2005年8月3日水曜日

「Ishkar」 scene 6


 自転車でどれだけ走り抜けても、地面まで降りた夕焼けは街のあらゆる空間を塞いでいる。昼間には四十度を超えた暑さもどうにかやわらぎ、どこかから細く、風が吹いていた。けれど、息苦しくてたまらない。大学からの帰り道、水橋は隙間のない夕空を見上げながら、どこか遠くで窒息しつつある自分を想像した。
 学生マンションに着くと、まず郵便受けを調べる。これは、特に意味もない日課だった。格子みたいに上下左右に隣接して並ぶ、いくつもの四角い銀色の扉から、自分の名前の振られている一つを選び、手を伸ばす。扉がわずかに歪んでいるのを無理矢理力で引き開けて、その中の薄暗がりに無造作に手を突っ込む。そして、ひんやりとした平らな底をこちらへと、撫でる。
 「ああ、今日も何も入ってへんな」
 時には、声に出してそうつぶやくこともあった。特に待っている手紙があるわけでもないのだから、その言葉には何の感慨もこもらない。そして、そこに何の感慨もこもらないことが、却って水橋を途方に暮れさせた。一体、僕は何を待っているのだろう。何を待つためにここにいて、何のために気のない行為を重ねているのだろう。郵便受けの前の虚しい身体を引き下げて、彼はそれから階段を昇り、湿気のこもった自分の部屋へと帰っていくのだった。
 その日も、彼はいつものように郵便受けの扉を無理矢理引き開けた。そして、目の前の薄暗がりの中に、何の注意も払わないまま右手を突っ込んだ。その時、何かが彼の指の先に触れた。ひんやりとしたステンレス製の底ではない、ふくらみと反発とがそこにあったのだ。彼は少し驚いて、自分の指が押さえているものを見た。見ながら、手を、こちら側に引きずってくる。そこには、一通の封筒があった。
 ボロい封筒だ。何よりもまず、そのくたびれ具合が水橋の気を惹いた。形態としてはよくある茶封筒なのだが、縁の方は擦り切れて紙がほぐれていて、四隅となると色も落ちて白っぽくなっていた。折りジワも何本か入っていて、砂埃なのか手垢なのか、斜めに走るその直線はうっすら汚れを乗せている。封筒の口は山折りと谷折りに折れ曲がり、糊付けされていたであろう部分の一端が、かすかに浮かび上がりかけていた。
 水橋は、その封筒を手にとってじっくり眺めていた。封筒は軽く、何が入っているかわからなかった。宛名は北海道石狩市の、全く知らない人の名前になっていて、住所の付近にさらにいくつかの住所が、赤いボールペンやら鉛筆やらで走り書きされてある。黒のボールペンで書かれた元の住所は、それが個性的な字であったとはいえ、割合簡単に読むことができた。しかし、走り書きされた住所の方は汚い字だったので、何と書かれてあるのかよくわからなかった。そして、それら肉筆に混じって、名前の周りに散らすように、――と言うかむしろ、散らすと見せかけて巧妙にその端を名前に被せていくように、――三つ、四つと、赤いスタンプがくっきり押されてある。

    あて所に尋ね
    あたりません

 不恰好に改行され、四角い枠の中に押し込められている、文字。それを見て、水橋は言いようのない胸騒ぎを覚えた。「あて所」という言葉がぎこちなかった。「尋ね/あたりません」という二行の間がどこか遠かった。読もうとしてもいまいち滑らかに発音できなくて、喉と声とがもたもたしている間に、周囲の世界はそんな自分を置いていつものように進んでいく。そこに開ける一瞬の遅れは、どんなに一瞬でももはや追いつきようのない距離となって広がり、その、あるはずもない時間の空白の中に、水橋は一つのぎこちなさとして立ち尽くしていた。
 きっと、郵便配達の人もそうだったに違いない。水橋はそんなことを考えた。どこにいるのかわからない人の住所を尋ね、いつかどこかでその人に尋ねあたるだろうと尋ねつづけ、そうして、彼は宛てもなく行ったり来たりしつづけたに違いない。行き先のない場所に放り出された彼の迷いそのもののように、道は何回も曲がりくねり、時には重なり、交差し、すれ違って、それでもいつまでも広野の上にあったのだろう。道がどこかに抜け出て広野が終わる、そんな場所を見つけることもできないまま、先の見えない塞がる歩みが伸びていく。「あて所に尋ね/あたりません」。赤く四角いスタンプの文字の中に、彼の歩みが、そこに費やされた彼の時間が、そっくりそのまま込められている気がした。
 一体、どれくらいの数の人が、これまでにこの封筒と関わってきたのか。自分の部屋で座布団に腰を下ろして、水橋はなおも考えつづけていた。目の前の卓上には、さっきの封筒が置かれてある。宛先は「北野菜穂」。誰にしたって全く知らない人であることには変わりがない。消印の日付は、二〇〇四年八月三十日になっていた。すると、もう一年近く前に投函された封筒になるのか。そう思いながら、水橋は封筒を裏返す。差出人の住所は、水橋が座っている部屋になっていた。そして、その左には、「水橋孝司」……ではなく別の名前が、おそらくその人本人の手で書かれてあった。「増田考志」
 水橋がこの学生マンションに引っ越してきたのは、今年の三月だった。越してきたばかりの頃には、「増田考志」宛の手紙がけっこう頻繁に、「水橋孝司」の郵便受けに舞い込んだ。管理人の話によると、増田は水橋の前にその部屋に住んでいた学生で、一月下旬に増田が退室してから水橋が入居するまでの間にも、その部屋に増田宛の手紙が届くことがよくあったらしい。
 「せっかく転送してもですねえ」水橋が増田宛の手紙を渡しに行った時、管理人は少し怒った口調で愚痴をこぼした。「どこに行かはったのかわからへんのです。新しい転居先もだめ、実家として聞いていた住所もだめでねえ。どちらも宛先不明で返ってくるんですわ」
 そう言えば、増田への手紙が届くことはよくあったけど、増田からの手紙は初めてだな。ふとそう思い、水橋は少し笑いそうになった。なに勘違いしてんねん。そう、自分にツッコミを入れる。目の前にある封筒は、たしかに増田からのものだった。しかし、決して、水橋宛てのものではない。それはそもそも「北野菜穂」に宛てられていて、しかし、「北野菜穂」はどこに行ったのかわからなくなっていた。だから、封筒は返ってきたのだ。返ってきたのだが、だからといってそれは、決して、増田へ宛てられたものでもない。
 自分の出した封筒が、受け取る人もないままに、一年かかってそのままの姿で自分の許に返ってきた。それを見つけたとしたら、増田はどのように思っただろうか。水橋は、その時の増田の気持ちを想像した。きっと彼は、まず、ないはずのものがあることに驚くだろう。目の前にそれがあるということが、しばらく信じられないに違いない。そして、その封筒が現にそこにあるということを無理無理認めた後で、あると思っていたものが既になくなっていたということに気づき、急に支えを失ったような気分になるだろう。
 水橋は、自分で思い浮かべた増田の姿に同情した。その同情は水橋にとって、ちょうど切ないドラマを見ている時のように、心地よく自己陶酔に満ちたものだった。しかし次の瞬間、郵便受けの前で封筒を持っている増田が自分であることに気づいて彼は戦慄した。
 ――カタカタ。カタカタ。カタカタ。カタカタ。カタ、……カタカタ。カタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタ……
 封筒の中からは、いつしか音が鳴っていた。窓の外は、すでに夜になっていた。水橋は自分がどれくらいの時間そこに座っているのか、もはや思い起こすこともできなくなっていた。ただ、封筒の中身が震える音だけが、断続的に、いつ終わるともなく鳴りつづけている。
 その音はきっと、ずっと鳴っていたのだろう。僕が気づく前から。いや、郵便受けから取り出す前から。いや、もしかしたら、封筒が郵便受けに届く前から。カタカタ震えるこの音は、僕の部屋で、あらゆる郵便受けで、そして、世界のそこら中で、ずっと鳴りつづけていたのかもしれない。けれど、汚れとか折り目とか余計なことばかりに気を取られて、今の今まで気がつかなかった。水橋はそう思って、もう一度、目の前にある封筒を凝視する。中に何が入っているのかはわからない。わからないけれど、それはもはや何かを包み届けるものではなかった。そうではなくて、それはただ、そこにある“物”として、目の前の卓上に置かれてある。
 これをどうにかしなければならない。水橋は、そのことを強く思った。どういう理由であれ、僕のところに届いてしまった以上、僕はこれをどうにかしなければならない。水橋はそう強く思いながら、コンビニに行って弁当と野菜ジュースとを買い、部屋に戻ってきて座布団の上でもそれらをもそもそと食べ、食べ終わると、ゴミを捨て、シャワーを浴びて、一人分の布団を敷いてその中に潜り込んだ。電気を消す。すると部屋の中は真っ暗になる。その時どこかで、火が焚かれているのが窓越しに見えた。
 水橋が二度目の北海道旅行を決心したのは、その晩のことだった。