2006年5月28日日曜日

小説 「きみよ きみよ」 (2)


 仕事から帰って来るなり眠ってしまう。そんな毎日になっていた。一日の仕事の終わりが見え始めると、もう、家に帰ることしか考えられなくなる。しかし、実際に家に帰って来てみると、することは何もなく、何かをしようという気さえ起こらなかった。部屋に入って、ベッドに横になり、煙草を吸った。二本目の煙草を吸い終わる頃には、眠りに落ちていた。目覚めると身体のあちこちが痒く、足首や腹、二の腕と肩の境界、それに一日中電石帽を被っていた頭がひどかった。ベッドの上に横になったまま、顔をしかめて自分の身体を掻きむしり、煙草を吸った。窓際かベッド脇の床に置いてある灰皿に手を伸ばして、灰を落とした。灰は時々外れたりこぼれ落ちたりして、窓辺や床を汚した。僕の部屋は灰だらけになっていた。
 休日になっても、やはりすることはなかった。外では雨が降っていた。僕はCDケースや本やスプレー缶やリモコンやプリント類などでごった返した机の上に、いつかの便箋があることに気がついた。空の色をした便箋には、一文だけ僕の文字が書かれてあって、その下の大きな空白部分に煙草の灰が落ちていた。脆く白々として、しかしまだらに崩れて黒い部分も見せているその円筒形を、僕は執拗に手で払った。灰は形としてはなくなったけれど、便箋の上で、今はほの暗い帯となって残っていた。
 春になろうとしていた。まだ肌寒い日がつづいていたけれど、それでも時々、思い出したようにあたたかい(と言うか、むしろ暑いくらいの)日がやって来て、僕を驚かせた。工場でぽたぽた汗を垂らしながら、明日からはもっと薄着で仕事に来なくちゃいけないな、とか思っていると、次の日また急に冷え込んだりする。暑さと寒さとがちぐはぐだった。札幌では昨日雪が降ったらしい。風が吹き荒れて、真冬を思わせる一日だったそうだ。僕はそのことを、ある人のブログを読んで知っていた。僕はその人のことが好きだった。もっと正確に言うと、その人の言葉と、そこから窺い知れると僕が思っているその人のことが、好きだった。そして、その人はあの人とは違っていた。僕の好きなその人の言葉を通して僕が感じた札幌の街中で、あの人はそんな言葉とは無関係に、けれど同じ寒さの中で、生きている。そんなことを考えると、何か不思議な感じがした。
 僕はそのことを手紙に書こうか、とも思った。しかし、やはり無理だった。ブログの言葉とそれを書いている人に感じる愛着も、冬に舞い戻ってしまったかのような札幌の街に感じる愛着も、さらには、そこで生きているだろうあの人に感じている愛着でさえも、僕が書きたいこととは違っていた。服を脱ぐのが上手になりました。かつて書いて、一度捨て、それからまた書いてそのままになっている言葉を、僕は繰り返した。本当に書きたい愛着は、そこにあった。僕の肌が服と離れてしまう、離れてしまうその一瞬にとても大切な、けれどどこにもない何かに肌が触れる、離れてしまいながら、離れてしまうまさにその合い間を通して一瞬触れている、そんな感覚の中にあった。服を脱ぐのが上手になりました。脱ぎ捨ててしまえば、その感覚はいつもすでに終わってしまっていた。服を脱ぐのが上手になりました。それより他にどうすることもできなくて、僕はその言葉をむなしく繰り返していた。服を脱ぐのが上手になりました。春になろうとしていた。外では雨が降っていた。

 交差点をわたる手前で、赤紫色の看板のある小さな建物があった。交差点の向こうには、黄色やらピンクやらの看板が入り乱れていて、ちかちかと回るネオンサインが建物の余白を彩っていた。すでにして、僕はすすきのの中心に含み込まれていた。信号が青になる。僕や何人かの人が一緒に歩き出し、雪が平らに踏み固められた広い道の向こう岸から、足を滑らさないように、同じように何人もの人が渡ってくる。夜とそれを映し出す照明の中で、僕らはすれ違った。交差点を渡った所で右折していく人たちもいて、真っ直ぐ歩く僕と別れていった。僕は一人で(しかし、他の何人かの人と同じように)街中を大股で歩いていった。
 道の脇には焼き鳥屋や風俗店などが立ち並んでいた。奥に引っ込んだ建物もあったけれど、ほとんどの建物は道の上に一直線に壁を連ねている。それぞれに外壁を変え、照明を変え、そうすることで表情を変えながら、どこまでも横に並んでいた。一軒一軒に視線を投げかけながら、その前の道を僕は歩き過ぎていった。次の交差点の角には風俗の無料案内所が赤い看板を出していた。信号待ちをしていると、茶髪でスーツを着た若い男が話しかけてきて、僕は「いや、とにかく今はご飯が食べたいので」と断った。嘘だった。僕のお腹はホテルに帰る前に食べたラーメンで満たされていた。その上、ラーメンと一緒にジョッキで飲んだビールのおかげで、僕は酔ってさえいた。「飲み屋の案内もしてますよ」と男は言ったが、僕はその言葉を後ろに置いたまま、交差点を渡った。
 道を挟んで左側には、巨大なビルが見えていた。大衆居酒屋の名前が緑のネオンで書かれてあって、その隣には、「北海の味」と白抜きになった青い看板が出ていた。ビル自体は夜の中で黒々としていて、四角く聳えていて、たぶん、八階分くらいの高さがあった。右手には、焼肉屋の赤い看板。その隣に、ラーメン屋の木造の壁がつづいている。少し先の方では、青いベンチコートを長々と身にまとった若い男女が、雪の中で談笑していた。僕は前だけを向いて、その男女の脇を通り過ぎた。何か言葉をかけられたが、無視した。僕が通り過ぎた後、再び、男女の談笑する声が背中越しに聞こえてきた。
 その次の交差点を左に渡り、雪に埋もれた車道の端まで足を踏み出して、そこで信号が変わるのを一度待った。僕の隣に、白いコートを着た若い女性が進み出てきて、僕と並んだ。信号が変わると、僕と女性は同じ速度で歩み始めた。すれ違う人々を間に挟んで、僕らの歩みはいつしか離れていた。気がついて振り返ると、女性はもうどこにもいなかった。雪は激しく降りつづいていた。僕の服の上の雪はすでに分厚く、平らになっていた。
 そちらの道沿いには、キャバクラがたくさん看板を出していた。淡くまぶしい背景色の上、キラキラした女性が何人も写真になっていた。僕は、プリクラで撮られた様々な顔のことを思い出した。しかしもちろん、目の前の写真はプリクラのように小さくはなかった。個々に切り離されることもなく、一面につながって、淡くまぶしい背景色の中にうつろに広がっていた。「五十分九〇〇〇円(飲み放題)」の文字が見えた。蛍光灯の白い光が歩道上まで越え出してきている案内所の前で、普段着の若者の集団がどうやら相当酔っているらしくて、もっと若い客引きたちと上機嫌で盛り上がっていた。その背中側、腰の辺りの高さの所で、香港式マッサージの店が小さな看板を出していた。
 「すすきのの優良店は、客引き行為等を一切行っていません。話しかけられてもついて行かないように、ご注意下さい」
 立ち止まらないことが重要だった。次の交差点では、右の斜向かいに落ち着いた雰囲気のカフェが見え、その隣に蛍光イエローの看板が出ていて、ソープランドだった。向かいの筋には、ジンギスカン屋が薄暗い電球を吊り下げていた。小さな街灯が僕の頭上で孤独な星みたいに光っていた。僕はその角を左折した。立ち止まらないことが重要だった。思いつくままに交差点を渡り、思いつくままに区画の角を曲がった。全部込みで一五〇〇〇円。ナースステーション。元祖札幌ラーメン。信じる者は救われる。まりこ。会員制パブ。路肩の雪。必死でビラを配るカラオケ屋の店員(あるいはただのバイト)。本場の蟹料理。ライラック通り入り口と、その向こうのピンク地に青色の文字。街灯。街灯。炭火焼肉。パチンコ屋。ロビンソン。大衆居酒屋。北海の味。キャバクラ。五十分九〇〇〇円(飲み放題)。すすきの無料案内所。香港式マッサージ。夢のようなひと時を……。本日オープン、創作中華料理。交差点の角でタクシーに乗る上司と部下。すすきの観光ビル。真っ赤なバーの灯り。ビデオ販売。地下の飲み屋街の暗い看板。湧き出す湯気。客引きたち。中年男性の一群。アンティークショップ。炉辺串焼き。談笑しながら雪の上を歩いていく若い女性の三人連れ。ビールと一緒に餃子はいかがですか。インターネット、マンガ、カフェ。ライラック通り入り口で客引きと話す一人の男性。僕とすれ違う二人のサラリーマン。
 僕は立ち止まっていた。僕の前には、一棟のビルがあった。そこは暗い裏通りで、客引きもいず、歩いている人も少なかった。広い道幅いっぱいに、雪が白く延べられている。ビルの横には、奥に引っ込んだ所にゲームセンターがあるだけで、その入り口の前にも、客と思しき男が二、三人見えるだけだった。他の建物と同じで、そのビルにも窓がなかった。外壁には真っ黒な札が整然と並び、各階の店の名前とコピーが白い文字で書かれあった。そこにあるのは下世話なくらいに扇情的な文句ばかりで、そのことが逆にしずかに、清潔に思われた。痴漢だとかヌキ処だとかヘルスだとかの文字を眺めながら、僕はそれらの言葉をすすきのに来てから初めて目にしたことに、気がついた。ビルの一階は殺風景で、灯りも暗かった。本当に営業しているのかどうかもわからなかった。僕はそのビルの前でしばらく立ち尽くした後、また歩き出した。ゲームセンターのオレンジの照明に照らされながら通り過ぎ、また暗い路地を、白く輝く街灯と先の雪とに向かって進んでいった。雪は激しく降りつづいていた。区画の角まで来て、左に曲がると、入り乱れながら光るいくつもの看板と建物とが見えた。たくさんの人がそこで歩いていた。