気がつくと、野坂は天板の上に置かれた水橋の手の甲を眺めていた。いや、実際のところ、その視線は手の甲までは届かず、彼女の目と水橋の手の甲との間の中空で、宛てもなく留まっている。昨晩、すすきのの居酒屋でも、彼女は同じような目をしていた。そう、水橋は思い出す。じゃがチーズとかサーモンのカルパッチョとかをさんざん突っつき、思い出せる限りの思い出話を語った後で、野坂は不意に斜め下の方を眺めて沈黙し、しばらくして、ふと、悲しそうな笑顔を浮かべた。 「どうしてなんだろ? おんなじ思い出を持つ人といると、こんなに安心してしまうのは」そこまで言って、また空っぽになる。しばらくしてまた笑い、斜め下を向いたままで、こう付け加えた。「何だか、この安心が、どうしようもなく切ないよ」 「わたしね、野坂夕香っていうの。小さい頃、コージくんと同じ小学校にいたんだけど、覚えてないよね?」 一人目の女で射精したと言うのに、三人目の口の中で、水橋の性器はまた精液を噴き出した。まるでそれが別の生き物であるかのような、制御できない痙攣が済んでから、女はゆっくりと口を性器から離し、吐き出されたばかりの精液をおしぼりの上に移し取った。そして、新しいおしぼりで、口を拭う。女が自分の名を名乗ったのは、その時だった。 「覚えてないよね、やっぱり。わたしだって、コージくんの顔見るまで忘れてたんだから」 「……いや、覚えてるよ。野坂さんだろ。たしか、二年生から五年生までの間、うちの学校に転校してきていたよね」 「そうそう! そうだった、そうだった」 「たしか、二人で天神さんのところを歩いている時にさ、伊賀に忍者ってもういないんだね、って残念そうに言った。……うん。よく、覚えてるよ」 「そうなんだあ! うれしいなあ」 こうやって話す間にも、カゴから取り出された新しいおしぼりで、野坂は水橋の性器を丁寧に拭っていた。そして、裸の下半身に両手で下着をはかせ、ズボンもはかせる。水橋は立ち上がって、ベルトを締め始めた。その時、野坂が水橋の頬に向けて、唇を近づけてきた。キスではなかった。耳元に彼女の息がかかり、かすかな声で、ケータイの電話番号がつぶやかれる。 「わたしのケータイだから。ここにいるうちに電話してね、絶対」そう言って、野坂はさっと水橋から離れた。穏やかな笑顔を浮かべながら、真正面から、水橋と向かい合う。「勘違いしないでよ。営業トークなんかじゃないからね」 そしてまた、満面の笑み。 歩いていた。天板の上には封筒だけが置かれ、キッチンで野坂が皿とコップを洗っている。歩いていた。カタカタという封筒の音を、水橋も野坂も昨晩からずっと聞いていた。しかし、お互い、そのことについてはもう何も言わなかった。歩いていた。朝のすすきのを通り過ぎる人々。藍染を着た男の、曲がった背中。平坦な照明と螺旋階段。泥炭地。赤レンガから見る緑と大通り。バスの中でしずかに前を向いている人々。一人目の女、二人目の女、三人目の女。それらすべてが、粉のように細かい雪になって舞い狂い、地面に積もってはまた風に巻き上げられる。歩いていた。歩いている。この地方一帯を、いくつもの支流に枝分かれしながら流れ、隅々まで潤していく大河、石狩。しかし、そこを歩いていく水橋の目には、川は見えなかった。ヘリコプターから撮られた写真のように、僕らは生きているわけではない。 右手には雪に覆われた堤防が遠ざかるように見え、ゆるくカーブを描いて左前方へと曲がっていった。封筒の上には、いくつもの赤いスタンプが押されてある。「あて所に尋ね/あたりません」。そこに広がる、終わることのない金色の薄野。あるいはすき間。地の果てを持つ北の大地は、そこより他にどこにも行けないことにより、かえって果てしなく広がっていくようだった。ここは、どこなのだ。 「……でも、やっぱりどうしようもないですね。住所と名前がわからないと、どうしようもないですね」 いま、この文章を打っているインターネット喫茶には、人が少ない。あちらこちらに散らばって、四人ほどの人間がマンガを読んでいるのだろうか。大体の席は空いていた。僕の隣では、薄いついたての向こうで、男が一人、アダルトサイトを眺めている。カウンターの男子店員はつまらなさそうに立ち尽くしたままだ。男が眺めるPCの上で、モロ出しの性器が、往復運動を繰り返している。男は無感動な表情で、その動画を何回も再生している。PCの時計は二十三時四十七分を表示しているが、この表示があっているのかどうか、僕にはわからない。 野坂が帰ってきた。コタツの向こう側に座り、「お待たせ」と軽い声で、言う。水橋は、「ごめん」と言って小さく笑った。「とうきび、おいしかった」 別ウィンドウで開いている、投稿小説のホームページでは、いま、チャットが盛んに行われている。小説を書いているというたくさんの人々が、今日は暑いとかなんとか言うことを、それぞれに色分けされサイズも変わる文字を使って、賑やかに会話している。別に、誰が誰でも変わらない、と水橋は思った。いや、僕が思ったのだ。僕は、あをの過程という名前でチャット室にログインして、一通りの挨拶をした後はずっと、書き込みもせずに窓を開いたままにしている。僕がどこにいて、書き込みをしない間に何をしているか、チャット室にいるほとんどの人は知ろうともしないだろう。 いや、そもそも、そこには本当に人がいるのだろうか。チャット室というこの場所には、結局のところ、誰もいないのではないだろうか。同じ表情をして同じことばかり喋ろうとする文字を、色とサイズでどうにか差異化しながら、チャットの話題は、いつしか海の話に移っていた。 人は、どこに行ってしまったのか。僕らは、一体、どこにいるのだろうか。僕らの平野に、それを縫って流れる川は、本当に、あるのだろうか。 気がつけば、封筒の音は、もう聞こえなくなっていた。歩いていた。歩いていた。歩いていた。歩いている。視界を遮るものは何もないはずなのに、たしかにさっきまで雪景色のどこかにぽつんと立っていた灯台が、今はない。それでも、水橋は歩きつづけていた。ただ、吹き荒れる風の音と自分の息の音だけが聞こえる。鉄色の空を、いやに白い雲が吹き飛ばされるように通り過ぎていった。 「これから、どうするの?」 野坂が訊いた。 「わからない」 水橋はそう答えた。そしてそれは、僕も同じだった。 |