2004年10月6日水曜日

祖母の降る浜 (二〇〇五年二月八日改稿)


 「紅白に選ばれたと聞いて、今のお気持ちは?」
 「もう、信じられませんっ!」
 斉藤さんの答えは、ほとんど怒っているかのような勢いで発せられた。その後すぐ、照れ隠しのためか、あり余るエネルギーが漏れたのか、「なはは」という笑い声がつづく。
 「紅白は毎年、コタツに入っておばあちゃんと見てたので。そうそう、みかんとか食べながら、の~んびりと」
 そしてまた笑う。
 「では、紅白出場のことを誰に一番伝えたいですか?」
 「もちろん、おばあちゃんです!」

 この時から、二年半もたっている。今年の夏休み、斉藤さんは長い長いライブツアーの真っ只中にいた。見知らぬ地方から、また見知らぬ地方へと、彼女は歌いながら旅をつづけていく。一ヶ月以上も自分の家に帰れない日々。それが、十七歳の身にとってどれだけ辛いものであるか。僕には到底想像できそうになかった。僕は二十歳で、大学二回生になっていた。
 帰ろうと思えばいつでも帰られる。その余裕が、逆に故郷を遠ざけていたのかもしれない。今年の夏休みは、三日間しか実家に帰らなかった。それも、祖父の初盆という止むに止まれぬ事情があって、仕方なく帰った格好だ。僕の祖母は、そのことをいたくさびしがった。僕はさすがにすまないと思い、二日目の晩、祖母とじっくり話をすることにした。
 摺りガラスのはまった、木枠の引き戸を開ける。薄暗い台所兼食堂で、僕の祖母がいつものように日記を書いている。長年の生活の汚れから、台所のタイルが茶色く黄ばんでいて、窓の外は真っ暗だった。そして、何もない食卓に着き、一人で筆を進めている祖母。ここに住んでいた時には見慣れていた光景だった。けれど、久しぶりに見る祖母の姿は、記憶よりもずっと遠い。
 「なんやあ?」祖母が軽く目を上げて、笑う。
 「何も」僕も小さく笑い返していた。その笑顔の素直さと小ささに、自分で驚いて、かなしくなった。外からは蛙の声がやかましいくらいに聞こえている。網戸越しに吹き込んでくる、山里の夜の風は冷たい。
 ずっと座っていると、祖母は日記を書きながら話を始めた。最初は、僕の大学生活への問いかけであり、それに答えているうちに、話題は僕が斉藤さんの「フアン」であることに移っていた。
 「あんたも好きやなあ」
 そう言って、入れ歯をはずした口で笑う。僕が覚えているよりも、ずっとしわくちゃで、ずっと丸くて、ずっとずっと小さい笑顔。かつては、この人の腕で張り飛ばされたこともあるのだ。それなのに、いつからこんな顔で笑うようになったのだろう。
 亡くしたばかりの祖父の話が始まっていた。気がついた時には、祖母は筆をおいていた。日記帳はどこかに片付けられていて、テーブルの上には牛乳が入ったカップだけがある。
 その時、祖母は旅行の話をした。祖父に、様々な場所に連れていってもらったこと。「おじいさん、ハイカラやったさけなあ」二人は、四国へも九州へも沖縄へも旅をした。けれど最後まで、北海道には行けなかった。
 「おまん、あの斉藤なんとかっていう子を見に、北海道にいくんやろ?」
 「うん。ツアーの最終日やし、彼女の地元やから」
 「ご苦労やなあ。ほな、頼むわ」
 「ん? 何を?」
 「北海道がどんな所か覚えてきて、おじいさんに教えてくれへんか?」
 しわだらけのほほの上で、黒々とした瞳が急に深さを増す。もう、自分では行けないことを知っているのだ。それに今は、連れて行ってくれる祖父もいない。
 「うん、わかった」
 僕は、できるだけ自然にそう言った。
 「おおきに。よろし頼むで、おまんは忘れやすい子やからな」
 歯のない笑顔。僕も笑う。自分の笑顔が、濡れた紙のように頬に貼りついて、いつまでたっても剥がれていかない。
 僕が笑顔のままで目を伏せていると、祖母は、ふと思い出したように弟の話をし始めた。僕は、意表を衝かれて顔を上げた。彼女に弟がいたこと自体、初耳だった。
 「なんせ昔のことやさけな、顔もよう思い出せへんねん。でもな、とにかく海が好きな子やったわ。夜になっても帰ってこおへんので、よう呼びに行ってん。その時の、膝抱えて浜に座ってる後ろ姿だけ、ようよう覚えてるわ。和歌山の外れでな、それはそれは静かな海やってんで。ああ、そうや。あそこなあ、星の砂がようけ降るんやわ」
 祖母は三重県の山村で生まれて、そこで育ってきたはずだった。それに、和歌山県の海辺では、星の砂も見つからなかったように思う。祖母は一体、何の話をしているのだろう。僕は突然、山里の夜の深さに気づいた。外では依然、蛙がうるさく鳴きつづけている。

 僕が北海道に上陸したのは、それから半月後、八月も終わりの頃だった。この夏には初めて三十度を超えたという札幌市も、さすがに涼しくなっていて、夕空も既に、秋のさびしさをその横顔に映している。
 札幌の街並みは、雄大で不揃いだった。真っ直ぐに伸びる大通りの両側に、巨大な建物がごろり、ごろりと並んでいた。その輪郭が持つ大味さと、すずしく拡散していきそうになる広々とした隙間とに、僕は目を奪われた。
 ずっと、歩きつづけていた。空はどこまでも平らにのびていて、景色はいつでも開けていた。大きな建物を見上げながら、何回も曲がり、何回も曲がり、それでも僕はずっと、どこかに腰かけているような気分だった。とても落ち着いている。見えないはずの海が、遠くでゆったりと揺れていた。街が浜だった。
 その時、僕は思った。祖母の覚えている幼い後ろ姿は、僕なのかもしれない、と。あるいは祖父。そしてそれは、祖母自身でもあるのだ。僕らはそれぞれ旅を続けながら、でも本当は、ただひとつの浜辺で繰り返す波を眺めている。そして、腰かけている僕らをさらに後ろからまなざしてくれている、ひとりの祖母がいるのだ。打ち寄せる波に骨を削られながら、祖母は老いていく。大きなふるさとは砕かれて、夜空から砂みたいにして降ってくる。歯の抜けた口の暗くあたたかな笑い。夜。平台の上でもろくもろく崩れ落ちた、焼かれたばかりの祖父の白骨。……

 その夜、僕は暗い客席の中に立っていた。ステージが、貝殻のように白い光で照らされている。そこには斉藤さんがいた。長旅で疲れきった身体を抱えながら、彼女はステージ上でのびのびとした笑顔を見せていた。
 「昨日は本っっ当に久しぶりに家に帰ってねえ……」いつも通りの元気な声。しかし、彼女は不意にトーンを落として、しみじみこう言った。「家で寝てても虫の声が聞こえて。……ああ、帰ってきたな、って」
 ……、しばらくの沈黙。その時、僕には聞こえたのだ。暗い客席のはるか上空から、北海道の虫の声と、故郷の虫の声とが降ってくる音が。かすかにずれ、時には交わり合いながら、ひとつの空から二重に螺旋を描いて、落ちてくる。それは、砕けては降る星の砂の音だった。僕らの浜辺に、祖母が降る音だった。
 「みんな、ただいま」斉藤さんが、言った。