かじかんだ手。 かじかんだ手。 かじかんだ手。 朝はまだもう少しだけ見えてきそうになくて、わたしたちはみなそれぞれに白い息を吐き、眠くもない目をこすって立っている。 ――雨、降ってる? 紗枝がポソリとそうつぶやいて、誰もそれに答えない。じっと黙っていると、広々とした闇の中にたしかに雨音が聞こえる気がして、わたしの肌はいつの間にか一面に濡れていた。 ――ううん、降ってない。 千恵美がそっけなく言った。ポケットから出した右手が小さく震えながら、手のひらの上でケータイを何回も反転させている。しばらく見つめてから、わたしは夜の闇に視線を戻した。吐き出した息はそのまま露が浮きそうなくらいに白くて、この夜の中で誰にも(わたしにも)見えないまま、わたしの肌はやっぱり一面に濡れていた。 ――カレー、美味しかったね。……ありがとう。 千恵美の手が、ポケットに戻る。二時くらいまではひっきりなしにメールが届いていた千恵美のケータイも、四時になるとさすがに身動き一つしなくなっていて、千恵美が気まぐれに取り出して弄ぶ時以外は、ポケットの中であるのかないのかわからない状態だった。 ――ううん、こちらこそ。あんなにいっぱい食べてもらえて、ほんとうれしかったよ。ありがとう。 千恵美も紗枝も、小さく笑った。二人の手は、全部ポケットの中に収まっていて、見えなかった。わたしは自分の手を取り出して、かじかんだ指を曲げてみた。さっきまではこの手で、ぴかぴかしたスプーンを握っていたのだ。 ――なんだかさ、よくわかんないね。 紗枝がまた、よくわからないことを言う。いや、これはわたしが思ったことと言うより、むしろ千恵美が思いそうなことなのだけど。そう思うとなんだか可笑しくなり、わたしは紗枝ではなく千恵美の方を向いた。千恵美は笑って、うん、わかんないね、と答えた。 ――カレーが? わたしが訊くと、紗枝は声を立てて笑った。千恵美も声を立てて笑い、笑った後で、そうかも、と言う。 ――そうなの? ――いいや、違うよ。この間クリスマス祝ってね、それでもうお正月、って言うのが、なんだかよくわかんない、ってことだったの。 たどたどしい口調で、紗枝が説明してくれた。道路の脇では降り積もった雪が凍てついていて、歩道の上も白く、固く、わたしは滑ってしまわないように足元を見つめながら、歩いた。目を少し上げると、黄色やら赤やら、星みたいな街の灯りがずっと先までつづいている。点々ときらめいて、きれいだった。それがわたしのクリスマスだった。今、ここには雪もなく、胸に抱えていた箱もなくって、わたしは両手をポケットにつっこんだまま、肩をすくめて震えている。 ――たしかに、よくわかんない。 それに、そばじゃなくて香織のカレーを食べちゃったから、余計に、ね。千恵美が笑う。 わたしが来たことを真っ先に喜んでくれたのは、千恵美だった。初めて見る内地の夕暮れは、もう、ほとんど紺色に近くなっていて、アパート三階の廊下で立つわたしを背中から穏やかに包んでいた。緑色に塗られた扉が重そうな音とともに開き、中から高校時代とはずいぶん変わった千恵美の顔が覗いて、笑顔だった。 あーっらあ。おぅ前、本当にはるばる来ちゃったのかい。 馴染みのない高さから見る夜景と、ボールの中で斜めに冷やされた白ワイン。照れているようでいて、そのくせどこか誇らしげな彼氏のはにかみ。何かあるとすぐ赤くなる頬が懐かしかった。懐かしいと言うことが、たぶん、かなしかった。久しぶりのクリスマスプレゼントをもらって店を出て、そのまま歩いていた凍った夜の道で、わたしは何を考えていたんだろう。 夜が明けてきたみたいで、少し、街の木々や建物の輪郭が見え始めていた。しずかに、しずかに、何かが目覚め始めている音が聞こえる、気がする。 ――はい、ここで香織さんに質問です。 カレーが食べたい、と言い出したのは紗枝だった。バスも使わずとことこ歩いて来て、千恵美の部屋に入ってから何分も経たないうちに、ああ、お腹すいた、と言った。わたしと千恵美は、顔を見合わせた。どうしよう、この近くにカレー屋さんがあるけど、そこ行く? なぜか、わたしの方が申し訳ない気持ちになった。ううん、わたしが作るよ。突然来たお詫び(千恵美が険しい表情をした)って言うか、や、……お礼。材料はみんなで買いに行こう。 ――香織さん。ズバリ、置き忘れてきたものは、ないですか? わたしは何も言わずにうなづいた。質問した紗枝の表情が、うれしそうに緩む。千恵美もうつむき加減になりながら、目を細めていた。 「ありがとう」 作ったカレーは、結局女三人には多すぎて、三十一日になっても食べきれず食べているうちに一日になった。それはつまり、年が明けたと言うことで、わたしたちは近く(千恵美のアパートの近く)の神社に初詣に行って、お賽銭を投げてお祈りをした。 スプーンに山盛り、カレーとごはんとをすくって、口に運んだ。辛さとあったかさとを味わいながら、何度でも味わい直しながら、よく噛んで、飲み込んだ。そしてまた、スプーンですくった。箱の中には、クリスタル製の振り子時計が入っていた。母にただいまを言ってすぐに飛び込んだ自分の部屋で、わたしは揺れる振り子をずっと眺めていた。右から円く落ちて左へ、カチリ。小さな音を立てて止まってすぐまた円く落ちて、カチリ。また円く落ちて、カチリ。気がつくと、窓が粉のような雪でほとんど覆われていた。相当激しく吹雪いているらしく、びょうびょうという風の音、窓ガラスに打ちつける雪の音が、一人の部屋に染み入ってくる。カチリ、カチリ、カチリ、カチリ、…… 宝石みたいにつるつるしてたのに、握った手の中で砂みたいに崩れた。止めようとしても止められなくて、指の間から次から次へとこぼれ落ちていった。落ちていく最中に端から融けていき、見えなくなった。何だったのだろう。これまでの時間とは、何だったのだろう。一人北に残りつづけて、わたしは必死で、何をこの手で守ってきたのだろう。 箱の中には何も入っていなかった。箱の中は空っぽで、街では雪が降っていた。いや、違う。わたしの胸に箱なんてなかった。わたしは両手をぶらんと垂らしたまま立ち止まり、立ち止まっていて、街は激しく吹雪いていた。鍋の底のカレーを平らげて、紗枝が満面の笑みでごちそうさま、と言う。片手でお腹をさすっていた千恵美が笑い返し、それからわたしの方を向いて、立ち上がった。ごちそうさま。じゃあ、外に出よう。 ――やっぱり、降ってない? 紗枝がまた訊いた。千恵美がまた答える。 ――降ってないよ、ねえ? ――うん。何も降ってない。 わたしは、笑った。 かじかんだ手。かじかんだ手。かじかんだ手は、ポケットの中で、やっぱり冷たくかじかんでいる。身震いすると、わたしの身体から見えない水滴が飛んで、消えた。誰もそれに濡れなかった。千恵美がまたケータイを取り出して、右手の上で反転させ始める。紗枝が何を思い出したのか、ほっと大きな息をつく。 空はいつしか青く澄んでいた。その下の方で、バラ色がかった淡い光がしずかだ。夜明けの空気は乾いた肌には一層寒くて、二人とも、もう千恵美の部屋に戻りたいのかもしれなかった。それはわたしも同じだった。 震える唇で、わたしは言った。 ――明けまして、おめでとう。 |