2004年9月28日火曜日

ディスプレイ


 どこかでロウソクが燃えていた。揺らめく明るいそのひかりが見え、ロウがじりじりと減っていく音が聞こえていた。
 わたしは冬の街中で振り返った。街灯はすでに街のあちこちを華やがせ、その隙間から、凍えるように深い夜空が見えていた。ライトアップされたショーウィンドウの中でポーズをとるマネキン。濃いブラウンにベージュのラインが一本入ったセーターを着て、頭部のない白い首をそこから覗かせていた。白い光の中で誇らしげに立っている。その前で、何組かのカップルが立ち止まり、彼を眺めながら言葉を交わした。そして、彼らもまた、そこから離れて歩き出していく。
 風が吹いて、寒い。わたしは、前に向き直ると待ち合わせ場所に急いだ。
 今日のデートは、笠木さんから誘ってくれたものだった。わたしにとっては初めて、男の人と過ごすクリスマス・イヴ。お母さんには、友達とケーキを食べてくると言った。早く帰ってこられるかどうか。それはわたしにもわからなかったし、結果がどちらであれ、わかりたくない気持ちの方が強かった。
 笠木さんが作ってくれた地図を見ながら、アルタの階段を降りていく。どこかのアイドルのクリスマスライブを、生中継しているのだろうか。噴水前広場に特大のテレビが設置されていて、女性の歌と、取り囲む男の人たちの重くくぐもった歓声が聞こえてくる。
 わたしは、密集している黒い人だかりの後ろを通り抜けると、広場の西側にあるお店の前に立ち止まった。壁に背をつけ、テレビの方を眺めながら、待つ。笠木さんの地図の上、何回も曲がりながら続いてきた矢印は、そこで突き当たって止まっていた。
 アイドルが何かをする度に、それに合わせて動作を取る男の人たちが滑稽だった。怒号のような歓声が方々から繰り返される。アイドルは、忍というらしい。わたしと同じ名前。少し、親近感がわいた。男の人に囲い込まれた画面上の忍さんと、ただ一人の男の人を孤独に待っているわたしとの間を、幾人もの人々が横切り、通り過ぎていく。
 遠くで叫ばれているわたしの名前を数えているうちに、時計の針は待ち合わせ時刻をずっと後ろに置き残していった。一時間と十分待って、わたしは地上に出ることにした。気合を入れて着てきた白いコートが、蛍光灯の光をみすぼらしく弾いている。
 アルタの階段を昇っている最中に、わたしはふと、笠木さんの硬い手の甲を思い出した。そして気づいた。わたしは、笠木さんの顔を見たことがなかった。
 どこかで銃声が聞こえた。一発。そして、もう一発。ショーウィンドウの割れる音がした。悲鳴は聞こえなかった。
 振り返ると、忍さんはまだ踊り続けていた。男たちは必死の表情のまま、その真似をしている。外に出るとロウソクが燃えていた。冬の夜空だけがただ、何も見ずに黙っていた。

2004年9月20日月曜日

( くもりガラス。 ) ほか一篇


   いる兄 いない兄



「YEAH!

 どこまでだって
 生きていってやるぜ

 YEAH!

 そうさ もっと
 もっとうそをつきながら

 YEAH!」



「うなづきながら ほほえむ人々と
 首を横にふりながら ほほえむ人々が
 すれ違う交差点を見ました

 何本も並んだ
 ガラスのビル群がきれいでした」



「すべてが真であることと
 すべてが偽であることとが
 ともに成り立ちうるならば

 それは
 普通のことである

 私の娘は 今日もランドセルを背負って
 小学校への道を
 歩いていって見えなくなった」



「おかあさん
 いるよ

 おかあさん
 ほら

 いるよ」



「肯定しなさい
 いのちを込めて
 肯定しなさい
 鋭い剣を絶つように
 うすものの六月の青空を
 裸足で駆け抜けていくように

 たとえそれが
 悲しい嘘だとしても

 肯定しなさい
 あなたが生きている限り
 肯定しつづけなさい それこそが
 あなたが生きている
 うたごえなのですから

 証 なのですから」



「おかあさん
 いるよ

 おかあさん
 ほら

 いるよ」



「つい先日母から聞いた話だが、わたしには、
生まれてこなかった兄がいるらしいのです。
父母の都合で堕胎させられた兄は、その後、
しばらく母の腰のあたりにしがみついていた
らしいのですが、ちゃんとご供養した後には、
守護霊となって、わたしを守ってくれている
のだそうです。
 だから、今夜も母は仏壇に向かい、今夜も、
わたしは布団で眠りにつくのです。名前も知
らないわたしの兄に、言葉にならない、お礼
を言いながら。」



「おかあさん
 いないよ

 おかあさん
 ほら

 いないよ」



「わたくしたちは
 なんとあえかな鏡のあい間を
 あるいていく
 水面(みなも)であるか

 言葉にはならぬ空無に向けて
 静かなうなづきを返しながら
 わたくしたちは
 あの海へと
 向かう」



「YEAH!

 どこまでだって
 生きていってやるぜ

 YEAH!

 そうさ もっと
 もっとうそをつきながら

 YEAH!」





   ( くもりガラス。 )



うなづいている人の、
横を
過ぎていく。
そんな小雨を、
僕は歩きながら聞いている。
平坦につづく大通り。
やわらかに、
つつまれて


   ……うん、

   ……うん、


あたたかな雨だった。
視界をおおっていく、
春色の水のけぶり。

(こんなにやさしい、
 くもりガラスなんだね。) と、
小さなつぶやきが、
したたっていく。
窓枠はない。
平坦すぎる大通りで、
音もなく回転している、
一年
雨の

そして僕は、
去年の僕に追いついて、
「おはよう」 と、
声をかける
ことはできないから、

まるくつつまれている、
平坦につづく大通りを、
歩いていく。
ただまっすぐに。
視界を遮るくもりガラスのむこう、
彼の背中は、
もう消えたけれど


小雨の中の会話。
どこかで、誰かが、
遠いだれかにうなづいている。




   (二〇〇三年五月、六月)

2004年9月19日日曜日

もぐもぐさんの呼びかけに応える4 ――裏ダンショウ(2)の2(後半)


   (承前)

 さあ、やっと最後の段階に来ました。この、「本当/にせもの」の枠組みの転倒の最も先端にある考え方であり、同時に上のような時間の逆転を倫理に結びつけるための媒介でもあるものが、「出来事」というものなのです。これについては、もぐもぐさんの「あをの過程さんの時間論-「存在の彼方へ」を読んでみる12」に対するコメントとして、簡単に書かせていただきました。引用します。

わたしがあえて(比喩ではなく、文字通り)時間軸を逆転させたのは、まさに「解釈」を無に返す「出来事」の存在を出してきたかったからです。だから、われわれの人生というのは、死の時に至ってその意味が全て明らかになるものではない。逆に全てが明らかになると思われるほど、あらゆる解釈を経てきた死の時から人生はスタートして、逆に解釈不可能なものとしての出来事それ自体に向かっていくのではないか、ということです。(中略)事件が起こったまさにその瞬間、事件は一つの出来事です。その一瞬(0地点)だけはわれわれの解釈を拒み、自足しています。しかし、当然様々な人から様々な解釈が出てくるから、事態は紛糾する。で、コナンが見つける真相とかも、結局はそんな解釈のうちでその時点で最も妥当性をもち共有されやすいものにしか過ぎず、出来事それ自体では決してない。

 たとえば、コンビニでアルバイトをしている増田考志(仮名)くんが、バイト中に店の時計を落として割ってしまったとしましょう(このお話はフィクションです)。この時、「時計が割れた」はひとつの出来事です。で、この出来事からの距離によって、様々な解釈が生まれうる。
 増田くんにとっては「ああ~! 俺、またやっちまったよぉ。この前はガチャポンをしまい忘れたし、今度こそクビになるかもしれへん。就活もうまいこといってへんし、ほんま最近の俺はダメダメやわ。あかん、泣けてきた」(このお話はフィクションです)ということになりえますし、いや、もっと単純なところでは「店の時計を自分不注意ゆえに落として割った」というのが、彼にとってのこの出来事の意味、出来事の解釈になるでしょう。
 一方、その場にいなくて、店の奥で何かが割れるドデカい音だけを聞いた店長にとっては、「時計が割れた」という出来事は、そのときはまだ「ドデカい音が聞こえた」というものでしかありません。しかし、これも「時計が割れた」に対する、彼の位置からの一つの解釈であるのです。そして増田くんからの内線電話を受けた時点で、彼にとっては「自分の店の時計が、増田によって割られてしまった」という新たな解釈が生まれうる。
 さらに、時計を割って呆然としている増田くんの後姿を垣間見たコンビニの客にとっては、「何が起こったんやろう? どうでもいいけど、早くレジ打ってほしいわあ」であるかもしれませんし、また、ここに全然違う人がいて、たとえば、店の向かいから「時計が割れた」の一部始終を見ていて、そのことに神の啓示を見る、ということもあるかもしれません。

 で、ここで言いたいことは、その解釈のどれもこれも、出来事それ自体ではありえない、ということなんですね。けれど、それでは解釈は全部にせものか、というと、決してそうではない。解釈はたしかに出来事そのものではないにしろ、かといって「時計が割れた」という出来事について語っていないわけではないのです。つまり、みんな「時計が割れた」という出来事としっかり関わりながら、それについて語っている。結局、解釈は出来事それ自体ではなくても、しかし出来事に対してにせものとは決していえない、その解釈のどこにも出来事はないように見えて、けれど全部に「時計が割れた」はしっかり存在している、ということなんです。
 この「出来事」が、「本物/にせもの」の図式を崩すものであることは容易に理解できるでしょう。「本物/にせもの」の図式は、特にそれが目的論的人生観にドライブをかけるような場合には、「本物」をなにか「にせもの」の<奥>にあるもの、探し出す価値のある真実、と見ることによって成り立っていました。けれど、ここにおいて、「出来事」は奥ではなく<表面>にあります。そしてそれは、探し出すべきものでもなんでもない。「時計が割れた」という、それだけでしかないのです。

 少しここから脱線しますと、この出来事の考え方のゆえに、フィクションといわれるもの(小説とか、詩とか)にも、何らかの意味づけが出来るのです。それは、あたかも本物のように語られたにせもののお話なのではない。あるいは、本物の世界に対する比喩としてしつらえられた虚像などではない。そこに書かれた言葉は、まさに言葉という出来事なのであって、それが関わる世界の位相の違いによって「現実」とは区別されるかもしれませんが、決してにせものではないのです(このことによって僕は、一般的に受け入れられている「詩とは比喩によって何かを説明する芸術だ」という考え方、あるいは詩を比喩として作者の心情という「本物」を読み取ろうとする考え方に、真っ向から反対する)。
 映画の中の出来事もそう。映画が終わってしまえば真っ白なスクリーンに還ってしまうとはいえ、真っ白なスクリーンが「本物」でそこに映された映像が「にせもの」なのではない。そこにはたしかにそのような映像が流れた、という出来事があり、その出来事の存在は決して否定されえないのです。(とはいえ、出来事は多重構造になっていて、決して外側にある出来事の方が真実である、とはいえないにしろ、その区別は非常に大事になってくるのですが。)

 さて。もう一つここで重要なことを言いますと。先の例で、「時計が割れた」という出来事が起こった理由はたしかに、一般的に説明すると増田くんの不注意に寄ります。けれど、それが完全に出来事自体を説明しきれるか、というと、そうでもない。だって、増田くんがいかにがさつであり不注意でものを壊しまくっているといえ、壊れていないものもあるのであり、実際その時計も壊れなかったかもしれなかった。だから、出来事は理由といえるものを持つことは出来るが、同時に無根拠でもありうるのです。まさにそれは、「出て来た事」、「あらら、こんなことが起こっちゃったわね」という驚きと共にしか接しえないことなのです。
 もっとも、あらゆることが出来事です。それのいちいちに僕らは驚いてはいられないし、実際いろいろと理由をつけ(疲れていたんだ、とか)簡単に解釈し納得して済ませてしまうこともあるでしょう。けれど、忘れてはならない。解釈は出来事の出来事性を取り払うことは結局出来ないのです。そして、出来事は理由や解釈のうちで消化されなくなるものではなく、いつまでたっても異物のようにそこに存在しつづけるのです。
 そして、我々の人生にとって一番の出来事は何か。それが、自分の誕生なのですよ。なぜなら、「時計が割れた」とかについては、ある程度理由とかをつけて噛み砕くことも出来ますし、そのことによって、我々は自分の人生にそれを引き受けることができる。ある程度までその出来事に対して責任を持つことができる。けれど、誕生については、誰も自分でその責任を負うことが出来ないのですから。
 それゆえにこそ、殺人が許されえないことになります。理由づけることは、出来事から出来事性を取り払い、その操作を可能にする行為です。たとえば、「時計が割れた」ことを僕の不注意ゆえに起こったこととして理由づけることは、それによって「時計が割れた」という出来事を把握した気にさせますし、その出来事が起こってしまったことに対する驚きをなくさしめます。そして、「時計が割れた」はある程度まで出来事ではなくなり、僕という者の下に位置づけられることさえ出来るのです。僕はそれを引き受け、責任を果たすことが出来る。だから「時計が割れた」に対して、その理由付けに応じた(とされる)処罰を受けてもなかなか文句が言えない。
 けれど、いかにも理由づけえないはずの「自分が生まれてここに在る」という事に対して、誰が責任を負えるでしょう。いかなる理由づけも不可能な出来事に対して、一体どのような正当な理由がそれを解釈し、操作可能に出来るでしょう。誕生の否定、存在の否定、そして(いかなる理由のもとでも)殺人が罪でありつづけるのは、それが誰にも理由づけできないものを操作することであるからです(もちろん、遺伝子操作などの問題も最近ではあるでしょう。ただし、自分が生まれる前にどのような操作が施されたにせよ、それは自分の人生の外側にあるのであり、生まれた当人にとっては責任の負いようもありません。それゆえに、遺伝子操作によってできた存在だから自由に殺していい、ということにはならないのです。それは、作った側からのあまりにも稚拙で愚かな理由づけです)。
 
 僕は自分の「世界は下手したら、自分ひとりの幻想かもしれないのだ。」という考え方が、だから「俺はこの世界で好き勝手にやっていいのだ」というものにつながることを恐れてきたのです。だからこそ、自分の幻想であっても幻想としての世界の中の出来事は全て出来事として「在る」のであって、それを否定することはできない。それゆえにこそ、少なくとも殺人行為は許されえない、ということを考えようとしたのです。
 なぜ僕が目的論的考え方を嫌うか。それは先に言ったように、それがいまここにあるものの存在を否定するからです。そして、人を殺すためのあらゆる理由づけは、それに属します(ただし、自分が殺されそうで、相手を殺さなければ自分が死んでしまう、という場合がもしあったとすれば(多分ないとは思うけど)どうすればいいか、というジレンマがそこには残ってしまいますが。これについてはまだこれから考えていきたいです)。そして、この二つをともに否定するのが、ダンショウ(2)第二節のレベル3だったわけです。
 だから、先にもいったように、究極僕には時間がどちらに流れていようが、そんなことはどうだっていい。本物とにせものの枠組みを空虚化させて転倒させ、出来事と存在の貴さ(無根拠さとそれゆえの不可侵さ)を見つめることを可能にし、そしていかなるものも「在る」と言うところから出発しようとする考えが、どうにかして成り立ちさえすれば。
 以上のことは、僕がその誕生以降抱え続けてきた問題ともいえるわけであり、本当に僕の根本にあるものですので、書くのがものすごく怖かった。今でもそうです。だから、もしかしたらわかりにくい所もあるかもしれません。どうかその場合は、まだ書くべき時にはないんだな、と大目に見ていただけるとうれしいです。

 どうしましょう。最後にいつものように、ふざけたふりして少し軽い話をしましょうか。なぜ、ダンショウ(2)が「ZONEに関する」なのか。この時間の逆転について述べた第二節についてだけ、ネタ晴らしをさせてもらいますね。
 「ZONE」というグループ名は、彼女たちの音楽がその領域を広げていくように、という考えから出たものでもあるそうなんですが(そしてそれは、容易に推測されることなんですが)、どうもそれだけではなかったらしいんですね。ある時期までは公式HPのプロフィール欄に書かれていたことなんですが、「ZONE」にはもう一つの意味があったのです。それは、「一番最後から始まって、ONEになる」、という意味だったそうです。
 そこにあるのは何も、オリコンチャートのドン尻からスタートして、いつか一番になろう!というような単純な図式ではないように、僕には思えた。「Z」はアルファベットの順番の最後、そして「ONE」は、数字の順の一番最初。このアルファベットと数字の間にある見えないねじれが何か、とてつもないものを語っているように思えた。また、「ONE」はある意味でオンリーワンという考え方もできるし、アルファベットの順番を考えるとそこから抜け出た存在でもある。それを考えているうちに、今回のように時間の逆転という考えが僕の中に芽生えてきたのです。
 ここからさらにZONEの他の要素へのリンクもあるのですが、それはあまりに大部になるので省略します。まあ、このネーミングの件は、ちょっとした小噺として流して置いてください。それではー。


もぐもぐさんの呼びかけに応える3 ――裏ダンショウ(2)の2(前半)


 これは、前回投稿させていただいた「もぐもぐさんの呼びかけに応える2 ――裏ダンショウ(2)」の続きになります。前の部分を読まれていない方は、そちらからお読みいただくことをお薦めします。

 さて。前回の裏ダンショウ(2)で僕が言ったことは、大きく言って次の三つになると思います。その一、僕が裏ダンショウで言った「時間は、未来から過去へと流れているのではないか」ということは、特に(常識から遠ざかる順に三つ挙げてあるレベルの)レベル3においては、単なる解釈の転換ではなく本当に未来から過去へ流れる時間を想定して書いていた、ということ。その二、僕の時間論は、もぐもぐさんがおっしゃっているような、ある決定された結末を想定して人生をそこに到着するために進んでいくものとする「目的論的人生観」に落ち込むものではなく、むしろそれを拒否するためのものであった、ということ。そしてその三。これは、裏ダンショウ(2)から引用しましょう。

僕の議論の基調は、上のレベル1にも出ていたように、誕生と死の瞬間を特別な瞬間、人生にとって極めて意味のある瞬間としながら、同時にそれを人生の外に置くことです。もちろん、どこにどう生まれるかは人生にとって非常に重要であり、「終わりよければ」ではないにしろどう死ぬか、が人生を意義付ける度合いはとてつもなく大きいでしょう。しかし、それは誕生と死を点ではなくある程度の幅を持つ線と考えた場合のことであり、点としての誕生と死は、やはり当事者の人生に対してある意味で無責任な一つの出来事でしかありません(「出来事」については(2)の2で)。


 ここで出てきた「出来事」の理解が、レベル3を読み解く上で必要になってくるものと思われます。しかし、今は急がず、そもそもなぜ僕が時間を逆転させてみようとしたのか、そこから話し始めてもいいような気がします。
 別に、個人的には時間が過去から未来に流れようが、未来から過去に流れようが、そんなことはどうだっていい、と思っています。だから、僕が時間を逆転させてみたことは、それ自体としては別に意味深いことでも何でもありません。少なくとも僕にとっては。では、なぜ時間を逆転させたのか。それは、そこから派生する様々な事態に期待して、でした。
 高校時代から僕には、抗うべき一つの考え方がありました。それは、本当の何々、真実の何々というものを想定して、それに対する到達度で自分を位置づける、という考え方でした。僕自身がこの考え方をしていて、僕はとりわけ理想が高い人間でしたから、理想どおりになれない自分が苦しくて苦しくて、何回も自殺を諮っていました。小学校六年生の時から、首にはロープの跡が見え隠れし(みんなには皮膚炎と言っていました)、鞄には自分をいつでも殺せるようにナイフが潜ませてありました。
 でも、ある時気づいたのです。なぜ、自分がこれほど苦しいのか。それは、自分が宙吊りだからである、と。理想を設定しそれに向かっていくことはたしかに素晴らしい。しかし、階段は今立っている段がないと、そもそも上がってもいけません。ところが僕は、理想という究極の目的地だけを見て、自分が今いる足場を否定していたのです。現在の、完璧ではなかろうが何者かの自分がたしかにある、ということを認めず、そんな自分を消し去ってしまっていたのです。だから僕は苦しかった。宙吊りだった。それを、やめようとある時思った。
 勘違いはして欲しくありません。別に僕は、理想をもつことを否定しているわけではありません。ただ、ある理想、ある「本当の自分」を目指すあまり、現在の自分を文字通り無き者にしてしまう考え方から、身を離そうとしたのです。それは、「然り」ということ。本当のものが実在していてそれ以外は無きものあるいは虚像である、という考え方に対して、あらゆるものの存在を肯定すること、つまり、「在る」ということ。
 僕はずっと、この考えから出発してきました。ダンショウ(2)にも書いた「世界は下手したら、自分ひとりの幻想かもしれないのだ。自分が死んだらそこでおしまいになる、わたしが主人公の一つの映画なのかもしれない。」というのが僕の思考の根本的出発点だとしたら、この「在る」ということは、映画的人生観と密接に絡まりあった僕の倫理の根本的出発点として、本当に重要な位置を占めているのです。(さらに言えば、僕の存在の根本的出発点として、「生を光が当てられている側面として考えるならば、光が当てられていない所で眠っているわたしもどこかにいるはずである。(中略)われわれは、わたしが生の舞台に上がった瞬間に、分かたれたのだ。しかし、死の後に再び分かちがたい二人として戻るだろう。(中略)「わたし」は「彼」がいるからここに生まれて、ここに生きている。」(ダンショウ(2)より)というものがあります。そして、この三つ(本当はそれ以上)が重なりあう地点に、僕にとってのZONEがあるのです。)

 とにかく、僕にとっては「本当の/にせものの」という区別に「本質としての有/実在しない虚像としての無」という区別を重ね合わせる思考法が第一の敵だった。そして、このような思考法が導き出す、「虚像から本質へ」というドラマツルギー、さらに言えばそれが人生観に反映されたものである目的論的人生観が大っ嫌いだった。それに反発するために僕が取り得るひとつの手段が、時間を逆転させることだったのです。
 一見すると、時間を逆転させることは、起源としての誕生に重要な意味を与え、我々の人生を、その誕生以前の理想状態(イデアっていうんですか?)へと立ち戻るためのもの、と規定することのように思えます。これでは単に、「本当」としての意味づけを終局ではなく起源の方に移したのように思えます。
 それは、たしかにそうであって、実際僕の論法の上でもイデア的なものは出してきています(「分かちがたい二人」というものがそう)。しかし、ここで一番重要なのは、僕にとってそのイデア的なものは恋焦がれるものではあるにせよ、人生の過程では絶対に到達できないもの、とされている、ということです。つまり、たしかにそれは「究極の目的地」なのですが、それは「点」として、人生の端にありながら人生の中で面積をもちえないものなのです。イデアがやってくるのは、人生を線として描いた場合、人生の中にありながら同時に我々が責任を持ち得ない人生の外でもあるその「点」においてなのです。それは人生が到達する場所ではなく、よってそれを目指して進んでいくことは根本的には無意味です。
 では、どうするか。ただ、その呼びかける力に駆り立てながら、しかしそれを目指すのではなく(なぜならその力は根本的に無方向であるから。「幼児期はそれ自身としては実在しない」(フロイト))常に自分のこの身体から、自分の道を歩んでいくだけです。そして我々の人生が果てる時、目指したはずでもなかった目的地が、我々のもとにやってくるのでしょう。「時には遠く離れながらしかしともに歩み続ける二人の呼び合う声は、すべて、どちらかの頬を流れそしてもう一方がそれを忘れないと誓ったいつかの涙のように、二人の関係の真ん中を流れ落ちて、基地に流れ着くのだ。そして、そこで待っているのだろう。二人がそこにたどり着くのを。二人が基地に帰ってくるのを。」(ダンショウ(2))この「基地」は、そして「二人」は、人生に活力を与えるドライブであり、人生が最終的に流れ着く場所でありながら、目指すべき場所ではない。そして何よりそこに流れ込むためには、我々は「二人」を理想として孤独を思い悩むのではなく、今自分が一人であるこの道を歩んでいくしかないのです。

 少し話が横にそれました。ええっと、時間を逆転させることの戦略について語っていたのですね。そのことについて、改めて語ってみます。
 我々は、実感としては紛れもなく誕生から死へと生きています。そして、死ぬ時には何らかの目的地に辿り着きたい、という願いも持っています。それが時代によって作られた感性であるとしても、正直そこから抜け出すことは難しい。アンチを唱えることは簡単だけれども、そのアンチですら、結局は同じ時代的土壌の上での堂々巡りになってしまうことだってあるのです。だから僕は、異を唱えてぶつかっていくのではなく、あえて反対すべき思想の内にいながら、そこに少しのズレを生もうとしたのです。そのわずかなズレのせいで、反対すべき思想がそれと気づかぬうちに重心を崩し、転倒してしまう、そのようなものを目指していたのです。
 時間を逆転させること、もっと繊細にあのダンショウ(2)のように時間を捉えることは、上のような願いに、ある種の救いを与えます。つまり、あなたの人生はそれが終わる瞬間(実感の上では死の瞬間)に辿り着くべき場所を、ちゃんと(実感の上では)前もって持っているのだよ、と。それと同時に、それは目的論的人生観にかすかなズレを生みます。その辿り着くべき場所を人生の結果とするのではなく、始点とすること。しかもそれを人生の内にありながら外にある場所とし、人生が目指すことができないものとすること。このことで、目的への到達度によって自分の人生や現在を価値づける、ということが不可能になるのです。そしてこれは、ニヒリズムに対する拒否にもなりうる。なぜって、この考え方は目的地(イデア)を「本当」として自分の人生を「にせもの」とするのではなく、むしろ「本当/にせもの」の枠組み自体を取り払って、目的地も人生も全部ありって言っちゃう考え方なんですから。
 
(長くなりすぎたので一旦きります。後半へつづく) 

2004年9月16日木曜日

部屋 フラグメンツ (ケータイについて)


 何回もお世話になったケータイショップだった。今使っている暗緑色のケータイも、そこで買った。深夜一時に前を通り過ぎた時、「機種変更10分で出来ます」という横断幕の下で、店は真っ白な立方体になっていた。崩れ落ちた壁土のようなものと、いやに薄っぺらな光を放っている銀色の脚立。それだけがあって、あとは何もない部屋だった。
 「へえ、最近のケータイはすごいんだな」と、僕の友人の妹背は言った。僕が着うたを聞かせてやった時の話だ。「本当に歌ってるじゃん」
 自分のケータイから、自分の好きな人たちの好きな歌が流れる。このことの喜びに僕は一時期虜になった。暇な日には、家でごろごろしながら着うたを際限なく流した。といっても、聞きたい曲数は限られているから、同じ曲を何回も流すことになる。いつまでも断続的に続く喜びの中で、次第に無感情になっていく自分の眼を他人の眼のように感じた。そうこうしているうちに外の光は色づき始め、僕はまた出かけそびれたことを気だるく後悔するのだった。
 着うたを聞いているのに飽きると、僕はケータイで自分の部屋の写真を何枚も撮った。洗面所や、窓や、冷蔵庫。それにガラス越しの物干し台など。一度、それらの写真を妹背に見せたことがあったが、彼は一言「怖いな」と言っただけだった。単純な、本当に単純なあの部屋の写真の、何が怖かったのか。僕には今でもよくわからない。
 僕はそのあと、着ムービーなるものを知っていくつかダウンロードした。着信画面に設定すると、電話やメールがあった時に僕の好きな人たちが小さな画面の上で躍動し、歌を歌う。唐突に始まるその短い時間が、僕にとっては一日で一番幸せだった。映像は、いまいち良くない画質のせいでどこかノスタルジックで、15秒間で断ち切られては何回も繰り返された。ふと気づくと、着信をほったらかしにして映像に見とれている自分が何回もいた。そんな時の僕はまるで、フラグメンツ化されたデジタルデータみたいだった。
 「ふーん」着ムービーを見せると、妹背はディスプレイを眺めながら無感動な声をもらした。そして、僕の方に睫毛の長い目を向けて、不意に笑いかける。「俺には正直、便利かどうかわからんなあ」
 妹背の歯並びは悪かった。唇の形は野蛮で、その声はいつも大きかった。けれども彼がカモシカのような目で笑う時、その口元はどんな原生林よりも暗くてしずかだった。僕はいつも深夜に歩き回る大通りの、さびしく澄んだ建物の沈黙を思い出した。僕が毎晩探しているものは、たとえばこの動物的に暗い口の中にこそあるのかもしれない。
 僕は目を逸らした。ちょうど初めて参加した握手会で、痛々しいほどに透き通ったあの人の肌に生傷を見た気がした時のように。
 「俺なら彼女たちに会いに行くよ。このケータイで電話かけてさ」妹背はそう言った。
 僕はそれからも着ムービーを愛しつづけている。ディスプレイの中で躍動するあの人たちのリピートと、僕の喜び。ケータイショップが真っ白な立体に戻り毀れ落ちた今でも、僕が撮る自分の部屋の写真は、どんどん増えていくばっかりだ。