でも、ホントに普通の人ができないようなことをたくさんできたし、すごく貴重な経験ばっかりで……。一生のうちにこんな濃い時間はもうこないかもしれないな、って……なんて思っちゃったらそれは悔しいけど(苦笑)。だけど、それぐらい今の時点では……思い出が詰まり過ぎてて……なんか、閉まりきらない引き出しみたいで。(竹内美保 『ここから』) 冬休みが始まると同時に、直歩(なほ)の病状は急変した。何も言わず、弱々しい笑みを浮かべるだけの彼女は、冬の空の雲に似ていた。(増田考志 「Smile Several Smiles」) 詩とは何か、と聞かれた時に、「詩とは比喩を使って自分の気持ちや考えを表現する芸術である」みたいなことを言う人がいるかもしれない。そして、比喩は実際、自覚していない人大勢も含めて、詩の根本原理だと思われているようだ。 このことはたとえば、僕が今年教育実習をさせていただいた某高校の国語の教科書においても、見開き2ページの小コーナー「詩を書こう」の中で比喩を書かせる部分があるところからも感じられるだろう。それに、僕が所属する体育会系のサークルで詩(「アルバイト」)を読んでもらった時(っていうか、インターネットラジオで下手な朗読をやったのが聞かれた)、「神様って何のこと? 何を主張し何を批判しようとしているのかわかんないんだけど」というご指摘を受けたことからも、詩は比喩を使いながら何かを主張し批判するもの、という考え方が一般的であることを物語っている。 でも、考えてみると、比喩は何も詩だけのものではなく、小説でも普通の会話でも使われている。上に引いた二つの文章も、前者はある人がインタビューに答えて喋ったものが書かれたもので(語り手はTAKAYO。竹内美保さんは聞き手で書き手だ)、後者は小説だ。両方とも詩作品ではないが、「閉まりきらない引き出し」も「冬の空の雲」も、ちゃんと比喩であることが感じられるだろう。 「でも」と人は言うだろう。「でもやっぱり詩にとって比喩は命綱でしょ」と。僕は個人的には「それは違うんじゃない?」と思うのだが、そもそもこの「詩の邪道」は、僕の考え方云々よりもとにかく詩が手っ取り早く書ける卑怯な裏技をご提案する連載なのだから、ここは黙って比喩のうまい作り方をご提案させていただこう。 ずばり、「比喩だと思うな! オモロイもんを書け」これである。大体から、比喩っていうと、最初になんか書くべきものがあって、それをうまく説明するために使われる道具、という印象が普通である。たとえば、「頼りなくて今にも消えてしまいそうだった」って書くとわかりにくいから、ここはそれに似たものを使って「冬の空の雲に似ていた」にしてみよう、って感じで比喩が作られていると普通は思われている。つまり、書くべき対象がもう既に先にあって、それを言い表すために、その対象の特徴と似たものを探してくるっていうのが比喩だと思われているのだ。 けれど、それでは比喩が、書くべき対象より小さくなってしまう。というか、書くべき対象の下に従属してしまう。「へえへえ、私はあなたを導き出すための踏み台で、それだけのために書き付けられたんです。へえへえ」みたいに。ところが、実際我々がうまい比喩にぶち当たった時に感じるのは、そのようなものではないと僕は思う。我々が感じるのは、その比喩によって対象がうまく説明されていてわかりやすい、という感心なんかではなく、その比喩が本来の対象なんかよりもより生々しく迫ってくる、比喩自体が自分の存在感を語り自分の世界を広げていく、という感覚ではないだろうか。 逆に言うと、うまい比喩とは自分の世界を広げていけるものなのだ。そもそもは対象を説明するために考えられたものでありながら、結果としては対象を越えてこちらに迫ってくるもの。「閉まりきらない引き出し」のようにそこ(引き出しという外郭)からあふれ出しはみ出してくる始末に終えない、けれどどこかしあわせでもある何かを感じさせてくれるもの。そのようなものであることが、うまい比喩の十分条件である。必要条件はもちろん、それが対象の何がしかと共通点を持っている、ということになる。でなきゃ、そもそも比喩でもなんでもないからね。 で、だ。普通の会話だと、必要条件である共通点の方が意識される。その比喩が何のどういう部分を語っているか、ということがどうしても大事になってくる。そして我々は、そういう部分だけが比喩の役目だと思い込んでいる。ところが、実際詩で大事なのは、むしろ比喩自体の存在感の方だ。共通点の方は、もうガンガンに少なくてもいい。自分にもよくわからんくらいに曖昧な共通点でも、そこにとにかく何かしらつながっているものがあると確信させてくれるなら、それでいいのだ。詩の比喩の上手い下手は、説明の鮮やかさよりもむしろ比喩がそれ自身で広げる世界の鮮やかさにかかっていると言っていい。比喩の対象になっているもののことを一瞬忘れてしまうくらい、心の目を奪っていってくれる比喩が理想的だ。 だから、詩で比喩を使う時は、それが普通いわゆる「比喩」なんだとは思わずに、つまり対象の特性を選んだ上でそれとの共通点をもった何かを探る、という手順を踏むのではなしに、ただ単純にそれに関連して思いつく言葉の中で自分に迫ってくるものを探せばいいのである。それが「これしかない!」という感じで迫ってくる時、そしてその言葉自身が何らかの世界を切り拓いてくれる時、どんなに説明としては変なものであっても、それが多分その詩にとって一番的確な比喩なのだ。 最後に、なぜ「比喩は詩の命綱でしょ」という意見に僕が異を唱えるか、というと。端的に言って、詩はおろかすべての言語芸術にとって、比喩は「これが比喩です」と名指せるような特別なものではない、むしろ言ってしまえば言語芸術は全編これ比喩なのだ、と考えているからだ。しかもそう言った場合の比喩の対象なんてものは、先にこれこれこういうものとして存在すらしていない。だから逆にいうと、俗に言われている意味の「比喩」なんて本当はどこにもない、とも言えるのかもしれない。 |