恋愛を適度に盛り込めば客はとりあえず席を立たない。これは、少なくとも詩系以外のジャンルでは、当たり前の知識みたいになっている。映画でも演劇でも小説でも漫画でも、適度に恋愛を織り込むことでどれだけ興味を引くことが出来るだろう。実際少年漫画誌を開いてみると、冒険の根本に恋愛があったり、冒険の最中に仲間内でほのかな恋心が芽生えたり、といったことばかりだ。もちろん映画でもそうだ。この間『マトリックス・レボリューションズ』を見に行った友人が、開口一番トリニティーが誰と結婚したかということを話題にした時に、私は恋愛の便利さを再認識した次第だ。 なぜ恋愛がそれほど便利かというと、まず何より単純でワンパターンだ、ということが挙げられる。極端なことを言えば、離れているのがくっ付いていくか、逆にくっ付いているのが離れていくかの2パターンしかない。だから初心者でも簡単にストーリーを作ることが出来る。しかも、簡単なくせにその効果はけっこう大きいのだ。本来ならば一緒にいたいと思っている二人が引き離されていること、あるいは引き離されていきそうになることにより、生まれる緊張感。この緊張感だけで、ドラマを動かすのに十分なだけの原動力を生み出してしまうのである。 だから、恋愛はバテてきた長編漫画にちょっとしたスリルと将来性を生む意味でも、あるいはどうやって始めたらいいか困ってしまう小説のとりあえずのとっかかりを作る意味でも、非常に使い勝手のいいアイテムとなっている。 しかし、逆に恋愛だけを書くとなるととても難しい。なにせ、基本的にはワンパターンであるからだ。初めから恋愛を描くためのものなら客もそのつもりで見るから、ワンパターンっぷりが簡単に見破られてしまう。 そこで、作家は様々に工夫を凝らすことになる。一番基本的なのは、時代状況などの外的状況と絡めるタイプ。映画で言えば” You’ve got a mail”とか、『(ハル)』とかのような、ストレートな恋愛映画に時代的なものを絡めてどうにかしようとしたタイプだ。でも、中心として描かれている恋愛そのものがどうしてもお約束の域を出ないので、ちょっと手を加えて焼き直しました程度のものにしか思えない。 で、より頑張ったな、と思えるのが、恋愛そのものの概念をずらして使っているもの。あるいは、恋愛を掘り下げてその奥底にあるものを出して来ているもの。谷崎潤一郎とかの小説がユニークなのは、ここに起因しているだろう(今ではフォロワーの出現等により、彼の小説に描かれている恋愛はそれ自体としてはさほど珍しいものではない。しかしそれでもなお彼のいくつかの小説が新鮮なのは、そのような恋愛の奥にあるものまでしっかりと我々に感じさせてくれるからである)。さらに、目立つ所ではないが、恋愛を語る語り口自体を変形しているものというのがあって、恋愛を語るはずなのにやたらと冷めていたり、登場人物自体がなんか恋愛に無頓着だったり、そういうのを見るとユニークだなって思う。 で、だ。現代詩フォーラムを見る限り、結構恋愛詩を書かれている人はいっぱいいるみたいで、けれど僕なんかは詩で恋愛を書くのは何より難しいと思っていて、その考えは恋愛詩を書く人にとってはどうなんだろうと最近気になっている。世間一般のTVやら映画やらで恋愛が氾濫しているのは、それがお手軽ということもあるからで、なぜならそれがとりあえずでもストーリーを前に進めてくれる力になるからだと僕は思う。ところが、詩はストーリーを前に進めてどうこう、というものではないし、むしろその原動力である緊張感そのものについて書かなければならないようなジャンルであって、オカズや薬味にするならまだしも主食にするにはあまりにもワンパターンな恋愛を取り上げてそれで詩を書くというからにはそれ相応の工夫も必要になってくるはずだから、恋愛詩を書くことはもしかしたら恋愛なしに群像映画を撮ることよりもさらに困難な道なのかもしれない。 僕が出会ったあの人はこういう人で、その人のこういうところが素敵で僕にはその人がこう見えて、といっても、それがストーリーの出発点ならまだしも詩の一部分になってしまうとたちまちどうでもいいことになってしまう。「こういう人に恋をした」の「こういう人」とはどんな人か、その後あなたたちはどうなっていくのか、と問うのが小説なら、「恋をした」とはどんなことかと聞くのが詩だからだ。もちろん、「わたしの胸ははりさけそうで」とか言っても、問題は一緒。それは「恋をした」ではなく「恋をしたわたし」について語っているに過ぎない。 で、客を引き寄せられる恋愛詩とはこれまでの流れから必然的に、書かれている恋愛のあり方それ自体が尋常じゃなくすごいか、あるいはたとえ恋愛が平凡であれそれを書き付けていく書き方がどこか良いのか、またあるいは恋愛を書こうとした結果どっかに突き抜けちゃってぶっちゃけもう恋愛詩じゃねえじゃん、っていうものになる(つまり恋愛を書こうとして恋愛詩から遠ざかる)かのどれかしかない。 そしてもちろん。ありえないような恋愛のあり方を考えつく想像力もなければ、平凡なものを非凡に書き表す表現力も持たない人のために詩の邪道はあるのであり、そのような詩の邪道としては恋愛を突き抜けてしまう第三の道をお薦めするわけである。隣に座った少女にペンを借りた時にドキッとなっちゃってなんとかかんとか頑張って付き合い始めた男の子が、彼女と海にデートに行ったりなんかしちゃったりしているうちになぜか小説の終わりごろには浜辺に打ち上げられた自分の水死体を発見することになってしまうのとちょうど同じみたいに、恋愛をとっかかりにし、恋愛について考えることを通して、どっか違う所に出ちゃうのが一番手っ取り早くて面白いのかもしれない。恋愛モードで一、二行目を始めているのに気づいたら水死体ドパーン!みたいな。この水死体が単なる奇想ではなく、恋愛を真剣に掘り下げた結果だとしたら、それこそまさに恋愛詩だ。 こうやって恋愛詩の話をしようとする度に、僕はいつも次の一節を思い出す。「ああ、きみに肉体があるとはふしぎだ!」(清岡卓行「石膏」)。ここまでいえたら、恋愛詩もしめたものだと思う。 |