2006年5月14日日曜日

小説 「ゆう」


 夕暮れの砂浜を、パレードが歩いていく。波に打たれてはまた現れる平らな砂の上、音もなく、けれど楽しそうに、見えないパレードが歩いていく。海のむこうで、陽は赤く濡れながら燃え盛り、今も大きく揺れながら、穏やかに沈んでいる。黒々とした巨大な水の表面を、結ばれては掻き消える神経みたいな泡の波打ちを、夕焼け色の光が薄く果てもなく照らしている。
 タカシは何も言わなかった。私の隣で、しずかに海を見ていた。中学時代とはうって変わって長くなった髪が、透明な陽の光の中へと、今にも溶け出していきそうだった。けれど、髪も頭もやっぱりそこにあり、いつまでもありつづけていた。ひょろっと伸びた身体のてっぺんで、顔は海の方を向きつづけていた。
 わたしも、海の方へと目を戻した。風は吹いていなかった。風は吹いていなかったけれど、どこか、(どこまでも、)わたしはすずしかった。深呼吸をしても、何も吸い込んでないみたいだった。そのことが、不思議とうれしくって仕方なかった。
 (ほら、何もない。何もない。)
 何もない夕暮れの海辺に、夕日があって、海があって、砂浜があって、タカシがいて、(けれど今は見えなくて、)砂浜の上を、音もなくパレードが歩いていく。これが見せたかったの?とわたしはタカシに訊きかけたけど、パレードはわたしにも見えていないのだし、今、わたしの横にしずかに立ちながら、タカシが何を見ているのかわたしにはわからないのだから、訊いても仕方がなかった。
 海へと向かう車の中で、タカシはずっと無口だった。ハンドルを握ったまま、目の前に伸びる細長い道や、その両側の民家や商店、歩道や山なんかを黙って見ていた。ラジオからは最近流行っているらしい音楽が流れていて、中ごろまで開いた窓から風がごうごうと吹き込んでくる。わたしはシートを少し倒していた。ときどき脚を組み換えた。そんな時、自分の履いてきたお気に入りのスニーカーが目に入り、わたしはなにか、不思議な気分になった。
 「見せたいものがあるんだ」タカシからわたしの家に電話がかかってきたのは、三日前のことだった。家の電話で友だちの声を聞くなんて、何年ぶりのことだっただろう。「大崎の墓参りに一緒に行って、その後、車で海を見に行かないか?」タカシは楽しそうでも悲しそうでもない声で、淡々とそう言った。
 「うん。いいよ」
 タカシとわたしとは、中学二年生の頃、同じクラスだった。みんなはわたしを名字で呼んだり「ひろこちゃん」と呼んだりしたけれど、タカシだけは、「ゆう」と呼んだ。最初はただの漢字の読み間違いだったんだと思う。裕子を「ゆうこ」と読み間違えて、それをさらに略して「ゆう」と呼んでしまった――たぶん、そんなことだったんだろう。目の前で呼びかけられながら、わたしは最初、それが誰のことだかわからなかった。わたしの方を見ながら、タカシがここにはいない誰かを呼んでいるようだった。
 ようやく自分のことだとわかった時は、わたしは笑ってしまった。「なんだよ、俺がどう呼んだって、それがゆうのことだったらいいじゃないか」タカシは真っ赤になりながら、そう意地を張った。その時以来、タカシはずっと、わたしのことを「ゆう」と呼びつづけている。ただの読み間違いが意固地になって、いつしか空気みたいに習慣になった。
 お互いのことを「タカシ」「ゆう」と呼びつづけながら、わたしたちは中学三年生になった。クラスはもう、離れ離れだった。それでもときどき、一緒に遊びに行ったりした。周りからは付き合っているとか何とか噂されていたけれど、わたしには、タカシとは別に好きな人がいた。タカシにもそのことは言ってあった。相談もした。タカシはその人を誘い出してくれて、わたしが連れてきた優と四人で、遊びに行くことが何回かあった。わたしが「タカシ」と呼ぶとタカシもその人も一緒に返事して、(その人は、大崎貴志という名前だった、)タカシが「ゆう」と呼ぶと、わたしも優も一緒にそちらを振り向いた。
 優は、タカシのことが好きだった。わたしは、貴志くんのことが好きだった。貴志くんとタカシが、それぞれどう思っていたのか、わたしは知らない。やがて、高校入学とともにわたしたちはばらばらになり、それ以来、四人で会うこともなくなった。
 車の中で、わたしは組んでいた脚を揃えて伸ばした。大学に入ってから買ったスニーカーの、蛍光グリーンの紐が落ち着いている。もう、三年もこれを履いてきたのだ、と思った。つま先や底の近く、それに踵の部分などは、履いてきた時間相応に傷ついていて、ところどころ、うっすらと黒い汚れがついている。
 貴志くんが来るとタカシから聞くと、わたしは居ても立ってもいられなくなった。デートの当日はいつも早起きで、すぐにでも出て行きたい自分をどうすることもできなかった。赤く入ったラインとピンクの紐がかわいい、お気に入りのスニーカーを履いて外に出た。そのスニーカーを履いて出かけるのは、一人で買い物に行く時か、貴志くんが一緒に来る時だけだった。タカシと二人の時は、履いたことがなかった。玄関のドアを開けて外に出ると、まだ朝早い陽の光はやわらかで、やさしかった。
 地元の友だちが作った掲示板やミクシィなんかで、貴志くんの消息についてはときどき聞いていた。東京の大学に行ったことは知っていた。体調を崩して地元に戻ったということも、何ヶ月か遅れでわたしの耳に入った。そして、二年前、実家からケータイに入った電話で、貴志くんが死んだことを知らされた。赤く入ったラインとピンクの紐がかわいい、中学時代のお気に入りのスニーカーは、大学受験の頃にすでに捨ててしまっていた。
 わたしは、また脚を組み直した。ラジオからは、今年の六月末に発売されてヒットしたサマーソングが、まだ流れていた。タカシの方を見てみると、タカシはやっぱり前を向いたままで、楽しくも悲しくもないような顔をしている。車の中には、風が吹き込んでいた。
 やがて車はカーブを曲がり、盛夏の光にまぶしく照り返っている緑の木々が、ゆるやかに視界から消えていった。タカシとわたしの前にあるフロントガラスを越えて、下り坂がまっすぐ伸びていて、その両側から、背の低い民家が沁み出すみたいに広がっていた。きらきら光る屋根と道のむこうに、海が、見えた。「もうすぐだな」と、タカシは言った。
 海の近くの喫茶店の前で、タカシは車を止めた。タカシとわたしは、そこでかき氷を食べた。店を出てからはもう、車には乗らず、わたしたちは海まで歩いていった。白っぽいセメントで塗り固められた堤防の階段を昇り、昇りきって、降りると、そこに夕暮れの海があった。足跡の見えない砂の上に、わたしのお気に入りのスニーカーが軽く沈んで、砂を蹴立てた。
 一体、誰のために履いてきたのだろう、とわたしは思った。蛍光グリーンの紐が通ったスニーカーを、わたしはタカシのために履いてきたのではないし、ましてや貴志くんのためでもない。かと言って、わたし自身のために履いてきたわけでもなかった。誰のためでもなく、三年間履いてきたお気に入りのスニーカーで、今、砂浜の上に立っている。
 あれから二年になる、三年になる、十年になる。
 十年前、関西地方で起きた大きな地震で、たくさんの人が亡くなった。北海道で住んでいたわたしは、当時十一歳で、その時亡くなった人の多さや、ひとりひとりの大きさのことを、よく理解できなかった。学年が変わって小学校六年生になった頃、児童会活動の一環として、被災者のための募金をした。これで何かが終わるわけではない。わたしはまだ十一歳だったけど、そのことだけは漠然と知っていた。
 胸が大きくなり始めたばかりだった。男子のことがすごくうとましく感じられた。男子を見下すようでもあったわたしたちの態度は、男子からも嫌われていて、ある男子に運動靴を遠くに放り投げられたこともあった。拾いに行くこともできず、(靴下が汚れるのがいやだった、)わたしが下駄箱で困っていると、貴志くんが何も言わずに歩いていって、靴を拾って帰ってきた。貴志くんはわたしの前に靴を揃えて置いた後、そのままわたしに背を向けて、グラウンドの男子の輪の中に駆け戻った。あの時のことを覚えていたのかどうか。タカシや優と一緒に何回も会いながら、わたしは結局、貴志くんに訊くことができなかった。
 あれから十年になる、三年になる、二年になる。
 「なあ、ゆう」久しぶりにそう呼びかけられたので、わたしにはそれが、誰のことだかわからなかった。「一年後も、また、ここに来ないか?」
 「うん。いいよ」
 タカシに「ゆう」と呼ばれるのが、わたしは好きだった。タカシのことを「タカシ」と呼ぶのも、わたしは好きだった。わたしたちがわたしたちじゃないみたいで、かと言って優や貴志くんでもないみたいで、どこにもいない誰かみたいで、だからこそ、どこにでもいる、いつまでもいる、見えない誰かみたいで。わたしたちみたいで、好きだった。
 夕暮れの砂浜を、パレードが歩いていく。波に打たれてはまた現れる平らな砂の上、音もなく、けれど楽しそうに、見えないパレードが歩いていく。海のむこうで、陽は赤く濡れながら燃え盛り、今も大きく揺れながら、穏やかに沈んでいる。黒々とした巨大な水の表面を、結ばれては掻き消える神経みたいな泡の波打ちを、夕焼け色の光が薄く果てもなく照らしている。
 パレードの列に加わることもできず、けれど拒まれることもないままに、わたしたちは砂浜に立っていた。砂浜に立って、海を見ていた。やがて、日は沈み、わたしたちは海に背を向けて、帰って行った。車に乗せてもらうことは遠慮した。海の近くの喫茶店の前で、わたしとタカシは手を振って別れた。タカシの車にエンジンがかかる音が、背中越しに聞こえた。タカシの車はわたしを追い越して走っていった。
 わたしとタカシの、そして見えないわたしたちの日々は、背中合わせでつづいていく。夏の夕空は夜へと向かい、しずかですずしい薄墨色が、地面まで一面に降りていた。わたしのスニーカーの蛍光グリーンの紐は、一歩踏み出すたびに他愛なく揺れた。足が地面につく瞬間、紐は靴の脇腹に当たって、軽い音を立てた。