足音が聞こえる。洗面所の方から、ひたひたと戻ってくる。ずいぶん長く、鏡の前にいたらしい。蛇口がひねられ、水が流れる音、また蛇口がひねられ、水が止まる音。しずかに動く手の気配や、軽く叩かれる顔の肌のみずみずしさまでが、聞こえていた。そして今、それらすべての音は止んで、足音だけがこちらに戻ってくる。 野坂が部屋に帰ってきたのは、朝六時過ぎになってからだった。フローリングの上に敷かれた布団で眠りながら、水橋はそのことに気づいていた。野坂が鍵を外し、ドアを開け、入ってきてドアを閉め、靴を脱ぎながら鍵をかける、そして椅子のところまで歩いてきて腰をかけ、しばらくして、ため息を何回かつく。長らく座った後、ゆっくりと立ち上がって風呂場の方へと歩いていく。その、切れ目なく過ぎていく時間に合わせて、水橋の意識も次第に醒めていた。 洗面所から戻ってきた野坂は、水橋の背中近くで立ち止まった。水橋は目を瞑ったまま、自分が野坂に見られているのではないか、と感じた。それは最初、息が詰まるような感覚だったが、いつしか安心に変わり、部屋の中は朝の空気に満ちていて、水橋の背中側にある部屋の方から野坂の寝息が聞こえてきた。水橋は音を立てないように立ち上がった。振り返るとベッドの上で、すっぴんの野坂がかすかに口を開けて眠りこけている。 部屋を出て、野坂がくれた合鍵で鍵を閉めた。そして、地下鉄の駅へと歩いていく。北海道に来てから、四日目の朝だった。一日目は新千歳空港から札幌まで来て、すすきののピンサロで野坂と会った。二日目は北海道庁旧本庁舎や時計台、それに大通公園などを周り、夜は野坂の部屋に泊まった。そして、昨日は、何をしたのだろうか。野坂は昼過ぎから部屋を空けた。それからずっと、部屋の中で寝たり起きたり、時には外をうろついてみたりしただけで、特に成すこともなく一日が過ぎた。その何もない一日の長さあるいは短さを思い、水橋は悲しくなった。薄暗くもすっきりとした地下鉄の階段を降りながら、彼は昨日のような一日が、昨日を越えて今日へ、今日を越えて明日へと、区切られることもなくつづいているような気がしていた。 北海道に着いたばかりの頃は、水橋にも強い思いがあった。カタカタ鳴りつづける封筒。それをどうにかしなければ、という焦りにも似た感情があった。とはいえ、どうすればいいのか、宛ては最初からなかった。ただ、北海道を旅するうちに、何かが見えてくるに違いない、と漠然と予感していた。 なぜ、北海道なのか。確たる理由はない。あえて挙げれば、封筒に書かれている最初の住所が北海道石狩市だったことだろうか。しかし、そこに封筒を渡すべき「北野菜穂」がいるとは、水橋も思ってはいなかった。もしかしたら、自分の中でつづく歪んだ記憶、果てもなく伸びていく石狩の雪道に、何らかの答えを見つけたかったのかもしれない。とにかく、北海道に行けば何かがある、何かがわかるはずだ。鳴りつづける封筒の音に急かされながら、そう、水橋は考えていた。 しかし、封筒の音は止んでしまった。最初は、また聞こえなくなっただけだろう、と思った。封筒の音は鳴っていて、ただ、自分がそれを聞けていないだけだろう。水橋はそう簡単に思っていた。しかし、いつまでたっても封筒はしずかだった。試しに振ってみても、カタリとも言わない。手に持ったそれはあまりに軽く、何も中に入っていないみたいだ。水橋はいつしか、これまで聞こえていた音の方が間違いで、本当は最初から、封筒はしずかなままだったんじゃないか、と疑い始めていた。 北十八条の駅に、電車が到着した。タイヤで走る地下鉄の、独特の唸り声。銀色の車体。白い内壁。鮮やかな橙色のロングシート。自動ドアが開いて、何人もの乗客とともに、水橋も電車の中に踏み込んでいく。 札幌市営地下鉄は、輪切りにした時に断面が六角形になるような、特徴のある形をしていた。そのため、車両の中で立っていると、どこか真っ直ぐに立っていられなくなってきて、水橋はピカピカ光る手すりにしっかりつかまった。向こう側へと引っ込んでいく、平らな窓の向こうは真っ暗だ。乗客のほとんどは、橙色のシートにしずかに腰を落ち着けている。タイヤのゴムの立てる音が、小さく、切れ目なく、つづく。 なぜ僕はここにいるのか。封筒の音が失われた今、水橋は自分が、北海道にいるための根拠をなくしてしまったことを知った。彼の存在は、ただ空気を包んでいるだけの封筒のように軽く、無意味だった。 全く無根拠にここにいる以上、いかなる理由を以ってしても、ここを離れることは不可能なのだ。無根拠に適う根拠はない。根拠があれば、それに対抗する根拠を見出せばいいだけの話だし、目的があれば、それを果たせばその場所は終わる。しかし、自分が無根拠にここに存在する場合、その存在はどうしたって拭い去ることはできず、自分が今いるこの場所は、そこから先にいかなる場所も持たない、行く宛てのない無限の広野となってしまう。地の果てを持つ大地。地の果てがあるがゆえに、余計に途方もなく広がっていく北海道の空と土。この年の七月、アイヌの言葉で地の果てを意味する「知床」が、日本で三つ目の世界自然遺産に登録された。 野坂は、思い出話を出し尽くした後、水橋に対して急に冷たくなった。それまでのように過去とともに水橋を見るのではなく、ただ、現在の水橋を見るようになったからかもしれない。自分の部屋に彼がいることが、邪魔とは言わないまでも、どこかしっくり来ないようだった。絶えず加減悪そうに野坂はうろついた。 「まだ、当分道内にいるの?」 水橋がうなづくと、野坂は喜ぶことも嫌がることもなく、「じゃあ」と言った。 「じゃあ、二十八日、空けといてくれる? 一緒に見に行きたいものがあるんだ」 水橋はまたうなづいた。野坂は薄手のキャミソールに無表情を纏い込んで、昼過ぎには部屋を出て行った。 とりあえず空港へ。水橋は、そう考えていた。地下鉄でさっぽろに出て、快速エアポートで新千歳空港に向かう。そこからもう一度旅をやり直せば、きっと何かがみつかるはずだ。この旅を通じてポロポロ落としてきたものを、水橋はひとつひとつ、自分の手に拾い集めて行きたかった。 |