今年の批評、今年のうーちーに♪ ってか、年末は紅白なんて見てないで、私の批評を読みなさい。 ということで、今回も無理矢理オープニングを突破して、批評を進めていくことにしたいと思います。 松本卓也 「シャボン玉」 http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=55840 スタンダードな抒情詩ですね。びっくりするほどスタンダードです。 まず、ここに書いてあることについて、というかその内容について、理解できない人はほとんどいないと思います。大人になった「僕」が、シャボン玉で遊ぶ子どもたちの「無邪気」な情景を見て、そのまぶしさに見とれると同時に、その情景の中に自分が一度もいなかったのではないか、ということを感じる、という内容ですね。はい、よくできました。 しかし、無論、詩を読むと言うのは、このような内容を把握することではないのです。このような内容把握(もっといって要約)からこぼれ落ちていくもの、それを味わうのが詩の楽しみ方であり、その楽しさを伝えるのが批評の最も基本になってくるのではないか。私はそう思っています。 1、形式的な堅牢さ この詩を読んでまず驚いたのが、そのあまりに堅牢な形式です。スタンダードな抒情詩と言うと、普通、正直に自分の気持ちを言い表わしたもの、と思われがちです。ところがどっこい、そのようなスタンダードなものほど、形式については極めて堅牢になりがちです。逆説的ですけど、“気持ちを表現する”詩には“気持ちを表現する”ための形式、というか、もっと言えば“こうすれば気持ちを表現したことになる”というフォームみたいなものがあって、“自分の気持ちを表現する”という言葉のもとで、抒情詩人は実際はそのようなフォームの記入欄に自分らしさのコードを入力していく。そういうものだと思います。 無論、そのようなフォームにも時代により流行り廃れがありまして、過去のフォームは古臭いもの、形式ばったものと呼ばれて断罪され、現在のフォームはこれこそ本当の気持ちなんだ、これこそ自由に表現された自分の感情なんだ、って感じで免罪されるわけですね。この詩のユニークなところは、その時代遅れといわれそうなフォームをあからさまに適用することで、逆にそのフォーム自体の姿を浮き彫りにしていることです。そうすることで、フォームの存在を暴き、最終的にはフォームを裏切っている。そこに、この詩の不思議な面白さがあるのだと思います。 >冷め切った路地に >泡沫の玩具が舞って >寒さ堪えて歩く僕の >肩に弾けて消えていった 一行目、三行目は「寒さ」をキーにした部分、二行目、四行目は「泡沫」をキーにした部分。交互に出してくることで、詩の場面・状況(小説書きなら、これを設定と言いますが)がわざとらしくなく、それでいて立体的に形成されていってますね。さらにいえば、一・二行目はどちらかというと大きな視点、遠景まで含めていわば広角で捉えられていて、三・四行目は近景であり、自分の状況である、と。このような展開も抒情詩、というより小説に典型的な流れです。設定を作りながら、主人公にピントを合わせていく、という手法なわけです。 >子供達の無邪気さと >自分の卑しさとを比べ >小さく息を吐いて >無造作に首を振る この連の前半は、対比ですね。詩の核になってくる位置づけ(子ども=無邪気/自分=卑しい)を、対比という形で明らかにしている。その上、この連の後半は、これもまた対句的な表現で。「小さく」と「無造作に」が連用修飾語として対になっていて、その後も「~を…する」という形で揃ってる。しかも、“~”の部分も“…”の部分も、ともに漢字一字できれいに収まっています。「漢詩かよ!」と驚いてしまいました。 現代においてここまで堅牢な骨組みを見せてしまうのは、それこそ恥ずかしいことで、僕なんかは対句的表現を使う時も文の形が揃い過ぎないように気を使ったりするわけですが、この詩では真正面からそこに突っ込んでいっている。それがただの形式への意識過剰として上滑りするのならダサイだけなのですが、この詩には、どうもそれだけではすまない空気がある。そのことについては、後で述べます。 >立ち止まり振り返る >笑い声 遠くに響き >そよ風 無垢を運んで >映えた空 吸い込まれ 第三連は飛ばして第四連。ここも、説明不要なくらいにまで、形式的ですね。ただ、ここはその形式的な同一性が面白い効果を生んでいます。 少し読み込めばわかりますが、二行目から三、四行目と移るうちに、どんどん視点が遠く、広くなっていっています。そして、それに合わせて、どんどん形が失われていっている。「遠くに響き」と言われた「笑い声」(この時点では、笑っている子どもが見えるということで、まだ「笑い声」にはそれなりの形が見出せる)が、「そよ風」によってどこかに運ばれることで、景色はより遠く、広くなる。また、「そよ風」というものは、「風」という運動としては肌で感じられるのですが、もはや明確な形をもたない、単純に言って、見えない。そして、それがたどりつくのは、「映えた空」と言われる場所、すなわちもはや光と一緒になったような、広々とした空っぽの空間なわけです。 この移動によって、読んでいる我々も、遠くに広がっていき、形を失っていき、そしてまぶしく光になっていく。この感覚が、気持ちいいです。そして、その移動を一層感じやすくさせているのが、この二、三、四行目の形式的同一性になってくるのです。 また、ここでの形式的同一性は、話者の立ち位置と言うものにも関わってきます。つまり、 >立ち止まり振り返る という部分。ここと関わってくる。後の三行の形式的同一性は、この“立ち止まり振り返っている”話者の立ち姿の同一性、そこでまさに一人の身体が立ち止まっているということを裏付け、その姿を浮き彫りにします。そして、その立ち止まっている人が立ち止まったまま、見ることや聞くことを通して遠くに広がり、光へと散っていく。そこに、我々は普段我々が移動することで感じる以上の広がりや移動を感じるのでしょう。 (ここで余談。この話者が広がりの中に散っていく、ということはいいとして、それが「立ち止まり振り返る」というスタンスと結びついているところに、私は何か現代の風潮を感じざるをえません) >あの風景に一瞬でも >僕は居れたのだろうか >駆られた衝動を苦笑で抑え >浮いた造型を思い浮かべ 「居れた」と言っているくらいだから、子どもたちは座ってたんでしょうかねえ。なんていう皮肉は置いておいて、ここも対句的な表現があからさまに使われている部分です。ただ、ここに来て、対句的表現に少しの隙間が生まれている。 >駆られた衝動を苦笑で抑え ここは、具体的にはどのような衝動なんだかわからないわけですが、おおよそ、その子どもたちの輪に加わりたい、か、あるいは子どもたちの輪をぶち壊してしまいたい、かのいずれかでしょう(エロスとタナトス、とわかったように言ってみる)。ともかく、話者はその衝動を抑えるわけですが、これと対になるのは、同じ抑える系の動作か、あるいは抑えるの反対で何かを解き放つ動作でしょう。けれど、この話者がするのは、 >浮いた造型を思い浮かべ なわけです。なんというか、中途半端ですよね。動作としてではなく、そこでイメージが文字通り浮かぶわけです。けれど、この中途半端さが、意外性などを力に変えて、逆に曖昧な「シャボン玉」のイメージをまさにイメージとして浮かべる。もっと簡単に言って、実際にそこに可視化してしまう、ないかもしれないけれどあるような気もするものとして、ってか、有るものとして、中空にポワンと見えさせてしまう。 そして、 >ふと風に舞う泡沫が一つ >目の前をゆらりと横切った そのイメージを裏切るものとして、実物が目の前をよぎる。イメージではなく、横切っていく。この時、我々はシャボン玉をそこに見るわけです。そして、シャボン玉をみるものとして、その冷たい路地に立つわけです。 先に書いた、形式を裏切る、というのはこのことです。形式的な言葉を重ねることで、逆に形式に負荷をかけ、そうすることで形式にすき間を生み、結果、そのすき間を通路として、どのような形式でも捉えようのないシャボン玉そのものを横切らせてしまう、詩の世界というフィクションの中に闖入させてしまう。そして、その闖入者と触れることで、我々はフィクションの中にいながら、そこでリアルな身体を取り戻すのです。 折角の年末ですので、ここでは腰を据えて、この闖入者と身体とについて、もう少し粘って書いてみましょう。 2、「シャボン玉」とは何か(いささか詩学的に)。 普通、詩は何かを表現するものだ、と考えられています。例えば、抒情詩なら作者の気持ちなり何なりを表現することがその役割のように考えられています。しかし、先にも述べたように、それらを表現しようとしても、結局は形式に捉えられてしまう。この形式と言うものは、言語と不可分の存在であり、また、言語が自律的に作り上げていくものでもある。いわば、言語の網の目みたいなものですね。 リアルな何かを表現しようとしても、それは言葉にされた瞬間、言語の網の目に捉えられ、言語の次元に墜落する。リアルな何かを表現したはずなのに、それは結局、フォームの中に項目を入力しただけ、みたいなものになる。そして、それらは実際の事物に我々を導くわけではなく、言葉の上で横滑りさせるだけである。 たとえば、今年の四月まで、日本にはZONEという音楽グループがあったわけです。んで、ZONEはうら若い女の子たちから成るグループだったことから、「アイドル」と呼ばれていたわけですね。「ZONEは、北海道出身の女の子たちからなるアイドルグループである」とか、こういう説明がなされる、で、我々はそれを聞いて、ZONEを理解した気分になる。 しかし、それは結局は何も語っていないわけです。北海道出身といわれたら、「そうか、北海道出身なのか」と考え、アイドルといわれたら、「そうか、モーニング娘。とかと同じ感じなのか」とわかった気分になる。でも、それは決してZONEに触れたことではなくて、ZONEという存在のことを、「どこそこ出身のどういうジャンルの人たち」というフォームに落としてきただけなんですね。で、そのような言い方は、「Disturbedはアメリカのヘヴィーロックバンドである」などの言い方との差異によって成り立っている言い方で、北海道/アメリカとかアイドル/ヘヴィーロックバンドとかいう対立構造の中で、位置を見出しているだけに過ぎない。そして、この対立構造は、他ならぬ言語の平面上で成り立っているものであって、そこから抜け出ることはかなわない。 さらに言えば、このような言語の網の目は、現実を自ら引き摺り下ろすことさえします。アイドルと言う言葉を知っていたら、ZONEを見たときにそれをアイドルと呼ぶことは難しくないでしょうし、そういうジャンル分けができた後は、ZONEが何をしてもアイドルがそうしている、アイドルとしてそうしている、と解釈するほかないでしょう。こうなってくると、我々は言語の網の目の中で生きているだけで、結局その外にあるリアルなものには一生涯触れられないのではないか、ということになってくるわけですね。どれだけ説明を細かくしても無駄で、「ZONEは全員北海道出身といわれているが、そのうちの一人は実は大阪府出身で、……」とか何とか言ってみた所で、やっぱり言語の網の目が細かくなるだけで、そこから外には出られない。リアルなZONEには触れられない。そもそも、言語の外のリアルなんてものはあるのか、我々は所詮与えられたフィクション世界の中だけの存在ではないのか。そんな疑問さえ生まれてきます。 これが、言語の形式的な側面の、悲惨です。他でもないリアルなものに触れるために言葉を使うのですが、それは結局、既成のフォームに従うことになり、結果、言葉は言語の網の目の中で横滑りしていくだけ。無論、そのフォームを破壊しようという運動は、過去からずっと行われてきました。しかし、それはいわば、身体があるとどうしても鉄格子をくぐれず脱獄できないから、自分の身体をミンチにしてしまえ、というような乱暴なやり方になるか、あるいは既成のフォームを破壊したはずのものが“前衛”というジャンルに絡め取られて、すぐにまた流通し始める、という顛末になるか、そのどちらかが多かったと思います。 ところが、この詩では、そのどちらにも陥っていない。この詩では、典型的な抒情詩のフォームをその骨組みまで晒すことで、そこにもはや言葉の網の目に収まりきらないものを現れさせるのです。文字通り、言語の平面からは切り離されたものとして“浮かべる”のですね。この、浮かぶものこそ、“イメージ”と呼ばれるものです。この点で、「シャボン玉」というのは、実にイメージに適ったものだと思います。ここにあるのか、どこにあるのかわからないもの。すぐに消えるはずなのに、でもそこに在りながら、我々の前に浮かぶもの。曖昧に光を放ち、けっして一つには意味づけられないもの。意味づけようと手を伸ばすと、すぐにつぶれてしまうもの。そんなあり方が、まさにイメージであり、そして、この詩はそのようなイメージを浮かべてしまう点で、まさに詩だ、と言うこともできるのでしょうか。 しかし、このイメージはイメージとして浮かんでいるだけでは、実はまだ不十分です。それはいわば、空想上のものであって、それが現実に我々の世界の中にやってくる、――言葉の網の目に絡め取られるのではなく、それをぶち壊し、再生させる、フィクションの世界にリアルの息吹を運んでくる、そのようなものとして飛来する――ことこそが、本当は一番大事になってくる。その時、初めて我々はリアルに触れ、自分自身も言語の網の目から解放され、リアルな存在となれるのです。 (そろそろ余談を入れておきましょう。お年玉とか言いますが、どっかで読んだなんかによると(適当でごめんなさい。柳田国男だとは思いますけどさ)、あの年玉の玉って、魂らしいですね。日本では、魂が異世界からやってきて、それを受けることでその年の命を生きていく、って考えがあったらしい。年の瀬に新年の準備をする、ということには、新年を新たな気分で生きていくために旧年を殺す、というイニシエーション的な意味合いのほかに、新年を迎え入れるための身体を作る(儀式的な配置を通して年玉を迎え入れる構造体(門松立てた家etc)を作るとか、あるいは掃除などを通して自分の身を清めていくとか)という意味合いもあるんじゃないか、と思うのです。あれです。新しいアムロが乗り込むために、ガンダムを補修・新装するようなもんですか(違)。 リアルを闖入させることによって、自らもまたリアルな身体になる、というのは、この年玉と通じる感じで捉えています。むろん、これを他者と触れ合うことで云々、とレヴィナス的に捉えてくれてもいいんですけど) よく、このリアルを招来するために、偶然に任せた創作や、日常雑記などを行う人がいます。これは、まあ、それなりに成功を収めることもあるのでしょうけど、私個人としては、あまりにも言葉をナメすぎなんじゃないか、と思います。言葉はもっと手強いわけで、偶然に任せた創作は結局言葉の網の目に捉えられるかミンチになってしまうかのどちらかだと思います。どちらにせよ、リアルはやってこない、リアルっぽいコードかただのひき肉ができるだけ。チャップリンでしたっけ。本当の奇跡的なシーンを撮るためには、完璧に稽古をして、どんな偶然も入り込まないくらいにまで完璧にすることが大切で、そうした時に初めて奇跡的な偶然がやって来るんだ、みたいなことを言ったのは(うろ覚え)。 言葉を捨てて言葉以上のものを目指すのもいいですけど、それがミンチやコードになってしまう危険性を我々は知っておいたほうがいいのでしょう。サーフィンとかありますけど、波を征するっていうのは、要するにうまく波に乗ることであって、波に向かってカミカゼを行うことではないはずなのです。 で、この詩はその点で、非常に典型的な例かな、と思うわけです。抒情詩のフォームに乗ることで、最終的にリアルを招来した。や、本当に招来できているかどうかは意見の分かれるところかもしれませんし、単に私が自分の考えるリアルっぽさに騙されているだけなんかもしれませんけどね。でも、少なくともこの詩は、単純な抒情詩として読むにはちょっと収まりのつかない光が滲み出しているような、そんな作品だと思うのです。 3、抒情詩と小説(例によって、こき下ろす) この詩は、スタンダードな抒情詩だ、と書きました。何度も書きました。ただ、この詩の場合、徹底して抒情詩であろうとするがゆえに、却って抒情詩が成り立たない現状を浮き彫りにしている部分もあると思うのです。 抒情詩ってのは、話者の気持ちを述べる詩であるわけですよね。でも、この詩ではむしろ、気持ちを述べることとか他のいろんなことに対しての、話者の無力感ばかりが際立っている気がするのです。この詩の情景にしても、第一連について述べたように、えらい距離感を伴って造形されているわけで、そこには話者の心情と景色との乖離があるわけです。この乖離は単に話者の心情を照らし出すためだけの対照なんかではないのでしょう。 >あの風景に一瞬でも >僕は居れたのだろうか という風に、話者と子どもたちは完全に別個のものとして、お互いに違う場所で片や集い、片や立ち止まっているからです。で、このような乖離を乖離として把持できることは、それはそれで素晴らしいことだと思います。時には、ここで一気に一般化して、全部を詩人の抒情的な目で水浸しにしてしまう人もいますから(や、この詩の第二連の対比など、その“水浸し”に近いものも感じますし、だからこそ最初は、この詩を血祭りに挙げるつもりでいたのですが)。しかし、こうなってしまうと、抒情詩と言うのは、あまりにも小さくなってしまうのではないか、と思うのです。目の前の景色には無力な目を投げかけるだけで、詩の言葉はというと、ただ小さな個人の中に中にと籠もっていく、そんな詩になってしまう気がする。 その結果として、この詩の言葉は、形式への過剰な意識を除いては、(一般的な意味で)非常に散文的なものになっている気がするのです。(一般的な意味で)散文的な、というのは、要するに、言葉が言葉としてそこにあるんじゃなくって、ワンクッションを置いて意味へ導くための踏み台程度のものとしてそこにある、って感じでしょうか。こういう言葉は、映画でいえば、表情の問題とつながってきますね。つまり、役者がなんか顔をしかめることで、「今、俺はつらいって感情を内に抱えてるんです。それを読み取ってね」って観客に要求する。それと同じように、この言葉のうちにある話者の気持ちを読み取ってね、みたいな言葉になってる。 はっきり言いましょうか。そういうことがしたいんだったら、小説を書けよ。キャラクターを動かして、内面を存分に探らせたらええやん。ってか、小説自身もな、そういう近代科学的な言葉の使用法から外れて、もう半世紀も前から別の道を探してるんだってばさ。 ってのは、もちろん暴論ですよ。抒情詩の限界を見せる、という意味で、この作品はいい仕事をしている、と思うのです。素敵ですよ。皮肉でもなんでもなく、これも本心です。でもね、そういうお勉強的なところから外れて読めば、詩としては割合面倒くさい。何度も書いているように、僕は小説書きであるから、詩と小説との違いにはどうしても意識が行っちゃうし、その目で見た場合、これは詩の小説とは違う面白みみたいなもんを、かなり犠牲にした詩だな、って思えるわけなんです。 それに、この詩の場を作っている乖離について言うと。これも、かなり現代にマッチしたテーマだと思うのですが、それを小さな抒情詩として書いたことはやっぱり選択としてどうかと思うし、作者のスタンスとしても、何がしたいのかいまいちはっきりしないのね。つまり、距離というテーマ(詩の場)と苦悶している主人公の姿(スタンダードな抒情詩のターゲット)とのどっちつかずになっちゃって、微妙に消化不良な部分が残るわけです。 ただ、抒情詩がこのように小さくなっていき、結果散文と近いものになる、というのは、やっぱりこれも今の時代性について考えさせられるものがあって、面白いんですけど。この作品自身については、そんなお勉強のサンプルに使われても、かなしいんじゃないか、なんて思います。お勉強のサンプルではなくて、詩として歌いたかったんじゃないかな、なんて、おせっかいですかね、やっぱり。 4、例によって、スペシャリーどうでもいい余談 先に挙げたZONEですけど、デビューした時は、「アイドルでもない、バンドでもない」って肩書きだったんですよね。で、「バンドル」なんてわけわかんないジャンル名を振ったセンスの悪さには、なんと言うかレコード会社の柱に蹴り入れなければ気がすまない気分なわけですが(冗談ですよ)、でも、実際はアイドル的なアプローチもしたし、バンドとしても活躍した。けれど、そういう意味では型にハマりながら、結局はその型を裏切るようなことを連発してきたわけで(メンバー脱退の時に最後のテレビ出演で、曲が終わったあと全員がハンカチを取り出して、涙を拭くかと思いきやカメラが寄った瞬間全員ハンカチを食いやがった。そういう悪意と言うかなんと言うかが、いつでもあった)。結局、私にとっては「アイドルでもない、バンドでもない、ZONEだった」としか言えないわけです。 詩も、そういうのになればいいのにな、と思うのです。どのようなジャンルにハマってもいいけどさ、ジャンル内部のいろんな網の目の中で自分の居場所見つけてそこにしがみつくとか、そんなんじゃなくて、ちょうど波に乗ることで波を征するように、そのジャンルを通してジャンルを乗り越え、本当に自由なところに出て行ってほしい。そこで、他でもない「詩」を見つけてほしいし見せてほしい、そう思います。 (私のZONE大好きキャラというのも、それを通してしか語れないと言うか、ZONEという通路を通ることでしか近づけないものがあるから、こんなことをやっているところもあるわけです。個人としての私はもう、ZONEの思い出ばかりにしがみついているわけにはいかないし、前に進みだそうとしているんだけどさ、やっぱり、詩について語ろうとすると、こうするのが一番考えていきやすい。ジャンルなんて、そういうものでいいんでないかい) |