初出『BIRDMAN』http://birdman.serio.jp/内の特集 詩を普段お読みにならない方、はじめまして。増田考志と申します。 もう、かれこれ三年以上詩を書いています。今の僕は、詩なしでは 語れません。しかし、ここで告白しておきたいことがあります。 それは、高校のある時期まで、僕は詩が大っっ嫌いだった、 ということです。それこそ、吐き気がするくらいに嫌いでした。 どうして嫌いだったかというと、理由は二つ思い出せます。 1.「比喩って何やねん。 言いたいことがあったら正直に言えさ。」 2.「言いたいことはわかった。で? だから何やって言うの?」 一点目について言うと、僕には、比喩を使う意味がわからなかった のです。なんかもったいぶったような、見た目すごそうな言葉が 使われていて、みんなでそのすごさを競い合っている風なのが、 気色悪かった。「「緑の髭の生え初めた平野」やと? それで何か すごいことを言ったつもりなんかい? センス自慢なぞいらんわ」 といった感じでしたね。 二点目について言うと、これはもう詩が書かれるということ、 そのものの意味を否定していて。たとえば、有名な「山のあなた」 なら、「山のあなたの空遠く/「幸」(さいはひ)住むと人のいふ」 に対して「で? だから?」となるわけですね。「山のむこうに 幸せが住んでいるらしくて、あなたたちはそれを尋ねていったけど、 泣きながら帰ってきたのね。で? それがどうかしたの?」と。 こんなこと言われたら、詩人はブチ切れるしかないですよ(笑)。 しかし、それが僕の本心だった。 学校の授業でも、詩はとことん面白くなかった。 比喩が何を指しているか、とか、作者は何を言おうとしているか、 とか、そういうのは教えてもらえるのです。でも、それを知っても 「ふ~ん、そうだったの」という納得以外、特に得るものはない。 結局、すべては「だから何やねん」に行き着くばかりでした。 そんな僕を変えたもの。それは、次の言葉でした。 象徴の効用は、象徴の助けをかりて詩人の観想に類似した一つの 感情を読者に与えることにあって、必ずしも同一の概念を伝えよ うと勉めているのではない。だから、静かに象徴詩を味わう者は、 自己の感興に応じて、詩人もいまだ説くに至っていない言葉にな らない妙趣を楽しみ、めで、手に入れるべきである。 (上田敏 『海潮音』 の序文(?) ただし、増田が勝手に現代語訳した) 「なるほど!」と思いました。つまり、詩に言われているのは、 なんらかの「概念」ではなくて、何ともいえない「妙趣」であり、 それを感じ取ればいいのか、と。そう納得したのです。 こうなってくると、「で、何やねん」(この文であなたはどういう 「概念」を我々に主張しているか)は大事ではなくなって、 むしろ、その手前にあるもの(この言葉から、我々がどのような 情感を受け取ることができるか)が大事になってきますよね。 けれど、その「妙趣」を、どのように感じればいいのか? それが、僕の次の問題として出てきました。 結局、僕がとった方策は、「何でやねん」を極力留保して、 作者の言葉どおりに思いをはせることでした。「山のあなた」なら、 山のむこうの空遠くに、何かよくわからへんけど「幸」がある、と、 とりあえず思い描いてみるのです。そうすると、不思議なことに、 それが気持ちよかったのですね。「山のあなたの空遠く」っていう のが、すでに広々とした景色を僕の胸のうちに広げてくれますし、 そこに住んでいるが「幸」ですから、その広がりが何とも言えず 美しいものに感じられる。とてつもなく広い青空と、その向うの、 なにか透明で水玉みたいにきらきらしているような「幸」が、 僕の心を満たしました。「なんだこれは!?」と思いましたね。 小説でストーリーにジンと来てるのとは、全然違う魂の充実感。 それが、僕が詩にはまり出すきっかけでした。 ちなみに、比喩の問題も、上の方策によって解決されました。 「緑の髭の生え初めた平野」なら、実際の風景、すなわち 芝かなんかが生え始めた平野を想像しつつ、その芝が髭だと 想像してみる。すると、芝が何かすごく生々しいものに思えて きますよね。しかも、髭を生やしている人のあごなり何なりが あるはずで、それが「平野」なのです。なんと広大なあご(笑)。 普通ならば曲面を描くはずのあごが、平野なのですよ。その、 言い知れぬ広大さ。それならば、その平野は神様のあごみたいな ものとして、永遠に広がっているのかもしれない。そして、 そこに生えたばかりの髭のか弱さ、やわらかさ、さらには 希望に満ちた若さなども、「生え初めた」から感じられる (実際に髭が生え始めた頃のことを思い出していました)。 それらを、自分が今その平野にいるようにして、時にはそこに 寝転がっているみたいにして、五感全部を使って感じること。 それが、詩の言葉が僕に与えてくれる独特の心地よさでした。 たとえば、音楽を聴く時に、誰も音に「で、何やねん?」とは 言いませんよね。イングヴェイの壮絶な速弾きを聴いた後で、 「それで、何が言いたいの?」とは誰も聞かないわけです。 「「Ace Of Spades」の出だしの恐ろしいエネルギーはわかった。 レミーもすごい勢いでベースを掻き鳴らしてるね。で、何?」 なんて言ったら、逆にその人が聞き返されるわけです。 「何って、何? あんたは一体何を期待しているの?」 ロックを聴くことは、そういうことじゃない。ごつい音に包まれ、 身体中の血が騒ぎ肉が踊り出すような、そういう感覚に浸ること。 それが、ロックの楽しみであるのです。詩も、これに近いのです。 向うから飛んできた言葉を、ノートに整理して他人事のように 眺めているのではなくて、自分の身体ひとつで受け止めること。 その言葉の世界の中に身体全体で巻き込まれていくこと。 詩で想像するとは、そういうことではないでしょうか。 結局我々は、トニー・アイオミのリフを聴いて「おお! 渋い!」 と叫ぶのと、同じことをすればいいのです。音に頭を振るように、 言葉に魂を打たれればいいのです。もちろん、これは極論です。 戦後詩がそもそも思想と対峙できるような詩を目指して築かれた、 ということを考えれば、上の主張は詩を野蛮さの中に戻すことに 他なりません。けれど、詩の思想性も何もかも、結局最後は この「おお、すげえ!」に行き着くものであり、あるいは そこから出発するものであるのではないでしょうか。 いわば、詩の当然の前提として、この「おお、すげえ!」があった わけです。その前提の上で、思想による統御や詩法の洗練などが 行われた。今の我々は、その当然の前提を教えてもらえないし、 詩を見ても「おお、すげえ!」を生む装置が複雑化しているから、 今日では詩がそもそもそうやって楽しめるものだってこと自体、 わかりにくくなってきている。結局はそういうことだと思います。 言葉はえげつない相手です。我々の想像力がどんなに頑張っても、 言葉が言おうとしたことに追いつくことはできないのでないか。 そう思います。その、不可能なギリギリのところまで、自分の 想像力を広げていく試み。そして、単に想像しているだけでなく、 自分の身体全体でその想像した世界、言葉の世界を感じること、 巻き込まれていくこと。それこそが、詩の何よりの楽しみであり、 その楽しみを知ることで、あなたはもう詩なしではいられなくなる。 僕は、そう期待しています。なんていったって、この感覚の解放は、 想像力の充溢は、他のジャンルではなかなかないことですから。 7 庭園 館の前庭に茂りに茂った人工の植物の一本一本の茎に、海緑色のバッタがとまって、みな一様に館の戸口をうかがっている。だが、その茂みの一ばん奥には、体長二メートルあまりの、ひとの顔した肉食のバッタがひそんでいて、月の出時に、その顔が館の窓からほの白く見えることがある。(それから、そのひときわ長い脛も) (入沢康夫 「『マルピギー氏の館』のための素描」より) この詩にぞくっとしたなら、なにかおどろおどろしいものを 感じたら、それがすなわち詩のヘビーメタルの一撃ですよ。 その一撃の強烈さ・ガツンと来る感じをいま感じられたこと、 これからも、きっと大事にしてくださいね。 |