2004年10月23日土曜日

詩の邪道その4 詩作中の考えの巻


 詩を書くとき、作者は一体どのようなことを考えているのだろうか。よく言われることは、感動のあまり自分を失っているとか、彼我の区別がなくなって全的感興の中にいるとか、無我になっているとか、意識が消失して無意識の力に支配されているとか、なんかそういうものだ。
 実際、僕もそのような状態になって書こうとしていた。ところが修行不足ゆえ、なかなか上手くいかない。感動のあまり自分を失ってその状態で書いたつもりでも、出てくるのは結局巷にゴマンとあふれているような言葉ばかり。というか僕の場合、感動に身を任せれば任せるほど詩の言葉はありきたりなものになっていった。「目は姿を見、/心を見、/美点を見、/肉体(からだ)を眺める//目は心を見、/汚点を見、/怒りに曇り、/そして落ち着く。/目は君を見る//愛とはつまり、この繰り返し/それでも僕は、愛を放さない/だって、君が好きだから……」。んー、われながらコメントに困ります(苦笑)。自分が浸っている日常や習慣をふりほどくことはなかなか容易ではないのだ。
 では、意識をフル活用して書けばいい詩になるか、というとそうでもない。先の詩の邪道1~3で「面白い言葉」ということを書いたが、別に奇天烈な言葉や奇天烈なイメージを並べればそれでいい詩になるわけでもない。「まあ、こうしきゃあ面白いんじゃないの?」という程度で組み合わされた言葉には、そりゃまあ面白みは多少あるかもしれないがそれ以上のものは宿らない場合が僕の場合は多かった。

 じゃあ、詩を書く時、どのようなことを考えればいいのだろう。修行足らずゆえ無意識になれない僕は、ある時期以降、意識と無意識を両方使って書くことにした。言葉が出てくる瞬間は間違いなく無意識に没入しているのだが、それが出てくる前にはこれまでの展開を分析しこれからの展開の計画を練り、さらに言葉が出てきた後にはその言葉をどういう表記で書くか、どのように続けていけばいいか、などの判断などを行った。その意識的作業で、無意識がよこす言葉を導き、かつ、やすりがけしていったのだ。逆に言えば、そのような分析、計画、構成、続行(あるいは中断)などは割合意識的に行うが、言葉が出てくる瞬間だけは無意識のために空けておく、そこには計画などを立ち入らせない、という方法を取ったのだ。正直言って、詩を書けない僕にとっては、この邪道的な方法が一番確実だった。
 邪道詩を書くことは、ある意味で嘘をつくことと一緒だ。嘘をつくことを計画通りの作業のように行ってしまうと、嘘に人をだませるだけの力がなくなってしまうし、かといって自分が嘘つきとしてどう振舞うかに気を配らないと、どんなに嘘自体が迫真のものであっても変なところでボロが出てしまう。では、冷静と情熱のちょうどド真ん中で愛をさけべばいいのかというと、多分そういう二次元的な問題ではない。言葉を吐く瞬間の自分はもう言葉の中に没入させながら、その自分を絶えずチェックしかつ方向付ける冷静な自分も保ち続ける、ということがおそらく嘘にも邪道詩にも大切なのだ。そして、これはケンカやレースなどの時に、誰もが普通に行っていることなのである。

   (これ以降は、実作編ですので、不要な方は読まなくて大丈夫です。)

 では、この方法によって、詩は具体的にどのように書かれるのだろう。
 たとえば、「風物詩」という言葉が、就職活動中に受けた入社試験の問題文の中にあったとしよう。そして、なぜか自分はそこに気がひきつけられたとする。引きつけられる時点で、すでに無意識は発動している。なぜ、そんなに引きつけられるのだろう、と考える。この考える、ということは意識的な作業だ。「風で物で詩、だろ? 動いては消える風が詩を歌っている。動かない物が詩を歌っている。そこに聞こえてくる詩ってなんだ?」みたいな感じで考えが進む。その時どのような風景を感じるかも大事で、夏の夜の静けさ、汗ばむようなむっとする暑さと、漆黒の闇、風鈴の放つかすかで涼しげな光、などなど。こうして考えたことと感じたことの両方がそろうことで、大体の下地が出来てくる。
 で、ほっとく。そこで考えや思いの奔放さに任せて「風物詩/動いては消える風のうた/動かぬ物から染み出る言葉/ああ 夜の闇の中空に懸かって/風鈴が涼しくつぶやいている」とか書き出したら、「それでも僕は、愛を放さない/だって、君が好きだから……」の二の舞だ。下地が出来たら、そこで無理に詩を書き始めようとせずに、ほっとく。これに限る。時が満ちたら、自然とどこかで詩の一行目(あるいは一節)に行き当たるのだ。「風がふいて、/しがきこえる。/風がやんで、/しがながれている。」

 この行き当たるというのは、純粋に無意識の作業である。で、それをどう書くかを判断することも大切で、これは意識的作業といっていいだろう。ここでは準備段階で感じていたのが夜の景色であるため、「風」以外をすべて平仮名にしてやわらかで闇に溶けていくような感じにした。
 一行目が出てくると、修行の足りない僕らはすごく浮き足立ってしまう。勢いに任せて、自分が無意識に没入していると思い込んで、すぐにずらずら詩を続けていってしまう。ところが、詩が書けない僕らは、大体にして続けていくに連れて無意識じゃなく意識になっていくのだ。どんなに自分が感興の中に没入しているつもりでも、知らず知らずのうちにいつもどおりのぐずぐずの言葉がでてくる。結果、どんどん息切れして最後はとりあえずまとめてみました的なオチで締めざるを得なくなる。だから、テンションが下がりだしたな、と思ったら、適当な所で中断して、それまでを見直してみるのが肝要だ。

 見直しの作業の中で、これまでの展開を分析する。例の場合なら、対句を使っていて、音もリズミカル、ということがわかる。そして、「詩」を「し」と書いたことで、そこに死の意味合いもこもっていることがわかる。
 そういうことがわかったら、次の展開を考える。対句的なリズムはこれからも活かしていきたい。死の意味合いは、最初に風物詩について考えている時に感じた「夜」ともよく合うから、合わせて出してきたい。「風物詩」の「物」が全然書かれていないので、それを次には持ってきたい。風鈴も出来たら使いたい。そういえばZONEの「H・A・N・A・B・I ~君がいた夏~」のPVは最高だったな。あそこから何かいい素材が手に入らないかな、などなど。
 こうやって考えをまとめていると、色々次の行の案が出てくるだろう。その時に、安易に次の一行を選んではいけない。自分の考えに合っているというだけでは、その行で続けていくことは出来ないのだ。自分の考えをうまく説明している、自分の考えの中に収まってくれるというものではなく、その考えを超えているようなもの、自分自身が刺し貫かれたみたいにドキッとしてしまうようなもの(このようなものを僕は単純に「面白い言葉」と呼ぶ)を選ぶのが肝要だ。そういうものは、一行目が出てくるのと同じく、こちらが意識的作業によって作った下地の上に(あるいはそのはるか上空に)、無意識的にむこうからやってくる。いくら頑張ってもそういうのが出てこなかったら、しばらくまたほっておいたらいい。

 そして、やってきた言葉を構成していくのはむろん意識的作業である。句読点をどう打つか、改行をどうするか、などの工夫は必要である。さらに例の場合だと、(これは構成の他に中断や計画の要素もあるが、)僕は結局第二連を三行で切り上げ、第三連は二行でいいかな、なんて思いながら、その二行のうちの第一行目がやってくるのを待つことにした。
 第三連一行目は、ここまで風鈴が出てきていなかったこと、前の行(第二連最終行)が人のことであったこと、そして例のPVの印象から「風鈴のように思い出している。」が出てきた。これはびびった。わけのわからん比喩。しかし、これはたしかに思い出というもののあり方を表していて、そのあり方が夜の闇の中で脈々と生き続けて来た(それこそ、一般人が詩という言葉に実感をうしなっても、風物の形で我々の無意識の中に引き継がれ続けてきた)「風物詩」とも重なってくる。この行が懐古的な内容であったことと例のPVの印象が混じり、対句的な処理が(意識的に? 無意識的に?)働いて二行目は「ゆれる花火に照らされている。」になった。

 上で分析といった時にはなにやら形式上のことばかりに注目したが、もちろん内容解釈も行う。全体を通して読んでみると、どうやら切ない景色が見える。この話者は「し」を蝶番のようにして、風物詩とある人を思い出しているらしい。けれど、その切なさは湿っぽいものではない。「涼しげな笑み」にしろ、「風鈴のように」にしろ、基本的にはさっぱりしている。だから、泣きで終わる感じにはしないだろう。で、第三連を読んでみると、「風鈴」から「ゆれる花火」への移行が見られる。明るくなっているが、同時にゆらいでいる。さらに言えば、「思い出している」から「照らされている」への移行は、話者の視点が思い出の中に戻っていっていることを示している。
 こんなことを考えている時に、これまた例のPVの景色を通路にして最後の一行が出てきた。「追いかける紙はぬれて金魚はキラキラと逃れつづけた」。これは一番のサプライズだった。明るさ、ゆれがここに極まっているだけではない。風物詩=思い出を眺めている視点ではなく、風物詩=思い出そのものの中に入り込んだような光景であり、同時に、現実の視点からの心情をも表している。さらにここには思い出と生きている我々との関係のあり方も現れているように思えた。予定調和ではなく、そんな予定なんかをはるかに超えたコスモスを切り拓き、完成させてくれた最後の一行。
 しかし、まだここで終わるわけには行かないのだ。もう一度全体を見て、内容と形式を確認し、必要ならば手直しする必要がある(時には出だし以外を全部消してふたたび書き始めることも必要だ)。そして、詩全体としてちょうど最初の一行目のように「これしかない!」というものにならない限りは、最後の最後までペンを置いてはいけないのである。