2005年12月10日土曜日

【批評ギルド】 「林檎葬」 半知半能


●はじめに
 いまさらながら、私の批評に対するスタンスを少し書いておきたい。別のところでも言っているように、私はもともと小説を書いていた人間で、一時期(といっても、丸三年以上)詩の方に全精力を注いだことはあったものの、今はまた、小説に戻っている。
 そのような私にとって、詩を批評することは、かつてのように詩を書く者としての自分に引き付けた行為ではなくなっている。もっと簡単に言おうか。私が今詩を読む読み方は、非常に冷静で残酷だ。
 小説書きから見た場合、やはり、詩の形式性と言うのは意識せざるをえない。「え? なんでこんな所で改行する必要があるの?」「なんで句読点がないの?」「なんでわざわざこんな形で書いているの?」そのような問いが、読むたびに沸き起こる。そして、詩の内容も何もかも、そのような形式性とともにしかない、とまで思っている。そのため、私の批評は、いきおい技術論的になってくる。少なくとも、技術論という回路を通ってのものとなってくる。それはまた、小説しか書かず、詩のことは反吐が出るほど嫌悪していた私が詩を書けるようになるまでに通った回路でもあり、詩はやはり、何がしか技術的なものと切っても切れないものだと思っている。
 そのような私の批評が嫌ならば、批評ギルド依頼の際に、「あをの過程はご勘弁いただきたい」とでも書いてくれればいい。私と関わり、私の意見を聞いた者の多くが「詩を書きづらくなった」と言う。それは、私の書き方、考え方が、まさにその書きづらさの只中で見出されてきたものであるからに他ならないのであって、詩を自由に歌える人は、私の話を真剣に聞いても却って重石になるだけではないだろうか。私との関わりもまた自らの土壌にして本当に面白くなってくれているのは、ふるる、海賊、最果タヒなどの数えるほどの者たちしかいない、と思っている(今村知晃は、私が何を言おうが動かされないような凄まじい軸を持っていて、だからこそ、私の毒をかなり浴びた後でも抜群に面白くあり続けている)。
 結局のところ、本当に私の重さを背負い込めるものだけが(あるいは、それをかるーく受け流せるものだけが)、私の批評を受け取ってくれればいいのだろう。私は詩の天才ではなく、詩の邪道であり、小説の悪鬼であって、ふつーの詩人たちにとっては、所詮どす黒い敵でしかない。ただ、私はここで、詩と小説の両方に深く入り込んだという珍しい経歴だけを存在価値として、ただ考えることの手抜きの別名でしかない“ジャンル”も自分の枠にほれ込んでいるばかりの“文学”も形ばかり真似して自意識を守っているだけの“前衛”もブチ壊してしまうような、破壊的な批評・小説(時には詩)を書きつづけていくだけである。

●本文
 半知半能「林檎葬」http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=56777

 不穏さを湛えた詩だ。それも、最後までその不穏さを守りきっている。言葉にはこれと言って無駄もなく、カットするような改行の仕方が、切り取られたような各シーンと対応していて、歯切れがいい。

>(中央から濡れていく
>     ひりひりと)

 この出だしは、どうしようもなく性愛を思わせる。「中央」という言葉についてはこの詩の後の部分でも触れられる。食と、かじることの痛みにも似た確かさとの相似性、そして、それらと対照的に浮き彫りになる喪失の感覚とがこの詩のモチーフになると思うのだが、その中央に覆い被せるようにして性愛を読み込むと、よりこの詩が生き生きと(あるいはひりひりと)してくるように思える(このことについては、また後で触れる)。

>赤い林檎を剥いて
>がぶりと噛み付き一口目
>昨日の出来事
>不思議な果実の甘さ が
>歯に沁みる

 この連の冒頭二行は、肉感的な描写が利いている部分だと思う。特に、「がぶりと噛み付き一口目」という部分は、最初の擬音語と最後の体言止めとで七五調を始め、綴じているわけであり、インパクトも体感度も抜群である。
 その後で「昨日の出来事」と突然挿入されるのも素晴らしい。改行が映画のカットバックのように見事に機能している。ただ、「不思議な果実」というのは、何がどう不思議なのか、最後まで明らかにされないので私の中に不満が残った。むろん、その不思議さについてこの詩は書いているのだ、と言われればその通りだろうが、それならば、この詩の展開は明らかに途中から道を踏み外している。

>歯に沁みる

から

>涙が
>(ひりひりと)

へのつながり方は、「歯に沁みる(心に沁みる)→だから涙が出てくる→心と歯と頬とが、ひりひりする」みたいなつながりが読めすぎて、いちいち改行してしかも連まで変えて思わせぶりに書かなくてもいいじゃん、という気になってしまう。
 たしかに、この思わせぶりさもこの詩の緊張度を高めるのに一役買っているだろうし、「涙が」の部分にはそれほど違和感を感じなかった。しかし、ここで(ひりひりと)をリフレインするのは、ちょっとあざと過ぎるのではないだろうか。わざわざここまでやるほどに重い位置づけが、この部分にあるのだろうか。心が痛んでいるということなどなら、別に他の部分でも(あるいは、このようなリフレインを使わなくても)書ける。それでもなおリフレインするなら、それだけこの(ひりひりと)を大事にしてやるべきだ。しかし、この後でこのリフレインは使われていない。作者が途中から、その軸を「がぶり」に鞍替えしている。そのことが、個人的には、ちょっと中途半端に思えた。

>二口目
>には 咽喉が焼ける
>静かに出来上がった誰も居ない空間が
>電撃ヲ走ラセル
>一瞬だけ

 改行の仕方と、行ごとの展開の仕方と言うか、切り返しの仕方と言うか、リズムの付け方と言うか、魅せ方と言うか、――とにかくそんなものとがあっていて、読んでいて心地いい。四コマ漫画とかあるが、あれはコマとコマとの間でどのような展開を作るか、どこまでコマとコマとの間を離すか、そしてその距離を各コマ間でいかに調節して山を作るか、などの判断を必要とする。この詩は、全体的にそのようなリズム感に優れていて、この連については、特にそう思う。
 「一口目」の時は体言止であるため、当然「二口目」でも読者はそこで一旦文章が切れるように思う。それを「には」ではぐらかして、その後独立したワンフレーズとして出される「喉が焼ける」の強烈さ。三行目の長ったらしさはそこに書かれているもの(「静かに出来上がった誰もいない空間」)を正確に形象化し、それが「電撃ヲ走ラセル」で一瞬にして引き裂かれる。その、切り返しの鋭さと速さとが心地いい。「一瞬だけ」というのは、その切り返し(あるいは「電撃」)の速さを受けるとともに、そのいささか大仰な言い方をやわらかく(そしてちいさく)閉じ込める。実に素晴らしいバランス感覚だと思う。
 
>三口目を
>飛ばして四口目 引火

 飛ばすなよ、とも思うが、やはり、ここではそのやり口がきちんとスピード感を生んでいる。「飛ばして四口目 引火」という部分を一行に閉じ込めるのは、これ以上ないほどのいい判断であったであろう。実際、読んでて、ここから身体が一斉に熱くなってくるように感じる。

>追い駆けな かった
>26時
>電車の通る音 の様な  物
>伝道熱の逃げ残りが空気に浮かんでは赤くなり

 改行、そして分かち書きが切り取る事物の、確かな手触り。そして、長文が孕む時間の中で熟していく感覚(ハイデッガーが好きな人なら、ここで時熟と言う言葉を思い出すだろうか。ZONEが好きな人なら、実夕という言葉の持つ広がりについて思い至るかもしれない)。この手の手法の見本のようだと思う。
 「伝道熱」という言葉は「伝導熱」の誤りだろうか。むろん、「伝道」とすることで、「林檎」の持つ一つのイメージにもかなうだろう。というか、これをキリスト教的なシンボルと読むことで、「神を目指しすぎた男がそれゆえに知と肉欲の罪にはまり、しかもその対象たる林檎も食うことで失ってしまった(その芯はついに食しきれないまま)」という読みも可能になろう。そう考え出すと、「三角」という言葉や「三口目」を飛ばすことにも相当な意味合いが出てきそうなのであるが、やはりこれも深読みであろう。なぜなら、この手の路線が、結局、最後の連につながってこないからである。逆に言えば、この手の読みを受けきれるだけのものが、最後の連で提示されていないからである。

>熟れて堕ちる前に甘く香る

 前の行で空き枡無しの長文を使ったのだから、その次で同じような手法を使ってしまうと、この文も一緒に流して読まれてしまう危険があると思う。ってか、正直、この一行で言いたいこと、というか強調したい部分、あるいは与えたい効果はなんなのだろう? いや、もっと適切にこう言おうか。この一行を書いた時、作者はどこが気持ちよかったのだろうか、と。言葉として、作者に驚きにも似た快感(表現した、という満足ではなく)を与えないような言葉は、読者にとってもむろんつまらないものである。

>がぶり がぶり が ぶ ri( )

 語の分割、ローマ字表記、さらには、たぶん虚無や沈黙を表すための丸括弧。自分としてもやったことだから、こういうやり口にはちょっと厳しくなってしまう。いち読者として読んでたら、前の行とこことで鼻について読むのを止めていただろう。括弧についても、後で出てくる「五口目には虚空を噛む」と近すぎて、読んでいて何と言うか、予定調和のようなつまらなさをうけるし、ましてやriについては、「が」「ぶ」とわけて、それでも分けらんなくなったからとりあえずローマ字にしてみました、という風に受け取れてしまう(いや、それは私が悪意を持って読みすぎなだけか)。とりあえず、分割したりローマ字化したり、そういう変わったことをする場合には、それに見合っただけの表現の強さというか、そうすることでたしかに表れる何がしかの効果が要るのだが(それがないと、ただ巧く見せようとして意匠だけを借りてきたように思えてしまう)、ここにはそれが無いように見えるのだ。

>五口目に虚空を噛む
>戸 残った靴下 唇 
>(芯は捨てないでね) 
>果肉を嚥下して胸の中で六口目
>唾液が酸味を惜しんで泣いている

 ここも、この作者の、優れた叙景力、叙情力を表す部分だろう。「五口目には虚空を噛む」という、矛盾していると言えば矛盾していると言える表現が持つ、無力感とかはぐらかされたような感覚。その後で見えてくる、個々の事物の確かさ。無力感と事物が確かに見えることとの間にあるつながりについては、たぶん、多くのものが実感することであろう。
 「唇」というのは、失った女の口づけのようでもあり、虚空を噛んだ自分の唇のようでもあり、さらには、蝶番のようにして、今はいない女の言葉にもつながってくる。

>(芯は捨てないでね)

 不在の者の言葉。そこで語られる「芯」は、話者にとっては二重に不在である。なぜならば、それを語っている女=林檎は既にいないわけであり、さらにその芯=中央となる部分は、「果肉」と違って食うことができない部分だからだ(いや、だからこそ、最終的に話者はその林檎を失うことになったのか)。その、二重に不在の部分である芯=中央が、失われたものの中で手に入れることのなかったものとして、不在でありながら(いや、だからこそ)恐ろしい存在感を持って、声とともに響いた気がした。
 「中央から濡れていく」というのは、最初の行に出てきた言葉だ。そして、ここで出てくる、手に入れることのできない「芯」。最初に濡れ、最後まで犯されないこの場所こそが、人間の生きていることの、核ともなるものではないだろうか。というか、我々はそのような中央を持ちつつ、生きているのではないだろうか。「果肉」が人の人としての部分、奪われ犯される肉体を表しているなら、この「芯」は、不可侵の部分であり、おそらく、神にもつながってくるものなのだろう。しかし、その「芯」は我々人間にとって、二重に不在なのだ。
 林檎と女とを重ね合わせることで、この詩は、普通は書くことのできないはずのものであるものを「芯」という形で見出している。あるいは、その重ね合わせが奇妙なねじれを生むことによって(むろん、女性が濡れ始める「中央」としての女性器は、「芯」ではなくある種の空洞なのだ)、「芯」というものがただの比喩を越えて、倍音のように不在を響かせ、不在であるはずの「中央」がたしかな芯となり、芯となりながらそこから濡れ始める。重ね合わせがきれいにいった場合、比喩はAをA'に移し、BをB'に移す作業の集積のようになってしまうのだが、この詩では、Aが7に至り3がGとなるような、素晴らしい効果を生んでいる。
 ただ、ここで小説家らしいとんでもないいちゃもんをつけるとすると、やはり最後の行、「「唾液が酸味を惜しんで泣いている」って、要するにつばが出てくるってことでしょ? だから?」ということだろうか。「酸味」と言う部分に、女との生活が決して甘い物ではなかったものを比喩しようとしていたり、あるいは林檎を人肉食と結び付けようとしていたり(人肉って、酸っぱいらしいですね)、さらには「泣いている」自分の姿をどうしても書いておきたかったり、という風な作者の思いを読み取ることはできるのだが、でも、そうやって作者の都合だけで比喩的に言い換えたような表現こそが、詩で一番面白くないものだと私は思っている。
 だって、それって「で、それで?」で終わってしまうやん。「このバイオリンの調べは、葉が風に揺れているのを表したものです」って言われても、聴く人にとってはそのバイオリンの調べがいいものかどうか、それが自分に染み入ってきたりあるいは自分を不穏にしたりして、感情を動かしてくれることが大事なわけで、表現が何かの置き換えに終止している場合、もっと言えば「置き換える」という作業の内部に留まっている場合、それは読者にぶち当たらないただのお手玉、要するに作者の自慰にしか過ぎないのではないだろうか。

>短い回顧を
>真空に閉じ込めて
>三角コォナーに放る (gaburi)

 ここの(gaburi)には、やられた。先ほど文句を言った丸括弧の部分だが、そこでも書いた空白の中に、あの音が入って戻ってきた、と感じた。鳴らないはずの音が、存在しないものの中で鳴っている。しかも、食うという行為からは離れて、捨てる際に遠く(言うまでもなく、先ほどまでの平仮名表記から、ここではローマ字表記に変わっていて、それが先ほどまでの音と帰ってきた音との差異というか、ある種の距離を感じさせる)、鳴る。二重の不在である「芯」の、唐突な(そして不在のままの)回帰。
 丸括弧で沈黙を表すのは凡庸だが、その中でさらに音を鳴らした、というか音を回帰させたのには、正直脱帽するしかない。なぜ? この音が、恐ろしいものだからだ。私の近く、というか私から台所の三角コーナーまでの距離くらいの遠くで、その音が確かに鳴ったからだ。それと同時に、私はたぶん、そこに目には見えぬ誰かがいるような(そしてその「芯」が明確な音として聞こえたような)気がしたからだ。作品中の登場人物と言うある種不在(だって、フィクションの中の登場人物は、実際にこの世界にはいないものである。少なくとも、我我はそう思っている)から、現実のこちらの世界へと、これまで存在したこともない体感が“帰って”きたからだ(そしてそれこそが、宗教や芸術の一つの方向性であろう(というのは、むろん余談だが))。

>簡単な葬儀
>謝らなくても良かったのに
>寄りかかった白い壁に
>林檎の赤い爪

 ここも、叙景力・叙情力に優れた部分。けれど、ここまで来ると、もうそろそろその先を見せてほしい、とも思う。この詩は、恋人を失った男の心情を、印象的なシーンを使って印象的に描き出すだけで終わっていいのだろうか。そのシーンや心情の奥にあるもの(あるいは、ずっと手前にあるもの)について、そろそろ真正面から見つめ直し、考えるべきなのではないだろうか。

 この後の散乱している部分については、まあ、それなりに面白いと思うし、「赤い/君が/行ってしまった」というつながり方は、かなりドキッとした。けれど、やっぱりどこかもどっかしいというか、こういう形にすることで誤魔化されている部分があるように感じて、――もっと詳しくいうと、これだけの行数を使って書いてあるものと、これまでの部分を読んできて読者としての私の中で生まれてきている考えや期待なんかとが、どうもつりあいを取れていないようで、いまいちピンと来ないと言うか、作者としてもここまで書いてきて、自分の中で膨らんできたもの、見えてきたものなどがあるはずなのに、それに挑むことをせずこのようなそれなりの手法で薄めた詩行だけでやり過ごされているように感じて、それがちょっと(書くと言う点で、考えると言う点で)手ぇ抜かれているように思えて苛ついた。

>放った手には切ない香りが染み付いて
>消えてしまった何かを
>未だに見つけようとしている

 この最後は、なんか、それこそ未消化な表現であると思った。結局、この三行、この詩のこれまでの道程がなくても書ける気がするのだ。詩は移動、という言い方をしたのはたしか和合亮一だったが、やっぱり、書いていくと言うことは行から行へ、連から連への旅なのだから、それをへて何が見えるか、というのが最後には大事ではないか、と小説家の私は勝手に思っている(いや、あえてそこで移動ではなく反復を見せる、というのも当然ありうべき文学的姿勢なのであるが、けれど、そこまでの意識も、ここからは感じない)。そうしないと、これまでの部分が無駄になってしまうし、読者としても、「ああ、結局、それだけのことだったのね」で終わってしまう。もっと、どこかに辿り着いてほしい、そこで何かを見てほしい(それと同時に我々に見せてほしい)。
 これは読者のわがままかもしれない。しかし、このわがままは同時に、書き手の、そして詩の中で脈打っているわがままでもあろう。そうでなければ、わざわざなぜ、書くのか。

 そうそう。後で書く、って書いた「中央」と性愛について。
 余談なので書かなくてもいいのだが、あえて簡単に書いておくと、性欲は食欲ともつながるものである。しかし、性行為はどうしたって相手との完全かつ永遠な同一をもたらしたりはしない。男性器は、女性の完全な中央には同化しないし、ましてや女性器は男性器によって自らを完全に埋められ一つになることはないのだ。中央の不可侵。それは個人を守るものであるとともに、個人を孤独に追放するものでもある。このことは食とも重なる。なぜならば、我々は果肉を食しても、その芯を食すことはできないからだ。そして、これらの重なり合う場所に、ひりひりとする我々の悲惨が現れている。逆に言えば、そのような悲惨を通して、我々はひりひりする自らの存在を、世界から切り離されてあることの確かさと悲しさとを感じるのであろう。(しかし、逆説的にだが、我々はその悲惨の中央にある空洞を通して、切り離される前の世界につながっているかも知れず。「(芯は捨てないでね)」という言葉が不意に響く場面、あるいは沈黙の中への唐突な「(gaburi)」の回帰などから、そういうことを考えた)
 言うまでもなく、林檎は知恵の実であると同時に、アダムとイーヴに愛ではなく肉欲をもたらした実でもある。そして、その実を食べたことによって、二人は楽園を追放され、肉体を持った人間として、欲と悦楽と喪失と痛みとに晒されるようになった。彼らが食うことのなかったであろう、赤い実の芯は、今も我々の肉の中の空洞として、ひりひりと、そこから濡れ始めている。

●終わりに
 なんか、いつも以上に辛らつかつ長々しい批評になったことを、お詫びします。ここまで読んでいただいた皆様には、心からの感謝を。でも、やはり、話半分で聞いてくれるのが、私の批評に対する最も安全な向き合い方であるでしょう。それは、作者である半知半能さんにとっても、なんら変わりのないことだと思います。
 この分量と気合とで批評を書くことは、正直、かなりしんどいことであります。批評ギルドに名前は載せてありますが、基本的には、月一くらいの活動になることをご了承下さい。ただ、個人的にご指名やご依頼を受けた場合は、極力それに応えたいなと思います。もし、そんな奇特な方がおられれば、の話ですが。