自動ドアが開いた音がした。いつもと同じで、少し遅れてチャイムが鳴る。それを聞き届けてから、棚の商品を並べ直していた手を止めて、僕は立ち上がりながら笑顔で振り返った。 「いらっしゃいませー!」 お客さんは、半袖のシャツを着た男性だった。店内も外の通りも昼下がりで、ほんの少しだけ、光が色づいて見えている。お客さんは、僕には目もくれずにチョコレート菓子の棚に向かった。僕はまたしゃがみ込み、パック入り飲料の列を整え始める。賞味期限の早いものを前へ。空いているスペースを埋めて、中ごろで膨らんでいるパックを押して詰め、できるだけきれいに見えるように全体の形を直していく。気配を感じてまた立ち上がり振り返ると、やはり、お客さんがレジに立っていた。さっきまでずっと、おにぎりコーナーの前で立ち止まっていた方だ。シャツを着たお客さんが今はスナック菓子の方へと進んでいることを横目で確かめつつ、僕はレジへと走っていった。 「お待たせしましたー! いらっしゃいませ!」 笑顔を浮かべながら、カウンターの上の商品を手に取る。おにぎりが二個と五〇〇ミリリットルのペットボトル入りの緑茶。キーを打って値段を言いつつ、ビニール袋を取り出して広げ、商品をその中に並べていった。お客さんは、千円札を一枚だけ出した。 「千円から、で、よろしかったですか?」 うなづいたのを確かめてから、お札を磁石でレジに止めて、キーを押す。一、〇〇、〇、現金。レジの中身が飛び出してきて、そこから小銭を手のひらの上へと弾いていく。二回数え直してから「六二二円のお返しになります」笑顔でおつりを手渡した。お客さんはおつりを財布に入れると、僕が差し出した袋を片手で掴んで店を出て行った。まるで僕がいないかのように、その動作は自然で無愛想だったけれど、そんなことを気にしていたのはせいぜい半年くらいの間だけだ。僕もまた自然なスピードで棚の方へと走っていく。半袖シャツのお客さんは、まだスナック菓子の前で立ち止まり、僕が倉庫から出してきたばかりの足元の商品(パーティーサイズのポテトチップ)を手にとって眺めていた。自動ドアが開く音。少し遅れて、チャイムの音。出て行くお客さんだと知っていたので、僕は振り返らない。 コンビニでバイトを始めてから、二度目の夏だった。その年の夏はあまり気温が上がらず、不慣れな上に猛暑だった前年に比べて、仕事もずいぶん楽だった。両手でパックを並べ直しながら、顔だけは時計の方に振り向いて、仕事の段取りをおおまかにイメージする。不足していた商品の補充は終わった。棚の整理も、ほとんど終わっている。この棚を済ませてしまったら、次は雑誌やマンガの棚を直し、その後は店内の掃除や窓拭きなどをして、そうこうしているうちにまた商品が不足するからそれを補充。その後また棚の整理などをして、そうするうちに夕刊が着くだろう。 自動ドアが開いた音がした。今度は、チャイムが鳴るより前に立ち上がる。 「いらっしゃいませー!」 黒のギターケースを背負った、若い女性だった。小型のスーツケースを右手でガラガラ引っ張りながら入ってきて、僕の声に応えてこちらを向き、小さく会釈する。それから、驚いたような表情になって、もう一度。髪が黒くなっていたので誰だかわからなかった。みどりだった。どうしてなのだろう。東京の片隅のコンビニで、黒い髪をしたみどりが僕に向かって頭を下げて、笑った。 ――どうしたの? ――いや、ちょっと……。失踪、しちゃった。 歩み寄っていくわけにもいかず、かといってしゃがみ込んで棚の整理をつづけるわけにもいかない僕の元へ、みどりの方から近づいてくる。何を言ったらいいのかわからなくて、思わず口をついて出た言葉は「髪の色、変わったね」だった。 「あ、……そうだね。少し、気分を変えてみた」 そう言って笑う笑顔が、どことなくか細く弱って見える。 「こんな所で会うとは思ってなかったなあ。いや、ほんとはね、東京にいるって聞いてたからもしかしたら、って期待はしてたんだけど。でも、びっくりした」 「僕もびっくりした。っていうか、すごくびっくりしてる」 「ははは。そうだよね。……うん、そりゃそうだ」 みどりは何を思ったのか、目を伏せた。笑みを浮かべた口元が小さく引き縛られていて、それはたぶん、僕が初めて見る表情だった。 「ここにはいつまでいるの?」 「そうだなあ。わかんない。泊めてくれる友達しだい」 「あ、こっちに知り合い、いるんだ?」 「うん。まあ、いるといえばいる、って感じかな。まだ連絡とってないから、もしかしたら留守にしてるかも」 そこでまた笑う。その笑顔が、僕には何だかどうすることもできなくて、たまらなかった。 「すみませーん!」 レジの方から、男の人が叫んだ。さっき入ってきたお客さんだった。カウンターの上には(いつの間に置かれていたのだろう)この店の買い物カゴがあって、シャツを着た背中越しに、ポテトチップの袋の片端が光って見えている。袋の下にも細々とした商品が詰められているようで、プラスチックでできたカゴのすき間から、円筒形やら平らな四角やらの様々な形が雑多な方向を向いているのが伺われた。 「ごめん、ちょっと行ってくる」 僕がレジに着くと、向かい合って立つお客さんは見るからに苛立っていた。カゴの中身は一五〇円前後のスナック菓子がほとんどで、レジを打つのも袋詰めするのも、普段に比べて少し手間取った。お客さんはお釣りを受け取ると、一緒に差し出したレシートを無視して袋だけを掴み取り、ドアの方へと歩いていった。「ありがとうございました! またお越しくださいませー!」 次には、みどりが並んでいた。カウンターの上に牛乳パックとスナックパンが入ったカゴを置いて、「お願いします」と、笑う。自動ドアが開く音。少し遅れて、チャイムの音。そちらの方をふと見てみたけれど、さっきのお客さんの姿は、ガラスの向こうのどこにも見えなかった。 「もし泊まる宛てがなかったら、僕の部屋でよかったら、泊まっていってよ」 牛乳パックを手に取って(さっき僕が並べ直した商品だ)バーコードに読み取り機の赤い光を当てながら、僕は独り言のようにそう言った。 「うん、……ありがとう。その時はまた、連絡するね」 みどりの返事も、どこか独り言みたいだった。けれども笑いながら、千円札を出して、お釣りとレシートを自然に受け取った。 「ええっと……。この前教えてもらった、あのメアドでいいんだよね?」 「うん。あれから一度も変わってないし」 牛乳パックとスナックパンが入った白いレジ袋を右手から提げて、みどりは店を出て行った。みどりの後ろ姿は、その左半分がギターケースに覆われていた。小型のスーツケースがガラガラ音を立てながらついていく。自動ドアが開き、少し遅れてチャイムの音が鳴る。ガラスの向こう、店の前の通りを右へと歩いていく横顔が見えて、そして見えなくなった。パック入り飲料の棚の整理が終わると、次は雑誌やマンガの棚を直し、その後は店内の掃除や窓拭きなどをして、そうこうしているうちにまた商品が不足するからそれを補充。その後また棚の整理などをして、そうするうちに夕刊が着くだろう。 みどりからのメールは、僕がバイトを終えて店を出て(いつもと同じで、夏の夕方だった)、近くのショッピングセンターまで歩いていく途中に届いた。学生マンションで夕食を作っているとドアホンが鳴って、鍵を外しチェーンを外しドアを押し開けると、みどりが店を出た時のままの姿で立っていた。左の肩に黒のギターケースを背負い、右手からは牛乳パックとスナックパンと、他にもどこかで買ったらしい色々なものが入った、コンビニの白いレジ袋を提げている。小型のスーツケースが、左後ろでちょこんと控えていた。 「ああ、いらっしゃい」 僕が言うと、みどりが昼とは違って、少し生気の見える顔ではにかんだ。 「ごめんね。お邪魔しますよ」 その日から、僕の部屋にみどりがいるようになった。靴を脱いで上がり、狭苦しいキッチンの抜けて部屋に入ると、みどりは「ああ、疲れた」と言ってコタツ(夏なので、覆いを取り払ってあった)の向こうに腰を下ろした。 「料理、作ったんだけど」 「え? いいの?」 くつろいだ姿勢のまま、みどりはとびきりうれしそうな笑顔で応えてくれた。 「うん。ちょっと、頑張ってみた」 僕も笑ってキッチンに戻り、できかけの料理に最後の味つけをして、皿に盛った。二人分の夕食を両手に持ちながら部屋に入ると、みどりはコタツの向こうで正座していて、悪戯っぽく笑いながら頭を下げる。 「どうも。ごちそうになります」 みどりが僕の部屋にいたのは、大体二週間くらいだっただろうか。もしかしたら、もっと短かったかもしれない。いつもは自分のための料理しか作らなかったから、その夜の食事もお世辞にも上出来とは言えなかったけれど、それでもみどりはもそもそと食べ、時々は「おいしい」とかつぶやきながら食べていってくれた。そして、何一つ残さずに平らげた。みどりがいた二週間、僕は大学の研究室に顔を出したり、バイトに行ったりした。僕が部屋に帰ってくると、時々みどりはそこにいて、時々みどりはそこにいなかった。 「白い部屋だね」 料理を食べ終わってしまった僕らは、空の皿を前にして、思い思いの姿勢で腰を落ち着けている。たしかに僕の部屋は白い。壁が白くて、天井も白く、その上ポスターなどを一切貼ってなかったからだろう。白いと言うか何と言うか、何もない部屋なのだ。いつでもいなくなれるような部屋――僕はそこにいつでも帰ってきて、布団を敷いて眠り、いつでもまた、その部屋の中で起きた。さすがに、最初のうちは、みどりがいることで不思議な緊張を感じていた。部屋に帰ってきた時も、部屋の片隅で座り込んでいる時も、僕はそこにいるみどりの息づきを意識していて、ちらっと見たり、互いに笑いかけたり、言葉を交わし合ったりした。しかし、それも最初のうちだけだった。いつしか、みどりがいることが当たり前になっていた。みどりがいないことも当たり前になっていた。僕の白い部屋の窓側の壁には、みどりの黒のギターケースが立てかけられていて、みどりが石狩に帰ってしまうまで、その中身を僕が見ることはなかった。 「大学、中退したんだ」 みどりがそう僕に打ち明けたのは、東京を出る前の晩のことだった。その時僕らはショットバーで飲んでいて、みどりはひとしきり笑った後で、少し泣いて、しばらく突っ伏した後で顔を上げ、僕に言ったのだ。 「大学でいるうちにね、自分のやりたいこととかがわかってきて、それで、何だかわかんなくなってきたのさぁ……何で自分がここにいるんだろう、とか、大学から出てそれから私は何がしたいんだろう、とか……」 その時、僕がみどりに何を言ったのか(何を言ってあげられたのか)、今でもわからない。ただ、テーブルの上に置かれたみどりの手の甲に、僕は自分の手のひらを重ねていた。みどりは何も言わずにグラスとテーブルの中間あたりを眺めていて、気がつけば僕の手の下で、こん、こん、こん、と小さくテーブルを打っていた。 「ありがとう」 店から出た後は、みどりはもう泣かなかった。むしろ、ずっとにこにこと笑いつづけていて、その晩の酔いを全身で楽しんでいるようだった。僕とつないだ手を支えにして、ぐうっと身体を傾けたり、その反動で僕の方に飛び込んできたり。その度にみどりは、様々な言葉を(僕に宛てて、だろうか)大事そうにつぶやいた。そのくせふと黙り込み、まったく酔っていないかのように真っ直ぐ歩いたりもする。僕の部屋まで、僕らは明るすぎる夜の東京を歩いて帰った。「私、札幌にある音楽スクールに通うことにしたんだ。大学のサークルでもバンドはやってたんだけどね、もっと、……もっと、ね」 東京駅で振り返ったみどりの笑顔は、どこか悲しそうだった。いつもどおりの、夏の夕方だった。家路を急ぐたくさんの人々の中で、みどりの立ち姿は一人だけ浮き上がっているように見える。すき間だらけの白い森の上空を、ゆっくり横切っていく薄物のような夕暮れを、――北海道の短い夏の夕空を、――みどりの向こうに目の当たりにした気がして、そこに広がるあてどないもののことを、僕は今でも思いつづけている。 |