家が一つの楽器のようだった。すでに夜の暗さへと傾ききった夕空は、一面に透き通り、いつまでも留まっている。その空を埋めることもしないまま、さっきからの粉雪が果てもなく降りつづいていた。家が建っている。それは頑丈そうな造りをした二階建ての一軒家で、近くから見ると(いや、遠くから見ていた時でさえ)、まるで空と雪の中に聳え立つようだった。屋根や窓枠には雪が分厚く積もっていた。窓から漏れる光は黄色がかっていてあたたかだった。その家が震えていた。音楽を内に篭もらせながら共鳴し、家はしずかに震えていた。 「ここ?」 僕が訊くと、中島は質問には答えずに、苦々しい表情を浮かべる。 「またやってるな、あいつ」 雪に降り込められていた引き戸を開けると、その向こうにも引き戸があった。二つの戸の間で、中島と僕は服に積もった雪を払い落とした。空気は冷たくもあたたかくもなく、僕らは無言で、ただ、鳴り響く音楽がさっきよりも少し近くなったようだった。近くなったようだったけれど、それは依然ガラス戸の向こうの出来事で、僕の肌にはまったく触れて来ない。他人の家庭に雪を持って入らないように、僕は肩やら腕やらズボンの裾やらを執拗に手で払いながら、地面に落ちては不規則に散らばる雪の白さを見るともなしに見つめていた。 「あ、……起きた?」 僕の顔を覗きこみながら、みどりが訊く。 「うん」 僕はそう答えるけれど、本当に自分が起きているのかどうか、いまいち自信がない。ベッドの中で僕は仰向けで、起き上がることもできないまま、すぐ近くにあるみどりの顔を見上げていた。顎までするっと落ちていく、すっきりした両頬の線。思いつくとおりに切り散らかしたような、雑草みたいな短い金髪。深みのある光沢をさらに深く沈めているために、どことなく緑色がかって見える黒くて細い眉。目も細く、白目がちだけどどこかやさしくて、笑うとその目がもっと細くなる。 みどりはうれしそうな笑顔になってから、僕の隣に身体を戻した。こんな時みどりの目がその眉と同じように黒く深く見えるのを、僕は今さらのように思い出す。そして何度も思い返している。ベッドの上で。すぐ隣から、みどりが満足げにため息をつくのが聞こえた。僕は寝そべったまま、見えないみどりの方へ手を伸ばそうとした。 音楽とあたたかさは際限のない厚みを持った壁のようだった。それに襲われたのは中島がガラス戸を開けた途端のことで、僕は一瞬、どうしていいかわからず立ち尽くしてしまった。しかし、中島はごく普通にその中に歩み入っていく。そうするより他にどうすることもできなくて、僕も中島の後につづいて入った。玄関には何足かの靴がすでに並べられていた。女物の黒いローヒールが一足だけあり、そのサイズの小ささが僕の目を惹いた。他の靴の中にも同じサイズの物があって、そのことには何歩も行かぬうちにすぐ気づいたけれど、それでもそのローヒールだけ一際小さく見えたのは、ただの色の関係だろうか。 玄関からつづく廊下は暖色の豆電球で照らされていた。靴を脱いであがったフローリングの床は、靴下越しにもどこか冷え冷えとしていて、その上を僕は歩いていった。長くもない廊下の途中で折れて、中島が階段を昇っていく。中島と僕が昇っていく。階段は暗かった。暖房の効き過ぎていた一階よりも、ほんの少しだけ涼しく感じられた、気がする。切れ目なく音楽が大きくなってくる。丸木の手すりが僕らの右手側で伸びていて、各段の縁にはゴム製のすべり止めも付けられていた。 |
2006年1月27日金曜日
小説 「みどり」 (1)
2006年1月24日火曜日
エッセイ 「鳥の不在を越えて」
Monkさんの「シャボン玉」についての批評http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=62583を読んでて思い出したんですが。僕がネットで詩を発表するようになって、一番最初にいい評価をしてもらったのは、たぶん「にりぃーかぎぃー」「帰り道」「三月」「朱鷺」の頃だったと思うのです。その時、僕は嬉しかったと同時に、なんともやるせない気持ちになったのを覚えています。特に、「三月」や「朱鷺」。これらは小詩集『鳥、その不在、/三月』の中に入っている詩篇なわけですが、この小詩集のあとがきで、僕はそこに収められた四作品が全て「出口のない」詩だってことを書いてたんですね、たしか。で、それが高く評価されてしまった。 なんででしょう。苦悩を抱えてじっとしているだけ、という姿を描いたものが(いや、たしかにそれだけの詩ではないのですが)、高い評価を得てしまうのは。これは、この現代詩フォーラムで「ありふれた朝」が多くのポイントを頂いた時にも、感じた違和感でした(うれしかったんですけど。そりゃ飛び上がらんばかりにうれしかったんですけど)。たしかに、これらは自分の書いた中でも傑出した詩だと思います。そのことは否定しません。しかし、「この朝に、向かう先はない」とか言ってるだけではどうしようもないだろう、という気もするんです。 絶望と無力感。それが、詩の本領だとは思いません。むろん、絶望をうたう詩に、それがまさにうたっているということから、生きるための力が宿る、ということもあります。これも詩の力です。けれど、これとちょうど背中合わせのようになった事実として、詩は(「何もしない」ではなく)「何かをする」を選択することができる。そのように思うのです。そして、そんな詩の姿が忘れられているんじゃないか、と。 とはいえそれは、安直な救いを唱えたり実際にアクションを起こしたりすることとも違うと思います。もっと、言葉として、言葉でもって、前に進んでいくこともできる。きっとできるはずなんです。 僕が自分の詩の中で、往路/還路という構成を意識したのは、『焔(ひ)、千鶴』の時でした。一度絶望の果ての果てまで行って、それこそ死のぎりぎりの所まで行って(これが往路)、そこで得たものを力に変えて、そこからまた生まれ直し生き直して行くように、生者の世界に還っていけないか、進んでいけないか(これが還路)、と。そんなことを考えていた。 けれど、この間『寄せる波、世界へ、』を引き写していて、気づいたんですね。なんだ、これも往路/還路やん、と。「わたげ」はよくわかりませんが、「京都、また新年。」なんかめちゃくちゃ立ち止まっている詩ですし。「〝水へと、〟」も割とそう。「黒い風」あたりから少し方向性が変わって、後半、「二〇〇二年、クリスマスに祈りを」では、立ち尽くしている中から「いま/母が、/生まれようとしている」わけです。そして、「O(オー)」に至っては、光をつかまえちゃってる。こう読んでくると、最後の「ZONEの「白い花」へのオマージュ」の言葉に、何もかも失った重苦しさの中でもたしかに歩いていく足取りが見えて、なんというか、心強い思いまでします。 当時、自分が何を基準にこういう順番にしたかは、忘れてしまいました(なにせ、もう三年以上も前の作品ですから)。けれど、これを書いた時、というかこういう形で詩集にまとめた時、正直言って一篇一篇では地味な印象のあった詩篇が、急に息づき脈打ち始めたのを感じた。そのことだけは覚えていますし、だからこそ、僕はこれをオフラインの友人に「これこそが自分の傑作だ」として読んでもらったんでしょう(今となっては、ちょいと恥ずかしい話ですけど)。 ところが、やはり、こちらでのポイントを見る限り、前半の方が高く評価されてしまうわけですよね。皮肉でも何でもなく、「やっぱりそうなんだよなあ」と思ってしまいました。むろん、単に後半の方が詩の出来が悪かっただけかもしれませんけど。でも、「僕はかがんでいる」とかの方が、みんな好きなのかも、という気がしたことは(そしてそれが存外当たっているであろうことは)、否めません。 以前、レコ☆ポエでマジ自薦をしてしまった時、僕は自分の傑作として、「旅に病んで」『無煙の海』「空走距離」「忘れる。」を挙げました。このラインナップは、自分の中では未だに変わっていません(「Ishkar」は未完で終わったし、そうでなくとも、なんというか自分の中では大きすぎる存在で、他の作品と同じ土俵にあげて比較する気にはなれません。まだ、今のところは)。 何でこれらを傑作として挙げたかと言うと、いろいろな理由がある中の一つとして、これらは最後に何かを見つけているから、あるいは何かをしているから、というのがあったんだと、今では思います。あるいは、ベクトルが生きる方向に向いている。そのベクトルとして、実際に歩んでいっている。だからなのかもしれません。 喪失と絶望、出口なしの反復と混沌とする心身世界。たしかに、それが我々の生きる現代なのかもしれません。でも、だからこそ、僕はその絶望をうたうだけでは終わりたくない。そして、詩がみなそれをうたうだけと言うのも、何だかつまらない気がする。 そりゃ僕だって、「ありふれた朝」とか「反復される喪のために」(「入沢康夫「「誕生」へ」のフレーズに基づくRe‐Mixed Texts」)とかも書きますよ。あれもまた僕の世界だし、むしろあれこそが、僕にとっては自分に一番近い世界だと言ってもいいくらいです。実際、去年は「Ishkar」以後、そういう世界ばかりを書いてきた。ここには発表しなかったけど、暗くて重苦しくて混沌とした世界を、内側へと幾重にもくず折れ積み重なっていくような構成を使って書いていたんです(当時、グランジやヘヴィーロックを聴いていたからかもしれません)。 でも、気づかされた。去年のクリスマス、北海道でZAQのステージを見て、冬の石狩を一人で歩きつづけて、上に書いたような重厚な陰鬱さとはまったく違う、――まったく違う、……なんだろう? 芸術と言ってもいいし、生きることと言ってもいいんだけど、そういうものの、――あり方があることに。シンプルに。僕らは生きているし生きていけるんだ、と。 僕は最終的にはそれを書きたいのでしょう。少なくとも、今のところは(その点から言って、この年頭に他でもなく「年越しカレーライス」を書けたことは本当によかった)。そして、一読者として、そういう作品を読んでみたいとも思う。「何もしない」のもたしかに立派で勇気ある決断ですし、そういう作品も大好きです。ただ、そこを越えて何かをするような、出口のない時代に一つの歩みを見せてくれるような、そういうものも僕は読んでみたい。この時代だからこそ、そういうものにもいつかは挑戦していってほしい。だって、そうでなければ、結局時代に抗することもできないままで、ただ時代に流されただけになってしまいそうですし、ね。 |
2006年1月21日土曜日
【批評ギルド】 「MIKADO」 RABBITFIGHTER
わかっておいででしょう? 私にエロをお与えになると、大変なことになりますよ? というふざけた出だしで批評を書き始めてから、既に二週間経っています。なんてことだ。遅れて申し訳ございません。 RABBITFIGHTER 「MIKADO」 http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=59668 なんと言うか、考えさせられる作品ですね。というか、考えさせようとしている作品です。そこのところが、好みが分かれる第一のポイントかもしれません。考えさせようとしていないがゆえにふと考えてしまう、という作品がある一方で、この作品はその逆を行こうとしている。第一文にも見られるように、問題意識の切り出し方はエッセイ・批評的であり、そこだけを見る限りこの作品は非常に論考的なものであるように感じられます。 むろん、そのような論考的な作品自体は、あって悪いものではありません。というか、真摯に論考を進める文章が、その真摯な力によって言葉を躍動させたり、あるいは思索によって言葉の限界を突き抜けたりして、非常に詩的な感動を与えることもあります。そして、実は私は、そのような作品に対して憧れも持っています。ただ、この作品は少なくともそれではない。なぜなら、この作品の文章は、あくまで作者の手の内の中で留まっているからです。 メタファーを使いつつ考えていく詩もあるし、散文性を追求する中に、言葉の新たな地平が見えてくる、という論考や小説もあります。ただし、残念ながら、この作品は二つのスタンスの間でどっちつかずになってしまい、結局、作者の考えをなんとなーく詩的に、なんとなーく散文的に表明するだけで終わってしまった。そのように思いました。 誤解して欲しくないのですが、上のように書いたからと言って、私がこの作品のことを嫌いなわけではありません。実際の話、一読者としてこの作品を読んだ時は、思わずポイントを入れようとしました。最初の一文は鮮烈だったし、思想的にも、私と重なるものを多く感じてうれしかった。しかし、じっくり読むうちに、それだけではすまないようなこの作品の色んな面が見えてきたのです。これは批評ですので、自分の思想と重なるから、というだけで、そのような面を看過するわけには行かないのです。 一、エロティシズムと幻想 >舞台では観客も観客を演じている。 この作品は、上の一文によって始まっています。読む側として、ぎょっとする部分です。舞台とは、演じ手が誰かを演じる場所であって、我々は我々自身としてそれを見物に来ている。我々は普通、そのように思っているからです。しかし、この一文は、そのような我々(=観客)もまた、演じ手であることを暴露します。ここで注目したいのは、「舞台では」という一言です。この一言があることで、この一文は、たとえば「舞台を見ている観客もまた観客を演じている」という一文とは決定的に違うものになります。なぜなら、ここが「舞台では」とされることで、文章にきづかないほどの微細な捻れが生まれ、舞台を見ているはずの観客もまた、演じる者として舞台の上に乗せられてしまうからです。 >あなたはゆっくりと下着のひもを解く。解かれたひもははらりとたれさがる。あなたの指先がどんなにゆっくりと解こうとも、解かれたひもは重力にしたがって予定された速度でたれさがる。そのひもがゆっくりと落ちていくように見えるなら、ひももやはりひもを演じているのだ、あなたの腰にゆわえつけられた。 ここに来て、それがおそらくストリップの舞台であることがわかってきます。しかし、そこに見えてくるのは、エロの世界ではありません。そもそも、エロティシズムと言うのは、一種の幻想によってなりたっている感覚です。「出会った、やった」では、エロティシズムなど微塵もありません。実際にはまだ訪れていない(見えていない)性交という事態が、隠されつつある(可能的に存在している)という状態によって、よりその力を解放する、そこにエロは存在します(たぶん)。性交とオルガズムという、いわばあからさま過ぎてそれ以上どうしようもない一事実とぶち当たることを回避し、その事実を未然の状態において保持し合いながら、お互いにまさに見えない押し引きを繰り返す。これが、エロティシズムの実体なのかもしれません(こう言う時、私は九鬼周造の考えを想定しています。特に、かの「「いき」の構造」を)。 (余談になりますが、これに関して、非常に示唆に富む言葉が成人雑誌ビデオボーイの中にありました。2003年12月号の中の一文です。「エロ業界、値段で切るピンキリいろいろ。上は花魁の150万円相当、そして下はティッシュのゼロ円といろいろ。しかし全ては何のためか?というと射精のためである、と思うと相当マヌケ。(いろいろと問題があるので、中略)では何に金をかけているかと言うと、出すシチュエーション。一番気持ちよく出せるムードに金をかけているといっていいだろう(後略)」) しかし、この作品は、そのような幻想を剥ぎ取ります。「解かれたひもは重力にしたがって予定された速度でたれさがる」という一文は、その点ですごいですね。普通、スローモーションが欲しい場面です。欲を言えば、ストリップとともになっている音楽の上でも、なんか盛り上がる山場が来て欲しい場面ですよ。というか、ストリッパーと言うのは、こういうところを盛り上げるために様々な見せ方を研究するものらしいです。しかし、この詩の話者はそれらには目もくれず、ひもがたれさがるところに注目して、幻想の駆動から身を引き離している。 そりゃあそうでしょう。ひもは、わざわざスローモーションでは落ちないものです。しかし、我々は普段無意識にそこにスローモーションをかけて見ています。というか、スローモーションをかけて見ざるを得ないのです。その、なんと言うか我々を完全に包囲している舞台、その幻想から、この作品の話者は抜け出ている。それがショッキングで、我々を強く打ちます(ほかの例で言うと、我々は人が飛び降りるシーンと言うのを、サスペンスドラマとかなんかで非常に見慣れている。あのアングル、あの劇的さ、そしてあのスローモーション。しかし、たとえば黒沢清『回路』の飛び降りには、そんなものはありません。ただ、落ちていくスピードとつぶれる肉体があるだけ。そのあっけなさの衝撃ったら、ありません)。そしてこの話者は、あまつさえ舞台の存在まで暴露しています。「そのひもがゆっくりと落ちていくように見えるなら、ひももやはりひもを演じているのだ、あなたの腰にゆわえつけられた」 >そしてあなたもまた何かを演じている。この小さな、でも座席からあぶれた観客でいっぱいになった劇場の舞台で、それでは何を演じているのか。舞台にはあなたの脱ぎ捨てた衣装が散らばっている。 「あなた(=おそらくはストリッパー 註引用者)もまた何かを演じている」、当たり前の話といえば当たり前の話でしょう。しかし、これもまた、幻想に慣れた我々にはショッキングです。ステージの上にいるストリッパーなり俳優なりを見る時、我々は自分が何を見ているか、と問い直しません。ただ、そこに生まれる一種の幻想に取り込まれるだけです。さらにいえば、下手したらこの幻想が、そこでは見られていないはずの生身の彼女たちに重ね合わされることになる。彼女はたしかにエロティックなポーズをとっている。エロティックな視線で、我々を誘っているように見える。「やっべ、この娘、すっごいエロいよぉ。根っからのエロだよぉ」とか言って喜ぶ男性がいる。しかし、実は頭の中では、彼女は親知らずが生えてきたことを悩み、明日あたり歯医者に行ってみよう、とか考えているかもしれないのです。じゃあ、その時、男性は騙されたのでしょうか。もしそうだとしたら、一体誰に? むろん、これはまだマシな例なのです。この幻想がより強固になると、演じているストリッパー自身、自分が今演じているんだということを忘れてしまうのです。この境地は、ある見方からすれば、演じ手にとっても観客にとっても幸せなものであるでしょう。なぜならば我々はそこで、ここに在らざるものの現前に立ち会っているからです。 ニ、幻想に対する二種類のスタンス――剥ぎ取るか、それに乗って先まで行くか さて。私がこの批評を書き進められなかった理由は、まさに今上に書いた部分にあります。というのは、ここで、一つの分かれ道が見えてきているわけですね。その分かれ道は、幻想に対する二種類のスタンスと言ってもいいもので、本当は、作品の最初から作者はそのうちの片方を選んでいるんですけど。とにかく、ここでその分かれ道が決定的なものとなって現れてくる。すなわち、「ひも」を直視することによって幻想性を剥ぎ取っていき、我々を演じさせているものの正体を暴く(暴こうとする)、という散文的なスタンスか、それとも、上に書いたような幸せな境地に賭け、在らざるものをまさに現前させる(させようとする)、という韻文的なスタンスか。 この作品は、その二つのうち、後者、すなわち幸せな境地に賭ける、という方を選んでいるようです。それは、次の部分に明らかです。 >この小さな、でも座席からあぶれた観客でいっぱいになった劇場の舞台で、それでは何を演じているのか。 「それでは何を演じているのか」。ここには、「演じている」ということに対する断罪よりはむしろ、「何を」に対する興味が見えます。もっと言ってしまえば、「何を」に対して読者を(そして自分を)意識づけよう、という演出が見えます。むろん、ここで全く同じ言葉で、「演じている」ことに対する断罪に突き進んでいくことはできるわけですし、私も当初、そのように読んだのでした。しかし、それでは後半の部分がうまく読めなくなってくる。後半の部分を、実際にご覧下さい。 >舞台にはあなたの脱ぎ捨てた衣装が散らばっている。あなたはしかし、裸になることを恥らうように薄いレースの下着を右の足首に巻きつける。そのままその指は両足を這って進み薄い陰毛を掻き分けて裂け目の奥に埋まる。観客の視線はあなたの指に導かれ、初めてその裂け目の奥に入ることを許される。 舞台に散らばる衣装、というのは、「ひも」と一緒で、一方では、それがあまりにもそっけないものであることによって、演じられている舞台から抜け出す、という散文的な側面(「ひも」の例で言うと、「あなたの指先がどんなにゆっくりと解こうとも、解かれたひもは重力にしたがって予定された速度でたれさがる。」という部分の側面)を持っています。これは、上の分かれ道で言うと、前者の立場ですね。それと同時に、この「衣装」はもう一方では、それが舞台の上にあることによって或る演出的な効果(もっと言って、幻想)を観客に(そして「あなた」にも)与える、という韻文的な側面(「ひも」の例で言うと、「そのひもがゆっくりと落ちていくように見えるなら、ひももやはりひもを演じているのだ」)をも持っています。これは、上の分かれ道で言うと後者の立場です。 また、この後の、「薄いレースの下着」の部分も同様です。ここにも、「あなた」は恥らっているのではなくて恥らうようにそうしているのだ、「あなた」はそうやって何かを演じているのだ、という意識があって、そこには暴露と幻想との両方の方向性が孕まれている。「レースの下着」の物質性や、あなたがまさに「演じている」という事実を注視して、幻想性を剥ぎ取ることもできるし、舞台の上の「あなた」や「下着」を通して、それらが演じている「何か」を幻視する方向へと進んでいくこともできる。 そして、作者は、この幻視の方を選び取ります。なぜなら、次の一文があるからです。「観客の視線はあなたの指に導かれ、初めてその裂け目の奥に入ることを許される」。演出家であり演じ手でもある「あなた」の指に導かれて、観客の視線が見えるはずもない女性器の中に入っていく――この部分こそ、まさにその幻視(もっといって、舞台を通して舞台の上にはないものへ、というこの作品の方向性)を現しているのではないでしょうか。ここで作者は、幻想を剥ぎ取ることによってそれを生んでいるものの姿を暴露するのではなく、むしろその幻想を利用することによって、その幻想を生んでいるもののもとへと行き着こうとしているのです。 もちろん、「観客の目」という言い方は、どこか作品の話者がその「観客」とは違う者のように感じられる言い方であって、つまり、観客の視線とは少し違う角度から入り込む視線を感じさせられる言い方であって、そこにはまだ、暴露の方向性も残されています。しかし、この後の展開を見てもわかるように、実際は話者の視線もまた、この「観客の目」と重なる視線となって、幻視している。 >そしてあなたは時代をさかのぼり、やがて物語の中に自分を見いだす。劇場にはもうすべてが揃えられている。観客があり、音楽があり、松明が灯り杯が回される。あなたは神々の御前で舞を舞う。神々は笛を吹き、鐘を打ち鳴らしてあなたをはやしたてる。もはやあなたは絶頂の間近にいて飛び跳ねている。 この部分が、幻視でなくて何であるでしょう。ストリッパーが、儀式で舞い狂う踊り子となり、物語(あるいは、語られた古代)の中の存在であるその踊り子からさらに、舞台も物語も飛び出して神の御前にまで到達する。これは、具体的で現実的であるほかない身体から、抽象的で可能的な物語上の存在へ、さらにはただ一人で神と向かい合う霊的な自分へ、の移行とも言えましょう。「もはやあなたは絶頂の間近にいて飛び跳ねている」。これは、降霊あるいは降神の儀式で踊り狂う踊り子たちが辿り着く神秘的な境地であるのでしょうし(スーフィズムや、太陽の踊りなどを思い出していただけると幸いです)、それは翻って、ミューズへと向かう詩人が憧れる、ひとつの到達点でもあるのでしょう。 >そしてついに、あなたの指があなたの絶頂をその裂け目から引きずり出すと溢れだす飛沫とともに木の花の香が舞う。それは降り注ぐ甘露の雨。あなたの余韻は、ミラーボールに砕かれるまま宙を舞う。 この最後の部分を読むと、もはや、ストリッパーは舞台の上にいないように思えます。そしてもしかしたら、観客でさえも。あらゆる《演じていた》人たちが消えて、そこに「木の花の香」と「甘露の雨」だけが充ちている。詩がもたらす無人の境地と、そこに充ちるもののことを、なんと素敵に比喩化した部分でしょう。 ただ、この、「素敵に比喩化」というのが曲者なんです。なぜなら、ここには比喩があるだけで、もっといえば境地のなんとなーく詩的な説明があるだけで、実際にその境地はこの文章の中に(そして、観客である我々(作者含む)の中に)現れていない、そう思えてしまうからです。 三、この作品の不徹底さ 個人的な感触の話で申し訳ないのですが、散文の特性は、記述すること、考えること、歩むことにあると思います。そして、韻文の特性は、叙述すること、うたうこと、掴み取ることにある、と。そもそも、自然科学的な記述にせよ、神学から独立した人文科学としての哲学的な論考にせよ、さらには小説にせよ、それらの散文は近代市民社会とともに生まれたものであって、神という中心軸を失った時代に、市民社会の理想的な構成員としての合理的・普遍的な個人をその軸に据えようとする方向性とともに生まれたものであるはずなのです(たぶん)。 ですから、散文を使って詩を書くことはとても困難な作業であるわけで、そこでは散文と詩との双方に対しての作者の意識が必要になってくる。この困難さを詩人がどのような方策によって乗り越えようとしてきたかは、優れた散文詩をいくつか読むことで自ら習い学び取る以外にないと思いますが(とりあえず、お薦めとして粕谷栄一の全散文詩、平田俊子の『(お)もろい夫婦』、谷川俊太郎『定義』、入沢康夫『声なき栗鼠の唄』あたりを挙げておきましょう)、とにかく、そのような困難さの自覚と散文/韻文への意識がこの作品にあるかと言うと、非常に疑問が残ります。 ニで何回も述べたように、この作品には相容れない二つのスタンスが同居している。そして、その矛盾が解決されていないのです。解決されないまま、作者は幻視の方を選び取るわけです。しかし、この作品がそもそも散文で書かれている以上、そこには散文的な性質が宿ることは避けようがなく、この散文性をうまく裏切らない限り、どれだけ幻視の方を選び取っても、それは散文に再び絡め取られていってしまう。そして、まさにこの点こそが、この作品の不徹底さとして私には感じられます。 この不徹底さは、特にこの作品の話者の居場所に現れていると思います。一でも書いたように、この作品の話者は、観客と重なるような視線として幻視するわけですが、それと同時に、観客とは少し違うような立場もほのめかしている。ここには、二重化の問題があります。むろん、この二重化がまさに二重化として、解決困難な問題として出してこられる時、それはそれで面白い作品になると思います。しかし、この作品ではそれが主題ではなく、やはり主題は幻視の方にある。幻視と言う主題を出してきながら、最終的にはそこには散文としてそれを書いている作者がいる。そして、この散文を書く話者を、散文自体が乗り越えられていない。 これがどういうことになるかというと、結局は、作者が幻視とかを使いながら自分の考えを主張しているだけ、ということになるんですね。もっと言えば、自分の主張を述べるために、体よく比喩を組み合わせただけの作品になってしまっている。むろん、この作品では話者もその比喩の舞台の上に引き込まれているわけですが、しかし、その一方で散文の作者はやっぱり無傷のままでいる。散文の書き手として理想的な位置、似非超越的な位置にいつづける。そのことが、読んでいてつまらないんです。なぜって言うと、この作品では演じ手が演ずることを通して神の御前に立つ、という場面が書かれていたわけですが、実際のところ、彼らを演じさせていたのは作者であるあなたであって、この作品を通して観客としての我々読者(そして、演じ手としての話者)が出会うのは、やっぱりこれも神様じゃなくて、単にあることを主張しようとしているあなたでしかないからです。 散文を通して幻視へ、というのはたしかに素晴らしい道筋です。しかし、それを行うためには、本当に散文に徹底して、できる限り幻視への跳躍を踏みとどまらなければならない。散文性の中で耐えることによって、散文が壊れる所まで行かなければならない。私が愛する小説家や映画監督は、そのようなスタンスを取っています。彼らは、容易にかの境地までは行き着かない。しかし、これは詩だから、という言い訳は通用しません。詩で同じことをやった例として、入沢康夫「わが出雲」の例などもあるのですから(この長編詩の中で、話者は存在しない「本当の出雲」を探し続けて、自分が見る出雲を「贋の出雲」と呼びながら書き分け掻き分けしていって、その贋の出雲の中での旅を保持しつづけていった先で、ついに「わが出雲」を見つけている)。あるいは、次のようなことも言えますよね。詩として書くなら、別に散文から出発しなくてもええやん。最初っから、神の御前に立っているような境地の詩を書けばすむ話ですから。と。 四、ごめんね。 この作品が、「MIKADO」というタイトルを振られているように、ここにはむろん、演じさせられているものとしての天皇への批判(非難ではなく)があるように思えます。現人神としての天皇、自らの姿を現しながら隠すことで、その影響力を強くする天皇という制度、あるいはこのテレビとインターネットの時代において、ある観点から言えばもはやストリッパーのような卑俗な存在に墜落したとも言える天皇。そして、そのような天皇のあり方を支える無数の観客。そのような状況の中で、天皇はもはや歴史や伝統ではなく物語の中にしか自分を見出せない。 しかし、このような批判として受け取るにしては、最後の木の花(まさかコノハナサクヤビメ?)とかの部分の叙情的な描写が邪魔をしてきますし、結果、「天皇がストリッパーって、うまいこと言ったもんだね」っていうところまで行くのが精一杯で、そこで批判が止まってしまう。批判をするにしても、そのような置き換えの妙のさらに先まで行ってほしかった、というのは読者のわがままでしょうか。 また、一人の踊り子として神の御前に立つ部分や、木の花云々の部分に、天皇に対するある種の同情と言うかなんと言うか、始原に帰してやりたい、始原に帰った姿を見てみたい、という思いを読み取ることもできるのですが、二でも書いたように、そこで出会う神様が、実は作者さまでした、じゃあ、なんとも救われない話です。神と思って踊り狂っていたら、やっぱりそれも人間だったのだ、というのは、天皇に対するさらなる批判としてすごく面白いのですが、けれど、そこまで何回もひねり上げていくのは、個人的には回りくどすぎる気もします。 それに、どちらにしてもこの作品は、二で書いたように作者の手の内から出ていないわけです。そのような作品は読んでもいまいち面白みを感じないから、考えさせようとされたって、あんまり考えたくもないし考えさせられる感じもないよなあ、というのが正直な所でした。わがままばっかり言って、ごめんね。 |
2006年1月15日日曜日
小詩集 『鳥、その不在、/三月』
三月 僕の腕が飛び散った。 裸の僕の腕が飛び散った。 破れた肉の中には中央アジア。 なまめく肩の曲線に、 世界の風と川とが 着地する。 僕の両脚は湾曲している。 血管が脈打ちナイルのようにつづいている。 無数の砂鉄 あるいは軍隊アリ。 身体中の毛穴から這い出して、 僕の皮膚を闊歩してゆく 何ものかがあった。 目の奥が痛い。 なくなった腕の指先のあたりでは、 南アメリカ大陸が蝶のように羽を休めている。 さびしいうみの歌はやむことなく聞こえつづけ、 ひとりの夜は月蝕のように発光する。 裸の僕。 僕のからだ 僕の腕が飛び散った。 裸の僕の腕が飛び散った。 残された片腕を垂れ 湾曲する両脚で立ちながら、 ひとりの夜に 僕はひとつの身体であった。 脳を喰いちぎっていく無数の活字よ あるいは精子たちよ。 NEWSはもう いらないのだ。 風と骨格 鳥の骨格について考えている。 午後、海のむこうから、 誰かの声が聞こえてくる。 鳥の骨格について考えている。 家を出て、見上げた青空で、 白い雲は流れていかない。 僕は石畳の道を下りていく。 風の午後、誰もいない町からは、 時折、囁き声がもれてくるばかりで、 道沿いの樹々は、人知れず咲いた小さな花を、 音もなく、陽の光の中に散らしている。 海からの風。僕が思い描く青空で、 鳥の骨格は、しずかに翼を広げてゆく。 けれど飛べない。しずかに翼を開いたままで、 吹きつける風を、ただ後ろへとすりぬけさせるだけ。 いのちを守るための、骨だったのだ。 そして空を飛ぶための、骨だったのだ。 鳥の骨格について考えている。 午後、海のむこうから、 誰かの声が聞こえてくる。 鳥の骨格について考えている。 主に、そのかるさについて考えている。 鋭い音を立てて、 青空を戦闘機が通り過ぎていき、 壊された町並みの中、 僕は石畳の道を下りていく。 夜の子宮 (AV女優 大空あすかさんに) 「それが全部表現だと思ってます」 一行の、 沈黙。 夜が孕む、 白い、一本の裂け目のように、 彼女の体内で、 声が、 か細く立っている。 ゆるぎない、 それは誰にも犯すことができない、 一瞬。 または永遠。 二〇〇三年三月二十七日発売、 成人向け雑誌 ビデオボーイの、活字の海で、 渦を巻く淫語の中、 その一行は、 立っている。 沈黙として。 表現する彼女の、 表現されえない、夜の子宮として。 今も、 全国のコンビニに並ぶ、 この雑誌を前に、射精するものよ。 あるいは彼女のビデオを借りてきて、 再生し、巻き戻し、時には一時停止して、 自らの肉棒を、ひとり慰めるものたちよ。僕らは、 僕らの肉棒は、 彼女の子宮口に届くだけの、長さを、 そしてゆたかな孤独を、 その沈黙の中に、 持ちえているか。 ビデオの中で、 大空あすかは今日も性器を挿入され、 絶叫する。 僕らは欲情する。 「それが全部表現だと思ってます」 朱鷺 朱鷺がいる。 オレンジの雲が、 棚田の上を流れていく。 アスファルトの街に、 雨が、降っている。 朱鷺がいる。 古代エジプトの小川で、 水中のエサをすくい取っている。 僕のアパートのベランダから、 しずかに、こちらを見つめている。 夕暮れはあかく過ぎてゆく。この世界で、 僕には読めない文字がある。 その形について、 思いめぐらす僕の隣に、 一通のかなしみが、 墜落してくる。 朱鷺は飛び立たない。 僕は、朱鷺の大きさを目測する。けれど、 「これは一羽の鳥である」 と、 つぶやくしかないのだ。結局。 そんな僕の目の前で、 その鳥は、いつまでもつかむことができない。 しずかに、こちらを見つめている。 そして朱鷺がいる、朱鷺がいるのだ! 古代エジプトのベランダに オレンジの雨が降っている そんな夕暮れ。 僕は、窓の外に手をのばすということを、 まだ、うまく思い出せずにいる。 (二〇〇三年三月十八日~四月一日。ただし、 「風と骨格」の一行目だけ、二〇〇二年十二月二十三日) |
詩集 『寄せる波、世界へ、』 後半
前半http://awono-katei.blogspot.com/2006/01/blog-post_15.htmlより 二〇〇二年 クリスマスに祈りを (うみほたるさんに、マックスヴェーバーに、「LOVELESS」に、『戦場のメリークリスマス』に) ドイツの宇宙飛行士の、 無線のこゑ。 世界(ゆにばあす)の闇 (不思議ナ、文字ダ。〝門〟ノ中ニ、〝音〟) と、青き水のほし(ああす)との間を、 響いている。 それは誰にも拾われず、 いつまでも、 そこで、 語りかけつづけている、 語りだしつづけている、 無線のこゑ。 無いものは、 孤独なうたを聴くための、 唇だった。 今年もむなしくやってくる、 水のふゆ と、 暴力的にひろがっていく、 世界の闇の草原 (〝門〟ノ中ニ、〝音〟!) そのまんなかで、誰にも気づかれないまま、 宇宙の〝う〟 が、 ふるえている。 それを正しく発音できないから、 マックス・ヴェーバー(二十世紀初頭のドイツの社会学者)が、 大通りでひとり、 天を仰いでいる。 ゆにばあす と ああす の 間 あい 、だ ドイツの宇宙飛行士の、 無線のこゑ。 〝響いている。〟 その、果てもない語りかけ、あるいは語りだしの中で、 いま 母が、 生まれようとしている。 (二〇〇二年十二月十六日) メリークリスマス、 メリークリスマス、ミスターローレンス。 LOVE SONG 世界の果てで、 空は幾何学的にヒビ割れていた。 正しく、美しく、 絡み合い走り抜ける輝きの直線たち。 断裂。 平らなディスプレイのむこう側から、 孵化 しようとする、 あんなにおおきなLOVE SONG ひとつの誕生日が 生まれた日に、 ひとつの命日が 綴じられる日に、 結ばれた地平。この世界の果てで、 そら そこで、いつまでも、 孵化 しようとする、 孵化 しようとしている、 あんなにまばゆいLOVE SONG あんなに遠くのLOVE SONG 別れる日(火・被・非…… うたう ひとつかぎりの憧れ。 そして夢。 僕と君が、 あなたとあなたが、 そしてわたしとわたしが、 別れる日(火・被・非…… に、 痛みは裂け、 大いなる海からあたたかな血をまとい、 生まれてくるやわらかい赤子 の、その小さな手がつかむ世界のために、 いま それぞれの声でうたう。 あんなにおおきなLOVE SONG あんなにまばゆいLOVE SONG まだ、 届かないけれど、 世界の果てで、 空は幾何学的にヒビ割れていた。 正しく、美しく、 絡み合い走り抜ける輝きの直線たち。 断裂。 やがてそこから、産声が、 あるいはひとつかぎりの憧れが、 そら へと響き、溶け込んでいく日に、 そら そこで、いつまでも、 君とまた会いたい。 O(オー) (ZONEのアルバム『O』に) O(オー) まるく O(オー) とじているのです O(オー) なにもない の、数字みたいだけど O(オー) アルファベットでは じつは十五番目なんです O(オー) 血液型は、O型です O(オー) 驚いたときには いつも声を上げてしまいます O(おおお) おおざっぱだなんて あまり言われないけど O(オー) まるくとじている 瞳 この手で触れるものって 世界にどれだけあるんだろう わたしにはわかりません まだ十五歳だから もう十五歳だから まぶしい朝のひかり を、どうやってこの手のひらでかたどっていけばいいか わたしは知らないのです でも こんなにまぶしい朝のひかり わたしは、今日も、目を覚ます ねえ、雪が降ってきました ちらちら ちらちら はいいろの雲の、もっと高くから ゆれながら 舞いながら わたし あんな歌声に なっていきたい そうか 世界は、きっとO(オー)なんです 吐くいきがこんなに白いから わたしの瞳の手のひらが 雪になって 散っていく ひかりを、いま つかまえましたよ ZONEの「白い花」へのオマージュ (過ぎてしまったらしい戦乱の世紀と、始まったばかりの二十一世紀に。 死者たちへ。そして、今もなお生きつづけている人々へ。捧げます。) つないだ手の、 あのぬくもりの、 名前 なくしたから、 思い出さえ、 もう思い出すことはできない。 雪降る夜の、 深い底の、 道 闇のむこうへ、 あなたの名を呼ぶこともできないまま、 わたしはひとり、 あるいている。 しんしんと、 雪が言葉を遮っていく。 世紀を越えて、 ここでは沈黙が降りつづいているから、 わたしのこの手は、 すでにかじかんでしまった。 正しい思い出を、 正しくさがすこともできないゆび。けれど、 降りしきる雪のむこう、 いまでもかすかに、つながっているのだ。 名を呼ぶこともできない、 あなた そのぬくもりへと。 そして、わたしはひとり、 わたしたちはひとり、 あるいていく。 底のない夜空のかなた、 殺されたはずのわたしたちの季節が、 白く、浮かびあがっている。 それは、 まぼろしのようにおおきな、 白い花 いつの日か、またこの胸の中で、 咲いている。 (二〇〇二年十一月一日~十二月二十二日) |
詩集 『寄せる波、世界へ、』 前半
わたげ ――ある死者のために うたうやうに しずかなは(ふぁ)なを さかすやうに は(ふぁ) ね それは 草や木の いのりでありました そらとみずの そらへ ゆたかに うつくしく 実 の、り ふくらんでいく は(ふぁ) ね うたうやうに しずかなは(ふぁ)なを ふむ やうに このあしで いのちのおはりを ふみ 文 ふみしめてあゆんでゆく あかんぼう の あし の やはらかさ 文 大事な文を なくしてしまつた このゆびは かはにもぢをかくには かたすぎる やがて かれてしまつ た この手のひらに まぼろしのやうに 白く あめのやうに こまかく ふつてくる {ルビは=<ふぁ} ね かすかに音をつれて 実 の、り それは 草や木の いのりでありました うたうやうに しずかなは(ふぁ)なを からすやうに 京都、また新年。 (京都のイベント『Portry Lunch Box』のために) bent bent 曲げる まがる かがむ (の、過去分詞) bent 曲げる、まがる、かがむ、 (の、過去分詞。) また新年。 京都の街を、 吹き抜けていく風。 ( feng ) いつかの雪は、 アスファルトの下、 鴨川の底、 そして、 すれ違った女子高生が覗き込んでいた、 ケータイのディスプレイの裏側にも、 ふり ふりつもる。 また新年。 さっきの風は、 交差点をまがっていった。 ( fe どこまでいっても、 bent 過去分詞 の、この街で、 餅が、 そして餅が、 また餅がさらに餅がそのうえ餅がまだ餅がそれでもなお餅が 焼かれ、 食われていく。 一斉に、 京都 bent 曲げる まがる かがむ (の、過去分詞) bent 曲げる、まがる、かがむ、 (の、過去分詞。) この街で、 弁当 空っぽの四角いはこ に つめられた昨日の残りもの。 弁当 こんなにも区切られ、こんなにも曲げられたこの街で、 つめられた昨日の残りもの。 (の、過去分詞 そこで僕はかがんでいる。 〝水へと、〟 (雨の中行われていた芸術イベント『大風流』に) 1、 ぼくはいつでも、かげをもっていた。 あしもとから、ほのぐらいひかりがあたるから。 でもぼくは、そのひかりがどこからくるかしらない。 ぼくはここでたっている。 「 オブジェ。…… 」 あめにぬれるから、 ぼくのまわりに、よごれたあしあとが、 残っていた。 2、 水の、 水の、 あるく。 ぼくは、 撤去されてしまった、自転車を取り返しに、 遠くまで、あめの、はいいろの雲を、 しらない、大通りはもうすでに、 の、 さらに遠くまで、 歩いていった。 ぼくは、 水の、 かたち? に、さわっている 〝水へと、〟 帰っていった。 それは、 撤去されてしまった、自転車を取り返しに、 水の、 水の途中。 3、 あめにぬれるから、 ぼくの絵の具が、たれてきた よ。 黒い風 (河村隆一ミニアルバム『人間失格』へのオマージュ) どこかで 見つけた 黒い風 人間失格の 穢れたからだ と 甘い歌声 あんなに優しい MeLoDy を うた、 うた、って (そこへと) 逃れていく 一ツのからだ 許されて 誰かに許されて いる 彼(その男)は (あなたへと) 愛を歌って いる 「道化師を演じる僕を受け入れて下さい 「この僕を睨み 叱って下さい 「僕を やがて 偽ものの草原の果て 家と道とが 燃え上がる うしなって それでも 彼(その男)は ひとりで歩いていく 遠い火傷を負いながら 偽ものの草原のうえ (あなたへと) あこがれ あゆむ 人間失格の 穢れたからだ の 甘い歌声 あんなに優しい MeLoDy は 彼(その男 あるいは私) どこかで 見つけた 黒い風 「僕はあなたを愛している 「僕はあなたを愛している 「僕は |
2006年1月1日日曜日
年越しカレーライス
かじかんだ手。 かじかんだ手。 かじかんだ手。 朝はまだもう少しだけ見えてきそうになくて、わたしたちはみなそれぞれに白い息を吐き、眠くもない目をこすって立っている。 ――雨、降ってる? 紗枝がポソリとそうつぶやいて、誰もそれに答えない。じっと黙っていると、広々とした闇の中にたしかに雨音が聞こえる気がして、わたしの肌はいつの間にか一面に濡れていた。 ――ううん、降ってない。 千恵美がそっけなく言った。ポケットから出した右手が小さく震えながら、手のひらの上でケータイを何回も反転させている。しばらく見つめてから、わたしは夜の闇に視線を戻した。吐き出した息はそのまま露が浮きそうなくらいに白くて、この夜の中で誰にも(わたしにも)見えないまま、わたしの肌はやっぱり一面に濡れていた。 ――カレー、美味しかったね。……ありがとう。 千恵美の手が、ポケットに戻る。二時くらいまではひっきりなしにメールが届いていた千恵美のケータイも、四時になるとさすがに身動き一つしなくなっていて、千恵美が気まぐれに取り出して弄ぶ時以外は、ポケットの中であるのかないのかわからない状態だった。 ――ううん、こちらこそ。あんなにいっぱい食べてもらえて、ほんとうれしかったよ。ありがとう。 千恵美も紗枝も、小さく笑った。二人の手は、全部ポケットの中に収まっていて、見えなかった。わたしは自分の手を取り出して、かじかんだ指を曲げてみた。さっきまではこの手で、ぴかぴかしたスプーンを握っていたのだ。 ――なんだかさ、よくわかんないね。 紗枝がまた、よくわからないことを言う。いや、これはわたしが思ったことと言うより、むしろ千恵美が思いそうなことなのだけど。そう思うとなんだか可笑しくなり、わたしは紗枝ではなく千恵美の方を向いた。千恵美は笑って、うん、わかんないね、と答えた。 ――カレーが? わたしが訊くと、紗枝は声を立てて笑った。千恵美も声を立てて笑い、笑った後で、そうかも、と言う。 ――そうなの? ――いいや、違うよ。この間クリスマス祝ってね、それでもうお正月、って言うのが、なんだかよくわかんない、ってことだったの。 たどたどしい口調で、紗枝が説明してくれた。道路の脇では降り積もった雪が凍てついていて、歩道の上も白く、固く、わたしは滑ってしまわないように足元を見つめながら、歩いた。目を少し上げると、黄色やら赤やら、星みたいな街の灯りがずっと先までつづいている。点々ときらめいて、きれいだった。それがわたしのクリスマスだった。今、ここには雪もなく、胸に抱えていた箱もなくって、わたしは両手をポケットにつっこんだまま、肩をすくめて震えている。 ――たしかに、よくわかんない。 それに、そばじゃなくて香織のカレーを食べちゃったから、余計に、ね。千恵美が笑う。 わたしが来たことを真っ先に喜んでくれたのは、千恵美だった。初めて見る内地の夕暮れは、もう、ほとんど紺色に近くなっていて、アパート三階の廊下で立つわたしを背中から穏やかに包んでいた。緑色に塗られた扉が重そうな音とともに開き、中から高校時代とはずいぶん変わった千恵美の顔が覗いて、笑顔だった。 あーっらあ。おぅ前、本当にはるばる来ちゃったのかい。 馴染みのない高さから見る夜景と、ボールの中で斜めに冷やされた白ワイン。照れているようでいて、そのくせどこか誇らしげな彼氏のはにかみ。何かあるとすぐ赤くなる頬が懐かしかった。懐かしいと言うことが、たぶん、かなしかった。久しぶりのクリスマスプレゼントをもらって店を出て、そのまま歩いていた凍った夜の道で、わたしは何を考えていたんだろう。 夜が明けてきたみたいで、少し、街の木々や建物の輪郭が見え始めていた。しずかに、しずかに、何かが目覚め始めている音が聞こえる、気がする。 ――はい、ここで香織さんに質問です。 カレーが食べたい、と言い出したのは紗枝だった。バスも使わずとことこ歩いて来て、千恵美の部屋に入ってから何分も経たないうちに、ああ、お腹すいた、と言った。わたしと千恵美は、顔を見合わせた。どうしよう、この近くにカレー屋さんがあるけど、そこ行く? なぜか、わたしの方が申し訳ない気持ちになった。ううん、わたしが作るよ。突然来たお詫び(千恵美が険しい表情をした)って言うか、や、……お礼。材料はみんなで買いに行こう。 ――香織さん。ズバリ、置き忘れてきたものは、ないですか? わたしは何も言わずにうなづいた。質問した紗枝の表情が、うれしそうに緩む。千恵美もうつむき加減になりながら、目を細めていた。 「ありがとう」 作ったカレーは、結局女三人には多すぎて、三十一日になっても食べきれず食べているうちに一日になった。それはつまり、年が明けたと言うことで、わたしたちは近く(千恵美のアパートの近く)の神社に初詣に行って、お賽銭を投げてお祈りをした。 スプーンに山盛り、カレーとごはんとをすくって、口に運んだ。辛さとあったかさとを味わいながら、何度でも味わい直しながら、よく噛んで、飲み込んだ。そしてまた、スプーンですくった。箱の中には、クリスタル製の振り子時計が入っていた。母にただいまを言ってすぐに飛び込んだ自分の部屋で、わたしは揺れる振り子をずっと眺めていた。右から円く落ちて左へ、カチリ。小さな音を立てて止まってすぐまた円く落ちて、カチリ。また円く落ちて、カチリ。気がつくと、窓が粉のような雪でほとんど覆われていた。相当激しく吹雪いているらしく、びょうびょうという風の音、窓ガラスに打ちつける雪の音が、一人の部屋に染み入ってくる。カチリ、カチリ、カチリ、カチリ、…… 宝石みたいにつるつるしてたのに、握った手の中で砂みたいに崩れた。止めようとしても止められなくて、指の間から次から次へとこぼれ落ちていった。落ちていく最中に端から融けていき、見えなくなった。何だったのだろう。これまでの時間とは、何だったのだろう。一人北に残りつづけて、わたしは必死で、何をこの手で守ってきたのだろう。 箱の中には何も入っていなかった。箱の中は空っぽで、街では雪が降っていた。いや、違う。わたしの胸に箱なんてなかった。わたしは両手をぶらんと垂らしたまま立ち止まり、立ち止まっていて、街は激しく吹雪いていた。鍋の底のカレーを平らげて、紗枝が満面の笑みでごちそうさま、と言う。片手でお腹をさすっていた千恵美が笑い返し、それからわたしの方を向いて、立ち上がった。ごちそうさま。じゃあ、外に出よう。 ――やっぱり、降ってない? 紗枝がまた訊いた。千恵美がまた答える。 ――降ってないよ、ねえ? ――うん。何も降ってない。 わたしは、笑った。 かじかんだ手。かじかんだ手。かじかんだ手は、ポケットの中で、やっぱり冷たくかじかんでいる。身震いすると、わたしの身体から見えない水滴が飛んで、消えた。誰もそれに濡れなかった。千恵美がまたケータイを取り出して、右手の上で反転させ始める。紗枝が何を思い出したのか、ほっと大きな息をつく。 空はいつしか青く澄んでいた。その下の方で、バラ色がかった淡い光がしずかだ。夜明けの空気は乾いた肌には一層寒くて、二人とも、もう千恵美の部屋に戻りたいのかもしれなかった。それはわたしも同じだった。 震える唇で、わたしは言った。 ――明けまして、おめでとう。 |
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