朝だった。ベッドの上のうすい掛け布団はしわしわで、よじれてまとまってへその緒みたいだった。それを抱きかかえた姿勢で、水橋は目覚めていた。昨日はよく眠れたのだろうか。寝相の悪さはいつも通りだが、目覚めの気分がいつもとかなり違っている。まったく知らない国の、どこだかわからない部屋の中でいる気分だった。眠りからも昨日からも切り取られたように、切り取られてまったく違う朝に移送されてきたように、自分がそこにいた。 目に映る天井は白くて、新鮮なくらいに四角かった。水橋はそれを眺めていた。身体の中がいやにしずかで、疲れもやる気も、まっさらになくなっている。やはり、昨日はよく眠れたのだろう。部屋の中の床や壁、机やスタンドライトなどの音が聞こえた。かすかな軋みを立てながら、意識がほこりのように落ちてくる。 水橋はベッドから立ち上がった。両足がスリッパの上に乗り、スリッパを通してホテルの床に触れた時、水橋は少し驚いた。午前九時前だった。カーテンの向こうは、もう、白々しいほどに明るかった。 朝のすすきのには、明かりの消えたビルばかりが立ち並んでいた。中に誰もいないビルは、物寂しいと言うよりも、むしろあっけらかんとしていて、ひんやりとした朝の空気の中で、抜け殻みたいな輪郭を見せていた。水橋には、そのしずかさが少し悲しく、少し懐かしかった。まるで、祭りの次の朝のようなのだ。前夜の混沌とした賑わいも、艶やかに渦巻く暗い情動も、それを掻き立てる裸電球のゆらゆらした光も、隙間だらけの粗末な夜店の彩りも、すべてが嘘だったかのようになくなって、ただ通行するためだけの道路が広々と開けている。その時の気分を思い出した。 一体どれくらい祭りに行っていないのだろう。小さい頃、水橋は毎年欠かさず、地元の神社の夏祭りに出かけていた。何百もの石灯籠に挟まれた真っ暗な石段を、友達と二人で駆け上っていったのを彼は覚えている。鎮守の森は深く、ずっと奥まで沈黙していて、けれど石段の上からはもう、肌が火照るようなお囃子の音が聞こえてきていた。不安なのか期待なのかわからないドキドキを抱えたまま、水橋と友達は懸命に走っていた。 二人は、手をつないでいた。宵闇の中に浮かぶ、重なった二つの小さな手が、水橋には今現在のことのように見えている。しかし、その友達の顔が、どうしても思い出せなかった。無理矢理思い出そうとすると、しなやかに伸び縮みする幼い足首が見え、白い浴衣の腰で揺れるピンクの小さな帯が見えて、不意に、狐のお面をかぶった顔がこちらを振り返った。 水橋は、危うく声を出すところだった。彼は、朝のすすきのを歩いていた。歩道の上を、OL風の女性が早足で歩き去っていく。紺色のスーツを着てメガネをかけた、裕福そうな中年サラリーマン二人組――片方は太っていて、白髪頭のてっぺんを隆々と禿げ上がらせていた。もう片方は痩せていて、朝なのにもう上着を脱いで、ワイシャツだけになっている――とすれ違った。自転車に乗った、学生と思しき軽装の若者が、水橋を後ろから追い抜いていく。通りの両脇に立ち並ぶビルは、それらの人々に干渉することも干渉されることもないままに、ただ、そこにありつづけていた。朝だった。 昨晩水橋は、夜のすすきのを通り抜けていた。泊まっていたホテルがすすきのの外れで、そこから目当てのラーメン街まで行くためには、すすきののど真ん中を横断しなければならなかった。もちろん、水橋もそこ――夜のすすきの――がどのような場所か、知らないわけではなかった。しかし、その手の店は、大体が裏通りなどに密集しているもので、避けて通ろうと思えばいくらでも避けて通れる。そう思っていた。だからこそ彼は、薄汚れた財布だけを持って、部屋着同然のかっこうでホテルを出たのだ。 ホテルから出て通りを左折し、次の角を右折してしばらく歩くと、通りの脇に一棟、巨大なビルが見えてきた。それはまるで、真っ暗な夜空にそそり立つかのような、太くて高い塊だった。その屋上には、鮮やかな紫の看板が乗っている。 「ランジェリーパブ 大将軍」。 その文字を見た瞬間、水橋には、目の前のビルが急激にその重さを増したように思えた。涼しげな夜空に紫の光を打ち上げながらも、そのビルは動かしがたい暗さを抱いて、そこに居座っているようだった。一つ一つの窓の中が、不自然に暗い。そして、その暗さがぬめぬめとしたテカりとなって、ビルの外郭を覆うドギツイ照明とともに夜空に放たれる。 しかし、夜空はどこまでも涼しげな顔をして、その光をまるで他人事のように水平に受け流していた。夜空を染めて燃え上がるようでありながら、照明の光がどこか淡く感じられたのは、そのせいだったのかもしれない。 とにかく、その光景は京都では決して見られないものだった。四条河原町もたしかに有名な風俗街なのだが、京都の店は、せいぜい二階建てくらいの高さしか持っていなくて、それも大体が、入り組んだ路地にせせこましく立ち並んでいる。その手の店が、幅の広い通りの脇に一棟で立ち、公然とピンクの灯りを夜空に放っているなんて、どうして水橋に想像できただろう。 通りに沿って道を進むうちに、風俗ビルは次第にその数を増していった。通りの両脇で、一つ一つ巨大な輪郭を見せつけながら、交じり合うその光で街全体を染め上げていた。歩道の所々では、スーツを着た若い男性がたむろしていて(皆、二十歳になるかならないかぐらいに見えた。高校一、二年生くらいの人もいた)、道行く客には興味がないかのように仲間うちで談笑したり、その笑顔のままで急に客に話しかけに行ったりしていた。薄暗いどころか、人々の顔はむしろ均一に照らし出されていて、かえって見えやすい気がした。人工の光によってよく見えるようになった表情を貼り付けて、あちらに行ったりこちらに行ったりする。その人ごみの中を、水橋はじっと黙って潜り抜けていく。 大きな看板が、車道にもはみ出すくらいの勢いで道に置かれていた。ほぼ等間隔に現れてくるその板の上には、それぞれにまぶしい写真が貼ってあり、すぐには数えられないほどの女性の姿が――ある者は裸で、長い黒髪を少し濡らしていて、ある者はセーラー服を着て、ラメ入りのメイクをしていた――そこに写されていた。しかし、ビルの方を振り仰いでみても、暗くぬめぬめとした窓が規則的に並んでいるばかりで、一つ一つの窓の向こうに本当に彼女たちがいるのか、水橋には想像することさえできなかった。 一体どれくらいの人が、ビルの中にいるのだろう。一体どれくらいの人生が、ビルの中に囲まれてあるのだろう。その数を推測して、水橋は身体の中がぞわぞわするのを感じたが、一方、ビルの内部にいる人々の実際の姿となると、どんなに頑張っても思い浮かべることはできなかった。どれほど具体的に想像しようとしてみても、それはまるで、夜、舟の上から湖の底を覗き込むようなものだった。水橋には何も見えず、逆に、深くて見えない水の底から見つめ返されているような気さえして、水橋はただ、言いようのない不安を感じていた。 若いスーツの何人かが、水橋に声をかけてきた。看板に写る女の子たちの顔、あるいは全身は、不自然なくらいに加工されてキラキラと輝いている。 |