2003年12月12日金曜日

ZONEで書いて何が悪い!


   (前書き)

 この文章を書いた時、僕はまだひとつのパフォーマンスとして、ZONEを登場させていた。それは、僕が散文で彼女らを扱う時に、いつもとる態度であって、いかにも自分がまじめにやってませんよ、というフリをしながら、自分にとって本当に大事なもので不意打ちする、そのための策略であった。
 僕がこの文章を書いた日に、ZONE結成以来六年間もの間、リーダーとして若いグループを引っ張ってきたTAKAYOさんが、ZONEからの脱退を表明。あまりにも不真面目なフリをしているため(ZONEを詩に書き続けることを、「馬鹿な行い」と言っていたり)、一時はこの文章を消そうとも思ったが、あえて、ここに投稿することにする。
 いずれ、真面目にZONEを扱わなければならないだろう。しかしそれは、僕にとっては、まず詩という形をとらなければならないはずだ。
 (もちろん僕は、この前書きが、何とも言えず「イタイ」、滑稽な様相を示すものであることを理解している。それもまた戦略のうちであると言ったら、人は僕を軽蔑するだろうか。もしかしたら、その軽蔑こそが、僕の今欲しているものかも知れず。そして、その軽蔑の底にあるものを、もう一度自分で見直してもらえることを、僕は望んでいるのかも知れず)


   ZONEで書いて何が悪い!

 実は、最近、腹が立っていることがある。ご存知の方もおられるように、僕が書く詩の中には、「ZONEの何々へのオマージュ」というタイプの詩が本当に数多くある。腹が立っているのは、それらの詩が、まさにZONEの作品に対して書かれた、と言うだけで、読むべき何ものでもないように思われることである。
 もっとひどい場合になると、以下のようなことになる。「この詩はいいね」と言っていた人に、「ああ、この詩は、例によって“あの人たち”を基に書いたやつなんやけど」と言った時に、作品の評価がまるで変わってしまうのだ。「ええ? そうなの? それじゃあやっぱり、だめだなあ」
 もちろん、作品を読む上で、外的情報が重要になるのは、重々承知している。そういうのをなしに作品だけを読むのがある種の理想だとしても、やはり、知ってしまった以上は、意識してしまうのが人間である。そう考えると、上の言葉も、あながち酷いものではないのかもしれない。しかし、僕が納得いかないのは、上のような言葉が、次のような理由付けと一緒にやってくるからである。「これも、あの子たちのことを思いながら書いたやつでしょ?」

 詩が、恋する人の窓の下で歌い上げるものだったなら、たしかにそういう理由付けも可能だろう。しかし今は、そのような時代ではないのだ。僕は自分が、他ならぬ「文字」で詩を書く存在であることを、十分に意識している。
 そもそも、詩は、誰かへの恋の気持ちやら何やらを、できるだけ正直に、それが「正しく」言葉になるように、書くものだろうか。ある面では、確かにそうだろう。しかし、ある面では、それはまったく間違っている。
 ある面で正しいと言うのは、何となれば、そういう態度から実際に詩が生まれうるからである。しかし、そればかりが詩であると考えること、すなわち、詩とは内面を正しく表現するものであると考えることは、たぶん、間違っている。
 以下で、簡単に論証してみよう。

 たとえば、ある景勝の地でその景色にいたく感激し、それを「そのまま」詩にしようと考えた人がいたとしよう。しかし、感激・感動というものそれ自体は、いうなれば襲い掛かってくる(あるいは湧き上がって来る)力であって、それはもともと「こういうものですよ」と言葉で書かれてはいない。そしてそれは、思い出そうとしても思い出せない。なぜならそれは一瞬だけのものであり、後で呼び返すための適切な名前をもともと持たないものだからである。残るのは、ただその感動がどこから生まれたか、そしてそれが、自分にどんな感触を与えたか、という漠然とした記憶のみである。
 ともかく、その漠然とした記憶を基に、ここでいう詩人が感動の生まれてきた原因や自分の感触などを「正しく」書くことができた、と仮定しよう。しかしその表現は、彼にとっては満足のいかないものであるだろう。なぜならば、それは彼を襲った感動そのものを呼び返さないからである。つまり、感動の生まれてきた原因や感動の与えた感触などは、たしかに「正しく」書かれているのだが、その「正しさ」は、彼にとって、感動そのものを再び与えてくれるものではなかったのである。その事態を、彼のように「正しさ」に固執する人は、「この作品は、まだ、私の気持ちを正しくは表現できていない」と考えて、更なる表現を探すのだろう。
 そして、彼に感動を与えてくれる表現にぶつかった時、彼はそれを「自分の気持ちを正しく表現したもの」として、嬉々として採用するのだろう。しかし、先に言ったように、感動がそもそも名づけえぬ「力」であるならば、それを「これとこれは同じ、これとこれはここが違う」と言う風に比較することは、土台無理な話だろう。そうなってくれば、ここで言われている「気持ちを正しく表現」と言う部分は、単純に書き手がそれを正しいものとして納得するかどうか、という次元にとどまるものになる。
 もちろん、その納得性は完全に作者の恣意に拠るものではなく、先に既に書いた、感動の生まれてきた原因や感動に対する感動者の反応などにより、ある程度の理由付けを持つものであろう。しかし、これらは感動が同じであるという事を漠然と予感させるが、それを確信させることはついにできないものなのである。
 そして、感動を生む原因や感動への反応などの問題を、いったん度外視して純粋に感動の次元のみで考えるならば、次のように極論することもできるだろう。すなわち、「書く者にとって、大事なのはその表現から感動が与えられるかどうかであって、その感動が彼自身の受け取ったものと同じであるかどうかということは、どうでもいい問題であるし、そもそも考えることができない問題でもある」と。

 そうなってくると、では、「気持ちを正しく」と思って書いてきた「あれ」は、一体何だったのだろうか。「あれ」は、もしかして、詩ではなかったのだろうか。
 もちろん、「あれ」も詩ではあったのだ。しかし、それが詩であったのは、「気持ちを正しく表現した」からではなく、その言葉が言葉として感動を与えうるものであった、という、まさにそのことゆえなのである。そして、「気持ちを正しく」という態度・方法は、「感動」に至るためのひとつの方法、あるいは一つの構えであって、我々はその構えをとることで、何とか詩の生む感動へとたどり着こうとしていたのである。
 もちろん、「気持ちを正しく」という構えは非常に有効であって、そこから素晴らしい詩が生まれることも事実である。しかし、それだけが唯一のスタンダードになってしまっては嫌なので、僕はあえて、それとは違うやり方を使うことにしている。それが、僕の言う意味の「オマージュ」という方法なのである。

 そこでは、原作が持っていた感動を生む構造を重視しながらも、時にはそれを大きく侵犯し、言葉で書く際に一番しっくりくるように、どんどん異質なものを混ぜていく。その結果として、原作の世界がより深まって見えるようになれば、見つけもんだ。
 もちろん、ここには非常に意識的な操作も含まれているし、「夢」と聞いた途端に、祖父が死の床で呟いた言葉を思い出す、そしてその「夢」という言葉をそういう意味も含めて感じ取ってしまう、という風な無意識的な操作も含まれている。(ここでの意識無意識の区別は難しい。逆に言うと、その区別が難しいところまで行き着かないと、本当に詩的な言葉は出てこないのかもしれない。)
 また、原作の構図を言葉の構図に移し、再構成していく、という制作の過程で、主体が自在に変転していく、という事態が起こる。この、顔年齢二十八歳の男子大学生が、十五歳の女の子や妻子もちの男性になったりするのである。これは、「詩は作者の気持ちをそのまま述べたもの」と言う考え方に対して、主に「作者の」と言う部分で反発する方法となる。さらに、これが一番僕の中では大事なのだが、ここで作者は変転した「主体」に成りきって書くのでは「ない」のである。ここが理解されないために、僕の詩を読んだ人が、それがZONEものだとわかるとすぐに「やっぱりだめ」と言ってしまう、ということになるのだろう。
 たとえば、自分をすごくカッコイイ主人公、そして片思いの相手をその主人公の恋人にして、小説を書く、ということが、中学生頃なら誰かはやったことがあるのではないだろうか。その小説の中で、作者は主人公になりきって、大変かっこよく行動し、そして片思いであるはずの人と思いを遂げていく。僕が詩でやろうとしているのは、これでは「ない」のである。「あの子たちのことを思いながら書いた」のでは「ない」のである。
 僕は、「気持ちをそのまま」にも、激烈に反発するのだ。つまり、僕は主人公になりきって書くのではなく、たとえば十五歳の女の子が詩の中で「わたし」と語るとして、その「わたし」を含めた、詩の織物を編んでいくのである。わかりやすく言えば、「わたし」とはこういう人だからこういうことを言うだろう、と考えながら、彼女の「気持ちをそのまま」書くのではなく、詩の中の言葉と「わたし」の設定が、うまく作用しあって、感動を生むように考えながら(というより、だれよりも自分が感動できる言葉を探しながら・待ちながら)書き進めていくのである。ここには、なりきりの快感と言うものはあまりなく、むしろ、あるのは言葉と言葉の関係に胸打たれる感触だけである。
 (右の部分について、訂正がある。たしかに、僕はなりきって「そのまま」書こうとしているのではない。しかし、同時に、詩の外側に立っているわけでもない。そして、時にはやはり、「声」を発するものになってしまっていることもあるのである。むしろ、この「声」をまさに人の体を通って出てきた声として響かせられるか、と言うことが、最近の関心にもなってきている。
 しかしこれは、くどいようだが、なりきって書いているのとは少し違っていて、むしろ、声に憑依される感じに近いのかもしれない。あるいは、身体の暗くて深いところから、不意に誰かの声が僕の身体を通ってよみがえってくる感じ。そして、そのような声を発する自分がいる一方で、僕はその声を、どうすれば詩の中に位置づけられるか、表記法や構成に悩んだりもするのである。いや、大抵は、そういう構成に対する悩みの果てに、急に声に出会うのであるが。)
 (余談ではあるが、祖父の死を扱う時でさえ、僕はこの方法を用いようとした。自分の悲しみが重要なのではない。それを深めて、突き抜けて、あるいは潜り抜けて、どのような景色が見えるか。それが探りたかったのだ。)

 僕の詩を読んで、勝手に僕の人間性を造り上げたって、勝手に僕の恋人を捏造して、その詩をその人への恋文として読んでくれたって、別にかまわないといえばかまわない。それが読む人にとって感動を生むのならば、それでいいのだ。しかし、それだけが詩の読み方だと思って、僕のZONEものを全て「ロリコンの倒錯遊び、あるいは世迷言」とされては、なかなかつらいものがあるのだ。僕は相当の自覚とともに、このオマージュと言う方法を使っていて、さらに言えば、ZONEをあえて対象に選んだことも、単にZONEが大好き、ということ以上の方法論的狙いがあってのことなのである。
 詩を書く際に、一般には小さな女の子のアイドルグループ、ぐらいの認識しかないようなZONEをあえて対象にすること。それはすなわち、詩に往々にしてあるまじめ主義、つまり詩は気持ちをそのまま現したものであり、そうやって読むべきである、と言う考えへの軽やかな異議申し立て、そして「気持ちをそのまま」書かなくても、ここまで詩は来れる、ということの宣言なのである。祖父の死を扱おうとAV女優を扱おうと(こういう区別自体、僕には胸がむかつくものであるのだが)、詩がどこまでたどり着けるかということには、それらは厳密には直接の関係を持たないのだ。しかし、詩がどこまで来たか、ということを読んでもらえるその前に、その詩がただの「ロリコンの恋文」とされてしまう、そこがなんとも悩ましいところであるが。
 
 僕は、かなり大真面目にこの(世間的に見て)馬鹿な行いをやっている。馬鹿な行いを通して、馬鹿な行いをまさに支えの木にしながら、言葉が恐ろしい所まで届く状態、或いは存在の基底を言葉が打ち、おぞましいほどの感動が湧き上がって来る、そのような状態を作り出そうと、戦ってきたのである。
 「僕のことはどうでもいいから、詩の言葉に耳を澄ましてください。」
 それが、この僕が言える、たぶん一番重要なことなのだと思う。そしてもう一つ。
 「ZONEで書いて何が悪い!」


   (補足)

 「感動」のみが重要であるということは、詩のひとつの恐ろしさにもつながっている。感動は、普通、感動を生んだ原因(と思われるもの)に帰属させられる。だから、ある思想で詩を書いたとして、その詩が素晴らしく人を感動させた場合、人はその思想が素晴らしいと感じてしまうのである。そして、上の本文に書いたことが真実ならば、優れた詩人である場合、我々はどのような思想でもって詩を書くことも、そしてそれで人を感動させることも可能になる。
 詩のつかみ所のなさ、詩の残酷さ(詩は時に、非常に無遠慮に、世界の一番デリケートな部分を暴き出してしまう)とあわせて、このことを理解しておかないと、とても恐ろしいことになるかもしれない。そんなことを考えながら、僕は今日も、ZONEについての詩を書こうと画策している。

   (二〇〇三年十二月十日。十二日加筆)