「眠ってしまえばいい」 たりぽん http://www.po-m.com/forum/showdoc.php?did=49584 「眠ってしまえばいい」のフレーズに貫かれた第一~第四連。その後の、話者の意見表明ともなる第五~第八連、そして、再び「眠ってしまえばいい」のフレーズが出てくる最後の二連。極めてオーソドックスな三部形式のようでありながら、実は形式的にブレがある。 そもそも、この「眠ってしまえばいい」という言葉に込められたものは何なのだろうか。第二、第三連を見ると、「~なら、~すればいい」という突き放したような言い方に、話者の誰かに対する非難を見て取ることができよう。しかし、ここで一旦、最終連に目を向けると、「こんな夜は、歯を食いしばって」という言葉がある。この時歯を食いしばっているのは誰だろうか。もしそれが話者自身だとすると、「眠ってしまえばいい」という非難の裏に、そのように眠ってしまえない話者が抱える苦痛や、眠ってしまえることに対する切ない憧れみたいなものも感じられて、感慨深く思われる。また、もしそれが話者に「眠ってしまえばいい」と言われている者だとすると、そこにはもはや非難ではなくある種の同朋意識(ともに轍を背負うものとしての言葉にしがたい理解、通じ合い)が生まれてくるわけで、皆が死と隣り合わせの生の中で歯を食いしばりながら眠りについている(あるいは眠りのうちで必死に生の痛みを両腕に抱えている)そんな姿が見えるような気がして、やはりぐっとくる。 けれど、このような読みをこの詩は許さない。 >性交とか愛撫する行為が >神聖なるラヴとかお笑いだ この部分には、もはや非難以外の何物もなく、それゆえ、ここで言われているようなこと(性交とか愛撫する行為を神聖なるラヴと呼び、それを愛する意志と同じものと見ることまでできて、その結果、眠ってしまえること)が切ない憧れの対象になったり、同朋意識のもとになったりすることはない。「眠ってしまえばいい」という言葉は、それゆえ、話者には返ってこない、一方的な非難でしかないのだろう。 そのような一方的な非難がそれ自体として悪いものであるかどうかは、私にはわからない。ただ、そのように一方的な非難である場合、最終連の言葉がわけのわからないことになる。 >こんな夜は、歯を食いしばって >眠ってしまえばいい もしかして、この時食いしばられる歯も、やはり「物質的な信仰」として話者には非難されているのだろうか。ただ、それならば、“歯を食いしばって眠る”という矛盾しているような言葉の組み合わせ(そこにある発見)が生きてこないような気がする。というかむしろ逆に、そのような「物質的な信仰」に対する非難をこのような形で表すのは、単純にミスではないだろうか。 しかし、やはり最もたちが悪いのが、ここで歯を食いしばっているのが話者だ、という読みである。そう読むとたしかにドラマティックだし、“歯を食いしばって眠る”という姿がぐっとくるし、「眠ってしまえばいい」という言葉の持つ力が、歯を食いしばっている時の苦難に満ちた必死の力とも重なるようにも見えて、本当にいい表現だと思えるのだ。しかし、そのような読みをした場合、問題の「とかお笑いだ」はどこに行くのか。「お笑い」という限り、誰かが誰かのおろかさを嘲笑して笑っているわけだ。これを話者の自虐として読むこともできると言えばできるのだが、「とか」という言葉が生む距離感、すなわち話者のスタンスと「性愛とか愛撫する行為が/神聖なるラヴ」と言ってしまえることとの離れ具合が、そのような解釈を許さない。やはり、この詩は一方的な非難の詩なのだろう。 「眠ってしまえばいい」。この詩は、その言葉の持つ攻撃性を原動力とし、我々がリアルと考える様々な感覚から身をふりもぎっていく。その点で、第二~第四連は徹底していて、心地よい。なんというか、読んでいるこちらとしてもぐさっと来ると言うか、居住まいを正すと言うか、とにかく、真剣になってこの言葉と向かい合う姿勢になった。実際に、この言葉の持つパッションをそれとして受け止めた。けれど、やはりここにもブレがあって、第一連は「~なら、~すればいい」の形とは異なっている。さらに、第四連は、第二、第三連のような身体的な事象と自身の存在の確証との関連づけからはずれていて、身体的な事象としても「性愛とか愛撫する行為」と抽象的に語られるばかりだし、しかもそれが結びつけられるのが「神聖なるラヴ」なのであるから、いささか観念的になっている感がいなめない。 無論、第一連は「生きるということがどこかで/必ず死、何かの死と切り離せない」というところとつながるのだろうし、第四連は、「言葉が信じられないからといって/体を交えるわけではなく」とつながってくるのだろう。それはわかる。それはわかるのだが、――ここで、一番決定的な事を言おうか――これらが互いにつながっていっても、そこでこの詩が見えてくるわけではないのだ。つながったものはつながっただけで、それぞれに孤立している。 たしかに、第一~第四連に書かれていることは、全部夜に関わることだろう。けれど、先にも述べたように第一連、第二・三連、第四連には、書く際のスタンスや書かれているものの具体性などによってそれぞれに落差があって、まとまりに欠ける。穿った見方をすれば、これらはただ夜に関わると言うことだけで集めてこられたようで、たしかにそれらを通じて言おうとしていることは「生きるということがどこかで/必ず死、何かの死と切り離せない」に通じるだろうし、夜の方は夜の方で「今に残す存在の理由を/誰もが求める理の時間」という形でその意味を明らかにされている。しかし、じゃあこの二つをつなげるものは何なのだろうか。 もちろん、そこにあるつながりについては、以下の展開が示すとおりだろう。 >生きるということがどこかで >必ず死、何かの死と切り離せないのに >繋いだ手にかいたあの汗のような言葉が >危うく関係を絶とうとする >言葉が信じられないからといって >体を交えるわけではなく >今に残す存在の理由を >誰もが求める理の時間 なるほど、つながっているように見える。出てきた言葉がその先できちんと受け取られ、応えられ、展開されていっているように見える。しかし、よく見てみれば、前の連で出てきたモチーフが詩のテーマであるはずなのに、それは後の連で受けられていない。むしろ、さらっと通り過ぎられている。なぜならば、後の連は前の連を夜の説明の方に回収してしまうからだ。じゃあ、「今に残す存在の理由」を「誰もが求める」というのがこの後に活きてくるのか、というと、そうではなくてこれについてはここまで。誰もが求めて、求めたっきりになっている。 ここに顕著なように、この詩の描くものはすべて孤立していて、一連一連がそれぞれ何かについて語っているけれど、そこから先がない。たしかに、結びついているのはわかる。たとえば第八連の「時計のない太古から」が第九連の「すべての時計が同期する夢を見ながら/眠ってしまえばいい」につながっていたり、――そういう結びつきについては、ちょっと考えればすぐに理解できる。でも、それはまとまっていく感じとは決定的に違うのだ。語り口のパッションとは裏腹に、この詩の言葉たちには、なんと言うか、息吹が無いのだろう。その結果、最終的には「眠ってしまえばいい」という痛烈な言葉でさえ、ただそこだけが目立とうとしているように見えてくる。それを下支えする脈動がないからだろう。 同じような観点から、第七、第八連を批判することができる。ここでは、特に言葉が言ったきりになっている。「誰かを傷つけたときに流れる涙が/胸に流れるいのち」といきなり言われても、「そ、……そうなんだ? それと血の違いって、これまでの部分でもこれからの部分でも書かれていないからよくわからんけど、そうなんかなあ」とびっくりするくらいしかできないし、「流脈はコトリコトリと/時計のない太古から/水の流れを刻んでいるので」という部分も、「流脈」、「時計のない太古」、「水の流れ」というものがそれぞれ初めて出てくる、あるいはそれに準じる(第七連で唐突に出てきた「涙」を無条件の前提として導き出された言葉であって、そこで納得できなかった読者は置いてけぼりにするがままという)状態なのである。 言うまでもなく、詩は論文ではない。なので、客観的に証拠やら論理やらを積み上げて人を納得させることを目的にすることはない(や、それが論文の目的ってこともないんだろうけど)。しかし、詩には詩の説得力とか、あるいは詩の論理とでも言えるものがあって、それに触れたとき、我々は感動したり、何かを学んだり、あるいはもっと端的に言って、“触れた”という実感を得たりするのだろう。詩の中で生き、脈打つ論理というものは、印象的なフレーズを積み上げるだけではきっと生み出せないものであって、逆に言うと、どれだけ印象的なフレーズであっても、それが詩の論理によって支えられていないと、たちまち力を失ってしまうのだ。 先にも言ったように、この詩にはきちんとしたつながりがある。しかし、それは頭で「こことここがつながってるのかあ」と理解できるだけであって、そのつながり自体が説得力をもってせまってくるようなものではない。そこには、詩の論理がないのだ。詩の論理とは、単純に連をまたいでつながっているものがあったり、同じ言葉が言い換えられたりすることによっては生まれず、おそらくそれは言葉やイメージ同士をまとめあげていく(下支えしている)もの、あるいは作者の中で(読者の中で? 作品の中で?)言葉やイメージを生み出していく波のようなリズム(思考回路? 無意識かつ身体的な反能?)として、脈動しているのだ。そしてそれは、おそらく、頭で考えられる色々な主義主張そのものの根底にもあるものである。 この“脈動”と、「流脈」とは、重なり合ってくるのだろうか。それとも、全然違うものなのだろうか。夜とは何なのか。そこにおいて我々の生とは何なのか。私の考えと寄り添ってくれるせよ、それを完膚なきまでに打ちのめすにせよ、もっとこの詩には見せてほしかった。この夜、この生、この眠り、そして、ここに並べられた言葉たちやフレーズたちの底にある、この詩自身の姿とまなざしを。 ・余談一 先に詩の論理とフレーズの話をしたが、無論、ワンフレーズで詩になっているものもあるし、そのようなワンフレーズを散乱させることで独特の風通しのよさ=空虚感を生む詩法も最近はよく見かける。しかし、そのような場合、フレーズが詩の論理を自らのうちに胚胎できたからこそワンフレーズとなるのだろうし、それを散乱させる詩法においても、フレーズを散乱させている拡散した皮膚感覚なり拡散した世界なりが存在しないと、その詩はたちまち「ちょっと言ってみたかっただけ」的な空疎なままごとに堕してしまうのだろう。 ・余談二 個人的なことをいうと、この詩の死生観には刺激を受けるし、私自身とつながるところも感じた。「眠ってしまえばいい」という言葉を受けて真剣になったのも本当だし、先に挙げた“最もたちの悪い解釈”をして泣きそうなくらいぐっと来ちゃってたのも、他でもない私なのだ。しかし、この詩はやはり、そのように読んでいるわけにはいかない、と私は思ってしまった。都合のいい幻想を押しつけて愛を語るよりも、相手の姿を良い所も悪い所も込みでじっと見つめて、残酷なくらいに見つめ認めて、そこからお互いにつながっていきたい。歩み寄っていきたい。私はいつでも、そう考えているのだから。 ・余談三 上の余談二で私がついうっかり書いた「つながって」という言葉。ここにある「つながり」信仰を、この詩にはもっと最後までぶっ潰してほしかった。「肌の触れあう弾力や/握った手の汗ばむ不快さを/何かとつながっている手応えだと思えるなら/眠ってしまえばいい」という第二連を読んだ時、私はすごくムッとすると同時に、すごくワクワクしたのだ。私の考えがぶち壊されて、そこに何が見えてくるんだろう。その景色に、私は恋焦がれていたんだ。切ないくらいに。切ないくらいに。 ・余談四 批評を書くと、自分のバカさ加減が暴露される。だから嫌なんだ。たりぽんさんのような猛者を相手にすると、単にわかってないやつがギャーギャー言っているだけのように見えてくる。自分でも、そう見えてきているのだ。詩作品に対して、作者に対して、そして誰より読者に対して、何とも申し訳ない話である。 |