2006年2月10日金曜日

小説 「みどり」 (3)


 家が一つの楽器のようだった。目の前には黒い引き戸が閉められてあり、その右手にある呼び鈴は既にさっき押した。家の外壁はグレーだった。玄関先は(誰の手によってだろうか)きれいに雪がはねられていた。それでも残り、扉の足元で散らばっている雪が、厚い雲を通ってきた光で白く内側から光っている(ように見える)。音楽は鳴っていなくて、こっくりした臙脂色の屋根を乗せた家が一軒、しずかに、建っていた。
 引き戸は開いている。金髪頭の小さな顔がこちらを覗き込んでいる。
 「ええっと、……何か、ご用でしょうか」
 僕は戸惑いながら、悠一さんに会いに来た、ということを告げた。
 「ああ、申し訳ございませんが、今、兄は留守にしています。……って、あれ?」
 突然扉は大きく開き、小柄な身体が全身(乱雑に切り散らかされた頭のてっぺんからスニーカーを履いた丸く平らな足の先まで)僕のすぐ前にいる。故知らぬ客に驚いていたような顔は、やっぱり驚いたような表情のままで、僕の目を真っ直ぐに見つめている。
 「もしかして、この間、――って言ってもずいぶん前の、……去年? 去年あたりに来てくれた人じゃないですか?」
 「はい。そうです。去年お邪魔した、悠一さんの大学時代の友人です。水橋孝司と言います」
 「そうそう! 水橋さんですよね。思い出しました。あー。ごめんなさいね。兄はいないんですけど、どうぞどうぞ、上がって下さい」
 みどりについて入った引き戸と引き戸の間の空間は、去年来た時のままだった。ただ、まだ昼を少し周ったばかりだったので、去年よりはずっと明るく見えている。明るくて、その分薄暗い。ガラス戸の向こうから、やはりどんな音楽も聞こえてこない。僕は肩やら腕やらの雪を手で払い落とすけれど、ズボンの裾だけは凍てついてしまっていて、薄く張った氷はどれだけはたいても毀れ落ちてくれなかった。
 みどりがガラス戸を開けて家の中に入っていく。僕もつづいて入った。暖房は少し、抑え気味のように感じた。靴を脱いで廊下を渡る。黒のタートルネック・セーターを着たみどりの背中は小さくて細いけれど、筋肉がついてすらっと伸びていた。その背中の向こう、長くもない廊下の突き当たりにトイレを区切っているらしい木の扉が見えて、その手前で、見慣れたスリッパが前向きに揃えて置かれてあった。こげ茶色のファーがもこもこしたスリッパは、まだ自分の家(と、呼ぶべきだろうか。僕の中学校入学の少し前、父が祖父母の援助を受けて購入した、いやにがらんとした建て売り住宅)でうろうろしていた頃、冬になると僕がいつも履いていたものだ。
 「へえ。そうだったの」
 テーブルの上にコーヒーを二つ置きながら、みどりは歩いて、僕の向かいの椅子に座る。
 「じゃあ、やっぱり私の思い違い……なのかなあ? ほんとにさ、来てなかった? 見たことある気がずっとするんだけど」
 「うん。来てなかったはずだよ。来てなかった。大体、悠一さんが高校の頃って、僕も高校生だったわけで、その頃僕は三重県にいたんだから。むしろ、三重県から出ることさえ少なかったくらい」
 「そうかあ。おかしいなあ」
 釈然としない表情を浮かべて、みどりは自分が淹れたコーヒーをすすり込んだ。やっば、ちょっと苦いかも。思わず顔をしかめたのを見て、僕はちょっと笑ってしまった。
 「じゃあ、孝司くんと兄さんとは、大学で初めて会ったんだね」
 「そうそう。学部の入学式のもうちょっと前、健康診断の時に話したのが最初」
 「どんな印象だった?」
 テーブルの向こうから身を乗り出して、みどりは深い瞳で覗き込む。すっきりした頬は今は穏やかなほほ笑みを浮かべていて、僕はその時、どんな姿勢でみどりの顔を見つめ返したらいいかわからず、どぎまぎしてしまった。
 「んー。何と言うか、色々考えてるなあ、と。自分の信念を強く持っている感じで、話せば話すほど熱くなってくるし、あんまり反対すると無口になるし」
 「ああー、わかるわかる。がんこものなんだよね、要するに」
 みどりが笑う。僕もつられて笑いながら、うん、たぶんそんな感じ、と相槌を打った。
 「変わってないなあ。……そういう所、私と似ているでしょ?」
 みどりはまだ笑っていて、僕はその笑顔にどう応えたらいいのかやはりわからない。曖昧な笑みを返しただけで、手元に置かれたコーヒーに口をつけた。みどりが顔をしかめたほどには、苦くなかった。あたたかくて美味しい。それを伝えると、みどりの目が一段と黒く細くなった。
 中島はまだ帰って来そうになかった。壁にかけられた時計は、もう三時に届きそうだった。真っ直ぐ下に落ちているカーテンは白く、その向こうにはきっと、一面の雪景色が広がっているのだろう。その上空を渡っていく風の、音の高い沈黙が見える気がした。青紫色をしたきれぎれの雲が、立ち止まることを知らないように横に吹き流されていく。
 ペチカが焚かれたダイニングキッチンで、気がつくと僕もみどりも、それぞれ二階の方を見遣っていた。そこにはみどりの部屋があるのだ。そう思い出して、僕は急に恥ずかしくなってしまう。何だか気まずくなってちらっと見ると、みどりは「ん?」と言わんばかりに小首を傾げてみせた。普段はすっと締まっている口元が、少し緩んで震えていた。家が一つの楽器のようだった。
 家が一つの楽器のようだった。中島と僕は階段を昇り終えて、左右に走る廊下を左に進んだ。音楽は僕のすぐ前にあり、やはり壁みたいだった。圧倒的な厚みのただ中で、不思議な平温が沁みこんで来る。熱くもなく冷たくもないそれは、幸せとも呼べないようなしずかな何かだった。海の底みたいに身体の芯まで満たされて(あるいは浸されて)、僕は暗い二階を歩いていく(この時、中島は何を考えていたんだろう)。
 「ん、ちょっと待って。やっぱり一言言ってくる」
 ドアノブに手をかけようとした中島が思い出したようにそう言って、廊下を後ろに引き返していった。二階の廊下も長くなくて、階段と直角に交わっている部分の少し先には別の部屋があるようだった。部屋の入り口は開いていたけれど、その手前で廊下が曲がっているために(つまり、部屋は真っ直ぐな廊下の突き当たりなんかではなく、突き当たりで左に折れている廊下のさらに右側にあったのだが)、中の様子は詳しくは分からない。ただ、ピンクと言うよりは淡い橙色と言った方がいいような色をした、あったかそうなベッドが一部分見えていた。部屋の壁紙は真っ白に近いねずみ色で、床は廊下と同じフローリングになっている。スリッパを履いた足がそこへ下りている。ベッドの上に、誰か腰かけているのだろうか。
 「おい、みどり!」
 背中の右半分しか見えなくなった中島が、抑えた声でその誰かに声をかけた。
 「おぅ前、だから、曲を聴く時はドアを閉めろって――」
 「ごめん。つい癖で」
 中島の言葉を遮るように、そっけない口調で誰かが答えた。垂れ下がっていた脛に力が入り、立ち上がった小さな身体が開いたままの空間に現れて、みどりだった。つまらなさそうな表情で、みどりは内開きのドアにすぐ手をかける。それから僕の方を見て、笑った。まるで、ずっと前から僕らのことを知っていたかのような、落ち着いた笑顔だった。
 そしてドアが閉まった。