2006年6月1日木曜日

小説 「きみよ きみよ」 (3)の1


 石狩には二回行ったことがある。去年の一月と十二月、どちらも冬のことだ。僕はそのことを、これまで何回も小説に書いてきた。
 初めて石狩に着いた時、バスの中には僕と運転手しかいなかった。他の乗客は、終点である「石狩」の一つ手前、「石狩温泉前」のバス停でみな降りていた。自分の席から立ち上がり、暗いバスの中を前まで歩いていって、お金を払ってバスを降りた。僕の前には木の屋根と緑のネットで囲われたゴミステーションが、半分以上雪に隠された状態でただそこにあった。ゴミステーションの背中側には、ひどく古びた木造の壁が見えていた。深々と雪が降り積んだその家はしずかで、人が住んでいるのかどうかもわからなかった。
 僕を降ろしたバスは、そのまま道の向こうへ走り去っていった。あとにはただ、雪によってその平らさを増した道と、その両脇で何十年も前から置き去りにされているような、古くて暗い民家が見えるばかりだった。空は果てもなく鈍色に曇っていた。バスの見えなくなった道の先には、もう民家もなく、どこからが道でどこからがそうじゃないのか、わからなかった。どこに行ったらいいのかもわからないまま、僕はしばらくそこで立ち尽くしていた。
 僕はお腹が空いていた。歩き出せそうもない景色の中を、それでも僕は歩いていた。左側に進んでいくと、赤い甍を波のように戴いた寺院が、雪に埋もれていた。やがて郷土歴史館に辿り着いたけれど、この建物も庭に当たる部分も雪に埋められるがままになっていた。看板に積もった雪を手で払って、案内を読んだ。読んでいくうちに興味を惹かれた。しかし、建物はやはり暗く、雪に降り込められていた。入り口で確かめたところ、冬の間は営業を停止しているようだった。その外壁沿いに飲み物の自動販売機が置かれている。とにかく腹を膨らまそうと歩いていったけれど、ディスプレイに並んでいるのはどれもつめたい飲み物ばかりだった。
 そこを離れて何回も曲がり、宛てもなく歩いていく途中で、「石狩鍋」と書かれた色褪せた看板があった。矢印が向いている方を見てみたけれど、僕の背よりも高い雪の壁が見えただけだった。近くに、交番があった。交番の前にはどうやら地図があるようで、ぼくは自分のみぞおちくらいまである雪の小山を踏み越え、その白い板の前に危うく立った。道や商店の名前、施設の名前などが黒や赤の線で手書きされていた。そのひとつひとつが、今のこの時間・場所とは遠く隔たったものであるように思えた。どこに何があると言うのだろう。僕は振り返り、また雪の小山を踏み越えて、だだっ広い道へと歩き出していった。
 建物は、古びた木造家屋から、建売住宅風の一軒家に変わっていた。自家用の駐車場などを備えた家もあり、その前を僕は通り過ぎた。家の敷地も駐車場も、画たる境界を持ってはいなくて、雪によって外の地平へ一面につながっていた。そこにガレージが建ち、車が見えていた。角を曲がって真っ直ぐ先を見晴るかすと、住宅が幾分密集しながら並んでいた。そのうちの一軒から中年女性が出てきて、ママさんダンプで雪を跳ね始めるところだった。女性は帽子を被り、紫色のウィンドブレーカーを着込んで、もこもこしていた。外に出ている人は、その女性と僕だけだった。空から降ってくる雪と、風によって舞い上げられた雪とが入り混じり、激しく吹き荒れながら家々を閉じ込めていた。景色一帯が細かい粉雪に覆われていて、何もかもが見えにくかった。見えにくいまま、いつまでもそこにあった。
 しばらく立ち止まって見た後、僕は後ろに曲がり、寺院のある方へと戻っていった。寺院へとつづく分かれ道に来た所で、案内板が立てられてあることに気づいた。そこには寺院の名前や、先ほどの郷土博物館の名前、さらには海水浴場の名前などが矢印と一緒に書かれていた。海を見てみたい、と僕は思った。石狩に来て初めて、たとえ仮初のものであっても、僕にはしたいことが出てきたのだ。僕は矢印の方に曲がり、道を歩き始めた。道はゆるやかな傾斜になっていて、その傾斜は次第に厳しく、雪も深くなってきた。人家は絶え、道の両脇には葉を落とした茶色の灌木が、枝を複雑に広げて居並んでいた。僕の前には、どうやら雪かきされていないらしく、積もったままになった雪のかたまりが野性的な曲線を見せていた。雪は僕の胸辺りまであって、道を完全に塞いでいる。そこまで来て立ち止まり、ここで引き返した方がいいかもしれない、と僕は考えた。この先に本当に海があるのかわからないし、たとえあるとしても、それはとても遠くのことかもしれなかった。もしそうなら、海に辿り着く前にきっと死んでしまうだろう。そこまで考えて、しかし僕はその雪のかたまりに足をかけた。思ったとおり足は深く沈み込んだけれど、次の一歩を大きく踏み出して、その反動で引っこ抜く。支えにしている足も深く沈んで、あやふやな足場に身体全体が他愛なくふらついた。それでも、とにかく次の一歩を。そしてまた、もう一歩を。ふらつきながら繰り返すうちに、どうにか身体は雪の上の方へと昇っていて、そして、頂上を越えた。駆け降りるようにして、と言うか転げ落ちるようにして、僕は雪の向こう側へ息せき切ってこの身を運んだ。そこにはまた道があった。僕は歩いていた。傾斜は幾分ゆるやかになり、しかしなだらかに昇りつづけていた。大きくも小さくもない一歩一歩を、自分の力で踏みしめがら進んだ。雪と風とは僕を激しく打ちつけていたけれど、もう、寒くはなかった。息が弾み、頬があたたかく汗ばんでいる。やがて、背丈の揃った灌木の群生は絶えていき、おおらかな起伏をもった一面の雪原が僕の両側に果てしなく広がった。葦のような枯れた植物が、あちらこちらで何本も見えていた。雪の中でか細い姿を現していて、生えていて、まるで、どこまでもつづく宛てもない杭のようだった。