ラムネのビンは空になった。僕は橋の欄干にそれを置いた。足の下を、音を立てて流れる川の速さが涼しい。 顔を上げれば、むせ返るような夏の宵闇は黙り続けている。その中で、ラムネのビンは一つだけ置き去りにされて、冷えていた。鳴らないビー玉の音が、かすかな光として聞こえ続けている。 「風物詩って、あるでしょう?」突然、瑞枝が口を開いた。「詩なんてさ、もう誰も聞いたことがないのにね。せこいよね。詩って言葉だけ、ね、残っちゃって」 その問いかけに、僕は答えることができない。瑞枝と会うのは何年ぶりだろう。そのことばかりを、僕は考えようとする。 「風鈴の音も風物詩、花火もお祭りも風物詩、ところてんだって…」 「いや、あのさ」話し続けていた瑞枝の言葉を、僕はたまらなくなって遮った。「もっと、…もっと別の話をしよう」 「ん?」瑞枝は狐につままれたような顔をして、それから、笑った。「そうね、ごめん。なんかね、歌えるかな、と思って」 「歌えるかな、と思って」。この言葉が、僕の覚えている瑞枝の最後の言葉だった。神社の石段を駆け上る女の子が見えた。幼い日の瑞枝だった。僕は、自分がどこでなにを見ているのかがわからなくなって、振り返った。昔神様が住んでいるとされた森は、セミの声もなく黙っている。見えない雨が降っていた。肌でそれを、感じていた。赤い傘が回る。絶えることなく、緋の車輪のようにつややかに回る。僕はどこにいるのだ。祭りの屋台で。オレンジ色の電球の明かりと、金魚すくいのゆらめく水面。十三歳になった瑞枝がしゃがんで笑っている。声をかけようとして、瑞枝のことを思い出そうとして、追いかける紙はぬれ続け、映像は言葉はキラキラと逃げ続けた。瑞枝がしゃがんで笑っている。 ……チリン。不意に、縁側で風鈴が鳴った。僕は、その音で我に返った。初めて聞いたようでいて、ずっと鳴り続けていたようでもある、音。縁側に座って、僕はこれまで、何をしていたのだろうか。 歌うことができないもの。それが今も、どこかで置き去りにされて、冷えている。鳴り続けている。そんな気がした。「歌えるかな、と思って」という、その言葉でさえ、歌い続けている(そして黙り続けている)夏の宵闇。 山の向こうから、花火の音が聞こえた。きれぎれに語られる、一言であり全てでもあるような、告別の言葉。告別のひかり。誰かがいま、旅立とうとしているのだろうか。 空に咲くひまわり。その、涙のような一瞬のきらめきの中で、橋の上の瑞枝が振り返って、消えた。 風鈴は鳴り続けていた。縁側に足を放り出すと、足の下を、音を立てて流れる川の速さが涼しい。 |