Monkさんの「シャボン玉」についての批評http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=62583を読んでて思い出したんですが。僕がネットで詩を発表するようになって、一番最初にいい評価をしてもらったのは、たぶん「にりぃーかぎぃー」「帰り道」「三月」「朱鷺」の頃だったと思うのです。その時、僕は嬉しかったと同時に、なんともやるせない気持ちになったのを覚えています。特に、「三月」や「朱鷺」。これらは小詩集『鳥、その不在、/三月』の中に入っている詩篇なわけですが、この小詩集のあとがきで、僕はそこに収められた四作品が全て「出口のない」詩だってことを書いてたんですね、たしか。で、それが高く評価されてしまった。 なんででしょう。苦悩を抱えてじっとしているだけ、という姿を描いたものが(いや、たしかにそれだけの詩ではないのですが)、高い評価を得てしまうのは。これは、この現代詩フォーラムで「ありふれた朝」が多くのポイントを頂いた時にも、感じた違和感でした(うれしかったんですけど。そりゃ飛び上がらんばかりにうれしかったんですけど)。たしかに、これらは自分の書いた中でも傑出した詩だと思います。そのことは否定しません。しかし、「この朝に、向かう先はない」とか言ってるだけではどうしようもないだろう、という気もするんです。 絶望と無力感。それが、詩の本領だとは思いません。むろん、絶望をうたう詩に、それがまさにうたっているということから、生きるための力が宿る、ということもあります。これも詩の力です。けれど、これとちょうど背中合わせのようになった事実として、詩は(「何もしない」ではなく)「何かをする」を選択することができる。そのように思うのです。そして、そんな詩の姿が忘れられているんじゃないか、と。 とはいえそれは、安直な救いを唱えたり実際にアクションを起こしたりすることとも違うと思います。もっと、言葉として、言葉でもって、前に進んでいくこともできる。きっとできるはずなんです。 僕が自分の詩の中で、往路/還路という構成を意識したのは、『焔(ひ)、千鶴』の時でした。一度絶望の果ての果てまで行って、それこそ死のぎりぎりの所まで行って(これが往路)、そこで得たものを力に変えて、そこからまた生まれ直し生き直して行くように、生者の世界に還っていけないか、進んでいけないか(これが還路)、と。そんなことを考えていた。 けれど、この間『寄せる波、世界へ、』を引き写していて、気づいたんですね。なんだ、これも往路/還路やん、と。「わたげ」はよくわかりませんが、「京都、また新年。」なんかめちゃくちゃ立ち止まっている詩ですし。「〝水へと、〟」も割とそう。「黒い風」あたりから少し方向性が変わって、後半、「二〇〇二年、クリスマスに祈りを」では、立ち尽くしている中から「いま/母が、/生まれようとしている」わけです。そして、「O(オー)」に至っては、光をつかまえちゃってる。こう読んでくると、最後の「ZONEの「白い花」へのオマージュ」の言葉に、何もかも失った重苦しさの中でもたしかに歩いていく足取りが見えて、なんというか、心強い思いまでします。 当時、自分が何を基準にこういう順番にしたかは、忘れてしまいました(なにせ、もう三年以上も前の作品ですから)。けれど、これを書いた時、というかこういう形で詩集にまとめた時、正直言って一篇一篇では地味な印象のあった詩篇が、急に息づき脈打ち始めたのを感じた。そのことだけは覚えていますし、だからこそ、僕はこれをオフラインの友人に「これこそが自分の傑作だ」として読んでもらったんでしょう(今となっては、ちょいと恥ずかしい話ですけど)。 ところが、やはり、こちらでのポイントを見る限り、前半の方が高く評価されてしまうわけですよね。皮肉でも何でもなく、「やっぱりそうなんだよなあ」と思ってしまいました。むろん、単に後半の方が詩の出来が悪かっただけかもしれませんけど。でも、「僕はかがんでいる」とかの方が、みんな好きなのかも、という気がしたことは(そしてそれが存外当たっているであろうことは)、否めません。 以前、レコ☆ポエでマジ自薦をしてしまった時、僕は自分の傑作として、「旅に病んで」『無煙の海』「空走距離」「忘れる。」を挙げました。このラインナップは、自分の中では未だに変わっていません(「Ishkar」は未完で終わったし、そうでなくとも、なんというか自分の中では大きすぎる存在で、他の作品と同じ土俵にあげて比較する気にはなれません。まだ、今のところは)。 何でこれらを傑作として挙げたかと言うと、いろいろな理由がある中の一つとして、これらは最後に何かを見つけているから、あるいは何かをしているから、というのがあったんだと、今では思います。あるいは、ベクトルが生きる方向に向いている。そのベクトルとして、実際に歩んでいっている。だからなのかもしれません。 喪失と絶望、出口なしの反復と混沌とする心身世界。たしかに、それが我々の生きる現代なのかもしれません。でも、だからこそ、僕はその絶望をうたうだけでは終わりたくない。そして、詩がみなそれをうたうだけと言うのも、何だかつまらない気がする。 そりゃ僕だって、「ありふれた朝」とか「反復される喪のために」(「入沢康夫「「誕生」へ」のフレーズに基づくRe‐Mixed Texts」)とかも書きますよ。あれもまた僕の世界だし、むしろあれこそが、僕にとっては自分に一番近い世界だと言ってもいいくらいです。実際、去年は「Ishkar」以後、そういう世界ばかりを書いてきた。ここには発表しなかったけど、暗くて重苦しくて混沌とした世界を、内側へと幾重にもくず折れ積み重なっていくような構成を使って書いていたんです(当時、グランジやヘヴィーロックを聴いていたからかもしれません)。 でも、気づかされた。去年のクリスマス、北海道でZAQのステージを見て、冬の石狩を一人で歩きつづけて、上に書いたような重厚な陰鬱さとはまったく違う、――まったく違う、……なんだろう? 芸術と言ってもいいし、生きることと言ってもいいんだけど、そういうものの、――あり方があることに。シンプルに。僕らは生きているし生きていけるんだ、と。 僕は最終的にはそれを書きたいのでしょう。少なくとも、今のところは(その点から言って、この年頭に他でもなく「年越しカレーライス」を書けたことは本当によかった)。そして、一読者として、そういう作品を読んでみたいとも思う。「何もしない」のもたしかに立派で勇気ある決断ですし、そういう作品も大好きです。ただ、そこを越えて何かをするような、出口のない時代に一つの歩みを見せてくれるような、そういうものも僕は読んでみたい。この時代だからこそ、そういうものにもいつかは挑戦していってほしい。だって、そうでなければ、結局時代に抗することもできないままで、ただ時代に流されただけになってしまいそうですし、ね。 |