綿矢りさ『蹴りたい背中』が芥川賞を取った時には、様々な騒動が起こって、僕の友人の中にも彼女の受賞に対してキレている人がいたが、それはともかく、今年はモブ・ノリオ『介護入門』が同賞を受賞した。この二つを並べてみた時(すんません、金原さんのは読んでません)、気づくことはそこに描かれている世界が小さい、ということだ。このことについては、綿矢りさが受賞時の記者会見の時に自分で言っていて、それを聞いて僕は何だかうれしくなってしまったのだが、その時彼女は自分が「小さな世界のことしか書いていない」と言ったのだった。 もちろん、『蹴りたい背中』が小説の伝統的な形態を崩していないのに対し、『介護入門』がそういう意味で破格なものであること(この小説を、こんなのエッセイじゃん、という人も当然いると思う)、さらに『蹴りたい背中』が小説世界とその展開に沿った言葉で構成されているのに対し、『介護入門』が小説世界だけでなく現実世界に言葉を投げつけようとする姿勢を見せている点など、違いは認められるだろう。しかし、いくら『介護入門』が現実世界の方に攻撃的に言葉を投げようが、その視点は三十歳無職麻薬常習者で祖母の介護をしているという人物の世界から離れることはないし、同様に『蹴りたい背中』のストーリーを組み立てている語りは常に話者たる女子高生から発せられているもので、小説を巨大な「世界」に対応するひとつの物語とするような意志は感じられない。 「映画的世界に対する文学 前編」において、僕は世界が映画化されていることを述べた。それは簡単に言って、我々がいる世界が、その外部たる真実の世界を想定しにくくなった、ということだった。そのような世界の中で、かつて確固としていた身体は映像あるいは幻想の中に拡散してしまい、個人が背負うパーソナリティーはロマン主義的な「真実の自己」にかぶせられた仮面ではなく、拡散した世界に貼りついてもはや剥がすこともできない映像になってしまった。 上に述べたことは前編でも述べたことであるのだが、ここにもうひとつ付け加えるのなら、世界が映画化されたことで、我々は「我々」ではなくなった、ということができる。 僕らは個人で生きていて、自分の世界の外には出られない。そのような僕らを自分の世界から括弧つきの「世界」へと繋げるものが、あるときは神話でありある時は歴史でありある時は「真実」であった。これらを拠り所にすることによって、僕らは、自分が生きている世界がこれまでも存在してきたしこれからも存在し続けていく、ということをリアリティーとして受け取ることができたし、その中にいる自分というものを想定しやすかった。だから、「世界」は自分の視点をも超えた大きな時空として存在できたし、その中にいる他の人々のことも自分に対するのと同じリアリティーをもって「我々」と呼ぶことが出来た。 しかし、映画としての世界は、このような拠り所としての「真実」を失ってしまった。モンスター映画の中の主人公は、自分の映画の外に別の世界があることなどは考えられない。彼は、自分の映画の中で生きていくだけで、映画が終わればその世界はたちまち白いスクリーンに戻ってしまう。そこには、彼の存在を引き受けてくれる歴史も真実の世界も何もないのだ。結局はすべて幻想であって、自分もその一部分として躍っていただけになってしまう。 かつて『ラストアクションヒーロー』というハリウッド映画があって、少年がアクション映画の中に入ってヒーローと言葉を交わしたり現実世界にヒーローを連れてきたりして大冒険するのだが、実際に映画の中に入ったとしたなら、映画から自立して行動することなどできず、登場人物の一人として映画に取り込まれてしまうのがオチだろう。実際、そもそもその映画の中に入り込む少年にしたって、すでに『ラストアクションヒーロー』という映画の中に取り込まれ映像に貼りついてしまった存在であって、結局その外には出られないのだから! ここにおいて、「我々」という視点が立てにくくなることは、明白であろう。なぜなら映画的世界において、僕らは自分の見ているものが本当にあるものかどうかに対して決定的な確証を得ることが出来ないからだ。そして、自分の視点を超えた「世界」にしろ、他人の視点を自分の視点と同等に受け入れる「我々」にしろ、そのリアリティーを失ってしまうことになる。 しかし、このような世界でも、デカルトではないがとにかくそれを見ている自分が存在することだけは確実だ。デカルトはここから神の回路を通ったが、それは我々には許されていない。しかも、デカルトは「我思う」と言ったが、その思惟自体が与えられた範疇の中での動作に過ぎない場合もあるわけで、そうなってくるとどこまでも確実なのは刺激を受けている自分、端的に言って「見る自分」がとりあえずはある、ということでしかない。それゆえ世界は、ただそれを見ている自分の存在を担保にしてしか成り立たなくなってくる。だから必然的に、世界は小さくなってくるのだ。 ここで補足的に付け加えるならば、この世界の不安定さは、そのまま自己にも跳ね返ってくる。映画を見ている自己、というものが映像の中に拡散した存在であることは前編で述べた。それが本当に自分であるかどうかなど、自分にもわからない。歴史や神が、自分が自分であることを保証してくれるわけではないし、「見ている自分」の存在も、ただ自分が存在することだけは何となく感じさせてはくれても、自分が自分であることを保証するには力不足だ。そうなると結局自分を位置づけるには自分の世界にいる他人の目に頼るしかないのだが、確固たる自分がないまま他人の目に依存することは、自分がさまざまな場面や役割などによって引き裂かれてしまう、というアイデンティティークライシスにまでつながってくる。しかも、その他人の目ですら究極的には幻想であるのかも知れないのだ。 かといって、その映像世界の外側に出ようにも、映像世界を成り立たせているのがもはやそれを見ている自分しかないのだから、結局の所死んでしまうしかない。しかし、死んだら外にいけるかと言うと、それでおしまいになってしまうかもしれない。その真実であり同時に終局でもある死と、幻想との狭間で僕らは生きていて、結局その人生の中で自分なりの確信みたいなものを自ら見つけていかなければならないのだ。 では、『蹴りたい背中』や『介護入門』が、その世界の矮小化に対して甘んじているだけの文学かといえば、そうではない。それならばそもそも賞など取りはしないだろう。それでは、何が違うのだろうか、というと、一言で言って語り口が違うのだ。語り口といって曖昧ならば、言葉の出して来方が違う、と言えばいいだろうか。彼らは、すべてが幻想かもしれない世界の中で、唯一の拠り所である「見る自分」の場所から語っている。そしてそれは、思惟する自分よりもより原始的・動物的な次元での反応であり、事物が自分の基にやってきた時に思わず返してしまう反射的な反応としての言葉である。そして、この動物的次元に戻ることで、映画的世界で拡散したはずのの身体が何とか復活を果たすのだ。 この点については、『蹴りたい背中』の方が過激だ。女子高生言葉を有効に使いながら、筆者は現実を恐ろしい速度で、そして身体の実感を伴った言葉で、切り取り同時に打ち立てる。それは、世界を切り取ると言うより、世界の方から来たボールを打ち返す、と言った感じかもしれない。そして、普通ならきれいに当てにいくバッティングが多い所で、彼女は自分のスピードで、身体の芯からバットを出す感じで打ち返すのだ。こちら(読者側)に飛んでくるボール、すなわち言葉には、その彼女の一瞬の身体捌きが宿っていて、それが僕らにユニークさとそこに他人がいるということの不思議なリアリティーを感じさせる。そうか、このように世界に反応する身体があるのか、と。 『介護入門』の方は、田舎の旧家の息子という自分の出自と記憶に、ロックの最底辺で使われている言葉や世界観を重ねていて、いささか戦略的ではあるが、やはり生きるものとしてのギリギリのところでの(すなわち、「世界」に対応する「思想」などが瓦解した地平での)リアリティーを感じさせる語りになっている。さらに彼は、そこで自らの「記憶」を基にして、祖母の生を自らの生のようにリアル化して引き受けてみせる。そしてそれは広がって、自分を生かしているこれまでのその土地の歴史らしいものを物語の中に息づかせることに成功している。これは、この後述べることにも関わってくる。 これらの作品の語り口というのは、服装とか肉とかがギリギリまで削り落とされた先に見えてくる骨格の違いのような、いわば極限の個性の形である。それは一般的に考えられている個性というものがもはや信頼のおけるものではなくなって、流通する記号のようなものになった現代において、なおも文学に個性を求めていった先で現れたギリギリの地金なのかもしれない。 |