2006年2月22日水曜日

オマージュの作り方


0、「オマージュ」とは何か。
 この文章では、「オマージュ」というものを、一つの作品のあり方として扱います。それは、あえて定義すれば「何らかの作品に感銘を受け、そこで受けた感銘を自分の作品を通して形にしたもの」となるでしょうか。つまり、例えば僕がある映画に感動して、「ああ、こういうものを自分でも作りたいなあ」と思い、詩や小説で「こういうもの」を作ったとしたら、それがオマージュになります。イメージとしては、カバーやトリビュートなどと近いかもしれません。

1、オマージュは、元ネタを知らない人でも感動させられなければならない。
 オマージュを書いた時、読者の方からよく言われるのが、「私は元になった作品を知らないので何ともいえません」ということです。たしかに、オマージュはある作品を元にして出来上がる作品です。しかし、だからと言って、元ネタを知っている人だけにしか通じないのであれば、そのオマージュは作品として失敗でしょう。なぜならば、それは例えば、夕日に感動して作った詩に対して、「私はあなたと同じ場所から同じ夕日を見たことがないから、あなたの作品を味わうことはできない」と言われているのと同じだからです。
 もちろん、元ネタを知っている人には、知っていない人と違う楽しみ方ができるでしょう。「ああ、あの作品が、こういう別の作品に変わるのか」とか、「あ、このオマージュのこの部分に、あの作品のこの部分が活かされてるな」とか。たしかに、そういうのがわかれば読者はオマージュをより楽しむことができるでしょう。けれど、そういう楽しみ方は、本来副次的なものでしかないと思います。なぜならば、オマージュが伝えるべきものは、もっと別にあるからです。

2、オマージュは、何を伝えるか。
 オマージュは、元になった作品のことを詳しく伝えるものではありません。また、元になった作品の素晴らしさや悪い点などについて、詳しく記述するものでもありません。元になった作品が素晴らしかったとして、その素晴らしさそのものを伝える作品、それがオマージュです。
 夕日の例で言うと、その夕日の色合いや大きさや角度などについて、いかに詳細に書いても仕方がありません。なぜならば、夕日に感動した場合、そこであなたが見ているものは夕日であると同時に、夕日を超えた何かでもあるからです。その何かを「感動の中身」と仮に言っておきましょう。この「感動の中身」は、たしかに夕日と一緒にあなたのもとにやってきたものです。しかし、それと夕日とはイコールではないでしょう。その「感動の中身」は、いわば夕日を通してあなたが見たもの、夕日の形を取ってあなたのもとにやってきた何かです。この、「夕日の形を取ってあなたのもとにやってきた何か」に、別の形を与えること。別の形を通して、読者のもとに(あるいは、あなたのもとに)届けること。それが、オマージュという作品であって、逆に言うと、オマージュはこの「何か」を伝える「別の形」であるわけなのです。

3、オマージュは、元ネタと同じ形を取らなくてもいい。
 オマージュが、「何か」を伝える「別の形」である以上、元になった作品と同じ形を取る必要はありません。ここを間違えてはいけません。しつこく夕日の例で喋るなら、夕日の色合いや大きさや角度などは、元になった形と言えましょう。この形をそのまま真似しても、「何か」が伝わるかどうかは疑問が残ります。なぜなら、そこで伝わるのはあくまで形であって、そこに「何か」が宿るかは別の問題であるからです。また、あなた以外の誰が、あなたと同じ場所からあなたと同じタイミングで、あなたと同じ視点で、あなたと同じ過去と未来と現在を背負って、同じ夕日を見ることができるでしょうか。
 オマージュが伝えるものは、そこで見たものがその時取っていた形ではなく、そこにあった感動の中身です。その形を通して、あなたのもとにやってきた何かです。ですから、オマージュを作ると言うことは、それを通して何かに辿り着けるような、別の形を作ることになるわけです。たしかに、元の形を取ることが、その何かに辿り着くためには一番有効である、ということもあるでしょう。しかし、それ以外でも方法はいくらでもあるわけです。それに、そもそも、元の形を完全に踏襲することになるならば、それは単なるコピー&ペーストになってしまうでしょう。それでは、作品を作る意味がありません。そして、皮肉なことに、そのコピー&ペーストが、あなたが見た「感動の中身」を確かに伝えられるか、というと、そこには大きな疑問が残るわけです。

4、オマージュを作る上で、気をつけたいこと。
 よく、あるミュージシャンの歌に感動したからそれを自分の詩で表現してみました、とかいう人がいます。あるいは、ある映画に感動したから、それを自分で小説化してみました、なんて人もいます。それはそれで、結構なことです。しかし、ここで気をつけなければならないことがあります。それは、ジャンルの違いです。
 例えば、歌にはいくつもの要素があります。歌詞、曲、楽器や歌い手の編成、演奏や歌のあり方、歌手(演奏家)のパーソナリティーや人生(聞き手がそれを知っている場合)。非常に大雑把に言っても、これだけのものが入り混じって歌はできています。ですから、歌を詩にする場合は、それらを全部ひっくるめて、言葉一本で形にしなければならないのです。
 よくここで陥りがちなミスがあって、それは、歌詞だけを真似て詩にしてしまう、というものです。しかし、先にも言ったように、歌は歌詞だけでできているわけじゃない。「このミュージシャンのこの歌詞に自分は感動したんだ」という人もいるでしょうが、しかし、その歌詞も、果たして歌としてあなたが聴かなければ、あなたは感動したでしょうか。曲や、そのミュージシャンに対するあなたのイメージなどが何もない状態で、その歌詞だけを歌詞とも知らずに読んだ場合、果たしてあなたは感動したでしょうか。また、曲を聴いた上で歌詞を読む場合、いくら歌詞だけを読んでいるつもりでも、そこには一度聴いたその曲の音や歌い方や歌手のスタンスなどなどで、どうしても方向付けが行われているのです。
ですから、歌に限らず他のジャンルに感動してそれをオマージュしてみようとする場合、どこまで自分が言葉として形にしなければならないか、それを考えなければなりません。

5、形にすること。あるいは生きること。
 私はここまで、「形にする」ということを、しつこく言ってきました。ここは、オマージュを書く上で絶対に忘れてはならない部分だと、私は思います。オマージュは、ある作品の形を取ってあなたのもとにやってきた何か、それ自体としては形にはならない「感動の中身」のようなものに、別の作品と言う別の形を与えるものです。それだからこそ、例えば歌を詩にする場合なら、音楽と言う形を取っているものに言葉としての形を与えることになるわけです。単に説明するだけではいけませんし、元の形を完全に真似てみようとしても、ジャンルの違いや作者の違いなどから(さらに言えば、視点やタイミングや読者/作者の背負っている過去・未来・現在の違いなどから)、完璧に真似ることなどできるはずもありません。
 オマージュは、説明でも、真似でもありません。元の作品と同じように「何か」を見せられるような、そんな別の作品を、あなたの手で作ることです。それはいわば、(抽象的な言い方になってしまいますが)元になった作品の世界を生きることです。例えば、平和の大切さや素晴らしさを説く文章が、それ自体としては非常に戦闘的で、全然平和でも何でもない、ということがあります。主張する分にはそれでもいいのかもしれませんが、しかし、少なくともその文章は、その平和さを形にできていない、その平和さの中で生きていないのではないでしょうか。本当に平和の大切さを形にできている文章、本当に平和の大切さを生きている文章は、「平和」という言葉を一度も使わなくても、それ自体として平和であり、平和の大切さを我々に感じさせてくれるでしょう。
 これこそが、オマージュが目指すべき境地です。元の作品と形は違っていても、そこにある感動の中身を生きられているような、そしてその感動の中身が確かに伝わるような、そういう作品にすること。オマージュを書く我々は、それを肝に銘じるべきではないでしょうか。

6、自分の声で、届くこと。
 「オマージュは、ある作品の形を取ってあなたのもとにやってきた何か、それ自体としては形にはならない「感動の中身」のようなものに、別の作品と言う別の形を与えるものです。」私は先に、そう書きました。オマージュである以上、それは元の作品とは別の物になるほかありません。ここで、先にも書いたように、ジャンルの違い、あるいは作者の違いなどが問題になってきます。
 カラオケのことを考えてみてください。たとえばあなたが、あるバンドの曲に非常に感動して、自分もこの歌を歌いたい、と思ったとしましょう。しかし、そのバンドのボーカルとあなたとは、別の人です。どれだけその人とそっくりに歌ったとしても、それはあなたが感動したその曲とは別の曲になってしまっているでしょう。それは、カラオケの機能の問題ではありません。たとえあなたがそのバンドのボーカルとして、バンドのメンバーの演奏と一緒に歌ったとしても、やはりそれは別の曲になってしまうはずです。
 では、どうするか。方法は二つあります。一つは、元の歌を真似することをやめて、あなたの声に合った歌い方を探すこと。そうすることで、あなたの声でありながら、あなたが元の歌から得た「感動の中身」を伝えられるような歌い方に出会うこと。そしてもう一つは、あなたの声を限界まで色々試して、その結果限界まで超えてしまって、自分のものとは思えないような別の声に出会うこと。
 二つに分けて書きましたが、実は、この二つは同じことを語っています。つまり、これらは、「憧れを原動力として、あなたの声で「何か」に届くこと」の、二つの側面を語っているに過ぎないのです。あなたの声でありながら、「感動の中身」を伝えられるような詠い方に出会ったとすれば、それはすなわち、それまでは知らなかったあなたの声と出会ったということでもあるでしょう。また逆に、あなたの声を限界まで色々試して、その結果限界まで超えてしまったのならば、それは何もあなたとは別の声になってしまったと言うわけではなくて、新しいあなたの声、新しいあなたの歌い方に出会った、ということでもあるわけです。

7、オマージュの喜び
 オマージュの喜び、あるいは(こう言ってよければ)可能性は、上に書いた出会いにこそあります。好きなものを、ただ今の自分の位置から説明しているだけでは、あなたはどこにも届きません(表現が伝わる、という意味ではなく、あなた自身が、どこにも辿り着かない、何とも出会わない、という意味です)。元の作品の世界に生きることを通して、あなたの身体で、これまでは知らなかった何かに届くこと。これが出来た時、オマージュはあなたにとって、自分を生きていくこと――自分の道を進んでいくこと――を支えてくれる、一本の杖になってくれるでしょう。
 「自分の道」。たしかに、それはあなたの道なのです。オマージュといえば、よく、人の真似ばかりしてオリジナリティーがない、と言われます。言われると思います。しかし、それは間違っているのでしょう。たしかに、他人の作品を支えにはします。しかし、それはいわば、アサガオの花に与える一本の支え木のようなものです。支え木は支え木として、一つの形を取っています。しかし、それに絡みついて伸びていくアサガオは、すなわちあなたという作品は、その支え木と同じ形を取るわけではない。あなたはあなた自身として伸び、支え木を足がかりにしながら、これまで自分の知らなかった世界へ、緊張と軋みとを孕みながら自分を踏み出していくのです。そして、支え木とはまた別の場所で(支え木の場所には支え木があるので、そこにアサガオが完全にはまり込んでしまうことは、幸か不幸か不可能です)、別の中空で、あなたはあなたとして自分の花を咲かせるのです。
 ただ真似ているだけでは、その道は進んではいけません。真似るのではなく、盗むこと。肉を自分の身体に移植してしまうのではなく、それを消化して、自分の身体の一部にしてしまうこと。それを通して成長すること。いままで、誰でもやってきたことだと思います。

8、見つめ直す努力。そして、技術のこと。
 ただし、ここでも気をつけなければならないことがあります。それは、ただ自分が今いる場所でいくら他の作品を取り込んでいたって、それは自分を先には進めてくれない、ということです。オマージュを書くためには、それなりの努力が必要になります。自分を見つめ直す努力。自分が盗もうとする相手のことを見つめ直す努力。そして何より、相手(相手のジャンル)とあなた(あなたのジャンル)との違いを厳しく意識すること。
 あなたが詩人ならば、詩をよく読みましょうとか、詩の技術を学びましょう、とか、そういう意見はよく聞くでしょう。たしかに、それらの勉強は必要です。ただし、やみくもに勉強していたって、仕方がありません。本当に技術が必要になるのは、上に書いたような文脈においてです。つまり、自分とは違うジャンルや、今の自分ではどうすることもできないくらいに違う相手のことを、自分の作品において形にする時にこそ、自分のジャンルにおいてこれまで他の人々が培ってきた色々な技術が役に立つのです。
 探してみれば、色々見つかるものです。自分の例で申し訳ないのですが、私には非常に尊敬する映像作家として、AV監督の藪光という人がいます。その人が『愛撫で○○○○○!』(主演伊東怜 なお、タイトルのアレな部分は一応伏字にしておきました)という作品で形にした世界に対して、私はずっと憧れを抱いていました。けれど、それをどうしても自分の詩では表現できなかった。形にできなかった。けれど、ロブ=グリエの小説『迷路の中で』を読んだ時に、「これだ!」と思ったわけです。実際は、ロブ=グリエらが切り拓いた現代文学の領域が、現代映画の領域と影響し合い、それが藪光につながっていったのだとは思いますが、とにかく、ロブ=グリエを読んで、その技術を盗むことで(真似たわけではありません。真似たわけではないと思います)、私はようやく、『愛撫で○○○○○!』の世界を書くことができるようになったのです。
 こういうことは、よくあります。ダーレン・アロノフスキーの『π』という映画を見て影響を受け、さらには入沢康夫の詩を読んで影響を受けた私が、それを小説にしようとした時に非常に助けてもらったのが、古井由吉の短編小説です。
 また、別のジャンル(別の人)から影響を受けることが、自分のジャンル(あなた自身)についての新しい見方を与えてくれる、ということもあります。これも藪光になるのですが、『妖鬼性伝説』(主演岡崎美女)で彼が使った手法や(私は仮に、それをフレームブレイキングと呼んでいますが)、そこで見えた何かについて憧れを抱くことで、私には小説が、これまでとはまったく違った見え方をしてきたのです。そして、そこで見えてきたものが、小説の(自分にとっての)新たな魅力となり、また、自分に新しい声を与えてくれることにもなったのです。
 こうなってくると、別のジャンルだけでなく自分のジャンルもまた色々な出会いの宝庫になってきます。そしてその出会いが、自分をさらに進ませていってくれるのです。詩を書く人にとっての詩の勉強、小説を書く人にとっての小説の勉強が大事なのは、こういう点においてでしょう。ただ、勉強をすればいい詩が書ける、というものでもないのです(たぶん)。

9、若い詩人たちへ、若い小説書きたちへ。
 ここまで私は、「オマージュの作り方」として、この文章を書いてきました。しかし、ここまで読んで下さったみなさんには分かると思いますが、ここで書いたことは、何もオマージュに限ったことではありません。夕日の例を出して時点で、気づかれた方もいるでしょう。私はここで、もっと一般的に、詩や小説を書く上で私が大事だと考えていることを書いてきたのでした。
 若い詩人たちへ、若い小説書きたちへ。あなた方がどのような来歴や希望を持って、あなたのジャンルで書いているか、私は知りません。ただ、そんな私が一つだけ言っておきたいことがあって、それは、何か本気で好きなものを持ってください、ということです。そして、それについて、文字通り総力を尽くして挑んでください、ということです。
 自分とは違うジャンルで大好きな相手が見つかるならば、それが一番分かりやすいでしょう。しかし、もちろん、自分のジャンル内でそれが見つかっても大いに結構です。ただし、その時に、その相手が自分とは違う人なのだ、ということを忘れてはいけません。なぜならば、自分にとって好きで好きでたまらない詩人がいるとして、その人のことをただ詩の世界の中で考えているだけでは、あなたの詩はどんどん詩の世界に閉じこもり、自家中毒に陥っていってしまうからです。好きな詩人がいるならばなおのこと、自分の気に入る音楽なり映画なり、哲学なり宗教なり、絵画なりファッションなり、ダンスなり武道なり、そのようなものを迂回して、自分の表現の可能性を色々探しながら、詩の面白さを再発見していって、それを通して、自分とは違うその詩人が形にした「何か」に自分の形で挑んでいくことが、肝要なのでしょう。

 以上、長々と書きすぎました。願わくば、この文章がみなさんの中で消化され、みなさんの中で見えない栄養素となって血管をかけめぐり、そこで脈打ちつづけますことを。ほんの少しでも、何かいい影響(響き)を与えられたなら、そしてその反響(響き)を見せていただけたなら、私はこの上なく幸せです。