ついに、いとうさんの詩に批評を書く日が来てしまった。と書くと、なんか、いとうさんがどう考えたって私より目上なので、それで遠慮しているように思われるかもしれない。しかし、そういう遠慮は実の所、あまりない。それよりもむしろ、自分がちゃんと批評が書けるのかが怖いのだ。他の読者はどう思うかわからないが、私にとってはいとうさんは、自分と多くにおいて重なる部分を持つ詩を書いてくれる詩人である。 「名づけ」の手前で耐えようとする態度、そこに生まれる、まだ名づけられていない「もの」への畏敬にも似たまなざし。名づけを耐えることはさらに、この世のさまざまなものに執着しない旅人の(亡霊の?)視点をも呼び込み、そこに見える景色は不思議な透明さと見えないはずの影まで含み込む広さとを持っていて、特徴的な用語法を生み出しつつその用語をツールとして、存在しないことによって有りつづけるもの(そして、それによって存在せしめられている我々)を掬いとって行く。(そしてもちろん、これがすべてではないのだ、全然) 自分と似た世界を書く人の詩について、果たして批評などが出来るだろうか。それは、自分の生きている世界、自分が生きている身体から身を削いで振りもぎっていくような作業になるのだ。それができなければ、この批評はただのメタメタな自分語りで終わってしまうだろう。いや、さすがに今の私なら、そこまで素人くさいことにはならないかもしれない。しかし、非常に表面的でうまくまとめただけの批評になる危険性は、否定しない。それは、読んだ人が一人一人で判断してくれたらいい。 いとう 「はじめての王国」 http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=59515 まず、この批評では、これまでの私のやり方とは逆に、気になる所を先に挙げていくことにしよう。なぜなら、この詩において、私は現れる世界に面白みを感じる一方で、小説書きとしてどうしても端々の言葉が気になってしまい、気になってしまう部分が邪魔をした結果、現れる世界のことを深く考える所までいきつかなかったからだ。まず、その気になってしまう部分について決着をつけておかない限りは、そこから先については考える気もしない、というのが正直な所だ。 1、気になってしまう部分 A:「空がまだ青かった頃」 「はじめての王国」と名づけられたこの詩は、六連から成っている。第一連から第五連まで、それぞれの連の冒頭には空とはじめての王国との関係性が描かれていて、それが一種の背景の役目を担っている。抜き出してみよう。 >空がまだ青かった頃 >東の空から鳥たちがやってきて >滑りのある雨が降って >空が赤く生い茂ると >新月は逃げ出そうとして 第一連は晴天の様子、第二連は東の空からやってくる、というイメージから午後から夕方あたりにかけてのものだと思われる(太陽は東から西へ沈み、それゆえ私は、時間も東から西へと訪れていくものだと感じている)。第三連は雨、第四連は夕方、第五連は夜。 こう読むと非常にすっきりした構成になっているように思えるのだが、しかし、事態はそう単純ではない。第一連で書かれた「空がまだ青かった頃」という一行、これが事態を複雑にしている。「空がまだ青かった頃」という規定がどこまで及ぶのかが、不明確になっているからだ。 この一行が詩全体を覆うものである、という読み取り方も可能であろう。この詩は「空がまだ青かった頃」に「気づかれずに」「残り続けて」いた「はじめての王国」について述べたものだ、と。そうなってくると、空が青くなくなる時もあるわけで、上のように読んだ場合、その空が青くなくなる時期のことはこの詩には書かれてないことになるのだが、書かれていないことによりより一層、空が青くなくなった世界の空恐ろしさが黙示録的に伝わってくる。また、この読みの場合、「まだ青かった頃」という、失ったものへの回顧めいたスタンスが、「はじめての」という部分とも響き合って、印象深くなる。 しかし、こう読むにしては、第四連がでしゃばりすぎてはいないだろうか。「空が赤く生い茂ると」と言う部分は、青い空が失われてそこに何か凄惨なものが生え荒んでいる印象を受ける。その生え荒ぶ感触は、どうしても「まだ青かった頃」という言葉の透明さを打ち消してしまうし、一般的に考えても「~すると」という已然形の言葉は、「まだ~だった頃」という未然を引き受け解消してしまうのではないだろうか。 では、「空がまだ青かった頃」という冒頭は、あくまで第一連に限られた状況なのだろうか。もちろん、そういう読みも可能なのだ。第一連が昼における「はじめての王国」を表し、あとはそれと並列に、さまざまな時間帯や天候における「はじめての王国」が描かれている、という読み方。これもまた、自然な読みであろう。 しかし、こう読むにしては、第一連が強すぎる。 >空がまだ青かった頃 >王国は細く >鉄塔がその役目を終えてなお >行くあてなく錆びていくように この第一連の文章が、第二連の内容に直接的に関わってくることは明白だろう。王国が細いから鳥たちはそれを見つけられないわけだし、そもそも「羽を休める場所」という言葉自体、「鉄塔」という比喩の影響をもろに受けている部分である。 こうなってくると、第一連の内容がそのまま第二連までつながっているような気がしてしまう。連と連とは並列にはならず、第一連の強い影響下にあって、それは第三連以降を読んでみても同様だろう。第三連以降も、第一連で出てきた「鉄塔」のイメージを下地にした部分であって、結局上に引いた第一連を変奏しているパートに過ぎない。それ自体は別にかまわないのだが、ただそうなってしまうと、「空がまだ青かった頃」という一行の範囲はやっぱり詩全体になってしまう。この一行が詩全体にかかるとした際の問題点は、先に挙げたとおりだ。 B:第六連 Aで書いたような、一行目の及ぶ範囲の不明確さ。これはそのまま、この詩のスタンスの不明確さとなってくる。この詩は、「空がまだ青かった頃」の「はじめての王国」について書きたいのか。それとも、様々な空の下で残り続ける「はじめての王国」について書きたいのか。この不明確さの影響をモロに受けてしまうのが、第六連だ。 第六連は、時間としては夜明け前が描かれた部分であろう。しかし、他の連と違って、この連はもっと普遍的な立場からものを言おうとしているように見える。 >こぼれ落ちる雫は >受け止められるものよりも >むしろ穿ち >浸食し >削り倒す >玉座は死に >消えるものさえ消え失せ >明転する空の影に >怯えながら >朽ちていくように >残り続けて >生き続けて 内容としては、これまでの展開をまとめた部分、もっと言えば、まとめただけの部分のように感じる。これまでの連で多かれ少なかれあった具体的な事物(鉄塔、鳥、針金、羽虫)は「こぼれ落ちる雫」といういまいちイメージ喚起力のない言葉に座を譲り、連発される動詞が、そのピンとこない感じに拍車をかける。話者は、ここで何かを言おうとしている。そして、それがこの詩のテーマであろう、ということはわかる。わかるのだが、見えてこない。まあ、それはともかく、ここで話者が他の連とは様相を変えて、何か核になることを言おうとしている以上、この連を他の連と同じように読むことはできない。 この詩は、「空がまだ青かった頃」の「はじめての王国」について書きたいのか。それとも、様々な空の下で残り続ける「はじめての王国」について書きたいのか。前者の場合、第六連はこれまでの展開を受けた上で、「空がまだ青かった頃」のまとめに入った部分だといえよう。しかし、それにしては、発展がない。第一連で言われたこととは大して違いがなく、むしろそれを説明しようと躍起になっているだけのように感じる。それならば、これまでの連の役割はなんだったのか。「はじめての王国」を様々な角度から見て検証してきたのだろうか。検証した結果、何も変わらない、何も変わらないまま王国は削られていく、ということがわかったのだろうか。 たしかに、このような読みは魅力的だ。しかし、こう読む際に問題になるのが、「空がまだ青かった頃」という一行を阻害するように見える様々な部分なのだ。先にも書いたように、この一行が詩全体を覆っているように読むには無理がある。また、「明転する空」という言葉が「空がまだ青かった頃」を受ける(「青かった頃」から、明転していく)のならまだしも、「新月」などを受けてしまう(夜が朝になる)ようにも見えて、そうなるとやはり「空がまだ青かった頃」についての詩として読むのは困難になる。なぜならば、その場合そこには青い空→夕空→夜→夜明けという流れができてしまうからだ。さらには、上では勢い余って書いてしまったけど、「様々な角度から見て検証してきた」という読みが可能になるのは、前者ではなくて後者、すなわち「様々な空の下で残り続ける「はじめての王国」」という読み方の方ではなかったか。 しかし、この後者の読みもまた、困難なのだ。第一連と他の連との連続性の強さがその困難の原因であることは、先にも書いた。もちろん、その連続性は「様々な空」ではなくむしろ「残り続ける」の方にかかるのだ、という読みも可能だろう。しかし、第六連の語調の強さがそのような読みを阻害する。「検証した結果、何も変わらない、何も変わらないまま王国は削られていく」ということならば、これほど説明的な強い口調は必要ないのではないだろうか。 この強い口調から印象付けられるのは、「何も変わらない」ということではなく、それを強く言おうとしている話者であって、そうなってくると、様々な空が本当に様々な空であったのか、疑問になってしまう。無論、ここが様々な空でなかったのならば、「様々な空の下で残り続ける「はじめての王国」」という読みはきれいごとになってしまうだろう。本当に検証は行われたのか。第一連で書いたことをそれなりに説明するために小手先だけの展開が行われたのではないか。もっと端的に言うと、「何も変わらない」のではなくて話者が「何も変えていない(何も変わらないように書いている)」のではないか。そう、思えるのだ。 ところで、私は知っているのだ。この二つのスタンスを行ったり来たりしながら読むのが、この詩を一番楽しむ読み方だ、と。すなわち、「空がまだ青かった頃」という一行は詩全体にかかり(ここまでは前者)、その空の青さは(とりあえず、今の所は)不変のものとしてありがながら、天候や時間帯によって姿を変える(ここは後者)。その姿を変える空の中で、「はじめての王国」は気づかれずに残り続け、削られ続け、やせ細りながら生き続けている。また、それは目に見えないことであまねく影響力を及ぼし、そのまったく積極的でない影響力が、我々を錯覚やゆるしとして支配しつづける(この二文も後者)。彼がおびえる「明転する空」とは、それゆえただの夜明けではなく、空の青さ自体を暴くような明転であって(はい、さりげなく前者に戻ってますよ、気づきました?)、そこにおいて「はじめての王国」はその切ない生存者と胸をムカつかせる支配者という両義的なあり方から抜け出、白日のもとに晒されて救われる=ぶち殺されるのだろう。 しかし、このように読むのは、いわば離れ業、もっと言って曲解なのかもしれない。「空がまだ青かった頃」という言葉の二重性がそれを可能にするのだ、という考え方もできるかもしれないが、残念ながらもはや詩から離れた私には、詩のためにそこまでしよう、してあげたい、という気分にはなれそうにもない。まあ、そう言いながら2以降ではそう読んでいこうと思うのですが。 C:「消えるものさえ消え失せ」 文学的過ぎる。 2、視覚化する言葉、削られながらあり続けていく音 この詩の言葉は、非常に視覚的である。しかし、それは単に映像にしやすい、ということは意味しない。むしろ、この詩は映像にしにくいたぐいの詩であろう。私が言いたいのは、この詩の言葉が具体物の形をとって私たちにある感触を確かに届ける、と言うことだ。 愛やら何やらについて詩を書く人がいる。しかし、往々にしてそれは、概念を右から左に移すだけの作業になってしまいがちだ。概念の中ではうまく書ききった気がしなくて、それをどうにかしようとやたらと難しげな言葉を使い、その難しげな言葉の無骨な手応えを“書いたという実感”とあえて取り違えることで、何かを語ったつもりになる人もいるだろう。しかし、この詩の言葉はそのようなものではない。 >空がまだ青かった頃 >王国は細く >鉄塔がその役目を終えてなお >行くあてなく錆びていくように 空の青さは「まだ青かった頃」という言葉によって過去の情景に移しかえられ、「失われてしまったもの」、もっと言って「今は見えないもの」の映像として、そこで透明化する。その透明さは「はじめての王国」というタイトルとも響き合い、透明でありながら一つの残響として確かにそこにある。そしてそのような空の青さが、その青さのもとに立ち続けている王国の姿とも重なってくる。 しかし、王国は空とは溶け合ったりはしない。「鉄塔」という言葉が感じさせるざらざらした手触りが輪郭となり、空から王国の身を引き離す。引き離された王国はしかし、やはり空と同じ色合いを抱えている。ただそれは、空とは別に立ち、立ち続けている。そのように立ち続けることで、王国は自らの時間を(自らの時間だけを)抱えて、空の透明さと同じような当て所なさの中で(空のそれと触れ合いながら、でも、やはり内には自分の時間だけを抱えて)「錆びていく」。 (余談になるが、ここに見える態度が、私がこの作者を非常に好む理由であるのだ。空と王国との安易な同一化は、ここでは退けられている。空は空としてあり、鉄塔は鉄塔として立っている。ここには、書く者の清潔な倫理めいたものも感じられるのだが、さらにこの区別が、当て所なさを呼び込み、結果としてこの詩の時空間を広げていることにも注目すべきだろう。) これらの部分について、空の透明さとその中に立つ細い鉄塔、という映像が不可欠であることは分かるだろう。しかし、この映像を喚起するのは精密な描写などではなく、言葉の魔術なのだ。上の四行が見せる空の透明さと鉄塔のあてどなさ、さらにはその立ち姿に抱えられている透明な時間などを、一体どのようなカメラで撮ればいいと言うのだろうか。 他の読者諸氏にとってどうであるかは知らないが、私にとって詩は、そのような言葉の魔術とともにある。概念的な詩も好きだが、概念を越えて“考えること”のぐらぐらした宇宙を見せてくれる詩を見てみたいと思うし、直情的な詩も好きだが、情を叫ぶものの腹の底の蠢きまで聞こえてくれる詩を見てみたいと思う。そして、何より、言葉がそのままで映像と音と豊かな手触りとを掴みとってくるような、それらを描写するのではなく立ち上げてしまうような、そのような言葉が好きなのだ。 そして、この詩はそのような言葉の美味しさを十分に味わわせてくれる。けれど、それだけではない。というか、そう言ってしまうとたちまちこの詩の本当のよさを手放してしまうだろう。なぜなら、そこにある美味しさ、そこにある豊かさは、そのまま“削られていくもの”が持つ豊かさであって、それは非常に逆説的にしか存在していないからだ。そしてそれを読む我々も、さもしいもののさもしいという豊かさ、というなんとも解決できないものの中で、感動しつつ削り落とされていく。その働きに大きく寄与しているのが、この詩の音韻上の特徴であることは言うまでもない(以下で、もう少し詳しく述べよう)。 >東の空から鳥たちがやってきて >羽を休める場所を見つけられない >王国は >気づかれずに >そのように この連など、この詩の特徴が一番現れている部分ではないだろうか。具体的なイメージ(「東の空から鳥たちがやってきて/羽を休める」)を出した後で、否定の語法によってそれを宙吊りにしてしまう(「羽を休める場所を見つけられない」)。ここで宙吊りになるのは鳥たちばかりではなく、「羽を休める場所」として一度は言及された場所(後の行で、それが王国だと分かる)でもあるのだ。王国は、言及されながら、しかしない。見えないし、そこで休むこともできない。このようなものを描き出す独特の語法も印象的だが、より際立っているのが、この詩の響きだろう。 >王国は >気づかれずに >そのように 正直、読んでいていらいらする部分である。「そのように」という一行は、実際は特にこれと言って何も言ってない。「気づかれずに」までの部分を発展させず、中空でむしろ色を薄めて消え入りそうにしてしまう。けれど、消えもしないのだ。「そのように」という当て所ない一行は、薄れながら、その言葉の持つ曖昧な透明さの中で残り続ける。実際に音読してみると、ここにある焦らされるような感触、結論もなく、明確な姿もなく、消え入りそうになりながら、けれどどこかで残り続ける言葉の(いわば)灰色の感触、灰色の響きが感じられるのではないだろうか。 言うまでもなく、この灰色の感触(黒のようにくっきりともしてなくて、白のように何もないわけでもなくて、あるんだけれどけれどたしかにそこにあるものとして触れたり取り除いたりもできない、という幽霊のような感触)こそ、この詩の描く「はじめての王国」のあり方とも通じるものであって、この詩は概念としてそれを語る以上に、そして映像によってそれを立ち上げるのと同等に(あるいは、それ以上に)、響きによって、王国を我々の中にそれと気づかぬうちに吹き込んでいくのだ。 (これもまた余談。詩の音声上の工夫とか言うと、韻をきれいに踏むこととか音節数をどうこうすることとか考えられがちだ。つまり、詩で音を工夫するということが、イコール、リズムよく聞こえるようにすること、耳に心地よいようにすること、みたいになっているように感じる。しかし、それはいわば、音が意味の手によって言葉から排除されて没落し、せいぜい感覚的に快楽を呼び起こす程度のものにされた、ということではないだろうか。本来、詩とは意味以上に音を使って、言葉から世界を切り拓くものではなかったか。「うらうらと照れる春日にひばり上がり心かなしも一人し思へば」。例えばこの和歌の中にあるさまざまな音声上の働きは、この詩の描き出す情景に、何よりも喚起力を与えているのではないだろうか) 少し読んでみるとわかるのだが、この詩では第三連を除いて、すべて言い差しの形がとられている。そしてそれが、我々の中にあてどなくも苛立たしいものを広げていく。それこそがたぶん、意味として語られたこと以上にこの詩の伝えたいものであり、というかむしろこの詩であって、我々はこの感触を非難し「読みにくいです」とか「気持ち悪いです」とか批評(?)するのではなく、それと向き合わなければならないのだろう。なぜならば、その気持ち悪さこそが、我々が「はじめての王国」に騙されている(錯覚を与えられ、あるいはゆるされている)のではなく、かといってそれを知った風に批判しているのでもなくて、まさにそれに向かい合っていること、王国を内側から感じていること、王国の中にいる自分を感じていること、さらにいえば詩を通して王国それ自身になっていることの証左であるからだ。 3、はじめての王国 「はじめての王国」とは何か、ということについて、ここでは書こうと思っていた。けれど、そのほとんどについては、これまでの部分で語ってしまった。そもそも、「~とは何か」式の批評と言うのは、実は詩を読むことに関しては(いや、間違いなく小説を読むことに関しても)副次的なものであって、詩も小説も、むしろさっきの2で書いたような言葉の働き(意味も音も含めた、喚起力)とともにしかないものだと思う。「小説は読んでいる行為の中にしかない」(保坂和志『小説の自由』)。ということで、ここでは、簡潔に行きたい。 2でも書いたように、第一連で印象付けられるのは、あてどない透明さの中で切り離されて立ち、立ちながら錆びていく王国のしずかな姿である。それは過去のものであるようだが、未だに現在(「空がまだ青かった頃」における現在)もまだ残っている。残っていると言っても朽ちるだけだが、まさに朽ちることによって、今もなお存在し続ける。 第三連でそれが、気づかれるものでもなく、余所から来たものを休ませることもできないものであることが書かれる。では、王国の住人はどうだろうか。おそらく、王国の住人もそこでは住めないだろう。なぜならば、「王国は狭く」などの行が、あとで見られるからだ。しかし、「気づかれず」などの言葉が示唆するように、それは誰にも気づかれなくてもあるのであり、あるということで(本当にない場合とは違って)確かに影響を与え続けるのだろう。 第三連。「血肉がそぎ落とされた痕」としての「針金」。それを晒している王国は、やはり過去の遺物だろうか。それは我々とは無関係なものにも思われる。しかし、「鈍色の姿は角度によって/折れ曲がっているが/傷は見えない/傷はないように見える」――この部分の存在感は、そのような考えを否定する。決して一様ではなく、つまり、普遍的ではなく、しかしやはり切れ目のない自らの正統性を感じさせる「王国」。とは言え、そこからは血肉が削り落とされ、正当性を感じさせると同時に死に絶えているようにも見えるのだが。 第四連。生い茂る赤、羽虫の群れ。これらは、王国を覆い尽くし消し去るものである一方で、それを隠しつつ守り、王国の骨組みを新たな雑多性の中で再生させるものなのかもしれない。ネットと散乱する多様性の中で生きる我々は、夕暮れの時代に生きているのだろうか。まあ、それはともかく、「王国の/切り取られた視界の未来と過去に/何か見えるような気配がするが/それは錯覚で」という部分は、痛烈であろう。「王国」の視界は切り取られている、ということ。我々が語る「未来と過去」もおそらく、この死に絶えたような王国によって切り取られた視界によるものであって、いまだにそうであって、そこに「何か見えるような気配」を感じているとしても、それ(大文字の歴史? 教養小説的な成長の物語? 進歩と言う近代の言説?)はやはり、王国が及ぼす影響、ひとつの錯覚なのだろう。 第五連。「新月」は、新しい月。月は自ら光を放つことなく、何かの光によって照らされつつ照らすもの。それが一度光を失い、新しく生まれ変わるまでが新月だろう。しかし、王国の狭さはこの新月を逃さない。かと言って、それは新月を閉じ込めるのではなく、持ち前の狭さのなかでゆるすだけなのだ。学校教育において、作文などで「自由に書きなさい」という題目を出すことにより、近代が自らの教化の成功を二重に確認する(つまり、ひとつには「自由にするべきだ」という近代のお題目がうまく浸透していることを確認し、もうひとつには、そこで出てくる“自由な作文”が実は、近代が与えた独房の中にきっちり収まっていることにより、自らのコントロールの有効性を確認する)、という内容がキットラーの論文にあったものだが、この部分は、そんな消極的な(その実、じつに巧妙で狡猾な)支配を感じさせる。 ここまでの部分は、1や2でも書いた王国のあり方とつながってくる部分である。というか、こういう読みを土台にして、私は1や2を書いてきた。しかし、第六連は、むしろ、このような王国に対する同情と言うか、憐れみが溢れている部分である。書き方は残酷であるが、それゆえ余計に、王国を削り倒す「侵食」の暴力性と、それでも生き続ける王国のさもしいあり方(あるしかない状況)が印象づけられる。ということはやはり、この詩の話者は王国の側に立ち、その現在の不能さや生き続けるしかない状況を嘆いているのだろうか、嘆きつつそれを書くことで、何らかの慰めを得ているのだろうか。そのようにも読めるし、そのように読むべきなのかもしれない。私は、間違っていたのだろうか(無論、作者の側のブレや揺らぎとして捉えることも可能なのだけれど)。 ただ、そのような感傷的な態度で王国を扱うことは、さらにいえば感傷的な態度で扱いつつその不能をもきっちりと(残酷に)突き放して書いてしまうことは、かつての王かそれ以上の存在がやる意外にはどうも似つかわしくないような気がする。こう書いている時、私は詩の話者をいとうさん本人に重ね、「はじめての王国」をあれやこれやの詩のサイト(たとえば、私が初めて批評書きとしての仕事を頂いた掲示板も、「千年王国」という名前だった)あるいはネット自体に重ねて見てしまっている(のかもしれない)けれど、そのような下世話なことに足を突っ込むようになったら、詩の読みとしてはもう終わりなのだ。よって、この辺で、終わっておく。この詩を詩として読む自分の読みは、もう、2で書いてしまったのだから。 |