(まえがき)というかなんというか、「映画的世界に対する文学」の後半が書けなくてそれなのにこんなものを書いている俺を許してほしい気がするが、何より小説「ZONEのことなど」であれだけ書いたのに一晩のた打ち回って悩み抜いた結果、「CRYSTAL LIVE X」(長瀬実夕さんや天然色の出る東京のライブ)に行かないことにした自分がやりきれない。恩返しできなくてごめんねランタイムさん及びレッドワーカーズさん! さて、「クラッシュは、床に落としたら壊れちまったって感じだ」ってのはクラッシュのギター・ボーカルだったジョー・ストラマーがクラッシュ解散後(解散後どれだけ経っていたかは知らんが)のインタビューで言っていた言葉だが、その精神に今頃になってとても魅力を感じている。バンドをかっこよく終わらせるっていうのはそれこそかっこいいことだし、だからこそピストルズは今でも伝説なんだろうけど、やりきるだけやりきった結果というか床に落としちまうところまでやってしまってその結果、あっけなく壊れてしまった、というのも思い切りというか無謀さというか残酷なまでに無邪気なエネルギーというか、そういうものをあっけらかんと感じさせて素敵だ。 俺はそもそも記憶を形に残すことが嫌いで、だから記念写真とかもあんまり撮らないしビデオとかその手のものも割合苦手だ。いや、そんなことを言って黒沢清が出たトップランナーのビデオとかZONEが出た番組のビデオとか家には山盛りになっているのだけど、そういうのはなんとなく録ってしまうのであって見て記憶を確かにするためのものでもないし、実際あんまり見ることはない。そして、自分がナマで経験したものは、やはり思い返せるように形に残してほしいと思いながらもそれが与えてくれるものが結局、自分の記憶の流動と生成が与えてくれる独特のまぶしさに届かないことも知っている。だからこそ、俺はこれまで自分の中の思い出というものを大切にしてきたし、大切な思い出ならばそれは画然と他のものから区切られて存在してほしいと思っていた。 で、まあ今回のCRYSTAL LIVEなんだが、なぜ俺がのた打ち回るほどそれに惹かれているんだろうということを実際のた打ち回っている最中にふと考えた。そして気づいたことに、それはあのライブが少なくともZONEにとってまさにZONEを床に落とそうとする運動であるからだった。今年の彼女たち四人の夏ツアーは、特にバンドとしての強力な一体感と決して妥協しない気迫とを感じさせてあまりに感動的だったので、俺は例によってそれをきちんと区切って覚えておこうとしていたのだが、ツアーが終わった途端にヴォーカルの中心であったMIYUという人が長瀬実夕としてZONEとは一線を画するソロ活動を開始、所属スタジオ主催のCRYSTAL LIVEに出ることになった。そのライブにはもともとZONEからもう一人MAIKOという人が特別ゲストが出ることになっていたのだが、その人もZONEの代表としてではなくあくまで一人のアーティストとして、天然色という自分のユニットを率いての参加だということが後になってわかった。 もともと四人の音楽性も個性もバラバラで、その上メンバーの自由度を優先するグループだったし、いつかこういう形になってくるだろうとは薄々思っていたが、まさかツアー直後(といっても、ファイナルからもう二ヶ月たつのだが)にやってしまうとは思わなかった。そしてそのことの重さに気づくことよりも早く、怖いものみたさや単なるショックから来る懐古的な気分とは全然違う衝動が俺を動かしていた。彼女たちは、ツアーで作った自分たちを床に落とそうとしているのかもしれない。それを見ることによって俺の持つ夏ツアーの思い出は確実に輪郭をぼろぼろにされるだろう。それでも俺は見てみたいのだ。床に落ちこれまでの形が壊れたところに見える現在進行形の彼女たちの、前に進んでいくその姿が見てみたい。 11月19日には今年の夏ツアーのツアー写真集が発売されることになっていて俺ももう既に予約までしてしまってあるが、それがなんだかどうでも良くなってきた。なぜって三ヶ月前ライブだったものが写真になって出る時には、彼女たちはもうそんな場所からはずっと遠い所にいるのだから。そのことを彼女たちが今現在明確に、その姿でもって示してくれているのだから。違う所というのがどういう場所なのかはわからないけれど、彼女たちはもうすでにそこを目指して自分たちの破片をくぐり抜け、他でもないただ一人の身体で歩みつづけている。 んで、ここからは短い<本編>なんだが。現代文学はもう、壊れることを生業にしてきているんじゃないかしらと高橋源一郎『あ・だ・る・と』を読みながら思った。そういえば、カミュの『ペスト』も、なんかヒューマニスティックなように見せて最終的にはなんか解決できないというか収集できてない、もうちょっとましな言い方をすれば、語り手が一人で物語を背負うしかない状況になってるのに明らかに背負いきれていず、結果語り手が小説のドデカさに引き裂かれてしまっていてそれによって事実上小説自体も破綻している。これを不条理だとか正義の不在だとか簡単な言葉でわかった振りするのは簡単だけど、そんなやつは自分で実際に物語を背負って壊れちまえ!と俺なんかは思う。あ、でも、そもそもそれができないからわかった振りするのか。しまった。 で、壊れている文学といえば、小島信夫なんかすごいわけで、語り手がなし崩し的思考(この場合、なし崩れ的思考か)をしていて俗に現実的とか客観的とか言われる一貫した視点がそもそも作れていない。それをいかにもアバンギャルドっぽくやるんじゃなくて(というか、今日において行われるアバンギャルド的壊し方は、「落としたら割れちまった」的壊れ方ってのとは根本的に違っているような気がする)ものすごくよくわかる開かれた文体で、とっても親しみやすくそのぐるぐるしながら奇妙にずれていく思考を見せてくれるんだからたまんない。バカみたいに笑えて、楽しくて怖い。 この壊れるということは、ひとつにはシミュラークル化したといわれる世界を脱臼させる上でちょっと面白いんじゃないかと思う。壊れることは必ずしも僕らを映画としての世界の外には出さないが、逆に映画自体を限りなく瓦解させてその底辺部にできる空き地によってリアルを見せてくれる。「床に落としたら」というのは高度差のある運動であって、床っていうのは普段意識されてないしはっきりと見ることはできないけど、落としたものが砕けることによって初めて視線が向けられ意識されるものだ。それは、最終的にいかなる映画も犯せないスクリーンの白に似ている。あるいは、黒沢清の映画に、映画自体ですらわかってないようなシーンが入ることと同じようにして、引き裂かれたり収まりきらなくてはみ出したりした先に外側を感知させてくれる場合もある。さらには小島さんよろしくシミュレーションの世界の中で飽きずにぐるぐるやっているうちに、シミュレーションの中に変にリアルが生まれてくることがある。それは、小説の文章が生の時間を孕み出す感じ、あるいは青山真治監督の映画『ユリイカ』でのアホみたいに長い長回しが、映画の中にたしかに空間があるという妙な実感を僕らに与えるのと似ているのかもしれない。 じゃあ、詩ではだれが壊れてるんだろうって考えたら、不勉強ゆえ出てきませんでした。ただ、その潮流はやっぱりある気がしていて、身近な様々なものを歌いながら、歌っているのは主体とかではなくてもう刹那的な皮膚感覚でしかなくて、その皮膚感覚自体も詩の中で拡散していく、というのはなみさんとかみいさんの詩とかちょっと前のちょりさんのとか読んでて感じるのだけど。ああ、あと今村知晃さんも。まあ、それぞれ特徴はあって、たとえば今村さんのは落として壊れるその速度自体で突き抜けようとしていたり、割られるものの放つ光の多彩さ加減でそのむこうに光源としての野生の太陽を感じさせたり、さらにいいときにはそこに廃残者的自意識が絡んできて詩を独善から解き放つばかりか自分が割った破片をどうしようもなく抱えてしまって(当然ぐさぐさ刺さる)それでも自分が招来した太陽に向かっていく、という姿が見えて単純にカッコイイと思ったりする。 まあ、他にもいっぱいいるんだろうけど、たとえば中途半端に頭がいい人は壊れていく感じを出そうとして壊れている言語を取り入れようとし、実際うまく取り入れるけど自らの批評性と詩の逃れがたい形式性ゆえ空回りというか何と言うか、その壊れていく感じがすぐに一篇の中で定式化してしまうというつまらなさがあるように俺は感じている。っていうか、俺もやった。 詩は必然的に形式への意志をもつだったかそういうことを聞いたことがあって、もしそれを抜け出せないなら、壊れていくことではなくて別のルートで探してもいいんじゃないの、ということも思う。だって、小説はもともと形式のないこと、中途半端であることを特長として生まれたんであってそれを現在生かしているだけだし、詩は小説の真似みたいにならなくても別のやり方でだって現在の世界に立ち向かっていけるはずだ。たとえば、いとうさんや最果タヒさんの詩がすごいと思うのはそういうところで、散文詩にしろなんにしろ詩としての形式性を活かしながら、それでもって小説とかが壊れていかざるを得ないこの世界に潜むものを見事に描ききっている。 で、結局何が言いたかったかというと、MAIKOさん実夕さん頑張ってね、ということです。 |