批評の一文目は、いつも困ります。という文章で無理矢理一文目をクリアーして、なんとか批評を始めていきたいのですが。 やまなか さおり 「朝寂」 http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=46533 なんというか、非常に端正な詩だと思う。何が?と聞かれると、詩の姿が、と答えるほかないのだが、それでは意味不明だろうから、もう少し書いてみると。 この詩の中で、登場人物は呼吸しているだけだ。そして、その呼吸を確かめている。けれど、そこには「わたしが」呼吸している、その「わたしの呼吸」を「わたしが」確かめている、という風な「わたし」の出しゃばりは感じられない。話者も、自分の考えをガンガンがなりたてたりしない。伝えたいことは、短い言葉として、というか、それら言葉が描くこの詩のしずかな立ち姿として、我々の前に現れる。それが、心地よい。 仄暗い朝の 静けさに身を委ね ゆっくり 呼吸を確かめる 詩の出だしは、もどかしいほどにつかみ所がない。どの一行をとっても、これと言った決め手に欠ける感じで、かと言って状況説明過ぎてうざったいこともなくて、私はこの詩に入り込むことも拒否することもできず、どうしよう、と困ってしまった。しかし、 いち にぃ さん しぃ いち にぃ さん しぃ という所では、素直に感動した。「本当に、ただ数えているだけやん!」と。 呼吸というものは、それが大切であるくせに、普段意識されることが全然なくって、けれどそのリズムにはきっと詩や生命の秘訣なども込められているのだろう、と勝手に思っている。詩の一行は呼吸の長さによって決まる、という説もあってそれは個人的にあまり好きではないのだけれど、とにかく詩の形と言うものが、呼吸なり生命なりを文字通り「形」にしている、と考えることもできるのだ。 その呼吸(リズム)を形にすることに特化した例として、スペースだけで詩を作る例(ドラッグアンドドロップすると形が浮き出てくる)とか、あるいはある種の純粋詩も挙げられるのだが(たぶん)、そうやって対象に真っ直ぐに挑むことが却って対象を見えにくくしてしまうのではないか、という懸念もあるのであって、それら呼吸やリズムは生きている我々とともにあり、意識されずに繰り返されるからこそ呼吸やリズムとして続いていく、という側面もあるのであって、意識してしまったらそれはもはや、有限の我々の意識の中に閉じ込められた檻の中の表象となってしまう(純粋詩はその表象自体を破壊するほど徹底しているから、まだいろいろやってください、と思えるのだが)。 ところが、この詩では、呼吸を一つの形にしながら、それを「ただ数える」という行為に結び付けていることによって、呼吸を呼吸のままでとっておくのだ。いや、こう言うべきだろうか。この詩では、ただ数えることの中に呼吸が現れている、と。 話者は、その呼吸についてうるさくは言わない(少なくとも、ある地点までは)。ただ、それを形にする。詩の姿として示す。それだけだ。その書く態度とも言えるものが潔く、凛とした空気となって詩を包んでいる、そのように感じた(むろんその空気は、朝の空気でもあるのだ)。呼吸だリズムだと自分で騒ぎ立てている詩は、いわば人工呼吸の詩であって、この詩の呼吸は「自発呼吸」として(自発呼吸のまま)、詩の文字の中に掬い取られる。 ●二、「生きている」について さて、「一」では「自発呼吸」について書いてきたわけだが、というか、「一」という区切りを入れ忘れていたので、そこは読者さんが思い思いの場所に入れてくれたらいいのだが、ここでは、「生きている」という部分について述べる。 この詩の見た目の特徴としては、「一」で書いた、数えている所の字下げによる往還がまず挙げられるのだが、それともう一つ、次の部分が注目されよう。 規則正しい 自発呼吸 (すぅ と) 昨日から 羽化した朝 (はぁ を) あぁ 今日も 生きている (繰り返して) 生きている 詩の基本的な流れは字下げなしの部分(各連一、二行目)が語っているのだが、その裏で、呼吸が行われている。これも、生きている我々の裏でつづく呼吸の側面をうまく形にしている、ということもできるだろうが、正直な所、こういう複線的な書き方は手法としては凡庸ですらある。 しかし、この詩では、その凡庸な手法が大きな効果を生んでいる。なぜか、といえば、この詩では「繰り返し」がきちんと織り込まれているからだ。そして、最後にそれが手のひらのように合わせられるからだ。 あぁ 今日も 生きている という書き方は、いささかナイーヴすぎるきらいがある。ここには感傷があって、もっといえば感傷を抱いている話者だけがあって、肝心の「生きている」がない、そう思う。「生きている」というのは、さっき呼吸について書いたように、もっと(我々に対して)そっけないものであると思うのだ。というか、この詩は実際、呼吸をただ数えることを通して、そのようにして生を掬い取ったではないか。その同じ詩が、ここでこのような言い方をすることに対しては、私は書き手の無用心ささえを感じる。 ところが、この感傷を、裏でつづいていた呼吸が、越えていく。感傷は、感傷に浸っている話者に終始することが多く、そこが終着点になってしまいがちなのだが、その終着点を、この詩の伏流は、実にそっけなく越えていくのだ (繰り返して) この一語に、どれほど戦慄しただろう。「生きている」という、どう考えてもそこで終わってしまいそうな断言を超えて、繰り返されていくもの。ここに、私は本当に「生きている」何かを感じたのであり、感傷に浸る話者という小さな領域を覆す、恐ろしくも貴いものを見たのである。 そして、その上で繰り返される言葉、 生きている これは、主流としてつづいて来た方の言葉が行き着いた「生きている」と、括弧つきで伏流としてつづいてきた呼吸とが合わさって出てきた、いわば陰と陽が抱き合った形での本当の「生きている」であって、それは一回目の「生きている」を越えたところで言葉になった(誰がこの言葉を語ったのか?)生なのだろう。 ●三、手を合わせる 「二」で書いたような、陰と陽が合わさったものとしての生を考える時、私はどうも、それが「手を合わせる」とつながるような気がしてならない。手の甲は我々の外皮、あるいは日の当たる陽の部分であり、手のひらは日の当たらない内臓のような印象が、個人的にあるのだ(実際はこの逆で、日本では手のひらは陽、手の甲は陰とされている。だから、葬式で無闇に手のひらを見せることは無礼に当たるそうだ)。 「手を合わせる」のところで作者が「湿り気」という言葉を選んだことは、非常にいい選択だったと思う。これは、「羽化」ともむすびつき、また、まだほの暗い中に浮かぶ朝露などもイメージさせる。羽化は外敵に見つかりにくい夜に行われ、羽化したばかりの成虫の羽は濡れている。そして、彼らの外皮は湿っていてやわらかく、白い。あまりにも無防備な命。夜の闇の中に震えるように浮かぶその、白。 我々は、夜、闇に守られながら(責められながら)自らを解体し(解体され)、いわば自発呼吸だけになって生きる。そして、朝になり、朝食を摂ることで、「わたし」を「わたし」として成り立たせ、自分の一日を生きていく。この詩の立ち位置は、まさにその間、羽化した成虫のしずかな白さとともにあるのであり、その白さや湿り気がやがて固い外皮に閉じられると言う転換点が、ちょうど、「手を合わせる」――湿った陰の部分を陽の部分で挟み込み、内に閉じる――という行為に象徴的に表れているのではないだろうか。 ●四、いくつか気になった点について(箇条書き) ・最初の出だしの中途半端さは、それがいかに朝の雰囲気に合っていたとしても、やはり考え物のような気がする。特に、ここで「身を委ねて」という表現を使ってしまっては、そこに「わたし」の姿が出てくる気がして、うまくないな、などと思ってしまう。それよりもむしろ、手を合わせると同時に手が現れてそれと同時に初めて身体が現れるようにしたら、面白いんじゃないだろうか(というのは、完全に個人的な好みだが)。呼吸だけがあって、手を合わせることでそれを綴じ込んで(それを綴じ込むことによって手を合わせるという行為が実現されて?)、「わたし」の身体が形になる、という方が、流れ的にすっきりすると思うのだ。おせっかいで申し訳ない。 ・「生きている」の次の連、「一朝 一朝/繰り返される喜びを」ってところは、いきなり話者がまとめの姿勢に入っていて、これまでの呼吸している地点からは全然離れてしまっています。一つの朝の中で呼吸をたしかめているところから、もっと大きなところに向かおうとしたのでしょうけど、そのような普遍化の歩みはもっと慎重であるべきだと思います。下手な勘繰りを入れると、作者としては「生きている」で一息ついてしまって、そこからどうしたらいいか考えた時に、ここにあるような普遍的なフレーズが浮かんだのでしょうけれど(たぶん)、こういういかにも詩的な普遍化は、これまでの地に足着いた展開(本当に感じて、考えて書かれた生きた言葉)に対して、重大な裏切りをすることにもなる、と個人的に思います。まあ、これも個人的な好みの問題ですが、一応、参考までに述べさせてもらいます。 ・「今日が始まる」というのは、あまりにも簡単すぎやしないだろうか。そんなにすぐに始まるのか、本当に? 何か、「疲れていても、今日は始まる」というア○ナミンVのCMを思い出した。あまりにも割り切りすぎと言うか、今日というものへ強引に頭を切り替えられたようで、後味が悪かった。や、この詩においては、やっぱり今日は始まらなければならないんだろうけど、けれど、この一行はあんまりじゃないかな、と思うのだ。 ●五、蛇足 タイトル、「ちょうせき」と読むのでしょうね。ふつう「朝夕」と書く言葉であり、「朝と夕方」という意味で考えると、正直、単なる文字遊びにしかすぎない、と思います。つまり、あんまりもとの言葉の意味が生きてこない、という。 ただ、「朝夕」には朝から晩まで、いつも、という意味もあって、そうなってくると、俄然詩のテーマとも響いてくるわけで。いや、だからなんだって話なんだけど、いいタイトルだな、と思ってしまったのです。 ●六、蛇足の蛇足 これって批評なのかね? ごめんなさいね、やまなかさおりさん。 |