〇、はじめに、の前に この文章は、「千年王国広場」~「BIRDMAN」で僕が連載していたコラム、「寄せる波、世界へ、(雑記編)」の最終回として、書いたものである。今回この文章を、できるなら「BIRDMAN」で公開されてからこちらに投稿したかった。 しかし、僕のまったくの個人的事情から、今日、「BIRDMAN」での公開より先に、こちらに寄せさせていただくことにする。関係者の方には、本当に申し訳なく思っている。 一、はじめに 僕にはいつも、詩に限らず僕のすべてを基礎づけてくれる、何かがあった。何について考えても、結局はそこに帰着する。僕の考えや作品は、その何かを支えの木のようにして、つるを伸ばしていく。何かとは、そういうものだった。極端に言ってしまえば、僕にとって生きるということは、その何かを参照し、証明し、解釈し直していくことだったのだ。 今の僕にとって、それがZONEであることは言うまでもない。しかし、僕がずっと以前からそうであったわけでは勿論ない。では、ZONE以前に僕を支えていた軸は、何であったか、というと、それが映画『害虫』なのである。 二、「構図」 『害虫』を観る前に、僕は同じく塩田明彦監督の作品である『月光の囁き』を観て、激しい衝撃を受けていた。なぜかと言えば、その映画が極めて読み難かったからである。普通、映画は感情表現や独白や、説明的な場面などがあって、各シーン各演技の意味が、割合わかりやすく伝えてもらえる。それが、映画を観ることを、ちょうど漫画や小説(心情が文字になって書き付けられ、その展開がわかりやすく示されているもの。しかし、漫画や小説のすべてがすべてそうであるとは、僕はもちろん思ってはいない)を読んでいくような行為に変えてくれるのだ。 しかし、この映画では違っていた。感情表現は勿論あるのだが、それが複雑で、映画全体の中でどういう役割を担っているのか、それが一向に噛み砕けないのである。しかも、前後のシーンでその感情表現が一義的に意味づけられる、ということが少ない。そのため僕らは、何ともいえない不安感に襲われることになる。この表情の真意は何か。この表情を、どう受け取ればいいのか。それがわからないまま、僕らは一個の不可解な個人と向き合うことになるのだ。この時登場人物は、凄い深さを内に秘めつつ、しかし僕らがそれを決して理解することができないという、たしかな輪郭・物質感を持った身体として、映画の中に浮かび上がるのである。 そしてそれは各シーン間の関係にも及ぶのだ。どういうわけで、このシーンの後にこのシーンが置かれているのか、ということが、一向にわからない。そして僕らが感じるのは、各シーンのゴリゴリするような物質感と、それらがぶつかって放つ、熱いエネルギー。それが、僕には何とも心地よかった。 当時の僕にとって、『害虫』はこれをさらに進めた映画のように思えた。そこでは、背景の事物、壁や床なんかも、すべてが冷たい物質のように描かれていた。画面を区切っていく、様々な直線の恐ろしい存在感、静けさ。その中を動く身体の、世界からの隔離。映画の中で、世界は垂直に切り立っていて、輪郭を持つ身体は、それに孤独に対峙するより他は無かった。感情に満たされ、感情で世界を犯そうとする我々の目ではなく、純粋に機械の目で見たら、世界はこう見えるのかもしれない。そう、思った。 しかし、もちろん、塩田作品の特徴はそれだけではなかった。『月光の囁き』でも感じていたことだが、彼の監督映画では、感情が押し付けられない一方、構図の中を動く人物によって、あるいは構図自体の展開によって、画面に軋轢が生じたり、画面が躍動し出したりするのである。感情表現がなくとも、その画面上の効果だけで、塩田明彦映画は何かを語りえていた。構図とは、上で書いたような事物同士の組み合わさり方である。もしかしたら、僕らが感情と呼ぶものは、このような関係上の軋轢や躍動など、何かしら身体に直に伝わってくるものを、心理学的に説明したものなのかもしれない。 このような解釈が、僕がおこがましくも「構図理論」と呼んだ詩の方法論を導き出した。しかし、この「構図」の時の僕は、事物の切り立つような存在感、その他者性を強調するあまり、事物をきわめて静的な、垂直で白い「壁」のようなものだと考えてしまうところがあった。そして構図は複雑な方がいい、とも。 ところがこう考えた場合、『害虫』の中にはどうしても、納得がいかないところが出てくるのである。それが、時々挿入される、黒地に白の活字で書かれた手紙の文面と、最後のシーンだった。手紙の文面は、何も面白い構図を生まないし、この映画の最後のシーンも、車に乗っている主人公の横顔を固定カメラで接写しているだけで、構図的に何も無いに等しい。それがなぜ、片や度々映画の中に登場し、片や映画の最後をしめることになったのか。それが、僕には解せなかったのだ。まさか、感情表現がない分、そういう形で主人公の「内面」を語ろうとしたのでは、あるまい。 三、「寄せる波、世界へ、」 そして、吉増剛造の映画観や日本伝来の「いき」の概念などに触れる事を経て、僕の『害虫』観は変わり、「構図理論」は、静態的だった原初のものとしては、崩壊した。これは、僕にとてつもない痛手を負わせるものだった。もう、詩が書けないとさえ思った。しかし、その苦痛を乗り越えて完成させた詩集が、『寄せる波、世界へ、』だった。 この詩集収録の詩の中では、まだ、新しい『害虫』観ははっきりと現れてはいない(唯一、「ZONEのアルバム『O』に」として書かれた詩篇、「O(オー)」だけが、さらに先の『害虫』観まで射程に入れている)。しかし、詩集のタイトル「寄せる波、世界へ、」こそが、まさにそれをズバリと言い当てるキャッチコピーであったのだ。 当時のノートから。 映画は、ひかりをつかまえてくることができるのだ。音も、 そして時間も。スクリーンの上にそれらをつかまえてきて、 しかも、もう一度刻んでいく。何も映っていない時のスクリ ーンの白。そこにつかまえてこられて、刻まれていく、なん と多くのひかりたち、音たち、そして時間たち……。 (「絶望」 二〇〇二年十二月十一日 個人ノート 映画『富江 ―最終章―』をビデオで観ての感想) 映画館においては、僕ら観客の背後から(見えない所から) 光がやってきて、スクリーンに当たって像になる。そして、 映画が終わってしまうと、スクリーンは白い平面に戻って しまうが、我々はそこに何か余韻めいたものを感じること になる。(中略)僕は、映画というものが、光をつかまえ、 音をつかまえ、そして時間をつかまえて、それらをスクリ ーン上につかまえてきて、もう一度刻んでいく、広げてい く――そういうものだ、と思ったのだ。しかも、その時ま っ白なスクリーンの上に刻まれ、広げられていく光・音・ 時間は、再現されたものばかりでなく、それを今観ている 映画館の中のそれとまじり合い重なり合ったものなのであ る。 (「『害虫』は何をしたか ――「構図」理論の展開」 二〇〇二年十二月十九、二十、二十三、二十四日) このような考え方の下では、「構図」の頃はまさに静態的なものとして、垂直に切り立つ確固とした物体の比喩に使われていた、あの「壁」さえもが、ふるえる光の粒によって描かれていく、不安定で流動的な物として見られるようになっていく。そして、先に書いた「文字」と最後のシーンの問題も、この「波」から、ある解決が施されることになるのである。 文字は、それを読む我々の目の動きという「波」を発生させるものである。最後のシーンにおいては、「少女の見つめる先で、あるいはその少女の横顔で、光の粒は細かくふるえているのだ」(『害虫』は何をしたか)。このような考えを記したのと、ちょうど同じ日に、僕は全7篇がすべてオマージュという詩集に、「寄せる波、世界へ、」というタイトルをつけたのだ。 映画のような現象界に過ぎぬこの世界で、「波」を感じ、こちらからも「波」を返すことで、その「波」が、ちょうど真っ白なスクリーンのような、僕らには多分たどり着けない「世界」そのものに、打ち寄せてくれることになったらいい。いや、打ち寄せなくてもいいのだ。そのような、あるかないかわからない「世界」そのものを目指して、「波」が寄せていくなら、「波」がどこまでも遠くまで、伝わっていきつづけるのなら、それで十分だと思うのだ。そんな希(のぞみ)が込められた、題だった。 四、「燃えない鉄」 この「寄せる波、世界へ、」のあと、僕は入沢康夫にはまり、黒沢清の映画を知り、そして何よりZONEを聴いてきた。この影響は、甚大だった。結果、長きにわたって『害虫』が占めてきた支え木の位置に、ZONEが移り変わることになったのである。 最近わけあって『害虫』をまたもや観たのだが、そこで僕は、「文字」および最後のシーンについて、「構図」でも、「波」でもない、もっと別のものを感じることとなる。文字の方から説明することにしよう。 今回、あの文字を見て僕が感じたもの。それは、それを読む僕の目の動きでもなく、文字の上でふるえる光の粒でもなく、圧倒的な静けさだった。動きのあり、音の聞こえるシーンの合間に、挟み込まれた無音、黒地、そして動かない白い活字。それを読んでいる時間は、僕には圧倒的に静かなものだった。もちろん、文字を読む時、僕らはそれを音に、具体的には誰かの声に還元している。だから、完全に無音であることは、ないことになる。しかし、その手紙のシーンで聞こえるのは、そのような声ばかりではなく、それとちょうど陰陽図のように抱き合わせになった、無音状態でもあったのである。 声が発せられる時、そこには声を発するもののふるえが宿り、僕らは声を聴くことでその者の内の暗く深いところまでを、聴くことになる。いや、実際そこまでよくは聴こえないから、そのふるえを声に乗せるための意識的・無意識的技術と、そのふるえの拠って来たる深いところまで聴き取れるような、聞き手側の耳の澄まし方とが必要になるのであるが。 ともかく声がそういうものであるのに対し、活字はというと、そこにあるのはふるえではなく、そのふるえの残滓としての形だけである。そこには、言葉の拠って来たる深淵が無い(もちろん、意味の次元では、文面もいわゆる内面をもつ。しかし、ここで重視しているのは、意味の外にある要素だ)。逆に言えば、それは空無をその背景に持つ言葉なのである。そして、文字に耳を澄ます時、僕らは、その文字を書いた者の声を自ら仮構しそれに耳を澄ますとともに、文字自身が持つその空無にも、耳を澄ましているのではないだろうか。 そう考えた時、僕にはあの最後のシーンの静けさの意味が、ようやくわかった気がした。揺れる車、その中の少女の横顔、そしてそのまなざし。そういう場所に、少女の渦巻く情念や、あるいはふるえる光の粒を見るのは可能だろう。しかし、そこには同時に、暴く光でも微分していくことのできない、絶対的な静けさも横たわっているのである。僕らはついに、それを解釈・言語化することはできない。僕らが得るのは、ただ沈黙だけである。そしてその静けさは、ちょうど、現象界としての世界の根底に広がる、真っ白なスクリーンの静けさとも等しいもののように思われたのである。 切り立つ世界の中で、個人は様々な侵食を受けることになる。切り立つ世界からの暴力、そして個人を解釈しようとする、視姦ともいえるような視線。そのような中で、それでもなお、個人が強さ・貴さを持ちうるとするなら、それは上に書いた、解釈不能な空無によってのみ可能ではないだろうか。そして、その空無は逆説的に、すべての事象の根底に共有されている、零度の地平でもあるのである。空無としての世界そのものの上、我々の生が波をうち、流れ合い巡り合っている。 上のような静寂を、僕は詩には書いてこなかった。僕が書けたのは、その空無から、すこし色や形のついたもの。あえてそれらの中から、今回の考えに合うキャッチを選ぶなら、「燃えない鉄」になるだろうか。炎に犯されることのない、静かで内に引き込むような黒さを持った金属。しなやかにたわむ剛さと、それが撥ね返る時に発せられる、音=声。 結局、長々とこのコラムを書いてきて僕がたどり着いたのは、次のような単純なことだ。声に耳を澄ませ、空無に届くまで。空無を畏れよ、必要以上に世界を犯すことのないように。なんだか、とっても宗教がかっているのだが(苦笑)、結局これが、僕がすべての狂信を告発していく際の、論拠にもなっているのである。 そして、空無を覆うように発せられた声を受け止め、自らの生で、その「波」に応えていくこと。こちらからも、「波」を返していくこと。それが、今の僕が言うところの「詩」なのであり、それは何も、詩作品でなくてもいいのだ。空無を知り貴びつつ、「波」の流れに身を投げ出してく者。「聴く人、愛する人、生きる人」。それこそが、詩人だ。 最後に、あさましいことではあるが、自分の詩から引用して、この長々しく退屈なコラムを終えることにしよう。どうも、短い間ではありましたが、ありがとうございました。 両腕で抱えていた 鳴らないはずの 泥炭の石盤を それでも歌い始めていた しずかに 星の満ちる夜 |