君の名前が 道に消えてく 君の言葉も いま 風に消された 君の仕草を 海が忘れた 君の歌声だけ 空に涼しく満ちた 海面と同じ高さだけの この道の上 抱かれたまま 陽の光だけ 音もなく錆びてく二人の夢 水平な日々 つながれた海 つむがれてく意味 白すぎる糸 命を囲み 風だけを見て ひとり散歩する君 聴こえないその歌を繰り返す波 君の名前が 道に消えてく 君の言葉も いま 風に消された 君の仕草を 海が忘れた 君の歌声だけ 空に涼しく満ちた 「この町は海抜0メートルなんですよ」と、部屋に案内してくれた仲居さんが言 った。「だから、あの白い堤防が、わたしたちの命綱なんです。あの白い堤防が」 荷物を下ろしてしまうと、僕は外に出て、バスで来た道を自分の足で歩いてみた。 日の光がアスファルトの上で行き場を失っていた。堤防はたしかに他の海岸よりも 圧倒的に高く、そして、いやに白かった。僕は骨みたいだと思った。去年の九月、 祖父はあのセメントよりも幾分茶色がかった骨になって、長い箸の先でもろくもろく 崩れたのだった。 君のふるさとを訪ねているんだ。 君のふるさとを訪ねているんだ。 こうつぶやいているとき、僕は、 君って言うのが自分の祖父なのか、 もう会えないかもしれない愛しい あの女性のことなのか、知らない。 誰だっていいんだ。僕は君に会いたい。 誰だっていいんだ。僕は君に会いたい。 「海はどこですか?」そう尋ねた僕に、通りすがりの老婆は笑って指をさした。「ほ れ、そこにあるわして」 その指は黒くて、肌がしなやかで、海風に吹かれて生きていくことの厳しさとたくま しさを無言で語っていた。老婆は笑っている。指は、堤防よりも少し上空、入道雲が湧 き出しているあたりを指していた。 「あそこ……ですか?」問い直した時に、老婆は黙ってうなづいた。その顔が、誰か に似ていると僕は思った。しかしそれが誰だか、結局思い出せなかった。東からの雲が まぶしい。指差したままで、老婆は誰かのように笑っていた。 君の名前が 祖父が死んだ日のことを、僕はよく覚えていた。 道に消えてく あの女性と最後にあった日のことを、僕はよく覚えていた。 君の言葉も いま だからこそ、僕は探したかったのかもしれない。 風に消された ぜんぶ浜辺に打ち捨てて、もう一度、 自分の足で拾い集めてみたかったのだ。 君の仕草を 砂浜はきれいだった。波に何度も濡らされていた。 海が忘れた 宝石みたいな、白い貝殻が転々と、 君の歌声だけ 正確には、貝の死骸のきらめきが転々と、 空に涼しく満ちた 転々と、まるで足音のように落ちていた。 君のすべてを 僕は忘れた 君を探して いま 僕はこの道を行く 僕はこの道を行く 海抜0メートルの午後 海鳴りはどこからも聞こえない |
2004年8月20日金曜日
海抜0メートルの午後(Remixed Ver.)
2004年8月11日水曜日
O(オー)
(ZONEのアルバム「O」に) O(オー) まるく O(オー) とじているのです O(オー) なにもない の、数字みたいだけど O(オー) アルファベットでは じつは十五番目なんです O(オー) 血液型は、O型です O(オー) 驚いたときには いつも声を上げてしまいます O(おおお) おおざっぱだなんて あまり言われないけど O(オー) まるくとじている 瞳 この手で触れるものって 世界にどれだけあるんだろう わたしにはわかりません まだ十五歳だから もう十五歳だから まぶしい朝のひかり を、どうやってこの手のひらでかたどっていけばいいか わたしは知らないのです でも こんなにまぶしい朝のひかり わたしは、今日も、目を覚ます ねえ、雪が降ってきました ちらちら ちらちら はいいろの雲の、もっと高くから ゆれながら 舞いながら わたし あんな歌声に なっていきたい そうか 世界は、きっとO(オー)なんです 吐くいきがこんなに白いから わたしの瞳の手のひらが 雪になって 散っていく ひかりを、いま つかまえましたよ (二〇〇二年十二月十日) (詩集『寄せる波、世界へ、』より) |
2004年8月9日月曜日
もぐもぐさんの呼びかけに応える2 ――裏ダンショウ(2)
僕が前回投稿させていただいた「ダンショウ(2) ZONEに関する」について、もぐもぐさんから以下のようなご論考を頂きました。「あをの過程さんの時間論-「存在の彼方へ」を読んでみる12」 僕は平素このようにして文章を取り上げていただく機会がそれほどないもので、まずしっかりと読んでいただけたこと、そして真摯に言葉を返していただけたことについて、大変うれしい思いをしました。もぐもぐさん、ありがとうございます。 ただ、僕の書き込み不足もあって、僕の平素の考えとは異なるものが、あの文章には現れてしまっていたようです。そこで今回は、もぐもぐさんの書いて下さった論考を引用させてもらいながら、前回の自ら訂正と解説を加えつつ、自分の考えをより掘り下げて書いてみたいと思います。 あをの過程さんは、その中で時間について次のような論点を提出している。 もぐもぐさんの論考は、僕が提示した考えを、ハイデガー的文脈で解釈されています。しかし、僕の考えはそのような高尚なものではなく、本当に文字通り僕らは最後から生きているのではないか、時間軸上を過去から未来へ移動していくのが普通の考え方なら、僕らはその逆の移動を実はしているのではないか、と考えていたのです。映画でいうと逆回しです。 ただ、一時期リワインドムービーなるものが流行りましたよね。『メメント』とか、『ドニー・ダーコ』とか、主人公が過去の真相へと遡っていくやつですが、僕のイメージはこれとは微妙に違ってます。なぜなら、僕のイメージする「最後から生きていく」には誰も「これ、巻き戻ってるね」と思いながら見ている観客がいないからです。リワインドムービーで逆回しの果てに見つかる真相は、あくまで観客が受け取る真相であって、逆回しを生きている本人には未来の記憶が当然ないわけですので、過去に遡ってもそれは真相でもなんでもないわけですよね。このことは、(2)の2でもう一度出てきます。 とにかく、僕にとっては文字通り時間軸が反転したもの、をイメージして出した「最後から生きていく」という考えだったのですが、あまりにも突飛だったことと、そのイメージを具体的に示さなかったことのせいで、解釈の転換という意味で伝わってしまったようです。これは反省しています。 実際、僕が挙げた三つの例のうち、二つは、解釈の転換としてとらえることもできます。っていうか、多分そうです。ですから僕は、「ダンショウ(2)」中に次のような文章を書きました。 次に、レベル2。先の考え方は、(…)いわば言葉の上での言い換えに過ぎなかった。要するに、「過去にあったことを人生の最終目的って言い換えてるだけでしょ。それって結局過去のある時期を別の名前で呼んでるだけで、わたしたちが過去から未来に生きていくっていうベクトル自体は変わらないわけだよね」という批判が可能な考え方なのである。そして、そのことはこのレベルでも同じである。 ただし、上のような批判が可能なのもレベル2までで、三つ目の例、一般的な考えからは最も離れてしまっているレベル3の例においては、上のような批判自体が成り立たないものだと思っていました。そういう想定のもとで、僕はレベル3を出したのでした。 しかし、上のような批判が成り立たないものとしてレベル3を出すことを、僕は文章中に明記し忘れました。そのこともあってか、もぐもぐさんの文章の中では、これもまた解釈の転換というか、解釈学的問題というか、つまり時間軸はそのままで発想を転換しているだけ、という例に留まってしまっています。 過去の出来事は私の生の場合と違って、成長したりその状態が変化したりすることは本来ないはずなのだが、「解釈」というレベルで言えば、そのようなことはなく、一定の意味内容を持つ出来事として最終的に「確定」するまで、様々な変遷を辿る。 「未来から、遡及的に生きていって、その出来事がまさに一つの出来事であった時期に帰ろうとしていっている」というのは、もう少し普通の表現をすれば、複数ある解釈の「可能性」(未来)が、確定されて一つの「事実」(過去)になる、ということである。何らかの事件が起こったとき、情報が少なく、噂話が錯綜するとき、その事件の真相は様々なものである「可能性」を持っている。だが、次第に事態は明らかになっていき、外堀は埋められて、真相はこれこれのものであった、と「確定」される。確定された解釈は、その後は「解釈」ではなく、「事実」として扱われるようになる。これをアフォリズム的に表現すれば、「解釈とは、未来から過去へ遡及する運動なのだ」(解釈により、可能性は絞り込まれて一つの事実として確定される)と言うことができるだろう。 ここで我ながらしまった、と思ったのが、僕が書いていることがそもそも気が狂っているようなことなので、「普通の表現」にはなかなかできない、ということを自分の文章に書いておかなかったことです。ただ、もぐもぐさんは気を使って引用されなかったみたいですが、僕はレベル3の冒頭で、「さあ、レベル3。ここに来ると、もう気が狂っているとしか思われないだろうが、書く。」ということを述べてます。僕もいくら勉強していないとはいえ、解釈は常に現在から行われ、解釈が過去を作り出す、といった風な(「といった風な」というあたりがいかにも阿呆ですが)議論は知っています。最近は物語論も大流行ですし。その上で「気が狂っている」と使うくらいだから、本当に狂ってるんです。なかなか哲学の索引がつけにくいようになっている。それが伝わらなかったのが残念だな、と。 さて、もぐもぐさんは僕の議論について、それは最終的にヘーゲル的な目的論に通じるもので、そこには遊びがない、という風なことをおっしゃっています。レベル2までのところでそれが言われるなら致し方ないかな、と思っていたのですが、レベル3まで通じてそう解釈されたのは、我ながら不徳のいたすところでした。なぜならば、僕があの文章で目指していたものは、ドイツ観念論的な形而上学、その根幹に見えるキリスト教的世界観、およびその裏面であるに過ぎないニヒリズム的な思考、これらをなで斬りにして無化してしまうことだったのです。 しかし、レベル3について述べるのは次回においておいて(長くなりますから)、レベル1、2について反論という形で少し説明を加えたいと思います。 まず、レベル1ですが。まず、もぐもぐさんは以下のように解釈してくださってます。
ここでもぐもぐさんは「死」をメタファーとして読み解いてられますが(そしてそれはレヴィナスとかバタイユとかの見方からするとまるで当然なのですが)、僕の挙げたのはほんまもんの「死」でした。とはいえ、分かりにくいと思います。 今見直していて自分の文章のミスに気づきました。以下のように訂正すれば伝わるかな、と思います。 「その空白を埋めるものは結局、時間軸を想定すれば過去の一時期にマッピングされるものでありながら、人生の究極の目的地となるものである。そしておそらく、人はそれを手に入れながら、死んでいく。つまり、われわれは自らの死、自らの最後に来るはずのものを過去に持ち、まさにその地点から生をスタートさせているのである。」 → 「その空白を埋めるものは結局、時間軸を想定すれば過去の一時期にマッピングされるものである。それでいてそれは、人生の究極の目的地となるものである。なぜか。おそらくそれは、生きている人間を駆り立てる空洞でありながら結局生きているうちには手に入らない、そのような類の記憶であるからだ。それが手に入るのは死の瞬間のみなのだ。つまり、われわれは自らの死のその瞬間に来るはずのもの、自らの最後にくるはずのものを過去に持ち、まさにその地点から生をスタートさせているのである。」 こうなった場合、結局「究極の目的地」は目指すことのできない場所になります。人生を数直線化してその両端にまさに点として誕生と死の瞬間をおいてみる場合、点がそもそも定義としてそうであるように、この誕生と死は人生の中にありながら、人生の中で幅をもたないものとなるからです。そのような点、そのようなまさに一瞬に現れるものは、ある意味ですでに人生の外にあるといってもいいと思います。人生を駆り立てる機会にはなっても、人生に豊かさを支払う存在にはならないからです(つまり、努力に対する報酬としてこの「回復」はあてに出来ないのです。だって、取り戻す瞬間は死の瞬間とぴったり重なり合ってますし)。しかも、それはもはやすでに決まってしまっている。そして最後にはきっとやってくる。となれば、その間の人生の長い幅をどう生きるか、に問題は集中してくるでしょう。 そして、この誕生と死の二つの点の間で、いくらでも人や社会は変化すると思います。生と死の二つの点だけは変わらのないですが、それは人生の中できわめて重要でありながら、まさにその一瞬に幅がなくかつ決定されていることで、もはや人生の外といってもよい。こう考えると(というか、もとよりその考えですが)、もぐもぐさんの「この解釈においては、実は私の生は、殆ど最初から定まってしまっていると言ってよい。「取り戻す」べき「記憶」は既に「与えられて」しまっており、私はその内容を「変更する」術を持たない。私にできることは、それを「忠実に」「取り戻そう」とすることだけである。」という批判も、克服できるように思います。 あと、レベル2について。これだけは、もぐもぐさんが丁寧に読んでくださらなかったな、と思っているところですが。僕は、「ダンショウ(2)」のほかの文章との兼ね合いもあり、ここで「誕生の直前、わたしたちにとってはすべてのことが未来である。」と書きました。しかしもぐもぐさんは、「生まれたての赤ん坊は全ての「可能性」を持っている」、「若い頃(特に青年期)には、自分には全ての可能性が開けており、何にでもなり得るように感じられる訳だが、」としてしまっていて、このことで僕の議論の骨格が揺らぎ始めてしまいます。 僕の議論の基調は、上のレベル1にも出ていたように、誕生と死の瞬間を特別な瞬間、人生にとって極めて意味のある瞬間としながら、同時にそれを人生の外に置くことです。もちろん、どこにどう生まれるかは人生にとって非常に重要であり、「終わりよければ」ではないにしろどう死ぬか、が人生を意義付ける度合いはとてつもなく大きいでしょう。しかし、それは誕生と死を点ではなくある程度の幅を持つ線と考えた場合のことであり、点としての誕生と死は、やはり当事者の人生に対してある意味で無責任な一つの出来事でしかありません(「出来事」については(2)の2で)。 誕生の直前は、すべての可能性がまさに実現できるかもしれない可能性として光り輝きます。それに対して、誕生の直後は、すでに可能性はかなりその領土を減らし(たとえば、僕がこの時代にこの国で、三重県の片田舎に生まれた、というだけで、すでに僕の人生はある種の方向性を持ち始めます)、そこからの人生に対してある種の責任を持って生きていかなければなりません。そのあい間で、誕生の瞬間はまさにすべての可能性が一番光を放つと同時に失われる、いわば完成と終末が背中合わせになっている瞬間といえるかもしれません。 そして、死の直前、人は他のいかなる可能性もない一人の人間となります。すべての可能性を失う瞬間、人はたとえ世界からなんと言われようともたとえ人生がどんなにボロカスでも、その人の中ではもうどう変わることもできないという、動かぬ一個の事実となるのでしょう(あとの人が彼をどう解釈するかは、また別の話です)。そしてその事実化が完成しかつ失われる瞬間こそが、死の瞬間なのです。 さて。少し先回りをしてしまいましたが。戻ります。もぐもぐさんのように、「生まれた後も人は全ての可能性を持っている瞬間がある」、と考えた場合、「可能性」の危険性はかなり薄まります。僕の考えだと、たとえば僕は源平合戦の時代にオーストラリアでオポッサムとしてうまれてもよかったわけです。ある日起きたら虫になってしまっていてもいいし、9・11でビルに突っ込む飛行機の中に合成樹脂としてとして乗って(?)しまっていてもよかったわけです。われわれに開けている可能性は、魅力的であるとともにそれほど危険なものなのです。 そして、その可能性が0になる、ということ。それは決して、自分がどういう人間になるか、ではありません(「人間」という概念自体、すでに他の存在その差異化によって生じている。そのため、他の何かになる可能性があったのにならずに「人間」になった存在、という可能的な響きがそこには生じる)。自分が自分にとっても手出しの出来ない、ゆるぎない一つの点(点については上参照)になること。一つの出来事になること。そのことを、僕は書いたのでした。 こう考えた場合、これも目的論からはずれてしまうのではないでしょうか。「自分のすべきことが何なのか、経験し、否定を重ねるなかで、最後にようやく見出していく。所謂ビルドゥングスロマンである。やや理念化・パターン化されやすい嫌いはあるが、人生の真理の一面を鋭く突いたものであると思われる。」ともぐもぐさんは仰られていますが、僕の考えにおいて人生の主人公が最後に見出すものは、あまりにも自分であるがゆえにもはや自分ではない点にしか過ぎません。それはあらゆる教養小説的・目的論的人生観を無に返す、石壁のような結果の顔をしているのです。 (つづく) |
『あをの過程さんの時間論-「存在の彼方へ」を読んでみる12』に対するコメント
『あをの過程さんの時間論-「存在の彼方へ」を読んでみる12』 http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=17191 読み込んでいただいたことに感謝の意をこめて。しかし、絶対これだけは取り違えて欲しくなかったこととして、一つだけ書かせていただくと。わたしがあえ て(比喩ではなく、文字通り)時間軸を逆転させたのは、まさに「解釈」を無に返す「出来事」の存在を出してきたかったからです。だから、われわれの人生と いうのは、死の時に至ってその意味が全て明らかになるものではない。逆に全てが明らかになると思われるほど、あらゆる解釈を経てきた死の時から人生はス タートして、逆に解釈不可能なものとしての出来事それ自体に向かっていくのではないか、ということです。吉本隆明の「存在倫理」に考えの基礎を置いていま す。そしてこの出来事とは、バルト辺りが仮想した純粋なテクスト、読者(下手したら作者さえも!)のいないテクストに似た概念です。 だから、もぐもぐさんの文章の事件と解釈の例は、僕の意図した所と順番が全く逆でした。事件が起こったまさにその瞬間、事件は一つの出来事です。その一 瞬(0地点)だけはわれわれの解釈を拒み、自足しています。しかし、当然様々な人から様々な解釈が出てくるから、事態は紛糾する。で、コナンが見つける真 相とかも、結局はそんな解釈のうちでその時点で最も妥当性をもち共有されやすいものにしか過ぎず、出来事それ自体では決してない。 ここからは余談ですが、わたしは目的論を嫌っています。目的的、教養小説的人生観は大ッ嫌い(笑)。わたしの死生観が目的論的だとしても、それは結果と しての目的論を語っているに過ぎません。なぜ、それを語るのか。目的地を一つの結果に返してしまうこと(つまり、たどり着いたところがその人の目的地で あったんだろう、と悟ること)で、過程を目的から解き放ち、そこに遊びを作り出すためです(「終わりなんて気にしなくても 走れるだけ走れば分かる」 ZONE「Come to Myself」より(作詞・作曲:町田紀彦))。 追記:結局、カントよろしく物自体と現象界を分けているだけじゃねえの?と思われるかもしれませんが、そうです。ただ、カントがなぜ物自体を作り出して それを括弧の外に置いたのか、そのことの意味が坂部恵あたりによって再考されています。僕は、それの延長線上で思考しています。本質ではなく、フーコーに おける「外」のような物自体。のような出来事(特に誕生)。そこに生まれてくるのは、自由さと、キリスト教的思考からの生の奪回と、そして他者に対する倫 理だと思っています。 |
2004年8月6日金曜日
ダンショウ(2) ZONEに関する
時間は過去から未来へ流れている、という考えにわたしは常々違和感を抱いている。時間を過去から未来への川の流れとして考えてみよう。世界のあらゆるものは時間に晒される、とするならば、世界のあらゆるものは川の流れにそって自らも流れていくことになる。それでは、この川が流れていく空間、川を受け入れる今だ見たこともない陸地は、一体何なのだろうか。陸地もなく、川は流れているということはできない。 それに対して、わたしが高校生の時から持っている時間感覚は、雪、あるいは雨の比喩でもって表せる。いまだ来たらざるものを曇天に見立て、既に過ぎ去ったものを足元の地面に見立て、そこに立っているわたし、そしてはるか上空から降ってくる雪。雪は、もちろんわたしだけに降るのではない。地面の上に立つ者すべてに降り注ぐ。そして、雪に降られている世界の広大さ、それを包み込む雪の途方もない広がりを、立っている一人のわたしがもてあまし気味に、圧倒されながら感受する。時間軸のように平面に表すことは出来ない。なぜならそこにあるのは、直線的に配置可能な未来や過去ではなく、わたしの皮膚が雪とふれあい続ける絶え間ない現在だけだからだ。この現在が立つ場所として、私に触れた雪がしみこんだ大地、すなわち過去はあり、この現在がぶつかる未知にして、いずれわたしに雪という欠片でもって触れてくる曇天として、未来がある。 さて、この場合、地面というものが、わたしの肌に触れて溶けて伝った雪だけでなく、世界に同時に降ったあらゆる雪を吸い込み、それを循環させているものであることに気づく。さらに、わたしが地面のある地点に立つ前に、そこには誰かが立っていたのであり、その人の肌を伝った雪やその人の体重などにより、その地面は既にわたしが立つ前に形作られている、ということも知ることができる。これらのように考えることは、われわれの同一性と自由、差異と反復、生前や死後、風土や遺伝子、歴史や同時代に対する責任の問題、そしてもちろん詩についての様々な問題を考える上で色々な示唆があると思う。 * * * われわれは、本当に日付どおりの順番で生きているのだろうか。このこと自体、考えてみれば疑わしい。われわれは、初めからではなく最後から生きているのではないだろうか。ここで、一般的な考えから遠ざかる順に三つのレベルを立てて考えてみよう。 まず、レベル1。わたしたちは、胎児の時期、あるいは幼少の時期をほとんど覚えていない。その空隙は、われわれにとって非常な不安定感とそれゆえの求心的な作用(ある種のノスタルジー)を生じさせる。埋めようのない空白を埋めるものを探し、帰られるはずのない場所に帰ることを願い(普段は意識していないにせよ)、われわれは生きていく。その空白を埋めるものは結局、時間軸を想定すれば過去の一時期にマッピングされるものでありながら、人生の究極の目的地となるものである。そしておそらく、人はそれを手に入れながら、死んでいく。つまり、われわれは自らの死、自らの最後に来るはずのものを過去に持ち、まさにその地点から生をスタートさせているのである。 次に、レベル2。先の考え方は、人生の最終目的と同じものが過去に現れてくるところをとらまえて、過去のその「同じもの」に「人生の最終目的」を代入しただけの、いわば言葉の上での言い換えに過ぎなかった。要するに、「過去にあったことを人生の最終目的って言い換えてるだけでしょ。それって結局過去のある時期を別の名前で呼んでるだけで、わたしたちが過去から未来に生きていくっていうベクトル自体は変わらないわけだよね」という批判が可能な考え方なのである。そして、そのことはこのレベルでも同じである。 レベル2。誕生の直前、わたしたちにとってはすべてのことが未来である。すなわち、すべてのことが自分に起こりうる可能性をもつのである。しかし、生まれてしまえばそんなことはなくなり、可能性は両腕の間から次第に零れ落ちていく。大人にもなると、かろうじて想像力の迂回路を通ることで、「あの出来事は自分に起こったことかもしれない」という可能性を身に引き受けることができるだけである。 すなわち、誕生の直前の時点で、わたしたちはすべてを持っている。つまり生きることは、その持ち物をなくしていって、最終的にこれ以外ない、という一人の自分になることだとも言えるのである。もちろん、そのむこうに、一人の自分をさらに無に帰す死があるわけだが。普通の考え方において、手に入れていくことが人生だと言えるならば、われわれはすべて手に入れてしまっている、というまさに最後の段階から、スタートしているとも言えるのである。 さあ、レベル3。ここに来ると、もう気が狂っているとしか思われないだろうが、書く。われわれの生きていく中で出会う出来事というのは、事後にさまざまな解釈を呼び起こす。しかし、それが起こった瞬間は、まさにそれは一つの出来事であって、他ではない。では、もしかしたらわたしたちは、事後の解釈によって悶々としている未来から、遡及的に生きていって、その出来事がまさに一つの出来事であった時期に帰ろうとしていっているのではないだろうか。そしていうまでもなく、最大の出来事は誕生である。われわれは、自らの死から出発して、さまざまな解釈を出来事に返しつつ、自らの起点となるたったひとつの出来事である誕生に向かって生きているのではないだろうか。誕生から死へと老いていくように思うのは、単にわれわれが順番を逆向きに把握しているだけなのかもしれない。 これらの考えは実際おかしなものかもしれない。しかし、時間と生きることの問題は非常に取り組むことが困難な問題である。なぜならそこには生と死をどう捉えるか、という問題が絡んでくるからだ。これがさらに、詩とも密接に絡んでくるのは、途中でさりげなく持ち出した「想像力」のことなどを考えてみても明らかだろう。われわれはどこからどこへ生きているのか。何を抱き何に憧れているか。瑣末なようだが、実はこれは非常に根本的な問題だと思うのだ。 * * * 簡単に納得しないこと。自分の信念に関わる場合は、特に。その一方で、常に自分からの意見を発信していくこと。そうしなければ、結局力ずくで押し流されるか、あるいは逆に自分がすべてを堰き止めてしまうことになりかねない。それは、苦痛しか生まない。 * * * 臓器の襞、その内に宿る闇は、生の襞に宿る底なしの闇と通じている。人を根本的に打つ声は、そこから誰のものともつかないものとして湧き上がる。しかし、忘れてはならない。それが世界に発せられる時、そこには必ず声を発する者の身体の震えも共に宿っている、ということを。 * * * 「~でもない、~でもない、何か」、としての存在のあり方。ただ自分である、という存在のあり方。世界と向き合う一人の身体、その名前。それらが背負う重みと、貴さ。 * * * 演じられたわたし、演じるわたし、その外側の何気ないわたし。この区別に対する感覚と、この壁を貫くパッションとをともに持ち得ないと、パフォーマンスを成り立たせることは困難ともいえる。もちろん、壁の厚さはその時々によって変わるだろうし、それを変えてみせることも重要な芸の一つだろうが。 * * * クレバーであること。それは、バカであることとある点で近い。さまざまな出来事に対して、従来の定式に当てはめて簡単に答えを導き出してしまうのではなく、そこに潜む問題の困難さを敏感に感じ取り、それに対して自らの存在を賭けて立ち向かうこと。自分に本気に生きること。それが結局、如才ない処世術などを超えた、生きること自体の叡智に人を導くのだろう。 * * * 光があれば影がある。昼があれば夜があり、陸地があれば海がある。ここにわたしがいる、ということ。その時、ここにいることも出来た他の人がここにいない、ということも同時に起こっていると言える。 生を光が当てられている側面として考えるならば、光が当てられていない所で眠っているわたしもどこかにいるはずである。光が当てられる瞬間、それまでは文字通り円満であった球は、照らされる側面と照らされない側面に分かれてしまう。われわれは、わたしが生の舞台に上がった瞬間に、分かたれたのだ。しかし、死の後に再び分かちがたい二人として戻るだろう。 物語の主人公と作者との関係。日常を生きるわれわれと、読書の時間を生きるわれわれの関係。二重身の問題は、様々なものにあてはめることが出来る。絶えずどちらかが舞台に上がり続け、その背後でもう一方が影として光を支え続ける(いや、実際、この両者はずっと役割が固定されているのではなく、交代可能なのだろうが)関係。さて、では、わたしと言う物語を生きているもの(すなわち、この「わたし」)の背後には、誰がいるのだろうか。 「わたし」は「彼」がいるからここに生まれて、ここに生きている。 * * * わたしの死後をわたしは想像できない。なぜならば、そこには見るものとしてのわたしがいないからだ。わたしが触れてきた世界には、必ず見るものとしてのわたしがいた。それがいなくなった時、もしかしたら世界はもはや姿を変えてしまうかもしれない。それどころか、なくなってしまうことも考えられる。世界は下手したら、自分ひとりの幻想かもしれないのだ。自分が死んだらそこでおしまいになる、わたしが主人公の一つの映画なのかもしれない。そして、人間も地球も草木も青空も、ただ「わたし」という映画を作るためのCGのごとき創造物かもしれない。作者は外にいるのかもしれない。このことを考えると、わたしはいつも耳鳴りがするような暗闇に直面して、暗澹たる気分になる。 このような場合、わたしのことを誰かが覚えていてくれる、と考えることは一つの救いになる。その人の存在のおかげで、わたしの見ていた世界がある程度ではあれ存続できるからだ。しかし、記憶はいずれ消えるだろう。その時、やはりわたしの存在は消えてしまうのだろうか。 それは違う、と今は考えている。もし「わたし」という映画の外にも何かの世界があるならば、その世界がどんなにわたしの世界と異なっていて、そこでわたしがどれほど笑いものにされていたのであっても、ただわたしが生きたという事実だけは、そこに響き続けるだろう。だれが覚えていなくとも。どんな形であれ世界が存在する限り、わたしが存在したということだけは、ただその事実だけは、消されることがない。宇宙の中で、やまない波のようにめぐりつづける。 * * * この不確かな世界で、誰かと関わり合うという奇跡。ましてやその人が、ちょうど自分の背後にいる「彼」のように、わたしを支えてくれるということの心強さ。「わたしたち」の間に生まれる「関係」は、その時、一体どのような言葉で現されるだろう。その、体温の交わし合いにも似た感触は、自分の単なる妄想でない場合、一体誰のものなのだろう。相手のものだろうか、「わたし」のものだろうか。そしてそれは、どこに流れていき、どこで保存されるのだろう。 「関係」がたどり着くのは、たぶん二人が共にある場所だと思う。二人しか知らない(もしかしたら二人すら知らないけれど)二人だけのための秘密基地のようなもの。そこから出発して、お互いに分かれていくけれど、結局最後はそこにたどり着く、基地(baseは、基地であり基礎であり基点でもありうる。われわれはそこから戦地に旅立って、戦いの後で疲れを癒しにそこに戻ってくる。そしてまた旅立っていく。何度でも)。時には遠く離れながらしかしともに歩み続ける二人の呼び合う声は、すべて、どちらかの頬を流れそしてもう一方がそれを忘れないと誓ったいつかの涙のように、二人の関係の真ん中を流れ落ちて、基地に流れ着くのだ。そして、そこで待っているのだろう。二人がそこにたどり着くのを。二人が基地に帰ってくるのを。 * * * 一般的には話者からの一方的な解釈・表現であることが多い言語芸術において、他者との双方向的というか、どちらのものやら分からないというような、上に書いた「関係」それ自体が作品の中に結実している奇跡を、われわれは時に目撃する。 * * * |
ダンショウ(1)
小説はせいぜい「人でなし(人非人)」である。 詩は往々にして「人がなし(無人)」たりうる。 * * * 学校で教えてくれるのは、散文の読み方ばっかりだ。詩であっても、それを散文として読ませる術しか知らない。しかもいっそう問題だと思われるのは、その散文のお勉強にしても、せいぜい日常的な問題を日常的な次元で扱っているレベルの評論、エッセイ、小説あたりしか教えることしか出来ないのである。時代の意識の限界を突破しようとする論文はもちろん、日常の中に生の豊かさを掠め取るエッセイ、そして世界と浮気がちなしかし純粋な愛を重ねていく小説などがあろうと、誰が知ろうか。 知と言葉の快楽は、現時点では誰にも教えられることはない。 * * * 読み書きは、修行だ。「お願いします」といったら最後、殺されても文句は言えない、修行だ。実際は殺し合いなんて想像できないような型稽古の中に、たとえば残心一つおろそかにするとそこで命を落とすことになる、という文字通りの真剣勝負が宿っていることを、想起せよ。 * * * 身体を使うか、言葉を使うか。あらゆる次元において、ここには違いなど存在しない。 * * * 人は人の心が分かるなんて、誰が言った。われわれは多くの場合、自らの感情の触手でもって世界を恣意的に脱複雑化しながら感受する。疑わしい筋は、ゴダールの『映画史』でも読むがよい。小難しいものが好きならば、そして右の考えが導き出しがちな〝他者〟不在の問題に克服の糸口を見つけたいならば、フッサールの『デカルト的省察』やルーマンの『社会システム理論』でもいいだろう。 とにかく、われわれは皮膚に囲まれていて、その向こうに何があるかなんて知ることはできない。これを知った時に、初めて世界の貴さを知ることになるだろう。初めて、〝他者〟に対して倫理的になるだろう。 そして、言うまでもないことだが、文字も皮膚を持つ。 * * * 声は皮膚を超える。それは、見ても触ってもわからない箱の内部の様子が、叩いて音を出してみればわかることからも容易に推測されよう。 このことは、皮膚によって孤立した人間を世界へ接続する、そして〝他者〟との調和を感覚させることによって人を救いもするが、同時にそこには世界に身を晒すことの危険性も潜んでいる。 (話が横道にそれるが、この声の功罪は、ちょうどセックスのそれとも似ているのだ。そしてAVというのは、性器や性の感覚など、隠されているはずの肉体的な側面を極度に、それこそ内臓が一部裏返るみたいにして晒しているにも関わらず、それが何回でも「再生」可能で複製可能な映像として平面化される、という恐ろしいツールである。だから僕は、ビデオの向こうに、解釈不能で全然僕のことなど知らないし僕からも知ることなどできっこない一人の人間を想定しなければ、AVを見ることが出来ない。彼女達の肉体も演技も僕の興奮も超えた、いわば括弧の外側にいて、それら全てを「それが全部表現だと思ってます」と言って手の上で転がしている、かつその重さをも感じている、一人の人間を想定しなければ。) 声は言葉のいわゆる内容と必ずしもそぐわない時がある。そして、内容と声とが合わさって、初めて言葉は言葉として成り立つ。構築的な散文は内容(意味)を中心に認識を構築しながら、最終的に声(ポエジー)の力でもって既存の認識の限界を超える。詩は、声の力を存分に解き放って世界との調和を生じさせるのが目的であるが、その声を制限しあるいは方向付けるために内容を必要とする。特に、書く詩の場合は詩自体に声がないために、内容を以って声を導き出してくることが多い。 とはいえ、もう一度書くが、言葉は内容と声が合わさったもので、この二つを分けてしまうことは出来ない。むしろ、この二つがどちらがどちらという分け方も出来ないように交じり合っているのが、言葉の現状である。 * * * 言葉の形にその掌でふれること。言葉の響きと、それが消えていく空間に耳を澄ますこと。 * * * 自分を死ぬ気で一回突き放さないで、詩や詩の批評なんて書けるわけがあるか。時には、感動それ自体が自分を突き放してくれることがあるにせよ。 * * * 「自分の感情」とは、本当にあるのだろうか。あるのは、せいぜい「自分の事情」だけで、そこから先は誰のものやら分からないような「感情」があるだけではないだろうか。 * * * 小説を書くことは、夜の駐車場の出口、オレンジ色の街灯の下で、すれ違った女性をレイプするようなものだ。気付かれないような速度で、あくまでやさしく、すれ違っていく時のさびしさそのままで、触れていく。かすめ取っていく。そして余計にさびしくなるのだ。なんか、なんかまあ、そんなもんだ。(小説「四日の間」より) * * * 「わたしたちってな、まっさらな身体でまっさらな土地に生まれて、まっすぐに育ってきたんやないような気がするわ」(小説「八月の終わりに」より) * * * どんな目覚めの言葉よりも速く、黙祷を。黙祷を。 * * * (中断) |
2004年8月1日日曜日
前略 鉄腕アトム様
前略 鉄腕アトム様。元気ですか僕は元気です。 この間、夜眠れなかったので朝九時まで起き続け、久しぶりにあなたのアニメを見ようとテレビをつけたら、何か別のアニメがやっていました。 思えば、あなたが復活放送されたのは、もう去年の話なのですね。あなたが生まれたと原作漫画で設定されている年だったこともあっての、何十年かぶりの復活でした。あの時僕は思いました。この何十年間か、僕たちにとってあなたは何だったのだろう、と。そして、復活した新しいあなたは、僕たちにとって何になるのだろう、と。『鉄腕アトム』と二重カギ括弧で囲んでみると、あなたがまるでずっとそばにいるけれど実際にはそこにいない大事な人みたいで、それにしても「鉄腕アトム」とは人間らしくない、人間らしくないくせにそこに愛着というか何と言うか、変な安心を感じてしまって、空の彼方でも海の底でもあなたがそこにいることに対する穏やかで埋めようのない違和感を僕は愛していたのでした。 あなたは『ASTRO BOY 鉄腕アトム』としてアニメの中へ復活しました。あなたがまたテレビに入ることを知ったのは、僕の大好きな某女の子バンドの新曲がその主題歌として使われることを知った時でした。あれは、いい歌でしたね。僕はあの歌が本当に大好きで、あの曲を聴いて彼女達のファンクラブに入会することを決めたのでした。ああ、しかしこれも、もう去年のことなのですね。 去年は、どこに行ってもあなたの名前と行き当たりました。花火とか、お菓子とか、あるいは乾電池にまであなたの絵と『ASTRO BOY 鉄腕アトム』というタイトルが書き写されていて、僕はそれらをいちいち買って歩きました。『ASTRO BOY』として鮮やかなテレビの中に復活した、輪郭もきれいで目も透き通っている新しいあなたが、僕にはなぜか少し誇らしく、少しかなしかった。『ASTRO BOY』という言葉はたしかにかっこよかったけど、あなたの姿、あなたの名前を集めれば集めるほど、僕は欲しいはずの何かから遠ざかっていくような気がしたのです。 原作においてあなたは、科学技術の呪われた子として漫画の中へ復活したそうですね。そして、原作の手塚治虫さんは、あなたがアニメになり、国民的な想像上の(「国民的な想像上の」とは、またなんとも不思議な言葉ですが)ヒーローになっていくにつれて、生まれたあなたに対してますます憎悪というか恐怖というか、どこまでも膨れ上がる怪物を見るような思いを募らせていった、といいます。 この間、『ASTRO BOY』の第一回、あなたが復活するシーンを何かのテレビ番組で見ましたが、二〇〇三年のそれは、クリアーでシャープで輝かしい復活でした。あの女の子たちのまぶしく力強い曲が、感動的にあなたを受け入れて、ふたたび目を開くあなたの背中をあたたかく押していました。僕は、なぜだか涙が出そうになったのです。あなたが塗り替えられることが、そこに生じる、影さえも見えないほどの輝きが、僕を懐かしいようなかなしいような、かなしいくせにどこまでも気持ちが安らいでいくような、そんな気分にさせたのでした。 でも、ごめんなさい、鉄腕アトム様。僕はその感動的な第一話を、リアルタイムでは見ていませんでした。あの女の子バンドの名曲があなたの復活を感動的に彩ることも、彼女達のサイトで知っていたというのに、それでも見逃してしまったのです。ついにその復活に触れられないまま、年月ばかりがたちました。今はもう、二〇〇四年の夏休みです。 鉄腕アトム様。僕はあれから二度入院しました。今も入院中で、一日にいくつもの薬を投与してもらっています。ペンタサ、オメプラール、メチコパール、ロキソニン、クラビット、リンデロンA、ミドリンP、ゾビラックス軟膏。あと、アロセナA軟膏も。面白い名前ですよね。ささやかすぎる愛の呪文みたいで、僕はこういうのがけっこう好きだったりします。でも、そこには『鉄腕アトム』のような、懐かしさと安心と違和感とがありません。それが僕を、時々思い出したようにさびしくさせるのです。 今回の入院中、調子のいい時に一度だけ地下の購買に行ってみました。けれど、あなたの関連商品はもう何もありませんでした。地下の購買は、冷たい質感の壁で囲まれていて、病院らしく光まで清潔でした。去年の入院中はあなたのお菓子が並んでいた棚に、今では何の変哲もない青い紙パッケージのクッキーが並んでいます。僕はそれを買おうとして、結局手が伸びずに水だけを買って帰りました。 今日のような暑い日に、八階の病室から空の青さを眺めていると、あなたのことばかりが思い出されてきます。鉄腕アトム様。あなたの復活をテレビでリアルタイムで見なかったからでしょうか。今でも僕は、実はあなたがどこかで、テレビでも漫画でもないどこかでいるような気がするのです。復活もせず、かといって失われることもないままに、空の彼方か海の底かに横たわっているあなたの寝顔が見えるのです。僕はあなたのことを知らないけれど、知らないからこそ触れられるあなたがいるような気がして、いま、この手紙を必死に書いています。 外では戦争がつづいています。元気ですか僕は元気です。 ああ。それにしても、肝心のあなたは不在のままで、僕は何をこんなに書いているのでしょうね。今気づきました。ごめんなさい。もうそろそろ、筆を置くことにします。それでは。暑い日がつづきますが、お身体には十分気をつけて、お元気でお過ごしください。 草々 |
登録:
投稿 (Atom)