとっては、抽象的なものでしかない。それをこのように動作主として書くことに、日本人は「これこそ文学だ」と思ったのだろう。しかし、少なくとも英語の歴史において、このようなものを大文字にして、動作主として書くことは不自然なことでもなんでもなかった。そこには、彼らの世界観と結びついた不思議なリアリティーがあり、「Spring」は、抽象的で形のないものでありながら、同時に動作主として大地に手を伸ばすこともできた。この、目に見えない、輪郭を括れないものが動作主でもありうる、という感覚は、日本人にとっては割合理解しにくいものであっただろう。偶像化されえない者を、心の中でも偶像化することなく、祈る。神を思い描くことも理解することもせず、しかし、この世界の様々な事象の裏に我々の思惟も超えた神の意思を、ただ感じる。そのような思考法になれた西欧と、現世的で理解可能な思考になれた我々の違いが、そこにはあるのかもしれない。
 ともかく、「春の女神」などと言ってしまうと、たちまちそれは人間的な姿をした何者かになってしまう。そして、そのように人間にすることを、我々は詩の技法のひとつとして学び取ったのではないか。「Spring」は実際は、そんな人間的な次元を超えたものであったものにもかかわらず。
 「Spring」や「Fancy」が動作するというのは、日本人にとっては、というか日本語にとっては、不自然なことだった。そもそも、「春の女神」や「想像」という言葉自体、日本語の中では、「Spring」や「Fancy」が英語に対して持っていたようなリアリティーを持ち得ない。しかし、日本人はそれを詩だと思ってしまった。このようなものを書くのが、詩なのだ、と。そして、日本語の中では何のリアリティーも持ち得ない「妖精」やら「時」やらが活躍しまくる、なんとも滑稽な世界が描かれることになった。

 これは、小説においても起こってきた現象だ。例えば、Hawthorneの小説には、日本語にしたら何ともキザな言い回しが多用されている。抽象語も連発されている。さらには、一文一文が異様に長く、その構造も入り組んでいる。
 しかし、原文で読んでみた時、その印象は一変する。キザな言い回しだと思っていたものは、英語の歴史とその文章の持つ詩的なリズムとに支えられ、不思議と地に足の着いた、たしかな質量を秘めた言葉へと変わる。抽象語もそうだ。それは抽象語ではなく、それは英語にとって自然な言葉として、文章全体の脈動の中で息づき始める。さらには、長い一文でさえ、すごくするする読めてしまう。日本語にしたら入り組んでいるように見えても、それは関係代名詞などの、英語にとっては基本的な文法を基に生み出されたものでしかなくて、英語の順番で前から後へと読んでいくと、文章の中に入る挿入句も、関係代名詞による転換も、そこにある確かな言葉として、そこまでの文と結びつきあう。結びつき合いながら、心地よく、場面を切り返す。そして、それら挿入句からの回帰なども含めて、文章全体で、世界を広げていくのだ。そこには、変転し、移動し、また回帰し、それらを抱えながらさらにすすんでいく、言葉と人間の生命がある。
 果たして、日本語文学は、それらを自らのものにできただろうか。テーマとか文学的手法ではなく、その中に生きる生命を、そのリズムを、感じ取り、そのリズムにまた、生きた日本語の形で応えることが、できただろうか。ただ、抽象語の連発や入り組んだ文章や、さらには言葉のリズムと離れた表面的な「テーマ」なるものなどに、「文学らしさ」を感じるばかりで、何も生命のないガラクタを生み出してきたのではないだろうか。

 日本人は意匠ばかりを真似る、ということは、入沢康夫さんも言ってられた。それは、何も海外文学の受容に限ったものではなく、日本内の文学の受容にしてもそうだ。たとえば、これまで、入沢康夫さんの詩の形だけを真似した、つまらん作品がどれほど生み出されてきただろう。彼の『詩の構造についての覚え書』に対して、それの全体像を無視して「詩は表現ではない」や「構造」などに引っ張られただけの解釈が、どれほどされてきただろう。それらのキーワード抜き出し方の解釈は、結局、「詩は表現ではない」や「構造」という言葉自体に対しても、全然触れられないものでしかない、というのに。

 言語芸術は、言葉を離れてはありえない。そして言葉とは、テーマでも手法でもなくて、一つの生命体なのだ。テーマだけを取り出すことは、その身体から顔の皮を剥がすことでしかなく、手法を愛することは、バラバラに砕かれた死体の一部を(その一部分から、かつてその一部分が組み込まれ、全体の中の一部として活動していたような、一つの生命体を思い返すこともなく)愛することでしかない。
 引き剥がされた顔の皮。あるいはバラバラに砕かれた死体。そこにある空疎さは、現代社会の持つ空疎さとも通じるものであり、それゆえにこそ、そこに自覚的なものは、真に現代社会を映し取る文学を作り出せるだろう。それもそれで、一つの方向性だと思う。問題は、その空疎さを自覚することもなく、漫然と愛しているだけの人たちなのだ。そんな愛は、相手のことを厳しく見つめることも、それによって残酷なまでに身を引き離すこともなく、ただ中途半端に幻想に入り浸っているだけで、いわば部屋にこもっての自慰行為にしかすぎず、実際のところ、身を引き剥がせる人ほど相手のことを愛してもいないのだろう。
 話が横道に逸れた。とにかく、言語芸術は、言葉を離れてはありえない。そして、世界を語りえる唯一の言語などはなく、英語も、日本語も、それぞれに別々であり、それぞれに固有の傾向性をもった、一つの個体にしか過ぎない。それぞれに一つの個体であるからこそ、それらはつながっていける。しかし、それはテーマや文学的手法を通じてではなく、個体としての、言葉と人間の生命を通してなのだ。自分とは別の個体が、自分とは別の輪郭の中に宿している生命。その生命を、そのリズムを、自分の身体の中で息づかせること。それに対して、別の個体にしか過ぎない自分の身体から、別の言葉で、応えていくこと。我々は、それができたのだろうか。我々の文学は彼らの生命を引き継ぐことができたのだろうか。我々の文学は彼らの文学から、何を受け取ってきたのだろう。そして、我々の文学は、果たして日本語の文学だったのだろうか。そこに、日本語はあったのか。

 我々は、日本語で書く者である。日本語の生命、そのリズムの中で書くものである。そして我々は、テーマやいわゆる文学的手法などに「文学」を見ない。我々の文学は、自分が持っている言葉の中で、その言葉を通して行われる営みとして、ある。それは、もはや「文学」などではなく、ただ、「書くこと/読むこと」とのみ呼べるものかもしれない。それでもいい。我々にとって、「文学」なんて、どうだっていいのだ。問題は、我々が他者の身体を、一個の塊として受け取れるか、ということにある。それに対して、自分の身体から応えられるか、ということにある。それができた時、我々は、そこに確かに、日本語の文学があることを目の当たりにするだろう。
 その日本語の文学は、ひょっとすると「新しい日本語文学」と呼ばれるかもしれない。しかし、それは新しいものでもなんでもない。そもそも、文学に新しいものも古いものもあるだろうか。あるのは、ただ、それぞれの特異性を抱えつつ、そこで個々に生きている一つ一つの生命なのだろう。それらは個々に生きながら、「叫ぶように耳を澄ます」(海賊のHP「siren」のトップページの言葉)ことで、つながっていく。それらがつながっていったところで見えるもの、その、「私たちの場所」(増田考志「みどり」中の、中島みどりの言葉)に還るために、そこを一つの身体として歩んでいくために、歩むことを通してその場所を感じ、引き受け、そして応えていくために、我々は書き、読んでいる。


2006年6月23日金曜日

「その気」


   (ZONEの「mind」に)



「もうこれ以上、
 どんな青空もいらない。」

そう思える朝を、
なお、君は目を覚まし、
駆け出していく。

まぶしい始まり。
腰を下ろして、
大好きなTVを見ている。

「その気」がある。
ハミングする君のすぐそばで、
君の「その気」が、笑っている。
草のように。

しずかな日だまり。
糸のない穂や幹を、
君のその手に、掴み取って。
ドアを押し開けて。

「さあ 出かけよう」
分厚い音の聞こえる外へと。
どんなにかなわない空の下でも、
君の背中に重なっていく、
あの「歌」があるから。
無数の葉があるから。

大好きな「その気」は、
いつも君のそばにいる。
駆け抜けるための大地はあって、
君に風を吹かせない、
とどまるためだけの空なんて、ない。

 (言葉もなく 育っていく時間)

そして自分の名前を叫ぶ。



   (二〇〇三年十一月三、四、五日)


殉教


世界よわたしを忘れなさい。
海までつづく踏み切りが、
一斉に鳴り始める朝に。

世界よわたしを忘れなさい。
叶わなかった鳥たちが、
木の陰でうそぶきだす前に。

すべての悪臭はわたしから発する。
すべての毛と肉はわたしによって汚れる。
割り箸が割れる。世界中で。
思春期の魚が串刺しになる。

わたしの手と歯を洗い流すのだ。
うごめく網の目の間から。
その時、水面(みなも)は空(そら)になるだろう。
線路沿いのコンビニに、朝が来るだろう。



   (二〇〇三年十月二十四、二十五、二十六日)


2006年6月18日日曜日

「あをの過程」という作者名について


「名前の理由、聞かせてもらっていいですか?」スレに応えて


1.「あ」から「を」まで、日本語の中を巡り、辿っていく。決して言葉には出来ない「ん」、その、すべてを綴じる音、言葉の中心に残された沈黙/空白(よく、一対の仁王像に阿像と吽像がありますが、あの「吽」って、「ん」らしいですね。「あ」で開いたものを、「ん」で綴じる。でも、「ん」だけでは言えないから、「う」という音を足して、「ぅん」と発音するしかなかった。高野山で、聞きました)まで、言葉の中で歩いていく。言葉の中で歩いていく中で、その中心に、決して辿り着けないはずの「ん」が浮かび上がればいい。

2.何かに感動した時に、発音される「あ」という言葉。そこに開かれる、我も彼もない世界。そこから、「~を…する」という風な、能動的/作用的な「を」を持つ作品が、そういう力を持った言葉が、生み出されていく。そこまでの過程そのものを、作者にしたい。

3.私の作品は、すべて、この世界のあらゆるものや、他人の作品と自分が出会い、それに言葉を自分の身体から返すことで、なりたっている。私が様々なものと出会い、それによって変わっていく、そこに残された足跡であり、今伸びつつある植物の蔓でもある、言葉たち。自分の作品がそのようなものであったらいいな、という願いも込めて、作品一つ一つを作り上げたもののことを、(いち作者の個人名ではなく)「過程」と呼ぶことにした。(その意味で、「あを」は、「また逢おう」なのかもしれない。出会いから、初めて/何度でも出会い直す、そのことによって自分と相手とを生み直し、生まれ直していく。その過程なのかもしれない。(ただし、「逢おう」の「あお」は、旧字体で書くと、「あを」ではなくて、「あほ」となるのよね。その点で、「あを」を「逢おう」と読み換えるのは、ちょっと曲解がすぎる気もしますけど))

 とか何とか言いつつ、実際は、もっと簡単でアホらしいことがきっかけで、この作者名にしたんですよね。もともと、僕はネットに出始めた時から、「月と海」と名乗ってて。それは、まあ、わかるかもだけど、LUNA SEAの大ファンだったから、そういう名前にしたのさ。正直、ネットでの創作をこんなに長く続ける気もなかったし、真面目にやるとも思ってなかったから、ま、適当に決めました。LUNA SEAがかつてやった、ライブ会場でファンのリクエストを募り、そのリクエストにその場で応えてその曲を演奏する、というライブ、「月と海」、そのあり方になぜかすごく惹かれていたので、ああ、これでいいや、と。
 んで、その大ファンだったLUNA SEAが2000年に終幕し、彼らと同じようなバンドを探しているうちに、なぜかZONEが好きになってきて。やってることは全然違うように見えても、どこか、つながっている部分がある気がした。CDもちらほら買って、それを聞き込む時間とともに、少しずつ、惹かれていくようになった。
 そんな時ですよ。ZONEが「true blue」という曲を出したのは。実は、LUNA SEAが初めてオリコン初登場一位を取った曲も、「TRUE BLUE」という曲名だったんですね。このことは、彼らと彼女らに通じるものを感じていた自分としては、言いようもなくうれしかった。
 そして、実際に「true blue」を聴いてみて、ひっくり返った。もう、自分の中で「TRUE BLUE」もLUNA SEAもなくなってしまうくらい、心の底から感動し、遮二無二突き動かされた。その時、僕はZONEのファンクラブに入ろう、と決心しました。そして、そんな自分がなお「月と海」と名乗っていることが、LUNA SEAのファンたちに対して、とても申し訳ないような気がしたのです。改名を決意したのは、この時でした。

 ただし、改名と言っても、個人名みたいなものは嫌でした。それこそ「月と海」みたいに、別々に在りながら引き合う力でどこか繋がっている、みたいなもの、そういう二つがともに(離れながら)ある、と言う風な名前にしたい、と思いました。それで色々考えたけど、なかなかピンと来るものがなくて、思いつくのはダサいものばかりでした。
 そんな時に、ふと、「TRUE BLUE」と「true blue」のことを思い出したんです。思えば、LUNA SEAがまだあった頃、僕はバンド原理主義者で、それこそ、ZONEのような人たちのことを心の底から憎悪していたんですね。そんな自分が、ZONEを好きになったこと。また、「TRUE BLUE」が出されてから、「true blue」が出されるまでに流れた時間、一つのものが世に放たれ、それに対して、全然違う時間・場所で、全然違う人たちが、自分たちの形で応える、ということ。そこにある、祝祭の巡りのような、リズム。そういうものが、自分にとってはとても貴いもののように思えたのです。僕が書きたいもの、というか、僕を書かせているもの、名義上は僕の作品となっている一つ一つの作品を、本当に生み出しているものは、それなんじゃないか、と。

 「TRUE BLUE」から「true blue」へ。そこから、「青の過程」という名前を思いつきました。でも、これでは何か、ピカソの「青の時代」みたいで、ちょっと変な色がつきすぎる気がした。そこで色々悩んだところで、以下の自分の詩の一節が、思い出されてきたのです。「あをの過程」という、これまでもあり、これからもありつづけるだろう作者名は、その時初めて、言葉のもとに見出されたのでした。

 あざやかに、
 空一面にひろがつた、
 “ほ”の“ほ”(火(“ほ”)の穂(“ほ”)?)
 あをを生み、
 あるいはあをから生まれながら、
 ひとつひとつ燃え、
 ひとつひとつ消えてゆく。
 

2006年6月4日日曜日

小説 「きみよ きみよ」 (3)の2


 丘はなだらかに下りに向かった。左右に広がる雪原を眺めながら、無いかもしれない道を僕は降りていった。下り坂は徐々に急になっていて、大きくカーブを描いていた。カーブの入り口付近まで来た時、僕の左手に壁が剥がれ落ち、窓も割れたままになっている廃屋が見えた。廃屋の横には、タイヤのないバスの残骸が置かれてあった。何のために残っているのかわからない状態で、しかしその錆びも暗い内側も白い雪に穏やかに埋められていた。そこを過ぎると道の右側に、木のような電信柱が並んで立っていた。細い電線は重く垂れ込めた空の下、何本も長く横に走りながら、風に揺らされてびょうびょうとうなり声をあげていた。
 カーブを曲がりきると、そこには傾斜の終わりが見えていた。大きな雪道が積もった雪を割って左右に伸びていて、その向こう岸にごたごたした雪が一連なりになって隆起していた。雪の一部が抉られていて、僕の歩いている細道は、どうやらそこへとつづいているようだった。道のゆったりとした上り下りから見て、雪の下にはもう一つ丘があるらしい。その手前、左右に走る大きな道の上には、タイヤの跡がいくつか押し付けられて、残っていた。
 足元の雪を大股でまたぎ越して、僕はその車道の上に立った。左を向くと、道はどこまでもまっすぐつづいていて、どこまで伸びているのか、その先は雪にかすんで消えていた。そのさらに向こうに、青紫色にけぶった山脈が遠い幻のように浮かんでいる。山脈よりはずっと手前、しかし僕からは十分離れた道の片側に、黒い壁と黒い屋根をした大きな建物が鎮まっていて、要塞みたいだった。その要塞も、ここから見ると小さく見えた。タイヤの跡の残る大きな道。その片側に、ところどころ土色に汚れた雪の固まりが、むき出しの岩石のように積み上げられている。
 僕は途中で立ち止まっていた道を渡りきった。「石狩あそびーち」と書かれた色褪せた看板に雪が積もっていて、白い壁を持つ海の家も寂れるがままになっていた。その右手、雪の壁が崩れて口を開いている所まで来て、僕は足元の雪を大股でまたぎ越し、もう一つの丘へと足を踏み入れていった。そこはたしかに道のはずなのに、踏み出した足がまた、膝下まで雪に沈んでしまう。足を取られながら、重いその足で雪を蹴立てて、僕は歩きつづけた。道は上り坂になっていた。僕の左右には相変わらず雪原のなだらかな起伏と、その中に立つ枯れた植物の一本一本とがあって、広がっていた。
 意外にも、この上り坂はすぐに終わった。そこでは少し先の頭上を電線が横切っていて、その向こうに、黒々と海があった。僕は下り坂を無我夢中で降りていった。僕の左側にはまた廃屋が建っていて、その隣で畑が雪を被っていたけれど、それらの景色もすぐに通り過ぎた。雪は浅くなり、そこに黒い砂が混じっていた。両側の雪の壁も低くなってきて、僕の足元とゆるやかにつながっていく。流れ出すように雪と砂とが扇状に広がって、そこが海岸だった。海が、重々しく波打っていた。濁った波が白く崩れ落ちながら、黒く濡らされた砂浜に何回も何回も打ち寄せていた。打ち寄せては引いていくその辺り、真っ白な曲線が幾重にも交わって見えているのは、波が凍ってできたものだろうか。海は暗く、仄かに緑色がかっていて、あるいはどこまでも深い青紫色だった。鉄の色をした空では、粉のように小さな雪が圧倒的な広がりを埋めることもできないまま、風に巻かれてちらちら乱れ舞っていた。僕の身体を風が打ちつけ、吹き抜けていった。その度に、積もった粉雪が僕の足元から、海の方へとささあっと駆け出していく。白い風紋が濡れた砂浜に描かれて、細かい一粒一粒は動きつづけ崩れつづけ、そのうちのいくつもが駆け出したままのスピードで暗い海の中に消えた。海は重々しく波を打つ。また波を打つ。またまた波を打つ。何回でもずっと波打ちつづける。
 振り返ると、自分の降りてきたなだらかな丘があり、その頂上付近で、さきほどの廃屋が見えていた。等間隔に並んで立つ電信柱が、あてどなく横へ横へとつづいていく。丘を降りてきた所には、何のためにあるのかわからない、骨組みだけの粗末な観測台が建っていた。無人の観測台からは紐が垂れていて、逆巻く風にあおられて、大きく揺れたり小さく揺れたりを繰り返していた。時々、静止して力なく垂れ下がった。観測台は一つだけではなく、海と平行に点々と建っている。それを追って視線を横に移動させると、電信柱も丘も砂浜も果ててしまった彼方に、凍った山脈が鎮座していた。先ほどと同じように青くかすんでいたけれど、さっきとはまったく違う存在感で、恐ろしいまでに確かで、しずかだった。反対側を向いても、黒く伸びる砂浜の彼方で、山々は海へとせり出しながら鎮まっていた。かすみながら見えている山と、濡らされながら平らにつづく砂浜とが、別々のものに思われた。どれほど歩いても、あの山には辿り着かないだろう。そう、僕は考えた。この砂浜を、舞い散る雪と繰り返す波音の中で、僕は一人でどこまでも歩いていける。ここで死にたい。ここでいつまでも歩きながら、死にたい、死んでいたい。山を遠くに眺めながら、僕は歩き始めていた。砂と雪とが入り混じった海辺には、白々とした流木が、何年も前に焼かれた骨のように転がっていた。その横を通り過ぎて、僕は立ち止まることもなく歩いていった。凍った山脈は近づいてくることもなく、黒い砂浜も暗い海も歩く僕とは無関係に、いつまでもそこで見えつづけていた。


2006年6月1日木曜日

小説 「きみよ きみよ」 (3)の1


 石狩には二回行ったことがある。去年の一月と十二月、どちらも冬のことだ。僕はそのことを、これまで何回も小説に書いてきた。
 初めて石狩に着いた時、バスの中には僕と運転手しかいなかった。他の乗客は、終点である「石狩」の一つ手前、「石狩温泉前」のバス停でみな降りていた。自分の席から立ち上がり、暗いバスの中を前まで歩いていって、お金を払ってバスを降りた。僕の前には木の屋根と緑のネットで囲われたゴミステーションが、半分以上雪に隠された状態でただそこにあった。ゴミステーションの背中側には、ひどく古びた木造の壁が見えていた。深々と雪が降り積んだその家はしずかで、人が住んでいるのかどうかもわからなかった。
 僕を降ろしたバスは、そのまま道の向こうへ走り去っていった。あとにはただ、雪によってその平らさを増した道と、その両脇で何十年も前から置き去りにされているような、古くて暗い民家が見えるばかりだった。空は果てもなく鈍色に曇っていた。バスの見えなくなった道の先には、もう民家もなく、どこからが道でどこからがそうじゃないのか、わからなかった。どこに行ったらいいのかもわからないまま、僕はしばらくそこで立ち尽くしていた。
 僕はお腹が空いていた。歩き出せそうもない景色の中を、それでも僕は歩いていた。左側に進んでいくと、赤い甍を波のように戴いた寺院が、雪に埋もれていた。やがて郷土歴史館に辿り着いたけれど、この建物も庭に当たる部分も雪に埋められるがままになっていた。看板に積もった雪を手で払って、案内を読んだ。読んでいくうちに興味を惹かれた。しかし、建物はやはり暗く、雪に降り込められていた。入り口で確かめたところ、冬の間は営業を停止しているようだった。その外壁沿いに飲み物の自動販売機が置かれている。とにかく腹を膨らまそうと歩いていったけれど、ディスプレイに並んでいるのはどれもつめたい飲み物ばかりだった。
 そこを離れて何回も曲がり、宛てもなく歩いていく途中で、「石狩鍋」と書かれた色褪せた看板があった。矢印が向いている方を見てみたけれど、僕の背よりも高い雪の壁が見えただけだった。近くに、交番があった。交番の前にはどうやら地図があるようで、ぼくは自分のみぞおちくらいまである雪の小山を踏み越え、その白い板の前に危うく立った。道や商店の名前、施設の名前などが黒や赤の線で手書きされていた。そのひとつひとつが、今のこの時間・場所とは遠く隔たったものであるように思えた。どこに何があると言うのだろう。僕は振り返り、また雪の小山を踏み越えて、だだっ広い道へと歩き出していった。
 建物は、古びた木造家屋から、建売住宅風の一軒家に変わっていた。自家用の駐車場などを備えた家もあり、その前を僕は通り過ぎた。家の敷地も駐車場も、画たる境界を持ってはいなくて、雪によって外の地平へ一面につながっていた。そこにガレージが建ち、車が見えていた。角を曲がって真っ直ぐ先を見晴るかすと、住宅が幾分密集しながら並んでいた。そのうちの一軒から中年女性が出てきて、ママさんダンプで雪を跳ね始めるところだった。女性は帽子を被り、紫色のウィンドブレーカーを着込んで、もこもこしていた。外に出ている人は、その女性と僕だけだった。空から降ってくる雪と、風によって舞い上げられた雪とが入り混じり、激しく吹き荒れながら家々を閉じ込めていた。景色一帯が細かい粉雪に覆われていて、何もかもが見えにくかった。見えにくいまま、いつまでもそこにあった。
 しばらく立ち止まって見た後、僕は後ろに曲がり、寺院のある方へと戻っていった。寺院へとつづく分かれ道に来た所で、案内板が立てられてあることに気づいた。そこには寺院の名前や、先ほどの郷土博物館の名前、さらには海水浴場の名前などが矢印と一緒に書かれていた。海を見てみたい、と僕は思った。石狩に来て初めて、たとえ仮初のものであっても、僕にはしたいことが出てきたのだ。僕は矢印の方に曲がり、道を歩き始めた。道はゆるやかな傾斜になっていて、その傾斜は次第に厳しく、雪も深くなってきた。人家は絶え、道の両脇には葉を落とした茶色の灌木が、枝を複雑に広げて居並んでいた。僕の前には、どうやら雪かきされていないらしく、積もったままになった雪のかたまりが野性的な曲線を見せていた。雪は僕の胸辺りまであって、道を完全に塞いでいる。そこまで来て立ち止まり、ここで引き返した方がいいかもしれない、と僕は考えた。この先に本当に海があるのかわからないし、たとえあるとしても、それはとても遠くのことかもしれなかった。もしそうなら、海に辿り着く前にきっと死んでしまうだろう。そこまで考えて、しかし僕はその雪のかたまりに足をかけた。思ったとおり足は深く沈み込んだけれど、次の一歩を大きく踏み出して、その反動で引っこ抜く。支えにしている足も深く沈んで、あやふやな足場に身体全体が他愛なくふらついた。それでも、とにかく次の一歩を。そしてまた、もう一歩を。ふらつきながら繰り返すうちに、どうにか身体は雪の上の方へと昇っていて、そして、頂上を越えた。駆け降りるようにして、と言うか転げ落ちるようにして、僕は雪の向こう側へ息せき切ってこの身を運んだ。そこにはまた道があった。僕は歩いていた。傾斜は幾分ゆるやかになり、しかしなだらかに昇りつづけていた。大きくも小さくもない一歩一歩を、自分の力で踏みしめがら進んだ。雪と風とは僕を激しく打ちつけていたけれど、もう、寒くはなかった。息が弾み、頬があたたかく汗ばんでいる。やがて、背丈の揃った灌木の群生は絶えていき、おおらかな起伏をもった一面の雪原が僕の両側に果てしなく広がった。葦のような枯れた植物が、あちらこちらで何本も見えていた。雪の中でか細い姿を現していて、生えていて、まるで、どこまでもつづく宛てもない杭のようだった。