2005年10月23日日曜日

悪鬼ウラ話 ――「Ishkar」のこととか


「映画とはいわば幻視に至るまで激烈に現実を見つめることだ。」 塩田明彦

 かつて私が、プロフィールで「詩の邪道 小説の悪鬼」と名乗っていたことを、一体どれくらいの人が覚えてくれているだろうか。私の創作の原動力となっているものの中には、敬愛や感動とともに、怒りや悪意もたしかにあって、それらは一つの車の両輪のように、私の作品を前に進めている。
 今、私が自分の小説についてあれこれ語ろうとするのも、そのような悪意の現れである。昨今の風潮として、作者が自分の作品について語るのを嫌う向きがあるし、私も補足として語られるそれは激しく嫌悪する。その一方で、理由もわからずとりあえず風潮に乗って否を唱えているだけの人もいるように感じていて、この文章はある点で、そのような人々に対する挑戦でさえある。

 私が書いてきた「Ishkar」は、疑うべくもなくひっでぇ小説である。描写は回りくどく、起承転結はなく、ストーリーは平坦で、登場人物は少ない。その上、作者がコメント欄でこれ見よがしに「つらいつらい」と言い募る。洗練された読者たる皆様におかれましては、こんなヘボい文章を小説と呼ぶこと自体、許しがたいことであるだろう。
 特に、scene 8以降、コメント欄で作者が後半と呼んだ部分に入ってくると、「Ishkar」はその酷さをより顕わにする。前半はまだ、ヌーボーロマンとかある種の実験を意識させる部分もあったりして、なんとなく雰囲気があったのだが、後半はもう、何もないのだ。scene 13に至り、確実にバランスは崩れ始め、scene 12までが原稿用紙約110枚なのに対し、scene 13の途中までで、すでに60枚以上を使っている。どう考えても、無計画的な浪費である。

 大体から、「Ishkar」は長すぎる。主人公が北海道をほっつき歩いているだけの小説で、ここまで長くなる必要はないだろう。そもそも、起承転結もはっきりしていなくて、主人公の旅の動機すらよく分かってなくて、読者は何を読まされているのかわからない。その上、scene 13では中心的なシーンであるはずのライブが始まるまでに、膨大な量の描写をしていて、その上ライブは22曲全部書くつもりなのだ。この作者は、何がしたいのだろうか。

 実際、自分としても、scene 13は自分の首を絞める結果になったと思っている。後半に入って俄然厳しさを増してきたこの小説を書きながら、私はいつも、このシーンを書けば次は楽になるはずだ、ここが峠で、これを越えれば次からは楽に行けるはずだ、と念じていた。しかし、先に進めば進むほど、山は下ることなく登りつづけ、そればかりか、ますます傾斜はキツクなってきた。特に、scene 13は、依然その頂上さえ見えていない。現在の位置も先の様子も見えないほどの濃霧に覆われた山裾(しかし、もうずいぶん高い所まで上ってきたはずなのだ)で、途方に暮れているのが現状である。

 そもそもこうなったのは、私が高校時代から得意としてきた一番の技法を、scene 13で自分に禁じたからである。それは、カットバックといわれる手法で、互いに離れた複数のシーンを交互に登場させることで、ストーリーに往還運動を生むものである。16歳の頃に書いた「White Tears」では、主人公を二人立ててこの技法を使ったし、17歳の時の「Smile Several Smiles」では、問答無用でよみがえる思い出を、この手法を使って割り込ませた。最近では、「空走距離」がこれをよりソリッドに発展させて使っているし、「celebrate」なんかも、話者の感傷と工場の無機質との間でカットバックを行っているともいえる。
 実際、この手法さえ使えば、私はいつでも小説を書けた。困ったときはカットバック。しかし、そんな自分の手馴れた作業に、自分で飽きてきたと言うか、それなしでどうなるかが見てみたくなったのだ。読んでくれた人はわかるだろう。scene 13は、回想すらほとんど挟むことなく、ひたすら前から順番に書いている。それも、ほとんど省略なしで。
 小説を書いてみたことのある人は、この書き方を一度やって見るがいい。自分でもびっくりしたのだが、前から順番に書いているつもりでも、主人公がトイレに行っていないとか、昼食をとっていないとか、色々とヌケが出てきた。それは、小説を書く者が、いかに自分勝手に現実を切り刻んでいるか、話にならないところをいかにあっさり切り捨てているか、というかむしろ、そもそもそれを見ることさえいかに完璧に忘れているか、ということを思い出させるだろう。

 私が抵抗してきたのは、このような書き手の怠慢である。たしかに、何でもかんでも書けばいい、というわけでもない。一日を分刻みに分解して、実際の行為にかかる時間に応じて文字数も分配する、という書き方もできるにはできるが、それはそれで時間の一般性をあまりにも信じている点で、考えることに対する書き手の怠慢である。何でもかんでも書くことと、省略をしないことは互いに違うのであって、その違いはまた、だらだらとした身辺雑記と小説を分かつものでもある。
 とにかく、省略をせずに現実を直視する、というこのスタンスは、私に余りにも大きなものを課した。それが、後半になって一気に調べものの量が増えたことにも関係する。前半は、自分の記憶を基に、わからないところは適当にごまかして書けた。そういう手法を使っていた。しかし、その手法を前半で決算してしまったため、後半はそうは行かなくなったのだ。なけなしの手法で、私は現実と素手で戦わなくてはならなくなった。

 この部分は本当のウラ話で、全然余興の域を出ないのであるが、私が後半をここまで書くために参照したものは、膨大な量にのぼる。北十八条の駅からさっぽろまで何分かかるのか、さっぽろ駅から出た後である地下街はどういう構造になっているのか、その地下街に入っている商店街(?)は、本当に主人公の進むルートに沿って存在しているのか、そして、その商店街のロゴの色は何色か。色が画像でわかったとして、それを何色と呼べばいいのか。JR札幌駅はどのような外観、内装をしていたか。快速エアポートに乗るホームの頭上にかかっているカードには、様々な急行車両の名称が書かれていた気がするが、では千歳線で走っている急行車両にはどのようなものがあったのか。エアポートが停車する駅は何か。駅から駅の間は何分ずつかかるのか。千歳駅の前にあったあの連絡通路は、一体なんだったのか。そして、その連絡通路を持っている店舗の色は、何と呼べばいいのだろうか。千歳川は、どこからどこへ流れているのか。私が見たと思った川沿いの景色は本当にあるのか、あるとしたらそれはどの橋の上から、どのように見えるものなのだろうか。その時、川はどちらからどちらに流れているか。

 無論、小説は地図を見ながら書くものではない。そのように取材して得た知識を寄せ集めても、それはいわば死体をつぎはぎしただけであって、それらは個体として生き返りはしない。生きている時間はよみがえらない。そして、つまらないボロを出すのだ。頭でっかちのインテリ派小説家がやってしまいがちなミスだ。
 私の場合は、記憶や欲求と、現実との戦いであった。自分としてはこういうものを見た、という記憶があって、あるいはそういう幻視があって、しかし、現実の場所を舞台としている以上、それが本当にあるものでなければ話にならない。右から流れる川を左から流すわけには行かないのだ。では、どうするか。私は、自分の記憶や幻視を信じ、それと重なり合うものをひたすら探していった。千歳川にしても、自分の記憶とぴったりくる一地点をついに見つけたし、そこで自分が幻視したのと、果たして川は同じ方向に流れていたのだった。

 なお、この現実と向かい合うという姿勢が、否応なしに私に重荷を課した例として、もう一つ、「無煙浜」のことが挙げられるだろう。この小説が「無煙浜まで」という文書グループに加えられていて、未完の小説「無煙浜まで」と重なる部分を持つことなどから明白だと思うが、この小説の最終目的地は、はなっから厚田村の無煙海岸であった。そこにある見張り台は、私にとっていわばまだ見ぬ憧れの場所で、今年の一月石狩まで行ったときも、本当は厚田村まで行きたかったのだ。バスの都合でいけなかったが。
 scene 13で無煙浜の話を出すことに応じて、一応その命名についてもう一度確かめておこう、と思って厚田村のホームページを訪れた。そこで私は知った。無煙浜の見張り台は、今年(すなわち、小説の舞台にもなっている2005年)、既に取り壊されてしまっていた。無煙浜海水浴場自体、昨年から営業していなくて再開の目処も立っていないらしい。
 小説は、ここまで来て最後の目的地を失ってしまった。どうすればいいか、まだ決まっていない。とりあえず、何もない無煙浜に、主人公には行ってもらいたいと思っている。そこで何かが起こるだろう。ここにこそ、現実やらなにやらと向き合う小説の醍醐味、すなわち現実をごまかさずにそれと対峙して、激烈に見ることによって幻視に至り、作品を完成させる、という禊修行にも似た道行きのたのくるしさがあると思っている。

 しかし、最もつらいのは、そのような自分の記憶と記憶外の現実との戦いではない。むしろ一番私を苦しめているのは、自分の記憶の中にある光景から目を反らさず、それを書いていく、という作業である。すなわち、記憶の中の現実との戦いである。自分の内側にあるだけに、この敵は非常に厄介だ。
 たとえば、scene 13の、物販待ちの列。あそこを簡潔にまとめることなど、私にとっては造作もないことだ。たとえば、同じようなシーンを、次のように書いたことがある。

> 去年の夏、Zepp Tokyoでのライブに行った時にも見た光景だ。しかし、去年のは正直おぞましかった。物販開始のたしか二時間前、下見がてらに寄ったのに、くねくねと曲がりくねった長蛇の列が既に出来ていたのだ。ほとんどが男の方で、大半が何人組みかでにたにたしながら(いや、にこにこしながら、というべきなのか)話していた。残りの男の方は一人で来たみたいで、みな一様にせっぱ詰った顔をしている。女性はせいぜい一割弱だろうか。真上から照りつける夏の日と、行き場のない男たちの熱気で、彼女たちは今にも押し潰されてしまいそうに見えた。
> その時の物販では、写真入りミニうちわ(メンバーの顔写真が裏表に一人ずつ、計二名分入っているやつ)が飛ぶように売れていた。購入したばっかりのライブTシャツに着替え、しかもショッキングピンクとネイビーの二本セットになっていた派手なリストバンドを両腕にはめて(その着こなしは絶対に間違っている!)、その出で立ちで近くのハンバーガー屋に入っている人たちが多くいた。

 ファンの醜悪さを感じさせてあまりある名文(!)である。しかし、これを今読むと、私はそのピックアップの仕方が気に食わない。この文章の後には、次のような文章が続くのだが、これもまた、同じ理由で気に食わない。

>大阪の物販待ちの人々は、会場がホールだったこともあってか、かなりまともに見えた。待っている様子も、公園に多めに人がいる、というだけで、少なくとも異様な空気は漂っていない。スタッフが出てきて物販のための列を作った時にも、駆け出す人とかも特にいず、大人しくきれいな列が出来た。よく見ると、見た目にも美しいカップルや、男前なバンドマン、男女問わず中高生多数、小さな女の子と母親の二人連れなどがいた。京都・大阪・神戸のアイドルショップについて、その博識を語り合っている人たちもいるにはいたが、その表情には周りに配慮する余裕が見えた。そして僕が見た限り、誰もモーニング娘。の雑誌は持っていなかった。

 ここには、去年のファン=醜悪→今年のファン=いい感じという印象を与えようとする意図が見え見えで、読んでいて吐き気がする。実際は、もっと色んな人がいたと思うのだ。それを、自分がこう見せたい、こう見たい、という願いに沿って、いとも簡単に捨象してしまう。scene 13で私が自分に禁じたのは、これであった。その結果、自分としては目を反らしたいようなものも、じっと見つめて、書いていかなければならなくなった。

> 戸惑う水橋と、黙ったままの野坂は、列を左手に見ながら建物の横の空間を進んでいく。奥へと進むにつれて道は狭くなり、列を成す人々とほとんどすれ違うような格好になったが、それでも列の終わりはなかなか見えなかった。その代わり、入り口を目指して並び、入り口の方を向きながら止まっている人たちの、様々な顔が見える。満面の笑みで喋っている髪の黒い男子高校生三人組、赤いTシャツを着て腕組みをしている毛深い金髪男性、軽妙なトークをしていると思わしきカップル、やや子どもっぽくも元気なデザインの服を着た女子中学生と落ち着いた雰囲気のその母親、深刻そうな目で下の方を見つめている、三十代くらいの太ってメガネをかけた男性、なぜか女物の浴衣を着た髭の青い男性、ブランド物を身にまとったきらびやかな女子大生二人組、明らかにロックバンドをやっているような服装をして、涼しい表情で辺りを見回している若者二人組、などなど。それらの顔の一つ一つを、野坂と水橋は後ろへ後ろへ追い越していく。

 たとえば、この中に、どれだけこの小説に書きたくない人たちがいただろう。しかし、書かねばならなかった。それがつらかった。しかも、どれだけ書いてもそれが全てではないことも私は知っている。それもまた、つらい。
 そして、そのつらさは、ライブシーンに極まる。正直言って、ライブを書くなら、それだけで一つの完結した小説とするべきだった。カットバックとかリプライズとかの現代的手法を満載にして、感覚として伝える方向を目指すべきだった。しかし、先にも言ったとおり、scene 13はそのようなやり口を自分に禁じている(ちょっとつかっちゃったけど)。結果、ライブを真正面から見つめて書かなければならなくなった。真正面から見つめて、ライブを書けるものか。それも、自分が見た、大切な思い出であるライブのことが。
 それは、自分の中で一番放っておきたい部分、美しい思い出としていつまでも持っているつもりでいたい光景や時間、手付かずのままで時々思い出しながら、実際はどこまでも目を反らしていたい曖昧な感触を、真正面から見ることであった。私は、身を切られるような苦痛を感じた。逃げることを禁じられ、見たくない真実を真正面から見つめなければならない状況なのだ。適当に書いてごまかすことはできないのだ。かといって下手なやり方をとると、書けば書くほどそれは実際のライブの感触から遠ざかっていく。
 上に引用した小説中、私は今回の北海道とほぼ同じ分量を持つ大阪でのライブを、実に短くしかし印象的に書いている。こうすれば、自分は傷つかないし、ライブの感じもうまく伝えられる。これを禁じて、私はどこに向かおうと言うのか。

> その日のライブで、僕はヘビメタ曲「Bible」のブレイクで高々とジャンプをかまし、ハードコアパンクな「ROCKING」では、間奏中、喉が裂けるほどオイ・コールを続けた。そして、抜けのいいスネアの連打と絶妙なタイミングで入るまっすぐなバスドラムが利いたドラムソロでは、MIZUHOが拳を突き上げた瞬間に誰よりも早く彼女の名を叫んでいた。
> そのあと、ギーザー・バトラーのような勇壮なパフォーマンスも飛び出すベース&ドラムのセッション、さらにはギター隊二人がそれぞれ熱いソロをぶち上げる四人のセッションへとつながっていく中で、僕は何回メンバー個々の名を叫んだだろう。アンコールでは、かつてテレビで初めて見かけた時、嫌悪のあまりテレビを蹴っ飛ばした「大爆発No.1」を、完璧なフリで踊っている自分がいた。

 「映画とは、いわば幻視に至るまで激烈に現実を見つめることだ」。私の敬愛する映画監督塩田明彦の言葉である。そして、私は文字通り自分を殺すつもりで、ここまで見つめ、進んできた。すでに、手持ちのカードは残っていない。残していない。なけなしのまなざしだけを持って、一体どこまで進んでいけるかわからない。曲はあと19曲もある。しかも、その後で野坂との会話があって、ホテルについて眠るまでがscene 13なのだ。私は、ベッドに辿り着けるのか。永遠の不眠の予感が私を苦しめている。
 あなたたちは、どうぞ勝手にそれぞれのベッドで安楽な眠りをむさぼるがいい。素敵な小説が、簡潔で読みやすい描写が、あらかじめ加工済みの「人間の真実」が、そして楽しいお話が、あなたたちをより深くまで眠らせてくれるだろう。

2005年10月18日火曜日

「Ishkar」 scene 13 (4) ライブの第一MCまで


 一挙に歓声が湧き上がった。ステージ奥の布製のスクリーンに、緑の、森のような光景が映し出される。客席のあちらこちらで次第に人々が立ち上がり始める。スピーカーからは小鳥の声が聞こえ、その合間に満ちていくように、静かな重低音が鳴っている。スクリーンの緑へと横から当てられる何本もの白いライトの光が、上下に往復を繰り返し、その間にも歓声はとめどなく大きくなっていて、客席では黄色い蛍光色や、紫、さっき見た点滅する赤などの、様々なペンライトが点いていく。周囲のどこかから、はるか遠くへと吠えるような声で、何人かがメンバーの名前を叫んでいる。「ああ、森だ」と水橋は思った。その瞬間スクリーンが落ち、圧倒的な輝きが向こう側から射してきて何も見えない。
 「札幌ー! とばしていくぞー!」
 高く響く、キラキラとしたギターの音。その残響の消えていく後を追って、堰を切ったように歌と演奏とが同時にあふれ出す。客席の前の方では、既に曲に合わせて人々が腕を振り上げたり跳び上がったりしている。ライトの光量は押さえられ、見えるようになったステージの上には四人の女性(少女?)が立っていた。真ん中と左のマイクの前に二人のギター、右のマイクの前にベースの人が立ち、小高くなったドラムを一人の女性が叩いている。全員が歌っていた。全員が演奏していた。皆、白を基調とした衣装を着ていて、細い細いこげ茶色の端切れが、何枚も、その衣装の肩口やら胸元やらベルトやらズボンの片足やらから、トドマツの葉のようにぶら下がっている。
 サビ始まりであった曲は間奏へと入り、真ん中の一人がブルージーで伸びのあるギターソロを決めた。Aメロに帰り、真ん中の人が弾くギターのミュート奏法と、重なり合うベースの低音とが、小刻みに曲を前に進めていく。歌は今は真ん中の人だけが歌っていて、笑顔だ。粒の揃ったハイハットの中に、真っ直ぐなスネアの一発一発が混じる。左のギターはマイクからずっと前に出て、両手を頭の上で叩いて聴衆をあおっていた。彼女も笑顔だった。ベースが自在にうねった後に跳ね上がる、それを合図に、左のギターがアルペジオを弾き始める。真ん中のギターの大人びた歌声と、ドラムの女性の高くて艶のある声が重なっていく。
 水橋は、ただ、信じられない思いでそれを見つめるばかりだった。目の前にある光景は、あまりに自分の予想とかけ離れていた。こういうコンサートは、もっとテレビ然としていて、もっともっと大層な幻想に満ちていると思っていた。しかし、ただ、四人だけがいた。四人だけが歌い、演奏していて、繰り広げられる音楽はこの上なくシンプルだった。どこに幻想の入り込む余地があるのだろう。水橋はそう思う。四人がいる、四人が立っている。それだけなのだ。平らなステージの上に、四人の音が散らばり、散らばりながらまぶしく合わさっていく。歌は前へ前へと進んでいく。
 左のギターが荒々しいコードをかき鳴らし、Bメロが始まる。今度は左のギターとベースの二人が歌っている。真ん中のギターも、今は簡単なコードを全開に弾くばかりだ。水しぶきのように、例のキラキラした一音が高く宙に舞って、再びサビに帰る。シンプルなドラム、直線的なベース、ただコードをかき鳴らすだけの真ん中のギター、ひたすら同じアルペジオを散らしていく左のギター。でも、音の一つ一つがゆるぎなくて、四人それぞれのかけがえのない重さが込められているようで、水橋には、その単純な曲がこれ以上どうにもならないほどの説得力を持って、自分の前に広がっていくような気がした。真っ白な砂浜だった。光を全反射する砂浜のような、ステージだった。
 ブルージーなソロとパキッとした四人の歌声とを何回も経て、曲は終わる。白っぽかった照明が急に暗くなり、紫の光に照らされながら、真ん中のギターがマイクからぐっと前に出てきて、ソロを引き始める。トレモロアームを存分に使った、サーフロック風の長く伸びる音を、彼女は手元を見つめながら響かせていく。曲げられた首や背中が描いている丸みを帯びた線が、水橋にはとてつもない力を秘めたものに思われた。むき出しの肩が、白く輝いている。途端、スキップしながら降りてくるようなドラムと、小刻みな左のギターとが割って入ってきた。トレモロアームを利かせまくる真ん中のギターに立ち向かうように、左のギターとベースとが一つのフレーズをユニゾンで繰り返し、ドラムはさっきよりもさらに軽快なハイハットとスネアで進行する。
 歌はまたもやサビ始まり。照明は再び白く明るくなって、「元気ビーム!」とか何とか、四人一緒に叫んでいる。客席の前の方では、歌に合わせて飛んでいる人々が見えた。左のギターのカッティングと、真ん中のギターのさざ波みたいな細かいストロークとが合わさって、水橋には、会場の光や空気自体が歯切れよく刻まれ、それと同時に流れながら震えているように見えた。フィルインではドラムがタム、フロアと雷のように降りてくる。ベースはしなやかで、かつ、ほどよくこもったぬくもりのある音を出し、曲をたくましく歌い上げている。
 最初の曲とは打って変わって、ハイレベルな演奏の連続だった。左のギターは、AメロでもBメロでも、複雑なソロを弾きつづけ、その手は常に小刻みに動いていた。それでいて、彼女もまた、歌っていた。歌っていて時々、笑った。様々なフィルインで見せるドラム、――スネアの連打、タム、フロア。四人とも歌っている。ポジティブであっけらかんとしていて、バカバカしいくらいの歌詞を、ちゃんと歌として立ち上がらせて、客席の人間に圧倒的に届けてしまう。ベースが、笑いながら前進してきて、首を振りながら難しいフレーズを決める。
 この歌を歌うために、一体、どれだけの強さが必要なんだろう。水橋はそう考えた。水橋も、左のカップルも、斜め前の高校生も、皆腕を組んでステージを見つめていた。水橋の右隣では、痩せた男性が必死に飛び跳ねている。水橋には、隣の男性や前の席の人たちが一体何に合わせて飛び上がっているのかがわからず、――たぶん、その曲をCDなどで聴いてこなかったからだ――そんな自分が少しもどかしかった。
 曲が終わる。客席から歓声と拍手が湧き起こる。それに後押しされるようにドラムがカウントを取り、巨大な音が、四人の楽器から塊になって飛び出してきた。のびやかに、しなやかに、輝くばかりの生命力を込めて伸縮するリズム。それは、どこまでも広がっていく大地のような、ゆるぎなくて果てしないビートだった。そして、そのビートのはるか上空を割って、真ん中のギターの甲高いソロが、高く高く横切っていく。水橋は、空を見た。自分の目には当て所なく見えた北海道の空が、閉じられることもなく夕日に輝いている、そんな途方もない美しさを見た。
 この音だ、と水橋は思う。今、ドラムの女性は椅子から立ち上がり、サンプリングされたリズムに合わせて頭上でスティックを打ち合わせている。左のギターも頭上で大きく両手を叩いていて、力と弱さと光と影とが交錯する歌声で、つまりその人自身でありその人以外の何ものでもない歌声で、笑顔で、歌を歌っている。この音だ、この歌なんだ、と水橋は思う。ベースが自在にうねりを生みながら、大地の底の暗いぬくもりを目の当たりにさせる。真ん中のギターは、今はステージの右端にまで進んできて、頭を左右に揺らしながら息の長いコードを弾き散らす。その音が、キラキラと空に砕け、川のようにまぶしく流れていく。
 電車の中、車両の一番前で高校生が小さくリズムを取っている。バスの窓から、外を流れていく白骨のような木々を見つめている。Bメロに入りドラムと左のギターが演奏に戻って、音はさらに荒々しく息づいていく。真ん中のギターが自分のマイクの所に歩いて戻ってくる。山は暗く、湖は重く、千歳の光景はただただ広く、ひとりで道を歩きながら、いつしか鼻歌を歌っていた。歌はいくつもの場所で鳴っていて、鳴りつづけていて、そして時々、水橋の耳にも聞こえてきた。この音だ、この歌なんだ、と水橋は思った。ベースがリズムに乗りながらダンスのようなステップを踏んで、飛び上がるようにドラムの腕が掲げられ打ち下ろされる。サビ、一斉に襲いかかる巨大な生命力。歌声、音、その中で脈打つこの鼓動こそが、北海道に来て以来、ずっと聴こえていた。
 ――裸の大地に勝負を挑んで
 のびやかでかつ荒々しい歌声で歌い上げられる思い。果てしないものの中で生き、挑んでいく力。それはここで生きてきた人たちの命であるのだろう。ずっとつづいてきたその命を、今、わずか十六、七歳の四人の女性が一身に背負って、立っている。歌っている。まぶしい音、かけがえのないその人だけの声、ゆるぎない笑顔。水橋は、自分の目の前に、照らし出された明るいステージの上に、フィクションではなく確かに人がいるのだと、今さらのように実感した。
 手が叩きたかった。自分の手のひらを打ち合わせて、その音で四人の歌に加わりたかった。しかし、それもできないまま、その曲は轟音の余韻を残して終わってしまう。
 「札幌のみんなーーー、ただいまーーーーー!」
 ドラムの女性が声を張り上げ、照明が一気に明るくなる。観客は一斉に、野太い歓声と拍手とでそれに応えた。真ん中のギターが舞台の袖に引っ込んだが、それに気づかないように、というかそれを観客に意識させないように、彼女は高くハキハキとした声で喋りつづける。今年のライブツアーがこれまでになく長いものであったこと、久しぶりにふるさと北海道に帰ってきて、どこかほっとしていること、ツアーファイナルとなる今日のライブで、完全燃焼したいこと。観客がまた、言葉にならない大歓声でそれに応える。
 つづいて、左のギターが声を張り上げた。顔には、ふわふわと言うかふにゃふにゃと言うか難しい、やわらかい満面の笑みが浮かんでいる。底抜けに元気で、しかし時々翳りの覗く声で、彼女は今年、このグループに新メンバーとして加わった時、皆が自分の名前を覚えてくれるかどうか心配だったことや、このツアーでもファンが自分を受け容れてくれないんじゃないかと思っていたことなどを語る。しかし、スタッフやメンバー、そして各会場でのファンの声援が、そんな自分を支えてくれた。「みなさんと出会えて、本当に幸せです! ありがとうございます!」最後まで笑顔を消さないまま、彼女は最後をそう締めくくった。観客が大声でそれに応える。誰かが「ありがとー!」と叫んでいるのが、水橋の耳に聞こえた。ステージの真ん中には照明が当てられていなくて、そこで着々と、椅子やマイクの準備が進んでいく。何人かのスタッフが腰を屈めて駆け足で行き来している。
 「札幌ー! 気合入ってるかー!」
 ベースの女性が、声が平坦に歪んでしまうくらいの、挑戦的な叫び声を挙げる。叫び返す観客の声は、もはや怒号のようだった。彼女はそれを聞いて、「なはは」と脱力したような笑い声を立てる。一連のやり取りに紛れるように、左のギターも舞台の袖に歩いていった。今、ベースの女性は照明を一身に受けて、どこかくぐもっていて優しい声で、まるで目の前で語りかけているようにしみじみと、久しぶりに北海道に帰ってきた今の気持ちや、今年のツアーを振り返って思うこと、ファンやスタッフ、それにメンバーに対する感謝を口にしていく。
 左のギターがエレキギターを持ち替えて帰ってくる。ステージの真ん中では椅子等のセッティングが終わっていて、アコースティックギターを抱えた女性が腰かけている。
 「皆さん、楽しんでますかー!」
 その声と同時に、ステージの真ん中にライトが当たる。十五、六歳とは思えないようなしっかりした語り口で、彼女はツアーファイナルにかける意気込みや、観客に楽しんで帰ってほしいことなどを伝えていった。そんな中、時々見せる仕草や笑い声、声を張り上げた時の口調などが、年相応と言うかむしろ十分すぎるほどの若さに満ち溢れていて、それが水橋を不思議な気分にさせた。目の前にいる四人が、何歳であるとか、女性であるとかどうとか、そういうことがわからなくなってくる感じだった。ただ、そこに人がいる。そこに人がいて、全力で生きている、震えている。その振動だけが目の前にあり、その振動こそがその人とどこまでも等しくて、その人そのもので、年齢や性別のような瑣末な事項がどんどん見えなくなっていく。大きな振幅を持って存在しているその人自身。それ以上どうにもならないがゆえに恐ろしいその人そのもの。信じがたい思いを抱きながら、水橋はその輝きに、もはやどうしようもなく魅入られていた。

2005年10月9日日曜日

リクルートスーツ



「死と処女」



「Ishkar」 scene 13 (3)


 一時間を本当に待って、ただ待って、空では八月の残照が薄紫の夕闇へとなだらかに移り変わり、それに合わせて、水橋の中では今自分が何かを待っているという意識すら、自然に次第に薄らいでいった。列が急に動き出し、時計を見ると六時五分過ぎだった。物販の時とは違い、列はほとんど立ち止まることもなく、進む。角を曲がり、入り口が見え、そこでは人だかりが何かをしながら、次々に建物の中へと吸い込まれていた。
 「あ、もしかして、カメラとか持ってない?」
 野坂が水橋の方を振り向いて、訊く。
 「ん? 僕は持ってないけど、何で?」
 「あの、……ほら、肖像権とかの関係でさ、カメラとかレコーダーとかの持ち込みはできないの。カバンが点検されてね、もし入ってたら、取り上げられちゃう」
 「ああ、そうか。なるほど。でも、持ってない。大丈夫」
 そう答えるうちにも列は減っていて、野坂は歩きながら、自分のチケットを取り出した。水橋もチケットを取り出して、確認する。一階十八列三十番。
 「旅行に来るのにカメラを持ってこないって、やっぱりコージくん、変わってるね」
 野坂は思い出したようにそう言って、笑った。
 物販の時は入り口を塞ぐように並んでいた長机が、通路に沿って両側に並んでいる。そこには若い男性の係員が何人も並んでいて、チケットを受け取ったりビラを渡したりしていた。人々の流れはスムーズだった。水橋もチケットを渡し、半券と何枚ものビラをもらって、それを片手に進んですぐ、今度はカバンの口を開けて係員のチェックを受けなければならなかった。チェックが済むと、そこはもう広々とした一階ロビーで、正面で両翼を広げている煉瓦造りの壁にはいくつも、今日のコンサートを祝う花輪が立てかけてあった。地元の放送局や、雑誌等々、様々な名前がそこに書かれている。階段は見えなかったが、ロビーの両端にあるらしい。大きな二枚扉からホールに入っていく人もいれば階段に向かって歩いていく人もいて、たくさんの人々が、黄色っぽい照明に照らされたその空間を行ったり来たりしている。
 「じゃ、コージくんの席はそっちだから」
 正面の壁に二つ作ってある扉のうち、左の方を指差して野坂が言った。
 「わたしはあそこのから入るね。席も遠いし、こういう入り口はやっぱり、わたし、違う方がいい」
 悲しそうな、そのくせどこかうれしそうな、よくわからない笑顔を残して、野坂が去っていく。野坂に言われた扉を引いて、水橋はホールの中に入っていった。厚い扉の向こうにあった暗い空間を抜けると、横から後ろから無数の座席が前へ前へと下って行っていて、それはまるで途方もなく広くて長い斜面のようだった。白い照明に照らされて、座席の一つ一つが光って見える。川原の石みたいだ、と水橋は思った。扇状に広がるその土地が流れ着く先に、四角くて平らな今日のステージがある。
 ステージの上には、既にセットが組まれていた。二階建て、とでも言うのだろうか。ステージ奥側に、二メーター半くらい高くなっている部分があって、その両側から、板を組んで作ったらしい白い階段が、ゆるやかな弧を描きながら降りてきている。二つの曲線に包まれるようにして、アンプやらスピーカーやらがごたごたと置かれてあり、その中の丸く小高くなった部分に、ドラムセットが設置されていた。ドラムセットにはマイクもつけられていて、他のマイクはステージのずっと前の方に、真ん中、左、右、と等しい間隔をおいて用意されていた。これら三つのマイクは、どれかが前に出ることもなく、横一直線に並んで立っている。
 二つの階段の外側、つまりステージ奥の両端にあたる部分には、分厚い紙を切り抜いて作ったような巨大な木のオブジェが密集していた。いや、それが本当に木なのかどうか、水橋にははっきりとはわからなかった。それらの「木」は、どの一本もこの一本も、頭の方で二股に分かれていた。分かれてから先は円を描くように曲がり、先端は刺すように尖っている。枝らしい枝はなく、三角形をした葉が、幹や二股に分かれた部分から直接生えていた。それは、見ようによっては、虫の触覚のようにも見えるオブジェだった。
 二階になっている部分のさらに奥には、いくつもの巨大な輪が、互いに一部を重ね合わせながら並んでいた。その輪を覆い隠すようにして、というよりはむしろ、自分自身が一つ一つの輪になるようにして、そこにも二股に分かれて円くなる幹と、三角形の葉とがあった。その輪の上からもまた「木」が何本も生え、舞台の天井のすぐ近く、ぶら下がっているライトよりもまだ上の方にまで届いている。水橋は、南国の密林を思い浮かべた。そこに息づく、野蛮なまでの繁茂と生命力を思い浮かべた。しかし、それは水橋のイメージの中だけの話で、実際、ステージの上はまだ照明もついていなくて、暗い。その暗さの中で、紙を切り抜いて作ったようなオブジェは、結局、作り物でしかない自分たちの白さをただあからさまにするばかりだった。
 舞台のこちら側、座席の間を、何人もの人たちが歩いている。みんな、自分の席を探しているのだろう。そう思って振り向くと、水橋の後ろにもずっと席がつづいていて、奥の壁にさっき入ってきたのと同じ二枚扉が見えていた。水橋は、自分が一階の扉から入ったことを思い出し、そうすると一階と二階とが、僕の今いる傾斜によってつながっているんだな、と理解した。二階までつづく一階席のはるか上空、たぶん四階か五階くらいの高さになるところに、壁から張り出すみたいにして二階席が設けられている。そこにも、もう何人もの聴衆が姿を見せていて、自分の席に座っている人もかなりの数、いた。
 水橋は前に向き直り、自分の席を探し始める。縦に何本も走る通路のうち、一番近い通路を通って客席を下りていくと、十八列は扉のすぐ近くにあった。通路を挟んで二十七番と二十八番とが分かれていて、水橋の席である三十番は、通路の右側三番目の席だった。そこは、ステージからはやや遠いが、ステージをほぼ正面から見られる位置で、三つ並んだマイクを基準にすると、真ん中のものよりほんの少し左に寄っていた。
 二十八番と二十九番の席は、まだ空いていた。三十一番には痩せこけて背の高い、三十代前半くらいの男性が座っている。男性は地黒い肌には不似合いな赤いTシャツを着ていて、それはツアーグッズの一つだった。ぎょろっとした余裕のない目から見ても、その人が俗にオタクとか呼ばれる類のファンであることは明らかで、水橋は、少し嫌な気分がした。しかし、だからと言って席を変えることもないと思い、その男性の隣に腰かけた。男性は例の黒いバッグの中をあさり、売られていたのとは別のペンライトを二本出してくると、それを両手に持ち、ストラップを手首にぐるぐると巻いて固定した。
 水橋は平静さを保とうと、脚を組み、さっきもらったビラに目を通す。そこには、今日の主役である四人と同じスタジオに所属する、名前も知らない後輩たちが次に行うライブのビラや、地元のラジオ局が作った情報誌などが入っていた。何枚も何枚もめくり、見るともなしに見ていくうちに、水橋は、紙ヒコーキについて書かれたプリントに行き当たった。そこには、紙ヒコーキをどの曲のどの部分で飛ばすのかの指示があった。水橋は紙ヒコーキセットをカバンから取り出す。メンバーの写真入りステッカーと一緒に、黄色とエメラルドグリーンの紙が入っていて、ご親切なことに、紙ヒコーキの折り方が書かれた紙まで同封されている。
 水橋は小さく苦笑しながら、黄色の紙を取り出して、書いてある通りに紙ヒコーキを折っていった。紙を縦に半分に折り、広げて、残っている折り目に合わせて左側を斜めに折る、右側を斜めに折る。そして、折り目に合わせてもう一度左側を斜めに、右側を斜めに、そうしてできた尖った先端を、こちら側に折り曲げてくる。人に当たっても大丈夫なように、しっかりと先端を折り曲げた後、紙を裏返して最初とは反対側に縦半分に折り、半分に折った片側をさらに半分に折り返してきて翼を作る。紙を裏返して、もう片側も同様に半分に折り返す。こうして折り込んだ両翼を広げると、それは黄色の紙ヒコーキだった。
 目を上げると、もう座席は八割がた埋まっていた。ステージのすぐ近くには、コスプレとでも言うのだろうか、四人がプロモーションビデオか何かで着た衣装を真似て、それと同じ格好をしてきたと思しき男の人たちが集まっていた。彼らは席にもつかず、一ところに固まり、互いにべらべらとまくし立てては旧交を温めていた。その中に、白に近い金髪をした、細身で背の高い若者がいて、その人が普通に街でいれば確実に格好いいと言われるような顔立ちをしていることが、水橋を軽く驚かせる。物販の列で見かけた浴衣の男性もその輪の中にいて、水橋は「やっぱりそういうことか」と納得した。
 水橋の斜め前の席には、野球部に所属していそうな男子高校生が二人いた。水橋が気づいた時、二人は小声で、メンバーの誰それがかわいい、とか、テレビと違って生で見たら、やっぱり、もう、信じられないくらいにかわいいんだろうな、とかいうことを語り合っていた。「お前、あれ持ってきた?」と言われて、片方がカバンの中からオペラグラスを取り出す。それを見たもう一方はうれしそうに笑った後、「ここから、ちゃんと撮れるかなあ」と言って、カメラ付ケータイを自分の胸元で構えた。撮る気なのか。野坂から聞いた肖像権の話を思い出し、水橋はよっぽどか注意しようと思ったが、結局諦めた。水橋の隣には二十代半ばごろのカップルが到着した。二人は前の方に集まっている人たちを見て「うわ、すごいね」と言い、水橋の方をちょっと見てから、席に着く。二人の顔には、どうしようもないな、とでも言いそうな苦笑いが浮かんで、消えなかった。
 後ろを振り向くと、そこには中学生くらいの女子が三人で並んで座っていた。その幾分緊張したような表情が、水橋にはいとおしく感じられる。もしかしたら、今からステージに上がる四人は、この子達にとっては憧れのヒロインなのかもしれない。もしそうならば、今、この三人は、四人を取り巻くこの光景をどんな思いで見ているのだろうか。
 いや、違う。こんなことを考えたいのではない。こんなこと、想像したってどうにもならない。そう思って、水橋は前に向き直る。自分が、電車の中で会ったあの小説書きと同じ見方をしていたような気がして、胸の中が気持ち悪くなった。これまでと一緒だ。僕はそう、自分に呼びかける。これまでと一緒なんだ。ここまで来たって、僕のスタンスは何も変わらない、変えてはいけない。
 場内に、開演間近を知らせるアナウンスが入った。つづいて、ライブに関する諸注意が読み上げられ、その中には写真撮影や音声の録音に関する禁止も入っていたが、斜め前の高校生は一向に気にしないようだった。
 「それでは、開演まで、もうしばらくお待ち下さい」
 アナウンスが終わると、会場内は一層騒然としてきた。しかし、もう前に固まっていた人たちもいず、みな、自分の席に座っている。そうなると、騒がしいのは私語のせいだろうか。水橋はそうも考えたが、実際、誰かと誰かが大声で話しているということもなく、その騒がしさがどこから来ているのかは、ついにわからなかった。客席の照明が、少し暗くなったような気がする。水橋は紙ヒコーキをカバンにしまい、それからふと思い出して、ペンライトを取り出した。包装を剥がし、野坂がしていたようにして、ボタン電池を装着する。半球形をした銀色のボタンを押すと、ライトは点滅した。もう一回押して点きっぱなしになることを確認すると、水橋はライトを消してペンライトをポケットに突っ込んだ。もうすぐだ、と思った。それからもまた待ち、まだかな、と思ってからもしばらくは何もなくて、唐突に客電が落ちた。

2005年10月3日月曜日

Ishkar」 scene 13 (2)


 右手には、大通公園がつづいている。緑の葉を支える赤褐色の太い幹が、一本、また一本と並んで立ち、公園の外周を一重に囲っている。地面は整備されていて、平らだった。その地面の上、時には噴水が見え、時には休日の午後を過ごす人々の歩みが見え、また時には、子どもたちが舞うように駆け回りつづけていた。区画を分かつ縦横の通りに四角く区切られて、公園はいくつも現れては、いくつも過ぎていく。
 繰り返す光景に既視感を覚え始めた頃、道の先に地下鉄の駅への降り口が見えてきた。その向こうに大きな交差店が現れる。駅への降り口を通り過ぎ、道幅の広い交差点をまっすぐ横断し、野坂は不意に右折した。水橋もそれについていく。左手の公園の片隅に、立方体に近い形をした建物が垣間見え、その壁や屋根の灰色がかった白さが水橋の目をしばらく惹きつける。しかし、それも長くはつづかなかった。水橋の目が逸れている間も、野坂は水橋の横で歩みつづけているのだし、自分を引きずっていくその歩みに置いていかれないように、水橋はすぐに目を前に向け直さなければならなかった。そこには、また新しい交差点があった。それに沿って、野坂と水橋は左折した。
 曲がってすぐ、右手に平べったい形をした背の高いビルが見えてくる。そして、通りを挟んでその左隣に、茶色のずんぐりした建物が鎮まっていた。
 「ほら。あれが、厚生年金会館」
 野坂は歩きながらその建物を指差した。それがチケットに書いてあった「会場」であることに、水橋はしばらくしてからようやく思い至った。しかし、そのことを思い出しても、まだ、水橋にはそこで今晩ライブがあるということが、少し信じられなかった。野坂の指の先で、その建物は大きな分銅のようにそこにある。それも、ただ留まっているというのではなく、むしろその重さによって自らの内へ内へと引っ込んでいくように思われて、その中に華々しい光景が広がる空間があるなんて、どうしても想像することができなかった。そもそも、中に入れるのだろうか。水橋はそうまで思ったが、野坂の指は、確かにさっきその建物を指したのだ。
 「あれ?」
 「うん。あれ」
 道を横切る。建物の正面、敷地への入り口辺りに丸く囲まれた草地があり、黒く「北海道厚生年金会館」と浮き彫りにされた石碑が、そこで横置きになっていた。野坂と水橋はその脇を通り、建物向かって右側から、敷地内に入っていく。たくさんの人がいた。開場の三時間ほど前だというのに、そこにはたくさんの人がいて、入り口から建物の外郭に沿って右の奥へと伸びていく、横四列くらいの長蛇の列が既に出来上がっていた。
 「これ、……何の列?」
 野坂は答えなかった。戸惑う水橋と、黙ったままの野坂は、列を左手に見ながら建物の横の空間を進んでいく。奥へと進むにつれて道は狭くなり、列を成す人々とほとんどすれ違うような格好になったが、それでも列の終わりはなかなか見えなかった。その代わり、入り口を目指して並び、入り口の方を向きながら止まっている人たちの、様々な顔が見える。満面の笑みで喋っている髪の黒い男子高校生三人組、赤いTシャツを着て腕組みをしている毛深い金髪男性、軽妙なトークをしていると思わしきカップル、やや子どもっぽくも元気なデザインの服を着た女子中学生と落ち着いた雰囲気のその母親、深刻そうな目で下の方を見つめている、三十代くらいの太ってメガネをかけた男性、なぜか女物の浴衣を着た髭の青い男性、ブランド物を身にまとったきらびやかな女子大生二人組、明らかにロックバンドをやっているような服装をして、涼しい表情で辺りを見回している若者二人組、などなど。それらの顔の一つ一つを、野坂と水橋は後ろへ後ろへ追い越していく。
 やがて、顔が果てて地面と向こうの景色とが見え、そこが列の終わりで、野坂と水橋は百八十度向きを変えた。そのまま列の一部になっていた。たくさんの背中と後頭部がずっと前までつづいていく。その先には、見えないけれども入り口があり、僕もこの人たちと同じところを目指して立ち止まっているのだ。というか、今僕は、長くつづくこの頭たちの一つになっているのだ。そう考えて、水橋は少し、不思議な感じがした。
 列は、長らく動かなかった。人々は立ち止まったまま、会話したり、じっとしたり、ケータイをいじったりしていた。待つことばかりで、日が傾いていく。列の中には、疲れの見える人もいた。何人かは、今にも地面に座り込みそうだった。しかし、その近くで、楽しそうに喋っている人もいる。日が傾いていく。
 野坂と水橋の少し前に、男子中学生と思しき二人組がいた。水橋はふと、二人の肩に同じバッグがかかっていることに気がついた。バッグ本体は、ビニールかフェルトかよくわからない真っ黒な生地でできていて、そこから赤い丸紐が出て、伸びている。あまり目立たないが、本体にはよく見ると赤い線でロゴが描いてあり、燃え盛り回転する火の玉のような、というかむしろ一気に北上する巨大な台風のような渦の中で、いや、その渦を突き破ってこちらに飛び出してくるみたいにして、デフォルメされた四人のグループ名が大きく波打っていた。一旦気づくと、列のあちらこちらの肩や腕に、それと全く同じバッグ――黒い本体と赤い紐、そしてロゴ――がかかっているのが見えてくる。同じバッグを持った二十五、六歳くらいの男性がまた一人、歩いてきて、列の最後に加わった。その人はやせ気味で肌が浅黒く、身体と比べてかなり大きめの青いシャツを着ていた。列に着くとすぐ、ケータイを取り出して高い声で話し始める。「今着いた今着いた。うん、厚生年金会館。……え? そうだな、結構並んでる。お前も早く来いって。え? だから、早く来いって。……何だよ、お前もじゃねえかよ。ははは」
 「物販の列なんだ、これ」
 独り言のように、野坂がそう言った。
 「え?」
 「ほら、ライブ・ツアーとかってさ、その会場だけでしか買えないグッズを売り出したりするでしょ。ツアーTシャツとか」
 「ああ、……うん、たしかに。そうかもしれない」
 「これ、そういうグッズを買うための列なんだ。開場三時間前から事前販売があって、本当は開場後でも中で買えるんだけどさ、品切れになることとかあるし、みんなできるだけ早く買おうと、こうやって並んでるんだよ」
 「へえ。そうなのか」
 その列の中に自分がいることが、水橋には何か場違いのように感じられた。自分の財布の中身を勘定してみても、ここで色々買えるだけの余裕はない。とはいえ、よほど無茶をして買い漁らない限り、今日一日過ごす分は大丈夫だし、今日さえ乗り切ればまた明日の朝、郵便局でお金を降ろすことができる。貯金は残り少なくなっているけれど、それでもまだしばらくは、この旅をつづけていくこともできるはずだ。水橋はそうも考えたが、この列の先にそこまでして買いたい何かがあるとは、正直思えなかった。
 やがて、スーツを着てネクタイを締めた若い男性が何人か出てきて、拡声器で整列を呼びかけた。そのあと、これから売られるツアーグッズの紹介を始める。メンバーの誰それがデザインしたロゴが入ったTシャツや、メンバー個々の写真入りのうちわ、などなどがある中に、曲中で飛ばしてほしい、というメンバーの意向によって作られた(らしい)紙ヒコーキセットなどがあって、水橋は小さく苦笑した。いかにもアイドル的な演出だ、と思ったからだった。
 「それでは、販売開始まで、いましばらくお待ちください」
 そう言って、若い係員たちは帰っていく。物販待ちの列は、いつの間にか騒々しくなっていて、おそらく、何を買うかということについて話し合っているのだろう、後ろから見る頭や背中が、身振りに合わせてそれぞれ頻りに動いている。野坂と水橋との後ろに並んだ青いシャツの男性も、グッズ紹介の最中に着いた同じ年頃の男性と二人で、お互いの買いたいものを言い合ったり、いくつかのグッズに対して難癖をつけたりしていた。
 列は、なかなか動き出さなかった。少しの間待ってから、野坂はカバンの中を探して、紙切れを出してきた。
 「これ、ツアーグッズの一覧だから」
 そう言って、水橋に紙を渡す。そこには、さっき拡声器越しに紹介されたいくつものグッズが、写真になって並んでいた。
 「で、何か、買う?」
 「いや、……まだ決めてないけれど。何か、お薦めみたいなもの、ある?」
 できることなら、何も買いたくなかった。
 「そうねえ。この、ペンライトなんか、あったらきっと盛り上がると思うんだ。普通に点くのと点滅するのが選べるし、光も赤で、きっとカッコイイと思う」
 野坂が指差したペンライトは、例のロゴが赤く入った白いボディーの上で、真っ赤に光っていた。カッコイイかどうかは別にして、たしかにアイドルらしくないな、と水橋は思った。これなら、持ってもそれほど恥ずかしくないだろう。
 「あと、ビラとかアンケートとか入れるために、この、ショッピングリュックでしょ」
 「あ、この黒いバッグね。これ、少しカッコイイ」
 「そう? よかった」
 野坂は、自分のことのように喜んだ。
 「それから、あと買ったらいいと思うのは……これ。紙ヒコーキセット」
 「これ?」
 「うん。そんなに高くないしさ、絶対買って損はないと思う。絶対」
 どうして紙ヒコーキセットなのか。野坂の言う「絶対」の意味が、水橋にはわからなかった。やはり、この人と僕とは全然違うものを見ているのかもしれない。そう思って、水橋は今さらながら、どこかさびしい思いがした。北海道に着いてから何回も見た、彼女の遠い表情を思い出す。
 しかし、結局、水橋は野坂に任せてみることにした。そもそも、今ここにいること自体、野坂に強引に運ばれてきた結果なのだ。どうせなら、行ける所まで行ってみよう。ここから。水橋は、そう決心した。
 「わかった。じゃあ、僕はペンライトとショッピングリュックと、紙ヒコーキセットを買うわ」
 「うん」
 野坂は、うれしそうにうなづいた。
 列が動き始めたのは、それから二分ほどたってからのことだった。列は、一気に五列分ほど前に進んだかと思うと、立ち止まり、そのまま何分も止まったままになった。それが何回も繰り返される。野坂と水橋の位置からは見えなかったが、きっと、入り口の方は込み合っているのだろう。そこから出てきた人々は、ほとんど全員が例のバッグを提げていて、ポスターが入っているのだろうか、筒みたいに細長い形をした箱をそこから覗かせている人もいた。それらの人々のうち、三、四割くらいは敷地の外に出ていき、他の六、七割は敷地内に残って、列から離れたところで談笑したりグッズを見せ合ったりしている。さっき見かけた、女物の浴衣を着た男性は、メンバー写真入りのうちわをバッグから取り出して、早速その包装を剥がしにかかっていた。
 ぞろぞろと動き出してはまた立ち止まり、それでも列は確実に短くなっていた。建物の角が見えてくる。係員が出てきて、売り切れが出たことを拡声器で告げる。建物の壁にはめ込まれた大きなガラス戸から、休憩室のような一角が暗く覗かれる。ライブに合わせて片付けられたのだろうか、白いテーブルの上に、白い椅子が逆さまになって乗せられている。そのガラスには、自分と周囲の人々が映っていて、その中の一人が、こちらをぼうっと見返していた。みんな立ち止まっている。そして歩き出す。建物の角を曲がる。入り口が見えてくる。立ち止まる。係員がまた出てきて、グッズ紹介と、売り切れ商品をアナウンスする。そして二回ほど、進む。係員が出てくる。売り切れ商品は、またまた増えたらしい。
 入り口は、すぐ近くになっていた。そこには長机が並べられていて、群がるような人々の向こう、四、五人の女性スタッフがせかせかと動き回って、グッズをまとめたり電卓を叩いたり商品を渡したり代金を受け取ったりしていた。机の前の人々と、列の先頭との間にはほんの少し間隔があって、机の前が空いてから、列の人々を誘導する仕組みになっているらしい。
 水橋は自分の注文を何度も頭の中で確認する。ペンライトと、ショッピングリュックと、紙ヒコーキセット。思えば、このような行列に並ぶこと自体、水橋にとっては初めてと言ってもいいくらいだった。前は一体、どこでこんなことがあったのか。前の列がはけて視界が一気に開け、「次の方も、空いてる列にお並び下さい」と整理役の係員に言われて、水橋は一番右の列に並んだ。
 水橋の前の人は、もごもごとした声で注文を言っていて、スタッフは何回も聞き直さなければならなかった。その人は、八千円以上の品物を買い、一万円を出してお釣りをもらっていた。そして、水橋の番になる。長机の前に立ち、スタッフと向かい合ってみると、途端に、水橋は言うべき言葉を失ってしまった。今年の二月の、石狩の郵便局のことを思い出した。「何かを探していたんです。それが何かわからなくて……、でも、だからこそずっと探していたんです」――いや、違う。何かを言わなければ。今、何かを言わなければ。
 「ペンライトと、あの、黒くて赤い紐のついたバッグと、……それから、紙ヒコーキセットを、下さい」
 三点で、一八〇〇円だった。水橋は商品を受け取った。そして人々の間をすり抜けて、敷地の空いている方に歩いていく。野坂は先に買い物を済ませたらしく、草地の縁に腰かけて、ぼんやりと水橋を待っていた。
 野坂の隣に、水橋も座る。野坂は、メンバーの名前入りドッグタグや、うちわ、それにツアーパンフレットなども買ったと言った。実物を見せながら話す野坂は心底楽しそうで、それを見ていて、聞いていて、水橋も自然に笑っていた。空は、ずいぶん薄暗くなっている。物販の列はなかなか果てず、やがて開場一時間前になって、係員が拡声器で事前販売の終了を告げた。
 「なお、今現在お並びになっているこの列の先頭を、ご入場の際の列の先頭とさせていただきます。ツアーグッズにつきましては、ご入場後にもお求めになられますので、いましばらく、開場をお待ち下さい」
 敷地内で談笑していた人々が、一斉に動き出し、残っている人々の後ろに静かに進んで、建物の右奥へとつづく列を再び作る。野坂と水橋も、その動きに遅れなかった。今度は、水橋にもわかった。これは、入場を待つ列だ。そこに並んでいる人々の顔は、心なしか、さっきよりも少し引き締まって見える。野坂の表情も、明らかに真剣だった。
 野坂と水橋は、建物の角の見える位置、壁にはめ込まれた大きなガラス戸のちょうど前辺りにいた。開場を待つ間、水橋はますます暗くなったガラスの向こうを覗き込み、逆さまになった白い椅子の、中空に投げ出された四本の脚を眺め、それから視線をガラスの表面に戻して、そこに映る自分たちの立ち姿を何回も確かめた。野坂と水橋の後ろには、ラフな装いの女子高生三人組がいて、小さな声で何かを語り合っている。
 野坂はふと思い出したように、さっき買ったペンライトをバッグから取り出して包装を剥がし、赤いストラップのついた本体の尻部を外して、ボタン電池をはめ込んだ。蓋を閉めて、銀色で半球形をしたボタンを押す。すると、ライトは赤く点滅し、もう一度押すと、点いたままになった。そして、もう一度ボタンを押して光を消すと、野坂はペンライトをバッグにしまった。「ちゃんと点くね」と言ったきり、あとは何も言わなかった。