2006年3月5日日曜日

小説 「みどり」 (7)


 家が一つの楽器のようだった。すでに夜の暗さへと傾ききった夕空は、一面に透き通り、いつまでも留まっている。その空を埋めることもしないまま、さっきからの粉雪が果てもなく降りつづいていた。家が建っている。それは頑丈そうな造りをした二階建ての一軒家で、近くから見ると(いや、遠くから見ていた時でさえ)、まるで空と雪の中に聳え立つようだった。屋根や窓枠には雪が分厚く積もっていた。窓から漏れる光は黄色がかっていてあたたかだった。その家が震えていた。音楽を内に篭もらせながら共鳴し、家はしずかに震えていた。
 家はまだ見えてこない。久しぶりに会う中島の顔はしずかな落ち着きを蓄えていて、体つきも一回り、がっしりしたように見えた。中島は僕の隣を歩いていた。学生時代と変わらない熱い口調で話しつづけているけれど、その声にはどこか、自信にも似たあきらめが影を落としている。僕は、僕らが過ごしてきた一年の遠さを思った。夕闇は暗くも深くもなくて、それだけに一層、すぐ近くを歩く中島の身体が底知れないものに感じられた。中島の両手は、モスグリーンの上着のポケットに固く突っ込まれている。バスから降りた僕を抱きとめようと、中島が腕を大きく広げた時(学生時代、彼はそんなことをしなかった)、その先に見えた両手は傷だらけで傷口まで黒く薄汚れていた。僕は、自分が何を見たのか、何を見て何を覚えておけばいいのかもわからないまま、中島と並んで粉雪の中を歩いている。
 「あいつらが何て言うかわからないけどさ、工場もすごいところだよ。労働者にも労働者としての必死の生き様があるんだし」
 僕の学部から工場に就職したのは、中島だけだった。就職が決まってから大学卒業までの間、同期はよくそのことを話の種にして笑っていた。時には中島自身にその話を振る者もいて、そんな時いつも、中島は頑固に言い張るのだった。人の生き方はめずらしい見世物なんかではなくてただその人の人生であり、それ以外の何ものでもない、と。
 「たとえば俺の機械の機長さんなんてさ、いつも物静かで知識も豊かな人なんだよ。どんなに機械がトラブっても慌てず、いろいろ考えて解決策を見出してくれて。そういう人の指が一本、なかったりする。普通に。働き始めて三ヶ月くらいの頃に、スリッターで落としたんだって。それでも働きつづけて、何十年と働きつづけて、物静かに笑ってたりするんだよ。まあ、怒る時は怒る時で、あの人に怒られるのがマジで一番怖いんだけど」
 両手をポケットに突っ込んだまま、親しみと尊敬のこもった口調で中島は話しつづけた。苦笑いにも似た、それでいて堪えようもない喜びにも似た笑顔を、時々浮かべながら。そして、ふと思い出したように付け加える。
 「それにあれだ。働かなければ、生きていけないだろう?」
 ベッドの上で、僕の隣にみどりはいなかった。階下の方から、冷蔵庫を開ける音が聞こえる。グラスの音が冷たく鳴って、消えた。見えないみどりに向かって伸ばそうと思った手は、いつまでも、伸ばそうと思った時のまま、僕の横にだらしなく横たわっている。
 みどりのアコースティックバンドが全国デビューする、という話を、僕は一人で思い返した。さっきまで見ていたみどりの肩は円く、二の腕はまぶしかった。裸になったおなかが引き締まっていて、どこか寒そうにも思われた。バンドは今年の春先、海を越えて東京へ行き、その後名古屋や大阪でもライブをするらしい。隆起した筋肉が二つの山を描きながら、みどりの背中を真っ直ぐ降りている。乳房は大きくもなく派手でもなくて、けれど、そのなだらかさの中に他に代えることのできない光を抱いていた。確かに色づいた乳首が二つ、部屋の空気の中で小さく孤立していた。
 インストアライブとその後のCD即売会(兼サイン会・握手会)。内地での活動の予定は、まだそれがほとんどだと言う。けれど、東京では、ライブハウスで対バンなどもするらしい。握手会という言葉に引っ張られたのだろうか、僕はベッドの上で、みどりの手のひらのことを思い出そうとしていた。何度でも。いくら試みてみてもそれだけは無理で、やがてドアが開き、みどりが戻ってきた。
 僕の眠っているベッドの端に、みどりは腰かけた。僕に背中を向けたままで、ため息をひとつ、大きくつく。みどりは(そして僕は)何を考えているのだろう。自分が目覚めているのかどうかもわからず、僕はただ、耳を澄まして、そこにいる一人の人間のことを感じ取ろうとしていた。それだけの部屋だった。手は伸ばせないし、たとえ今伸ばしたとしても、たぶん届かない。
 家が一つの楽器のようだった。オレンジ色した電球の光に照らされて、僕とみどりは階段を降りていた。前を歩くみどりの後ろ姿が、曲がった階段の向こうに見えなくなりそうになりながら、つづいていく。音楽はもう止んでいた。けれど、みどりの部屋で聞いたいくつもの曲が、僕の中で見えない渦を巻いていて、僕はふらつきそうになる視線をしっかりとみどりに据えながら、丸木の手すりに手を添えて後をついていく。階段を降りていく。
 降りきった所には壁があって、正面右手に扉が付けられていた。先に降りたみどりがその扉を開ける。すると、さっきまで二人でいたダイニングキッチンが、開いた扉の向こうにつながっていた。みどりはその中に入っていった。僕もみどりにつづいて入ろうとして、ふと、自分の左側に目が行った。短い廊下の突き当たりにトイレを区切っているらしい木の扉があり、その手前で、見慣れたスリッパが前向きに揃えて置かれてあった。
 ダイニングキッチンに入ると、僕はテーブルを挟んでみどりの向かいに腰かけた。
 「何か、飲む?」
 先に座っていたみどりが声をかけてくるけれど、僕は笑って首を横に振る。
 「ううん。別に喉、渇いてないから。ありがとう」
 「いいえいいえ。私もほんとは、そんなに飲みたくないんだ。何も」
 みどりはそう言って、時計の方を見る。壁にかけられた時計は、既に六時を回っていた。
 「兄さん、遅いね」
 「ほんとだ。いつもこんなに遅いの?」
 「うん。時々、すごく遅くなる。そう言えば、最近はそういう時の方が多いなあ」
 「仕事、大変なんだろうね」
 みどりは時計の方を見たまま、曖昧に「うん」とだけ答えた。それから、急に僕の方に向き直る。
 「孝司くん、帰りのバスとか、大丈夫?」
 不意をつかれて、僕は驚いた。たしかに、僕はここから帰らなければならないのだ。そして、一時間に一本しか走らないバスは(たぶん)夜の早い時刻になくなってしまう。
 「そうだね。そろそろ帰らないと」
 僕がそう言うか言わないかのうちに、玄関の引き戸が開く音がした。
 「ただいまー!」
 疲れを感じさせる声で(けれど大きな声で)、誰かが叫ぶ。廊下を渡る足音が聞こえ、それが近づいてきてすぐ扉が開き、そこからこちらを覗き込んだのは年配の女性だった。
 「あれ? お客さん?」
 女性はぼわぼわしたタータンチェックの上着を着ていた。プリントやらノートやらがいっぱいに入ったカゴを、片腕から重そうに提げている。
 「うん。兄さんの学生時代の友だち。兄さんに会いに来てくれたんだけど、最近兄さん帰りが遅いっしょ。だから二人で話してたのさ」
 みどりが早口で説明すると、女性はきょとんとした顔で「ふうん」とうなづいた。その顔のどこにも、化粧っぽさは見えない。頭には白髪が何本も走っている。
 「そうなんですか……。ごめんなさいね、待たせてしまって」
 「いえいえ。こちらこそ、先に確認してから来ればよかったんですし」
 「そうねえ……。まあ、何もない家ですけど、よかったらゆっくりしていって下さいね」
 そう言い残して、女性は扉の向こうに引っ込んだ。今は閉じられた扉に向かって、みどりが「お帰りい!」と声を張り上げる。ダイニングキッチンの裏手から(つまり、扉の方を向いた僕らの背中側から)、「ただいまあ!」と声が返ってきた。その後で、みどりはすっと小声になり、「あれが、私たちのお母さん。近くの小学校で教師をしてるんだ」と説明してくれた。僕は笑ってうなづくと、もう一度、時計の方を見る。六時十五分。
 「さて。そろそろ帰らないと」
 「そうだね。送っていくよ」
 僕の立ち上がるのに合わせて、みどりも立ち上がった。僕は遠慮したが、みどりは聞かなかった。
 「でも、せっかくお母さんが――」
 「大丈夫。あとで説明しておくし」
 強い口調で、みどりが言い切る。それから穏やかな表情に戻っていって、
 「それに、まだここに慣れてない人を一人で帰らしたら、逆に怒られるよ」
 「……そうかあ。じゃあ、よろしく」
 僕が折れると、みどりは笑顔になった。「ちょっと待ってて」と言ってダイニングキッチンを飛び出し、階段を小走りで駆け上がっていって(トントントン、とリズムよく二階へと昇っていく足音が聞こえた)、すぐにまた駆け下りてきて開けたままの扉をくぐり、僕の前に立った。頬は上気していて、口元はうれしそうに緩み、黒くてフードにファーのついたハーフコートを小脇に抱えている。
 「じゃあ、行こうか」
 玄関で靴を履き、二枚の引き戸をくぐって、外に出た。外は夜だった。降ったばかりではねられてもいない雪が、なだらかな曲線を描きながらぼうっと浮かび上がり、夜の闇の中へ果てもなく広がっていた。数歩歩いて、僕は振り返る。家が建っていた。今はもう音楽は鳴っていなくて、けれど、窓から見える灯りはますますあたたかそうだった。扉も窓も閉じきったまま、聳え立つように家が建っている。その内側で、(たとえ耳には聞こえなくても)音楽は今も鳴り響いているような気がする。一軒の家の形をとって。底のない夜に立ち尽くしながら。震えている。家が一つの楽器のようだった。
 「どうしたの?」
 「ううん。……何でもない」
 僕とみどりは、また歩き始めた。道は積もった雪のおかげで仄かに見えていて、いやに広い道幅を浮かび上がらせながらつづいていた。ところどころを街灯が照らしている。けれど、夜の寒さの中で熱も光も失って、自分の足元だけを照らす灯りの帯はただ薄く赤紫色に透き通るばかりだった。