2006年2月2日木曜日

小説 「みどり」 (2)


 札幌ターミナル、鉄道病院前、北七条西一丁目、北十条西一丁目、北十五条西一丁目、北十八条西二丁目、北二十一条西二丁目、北二十四条西二丁目、北二十六条西二丁目、運輸支局前、北三十三条西二丁目、
 道には雪が積もっていて、どこまでが車道でどこからが歩道かわからない。雪かきされた後でも、アスファルトの地肌が見えるわけではなかった。足を取る白さがただ浅く平らになるだけで、そこを人は歩み、車も走っていく。道は広い。交通量が多く、車道はかすかに渋滞していた。それは何も特別なこともない朝の景色で、たしかに至るところに雪が厚く溜まってはいたけれど、人も車もまったく気にしていないみたいだった。むしろ、その雪が見えてさえいないようだった。バスの前を行くトラックが排気ガスを吐きながら、エンジンの生み出す力で健全に振動している。
 街中から郊外へ移るにつれて、窓のむこうに並んでいた店舗は古びた商店に姿を変えていった。その数も目に見えて少なくなってきて、やがて、大きな店(パチンコ屋やスーパーなど)がぽつり、ぽつりと現れては消えるだけになった。店から店までの間は白く、まぶしいすき間が広がっている。それはどうしたって埋められそうにない平らな広がりで、その手前を時々、女子高生やスーツ姿の男性が一人や二人で歩いていく。声は聞こえないけれども、会話したり、笑い合ったりしながら。確かな足取りで。歩いていく。広がりの向こう岸では、数多くの民家が色も形もとりどりの屋根を並べて、雪をかぶってじっと立っていた。
 北四十二条東一丁目、下水道科学館前、北営業所、屯田団地橋、北二番橋、さなえ橋、北三番橋、太平九条一丁目、北四番橋、北五番橋、
 下水道科学館前で、川が見えた。それ以降、川は左手に見えつづけている。雪景色の中の水は黒く、絶えず底から湧き上がるようにこんこんと流れていた。バスの中には人が少なかった。僕が乗った時には、ドアの所から二列ほど後ろに行った窓際に二十一、二歳くらいの女性がいて、座っていて、格子状に赤の混じる帽子やベージュ色のジャケット、くっきりと明るい茶色のブーツなんかが華やかだった。華やかで、驚いた。僕は結局、彼女から四列も前の席に着いてしまったし、そこからは、二列前に座る僕より少し年上――二十八、九くらい――(たぶん)の男性の地味な後ろ姿や、僕らとは反対側の窓際に座る中年女性の黒く濡れたパーマ頭、雪で赤くなった耳や頬などしか見えなかった。そうやって見えなくなってしまうと、彼女のあの鮮やかさもうろ覚えの感触の中でしか生きることはできなくなるようで、僕はただ、背中一面を霧雨のように刺す緊張(「見られているかもしれない」、という緊張)として、彼女の存在を感じつづけるばかりだった。
 北営業所で、長靴を履いたおばあさんが乗り込んできた。おばあさんはドアのすぐ後ろの席に座った。北三番橋で白いフリースを着た太めの男性が乗ってきて、ステップの上で痙攣するように左右を見回した。反復的な動作は二、三秒間つづいて終わり、彼は身体を屈めてそそくさと歩むと、通路を挟んで僕の真横に座った。両手の指をこわばらせ、その指に見入りながら何かをつぶやいている。
 「太平九条一丁目」がアナウンスされた所で、母親と男の子とが列んで前へと歩いていった。そして、バスの一番前で手すりを持ちながら、じっと立っている。乗客は皆、ごつくて地味な色をした服を着ていた。バスの中は暗く、外の雪だけが避けようもなく、白い。横一列に並んだ窓から射し込む光に、乗客の沈黙は照らし出されるがままになっている。そこに晒されているごわごわした衣服や表情は、東京から来た僕にはどこか不恰好なものに思われた。けれど、その不恰好さの端々に、そこで生活する人たちの無言の矜持が煌き燃えているような気がして、僕は次第にバスの暗さから目が離せなくなっていた。
 篠路五条一丁目、豊明高等養護学校、篠路九条一丁目、茨戸耕北橋、東茨戸一条一丁目、茨戸園、緑苑台入口、石狩翔陽高校、石狩営業所、花川北六条五丁目、花川北六条三丁目、石狩庁舎前、
 減速したバスは大きく曲がり、橋を渡って、(枝を張り出した姿のまま九十度近く展開していく街路樹の列、そこにごく当たり前に口を開いていた、これまでは見えなかった)住宅地の中へと道はつづき、僕らは拒みも受け入れもしないその喉の奥へ奥へと、螺旋を描くように入り込んでいく。数人の人が乗った。数人の人が降りた。いくつもの名前が電光掲示板に記されては消え、それを読み上げるテープ録音された声も言葉も、暗いしずけさの中ですぐに見えなくなる。道端で細く佇んでいる、そんな名前のほとんどをバスは一瞬で通り過ぎていく。
 石狩庁舎前で、四人くらいが一気に降りた。列んで前に歩いていく人たちの中にあの若い女性がいて、僕は自分の席に着いて以来一回も彼女を見ていなかったことに、今さらのように気がついた。後ろ姿でも彼女は華やかだった。僕は自然と、バスに乗り込んだ時に見た、座っている彼女のきれいなポージングを思い出そうとするけれど、その彼女はいま僕に背を向けて、前に進んでいくのだ。バスが止まった。お金を払った後、晴れやかな表情で降りていく横顔が見えて、そして見えなくなった。
 再びバスが走り出した時、僕は自分の身体から力が抜けていることに気づく。それはむしろ、空っぽになったと言ってもいい心境で、開けっ放しになった僕は、――それが僕なのかどうかもわからないけれど、――窓の向こうの白さのようにただ果てもなく広がっていた。
 花畔中央、十線、九線、石狩工業団地、七線、六線、五線、四線、
 道は真っ直ぐになり、つづいていく。巨大な石狩川(の支流の茨戸川)が右手に見え、川の博物館が建っていて、バスは石狩川放水路の上を渡っていく。十線まで来た時、窓の向こうを見つめていた白いパーカーの男性が前に向き直り、誰に宛てるともなく言葉をつぶやいた。今、このバスの中には、僕と彼しかいないのかもしれない。そう思ったけれど、それでも僕には、彼に語りかける言葉さえ見つけられなかった。道はまっすぐになり、つづいていく。
 石狩工業団地あたりから、白っぽくて平べったい工場が目立つようになった。工場の向こうには、緑や茶色の森がこれも平らに広がっていて、翼の骨が逆さまに突き立ったような枝葉の上、雪が見えている。僕は、中島とその妹のことを思い出した。
 中島は元気にしているだろうか。彼の手のひらに、また生傷は増えたのだろうか。みどりはいるだろうか。彼らは稼いで、やっぱり生きているのだろうか。あの家は、みどりが、笑って、効き過ぎた暖房、部屋のカーテン、東京駅の夕暮れと振り返った笑顔の悲しそうな、失踪、雪は次第に深く、(言葉が見つからない、)暗い階段を中島と僕が昇っていく、いや、「志美」、自分の足元だけを照らし出す街灯、灰色の水産工場、(言葉が見つからない、)前屈みになってみどりがうれしそうに覗き込んでいる、コンビニの商品棚では牛乳が冷えつづけていた、「働かなければ、生きていけないだろう?」、(言葉が見つからない、)僕は一人きりで雪原をさまよいつづけて、ズボンの裾は薄く凍てついていて、「あ、……起きた?」、(言葉が見つからない、)みどりの身体は思っていたよりもやせていた、雪に埋もれた中学校のグラウンド、(言葉が見つからない、)指先は軽く触れていた、
 「お客さん、終点ですよ」
 運転手に声をかけられて、僕は目覚めた。石狩。そこが終点だった。バスの中には僕しかいなかった。
 雪の中に降り立った僕を残して、バスはゆっくり走り去っていく。来た道を少し先へ行った所で右折して、それからはもう、見えなくなった。僕は辺りを見回した。目の前には、半分以上雪に埋められたゴミステーション。木造家屋の古びた黒い壁が、そのすぐ脇に覗いている。これらの他には、あとはただ、雪があるだけで、これと言って何も見えなかった。
 何も見えない以上、そこで立ち止まっていてもどうしようもない。そのことに気づいて、僕はようやく歩き始める。角を曲がると少し遠く、寺院が黒褐色の木々に囲われていた。分厚く積もった雪の下で、軒がゆらりと曲線を描いている。民家は寺院とは反対側、さらに遠いところに居並んでいた。地面は平らだった。雪かきをされた道路の部分は特に平坦に広がっていて、それはちょうど、道が道である自身を越えてどこまでも開けていくようだった。ここから、どこに着くのだろう。僕はいつしか立ち止まっていた。僕はいつしか立ち止まり、家と家との隙間の向こう、地平線が雪に縁取られてかすんでいる辺りをずっと眺めていた。
 鈍色につづいていく空の向こうから、海鳴りが聞こえているような気がする。僕は再び歩き出している。海が、見たかった。