2006年1月21日土曜日

【批評ギルド】 「MIKADO」 RABBITFIGHTER


 わかっておいででしょう? 私にエロをお与えになると、大変なことになりますよ?
 というふざけた出だしで批評を書き始めてから、既に二週間経っています。なんてことだ。遅れて申し訳ございません。

RABBITFIGHTER 「MIKADO」 http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=59668

 なんと言うか、考えさせられる作品ですね。というか、考えさせようとしている作品です。そこのところが、好みが分かれる第一のポイントかもしれません。考えさせようとしていないがゆえにふと考えてしまう、という作品がある一方で、この作品はその逆を行こうとしている。第一文にも見られるように、問題意識の切り出し方はエッセイ・批評的であり、そこだけを見る限りこの作品は非常に論考的なものであるように感じられます。
 むろん、そのような論考的な作品自体は、あって悪いものではありません。というか、真摯に論考を進める文章が、その真摯な力によって言葉を躍動させたり、あるいは思索によって言葉の限界を突き抜けたりして、非常に詩的な感動を与えることもあります。そして、実は私は、そのような作品に対して憧れも持っています。ただ、この作品は少なくともそれではない。なぜなら、この作品の文章は、あくまで作者の手の内の中で留まっているからです。
 メタファーを使いつつ考えていく詩もあるし、散文性を追求する中に、言葉の新たな地平が見えてくる、という論考や小説もあります。ただし、残念ながら、この作品は二つのスタンスの間でどっちつかずになってしまい、結局、作者の考えをなんとなーく詩的に、なんとなーく散文的に表明するだけで終わってしまった。そのように思いました。
 誤解して欲しくないのですが、上のように書いたからと言って、私がこの作品のことを嫌いなわけではありません。実際の話、一読者としてこの作品を読んだ時は、思わずポイントを入れようとしました。最初の一文は鮮烈だったし、思想的にも、私と重なるものを多く感じてうれしかった。しかし、じっくり読むうちに、それだけではすまないようなこの作品の色んな面が見えてきたのです。これは批評ですので、自分の思想と重なるから、というだけで、そのような面を看過するわけには行かないのです。



 一、エロティシズムと幻想

>舞台では観客も観客を演じている。

 この作品は、上の一文によって始まっています。読む側として、ぎょっとする部分です。舞台とは、演じ手が誰かを演じる場所であって、我々は我々自身としてそれを見物に来ている。我々は普通、そのように思っているからです。しかし、この一文は、そのような我々(=観客)もまた、演じ手であることを暴露します。ここで注目したいのは、「舞台では」という一言です。この一言があることで、この一文は、たとえば「舞台を見ている観客もまた観客を演じている」という一文とは決定的に違うものになります。なぜなら、ここが「舞台では」とされることで、文章にきづかないほどの微細な捻れが生まれ、舞台を見ているはずの観客もまた、演じる者として舞台の上に乗せられてしまうからです。

>あなたはゆっくりと下着のひもを解く。解かれたひもははらりとたれさがる。あなたの指先がどんなにゆっくりと解こうとも、解かれたひもは重力にしたがって予定された速度でたれさがる。そのひもがゆっくりと落ちていくように見えるなら、ひももやはりひもを演じているのだ、あなたの腰にゆわえつけられた。

 ここに来て、それがおそらくストリップの舞台であることがわかってきます。しかし、そこに見えてくるのは、エロの世界ではありません。そもそも、エロティシズムと言うのは、一種の幻想によってなりたっている感覚です。「出会った、やった」では、エロティシズムなど微塵もありません。実際にはまだ訪れていない(見えていない)性交という事態が、隠されつつある(可能的に存在している)という状態によって、よりその力を解放する、そこにエロは存在します(たぶん)。性交とオルガズムという、いわばあからさま過ぎてそれ以上どうしようもない一事実とぶち当たることを回避し、その事実を未然の状態において保持し合いながら、お互いにまさに見えない押し引きを繰り返す。これが、エロティシズムの実体なのかもしれません(こう言う時、私は九鬼周造の考えを想定しています。特に、かの「「いき」の構造」を)。
 (余談になりますが、これに関して、非常に示唆に富む言葉が成人雑誌ビデオボーイの中にありました。2003年12月号の中の一文です。「エロ業界、値段で切るピンキリいろいろ。上は花魁の150万円相当、そして下はティッシュのゼロ円といろいろ。しかし全ては何のためか?というと射精のためである、と思うと相当マヌケ。(いろいろと問題があるので、中略)では何に金をかけているかと言うと、出すシチュエーション。一番気持ちよく出せるムードに金をかけているといっていいだろう(後略)」)
 しかし、この作品は、そのような幻想を剥ぎ取ります。「解かれたひもは重力にしたがって予定された速度でたれさがる」という一文は、その点ですごいですね。普通、スローモーションが欲しい場面です。欲を言えば、ストリップとともになっている音楽の上でも、なんか盛り上がる山場が来て欲しい場面ですよ。というか、ストリッパーと言うのは、こういうところを盛り上げるために様々な見せ方を研究するものらしいです。しかし、この詩の話者はそれらには目もくれず、ひもがたれさがるところに注目して、幻想の駆動から身を引き離している。
 そりゃあそうでしょう。ひもは、わざわざスローモーションでは落ちないものです。しかし、我々は普段無意識にそこにスローモーションをかけて見ています。というか、スローモーションをかけて見ざるを得ないのです。その、なんと言うか我々を完全に包囲している舞台、その幻想から、この作品の話者は抜け出ている。それがショッキングで、我々を強く打ちます(ほかの例で言うと、我々は人が飛び降りるシーンと言うのを、サスペンスドラマとかなんかで非常に見慣れている。あのアングル、あの劇的さ、そしてあのスローモーション。しかし、たとえば黒沢清『回路』の飛び降りには、そんなものはありません。ただ、落ちていくスピードとつぶれる肉体があるだけ。そのあっけなさの衝撃ったら、ありません)。そしてこの話者は、あまつさえ舞台の存在まで暴露しています。「そのひもがゆっくりと落ちていくように見えるなら、ひももやはりひもを演じているのだ、あなたの腰にゆわえつけられた」
 
>そしてあなたもまた何かを演じている。この小さな、でも座席からあぶれた観客でいっぱいになった劇場の舞台で、それでは何を演じているのか。舞台にはあなたの脱ぎ捨てた衣装が散らばっている。

 「あなた(=おそらくはストリッパー 註引用者)もまた何かを演じている」、当たり前の話といえば当たり前の話でしょう。しかし、これもまた、幻想に慣れた我々にはショッキングです。ステージの上にいるストリッパーなり俳優なりを見る時、我々は自分が何を見ているか、と問い直しません。ただ、そこに生まれる一種の幻想に取り込まれるだけです。さらにいえば、下手したらこの幻想が、そこでは見られていないはずの生身の彼女たちに重ね合わされることになる。彼女はたしかにエロティックなポーズをとっている。エロティックな視線で、我々を誘っているように見える。「やっべ、この娘、すっごいエロいよぉ。根っからのエロだよぉ」とか言って喜ぶ男性がいる。しかし、実は頭の中では、彼女は親知らずが生えてきたことを悩み、明日あたり歯医者に行ってみよう、とか考えているかもしれないのです。じゃあ、その時、男性は騙されたのでしょうか。もしそうだとしたら、一体誰に?
 むろん、これはまだマシな例なのです。この幻想がより強固になると、演じているストリッパー自身、自分が今演じているんだということを忘れてしまうのです。この境地は、ある見方からすれば、演じ手にとっても観客にとっても幸せなものであるでしょう。なぜならば我々はそこで、ここに在らざるものの現前に立ち会っているからです。



ニ、幻想に対する二種類のスタンス――剥ぎ取るか、それに乗って先まで行くか

 さて。私がこの批評を書き進められなかった理由は、まさに今上に書いた部分にあります。というのは、ここで、一つの分かれ道が見えてきているわけですね。その分かれ道は、幻想に対する二種類のスタンスと言ってもいいもので、本当は、作品の最初から作者はそのうちの片方を選んでいるんですけど。とにかく、ここでその分かれ道が決定的なものとなって現れてくる。すなわち、「ひも」を直視することによって幻想性を剥ぎ取っていき、我々を演じさせているものの正体を暴く(暴こうとする)、という散文的なスタンスか、それとも、上に書いたような幸せな境地に賭け、在らざるものをまさに現前させる(させようとする)、という韻文的なスタンスか。
 この作品は、その二つのうち、後者、すなわち幸せな境地に賭ける、という方を選んでいるようです。それは、次の部分に明らかです。

>この小さな、でも座席からあぶれた観客でいっぱいになった劇場の舞台で、それでは何を演じているのか。

 「それでは何を演じているのか」。ここには、「演じている」ということに対する断罪よりはむしろ、「何を」に対する興味が見えます。もっと言ってしまえば、「何を」に対して読者を(そして自分を)意識づけよう、という演出が見えます。むろん、ここで全く同じ言葉で、「演じている」ことに対する断罪に突き進んでいくことはできるわけですし、私も当初、そのように読んだのでした。しかし、それでは後半の部分がうまく読めなくなってくる。後半の部分を、実際にご覧下さい。

>舞台にはあなたの脱ぎ捨てた衣装が散らばっている。あなたはしかし、裸になることを恥らうように薄いレースの下着を右の足首に巻きつける。そのままその指は両足を這って進み薄い陰毛を掻き分けて裂け目の奥に埋まる。観客の視線はあなたの指に導かれ、初めてその裂け目の奥に入ることを許される。

 舞台に散らばる衣装、というのは、「ひも」と一緒で、一方では、それがあまりにもそっけないものであることによって、演じられている舞台から抜け出す、という散文的な側面(「ひも」の例で言うと、「あなたの指先がどんなにゆっくりと解こうとも、解かれたひもは重力にしたがって予定された速度でたれさがる。」という部分の側面)を持っています。これは、上の分かれ道で言うと、前者の立場ですね。それと同時に、この「衣装」はもう一方では、それが舞台の上にあることによって或る演出的な効果(もっと言って、幻想)を観客に(そして「あなた」にも)与える、という韻文的な側面(「ひも」の例で言うと、「そのひもがゆっくりと落ちていくように見えるなら、ひももやはりひもを演じているのだ」)をも持っています。これは、上の分かれ道で言うと後者の立場です。
 また、この後の、「薄いレースの下着」の部分も同様です。ここにも、「あなた」は恥らっているのではなくて恥らうようにそうしているのだ、「あなた」はそうやって何かを演じているのだ、という意識があって、そこには暴露と幻想との両方の方向性が孕まれている。「レースの下着」の物質性や、あなたがまさに「演じている」という事実を注視して、幻想性を剥ぎ取ることもできるし、舞台の上の「あなた」や「下着」を通して、それらが演じている「何か」を幻視する方向へと進んでいくこともできる。
 そして、作者は、この幻視の方を選び取ります。なぜなら、次の一文があるからです。「観客の視線はあなたの指に導かれ、初めてその裂け目の奥に入ることを許される」。演出家であり演じ手でもある「あなた」の指に導かれて、観客の視線が見えるはずもない女性器の中に入っていく――この部分こそ、まさにその幻視(もっといって、舞台を通して舞台の上にはないものへ、というこの作品の方向性)を現しているのではないでしょうか。ここで作者は、幻想を剥ぎ取ることによってそれを生んでいるものの姿を暴露するのではなく、むしろその幻想を利用することによって、その幻想を生んでいるもののもとへと行き着こうとしているのです。
 もちろん、「観客の目」という言い方は、どこか作品の話者がその「観客」とは違う者のように感じられる言い方であって、つまり、観客の視線とは少し違う角度から入り込む視線を感じさせられる言い方であって、そこにはまだ、暴露の方向性も残されています。しかし、この後の展開を見てもわかるように、実際は話者の視線もまた、この「観客の目」と重なる視線となって、幻視している。

>そしてあなたは時代をさかのぼり、やがて物語の中に自分を見いだす。劇場にはもうすべてが揃えられている。観客があり、音楽があり、松明が灯り杯が回される。あなたは神々の御前で舞を舞う。神々は笛を吹き、鐘を打ち鳴らしてあなたをはやしたてる。もはやあなたは絶頂の間近にいて飛び跳ねている。

 この部分が、幻視でなくて何であるでしょう。ストリッパーが、儀式で舞い狂う踊り子となり、物語(あるいは、語られた古代)の中の存在であるその踊り子からさらに、舞台も物語も飛び出して神の御前にまで到達する。これは、具体的で現実的であるほかない身体から、抽象的で可能的な物語上の存在へ、さらにはただ一人で神と向かい合う霊的な自分へ、の移行とも言えましょう。「もはやあなたは絶頂の間近にいて飛び跳ねている」。これは、降霊あるいは降神の儀式で踊り狂う踊り子たちが辿り着く神秘的な境地であるのでしょうし(スーフィズムや、太陽の踊りなどを思い出していただけると幸いです)、それは翻って、ミューズへと向かう詩人が憧れる、ひとつの到達点でもあるのでしょう。

>そしてついに、あなたの指があなたの絶頂をその裂け目から引きずり出すと溢れだす飛沫とともに木の花の香が舞う。それは降り注ぐ甘露の雨。あなたの余韻は、ミラーボールに砕かれるまま宙を舞う。

 この最後の部分を読むと、もはや、ストリッパーは舞台の上にいないように思えます。そしてもしかしたら、観客でさえも。あらゆる《演じていた》人たちが消えて、そこに「木の花の香」と「甘露の雨」だけが充ちている。詩がもたらす無人の境地と、そこに充ちるもののことを、なんと素敵に比喩化した部分でしょう。
 ただ、この、「素敵に比喩化」というのが曲者なんです。なぜなら、ここには比喩があるだけで、もっといえば境地のなんとなーく詩的な説明があるだけで、実際にその境地はこの文章の中に(そして、観客である我々(作者含む)の中に)現れていない、そう思えてしまうからです。



三、この作品の不徹底さ

 個人的な感触の話で申し訳ないのですが、散文の特性は、記述すること、考えること、歩むことにあると思います。そして、韻文の特性は、叙述すること、うたうこと、掴み取ることにある、と。そもそも、自然科学的な記述にせよ、神学から独立した人文科学としての哲学的な論考にせよ、さらには小説にせよ、それらの散文は近代市民社会とともに生まれたものであって、神という中心軸を失った時代に、市民社会の理想的な構成員としての合理的・普遍的な個人をその軸に据えようとする方向性とともに生まれたものであるはずなのです(たぶん)。
 ですから、散文を使って詩を書くことはとても困難な作業であるわけで、そこでは散文と詩との双方に対しての作者の意識が必要になってくる。この困難さを詩人がどのような方策によって乗り越えようとしてきたかは、優れた散文詩をいくつか読むことで自ら習い学び取る以外にないと思いますが(とりあえず、お薦めとして粕谷栄一の全散文詩、平田俊子の『(お)もろい夫婦』、谷川俊太郎『定義』、入沢康夫『声なき栗鼠の唄』あたりを挙げておきましょう)、とにかく、そのような困難さの自覚と散文/韻文への意識がこの作品にあるかと言うと、非常に疑問が残ります。
 ニで何回も述べたように、この作品には相容れない二つのスタンスが同居している。そして、その矛盾が解決されていないのです。解決されないまま、作者は幻視の方を選び取るわけです。しかし、この作品がそもそも散文で書かれている以上、そこには散文的な性質が宿ることは避けようがなく、この散文性をうまく裏切らない限り、どれだけ幻視の方を選び取っても、それは散文に再び絡め取られていってしまう。そして、まさにこの点こそが、この作品の不徹底さとして私には感じられます。
 この不徹底さは、特にこの作品の話者の居場所に現れていると思います。一でも書いたように、この作品の話者は、観客と重なるような視線として幻視するわけですが、それと同時に、観客とは少し違うような立場もほのめかしている。ここには、二重化の問題があります。むろん、この二重化がまさに二重化として、解決困難な問題として出してこられる時、それはそれで面白い作品になると思います。しかし、この作品ではそれが主題ではなく、やはり主題は幻視の方にある。幻視と言う主題を出してきながら、最終的にはそこには散文としてそれを書いている作者がいる。そして、この散文を書く話者を、散文自体が乗り越えられていない。
 これがどういうことになるかというと、結局は、作者が幻視とかを使いながら自分の考えを主張しているだけ、ということになるんですね。もっと言えば、自分の主張を述べるために、体よく比喩を組み合わせただけの作品になってしまっている。むろん、この作品では話者もその比喩の舞台の上に引き込まれているわけですが、しかし、その一方で散文の作者はやっぱり無傷のままでいる。散文の書き手として理想的な位置、似非超越的な位置にいつづける。そのことが、読んでいてつまらないんです。なぜって言うと、この作品では演じ手が演ずることを通して神の御前に立つ、という場面が書かれていたわけですが、実際のところ、彼らを演じさせていたのは作者であるあなたであって、この作品を通して観客としての我々読者(そして、演じ手としての話者)が出会うのは、やっぱりこれも神様じゃなくて、単にあることを主張しようとしているあなたでしかないからです。
 散文を通して幻視へ、というのはたしかに素晴らしい道筋です。しかし、それを行うためには、本当に散文に徹底して、できる限り幻視への跳躍を踏みとどまらなければならない。散文性の中で耐えることによって、散文が壊れる所まで行かなければならない。私が愛する小説家や映画監督は、そのようなスタンスを取っています。彼らは、容易にかの境地までは行き着かない。しかし、これは詩だから、という言い訳は通用しません。詩で同じことをやった例として、入沢康夫「わが出雲」の例などもあるのですから(この長編詩の中で、話者は存在しない「本当の出雲」を探し続けて、自分が見る出雲を「贋の出雲」と呼びながら書き分け掻き分けしていって、その贋の出雲の中での旅を保持しつづけていった先で、ついに「わが出雲」を見つけている)。あるいは、次のようなことも言えますよね。詩として書くなら、別に散文から出発しなくてもええやん。最初っから、神の御前に立っているような境地の詩を書けばすむ話ですから。と。



四、ごめんね。

 この作品が、「MIKADO」というタイトルを振られているように、ここにはむろん、演じさせられているものとしての天皇への批判(非難ではなく)があるように思えます。現人神としての天皇、自らの姿を現しながら隠すことで、その影響力を強くする天皇という制度、あるいはこのテレビとインターネットの時代において、ある観点から言えばもはやストリッパーのような卑俗な存在に墜落したとも言える天皇。そして、そのような天皇のあり方を支える無数の観客。そのような状況の中で、天皇はもはや歴史や伝統ではなく物語の中にしか自分を見出せない。
 しかし、このような批判として受け取るにしては、最後の木の花(まさかコノハナサクヤビメ?)とかの部分の叙情的な描写が邪魔をしてきますし、結果、「天皇がストリッパーって、うまいこと言ったもんだね」っていうところまで行くのが精一杯で、そこで批判が止まってしまう。批判をするにしても、そのような置き換えの妙のさらに先まで行ってほしかった、というのは読者のわがままでしょうか。
 また、一人の踊り子として神の御前に立つ部分や、木の花云々の部分に、天皇に対するある種の同情と言うかなんと言うか、始原に帰してやりたい、始原に帰った姿を見てみたい、という思いを読み取ることもできるのですが、二でも書いたように、そこで出会う神様が、実は作者さまでした、じゃあ、なんとも救われない話です。神と思って踊り狂っていたら、やっぱりそれも人間だったのだ、というのは、天皇に対するさらなる批判としてすごく面白いのですが、けれど、そこまで何回もひねり上げていくのは、個人的には回りくどすぎる気もします。
 それに、どちらにしてもこの作品は、二で書いたように作者の手の内から出ていないわけです。そのような作品は読んでもいまいち面白みを感じないから、考えさせようとされたって、あんまり考えたくもないし考えさせられる感じもないよなあ、というのが正直な所でした。わがままばっかり言って、ごめんね。