2006年2月15日水曜日

小説 「みどり」 (5)


 海岸にいる。海を見ている。空は鈍色で、小さな粉雪を狂ったように舞い躍らせている。振り返ると、雪に埋もれたなだらかな丘が見え、雪かきもされていないその丘には、たった一つの足跡もない。丘の斜面に棒杭が何本か並んで立っていて、雪の下から、蓬の穂が顔を覗かせているのがかすかに見える。丘の上の方に、民家が一軒だけ見えている。丘の向こうには、きっと人が住んでいるのだ。電信柱が等間隔に何本も立っていて、そこから繋がっている電線が横様に空を切り分けている。しかし、空は圧倒的に大きく、重い。
 丘を降りてきた所には、何のためにあるのかわからない、骨組みだけの粗末な観測台がぽつんと建っていて、もちろんそこには誰も乗っていない。観測台は一つだけではなく、海と平行に点々と建っていて、それを追って視線を横に移動させると、視界の彼方で雪をかぶった巨大な山脈が、凍った高波のように鎮座している。かすかにのぞく砂浜の砂は、溶けた雪に濡れて黒々と硬く、その上で打ち寄せた波のいくつかが凍りついている。積もった粉雪が、風に吹かれて海の方へとささあっと駆け出していく。そしてそのまま暗く重たい海の中に消えてしまう。
 どこへ行きたかったのか。沈んだ海の向こうに宛先はない。丘を覆う雪は切れ目なくつながり、どこまでもつづいていて、民家は影絵みたいに黒い。一つだけ、置き忘れられた石。ぽつり、ぽつりと散らばったまま、消されもしないで耐えつづけているスポット。そのドアを叩くことはおろか、ここから丘を越えて戻ることさえできない。できるはずもない。それは誰かの感慨などではなく、今、目の前に明白な景色として、見えている。
 どこへ行きたかったのか。どこへ帰りたくなかったのか。それらの問いも真っ白に砕け、砕けたままで甲斐なく集まって、濡れた砂浜で埋もれている。一つ一つの破片の中には、鋭い角を見せているものもあるけれど、その角が散らすことのできる光が、ここにはない。尖端は自らの白さだけを抱いて、むしろ丸くなっているようにも見える。ただそこにあるばかりで、どこに届くこともない。
 「失踪」という言葉を思い出す。その言葉でさえすぐに見えなくなる。ここにいることはここにいることでしかないのだ。三六〇度どこを向こうとも、由来も目的も見出すことはできない。できるはずもない。雪はずっと前から止んでいる。それでも雲は垂れ込めたまま、彼方に見える山々の輪郭を、白く抉り出された複雑な山肌の脈絡を、閉じ込めながら際立たせている。風がまた吹いて、粉雪がささあっと砂の上を駆け出していく。そしてそのまま海の中に消えてしまう。重々しい波音。また波音。
 暖をとるための一本のマッチ。誰かと語り合うための温もりある言葉。火を囲う輪の中から生まれ、そこに集う人々を包み込んでいく音楽。それらは皆、丘のむこうの小さな民家の中にだけ、あるのだろう。ここには誰もいない。「あなた」も、「僕」さえも。誰から逃げ出すこともできず、誰へと帰ることもできない。できるはずもない。つららの垂れ下がる、要塞のような遠くの小学校から、子どもたちの嬌声が海鳴りのように聞こえつづけている。