「前編」http://awono-katei.blogspot.com/2004/11/blog-post.html 「中盤」http://awono-katei.blogspot.com/2004/10/blog-post_21.html 映画的世界において、外にでることが不可能ならば、その中でどうにかリアリティーを生むしかない。たとえそれが本当は自分の死とともに消える幻想であっても、その幻想を肯定しそこに何らかの意義を見出さなければならない。このことに対する映画の登場人物からの真摯な問いが、黒沢清の『ニンゲン合格』の例の台詞「おれ、存在した?」だったのだ。そして、世界にリアリティーを生む試みとして、『蹴りたい背中』のようにギリギリの所での身体の復活を目指すものなどが生まれてくる。 しかし、『蹴りたい背中』のやり口、すなわち身体感覚(それを感受性といっても多分いい)を乗せた言葉を世界に対して打ち返すという方法は、もともとは詩(特に抒情詩)が得意とするものであった(とはいえ、無論いつでも詩がそのような形をとっていたわけではなく、感受性の代わりに思想を乗っけたりと色々としていたわけなのだが)。そして現在において、刹那的な皮膚感覚と言葉と現象としての世界とがぴったり張り付きつつ、それが主体や思想にまとまられるのではなく分散している、という詩が多くなってきていて、しかもそれが自分たちの表現として受け入れられている、という事実はその点からも注目に値するだろう。 ただ、分散も下手なやり方でやってしまうと日常雑記に近くなってしまう、という危険があって、小説はもともと無形式で散漫に書きつづけていくものにエンジンをぶち込んで読者とともに連れだっていくというジャンルなのだから、日常雑記風でもどうにかなるだろうが、詩ではそうも行かないだろう。そのあぶなっかしさに無自覚な詩が時々見られるようで、そういうのを見るとどうなんだろうなあ、と勝手に心配したりしている。 一方、歴史を前提として自分を語るのではなく、自分とそれに近い物を前提として語り始めて、それによって連綿と続いていく時間や空間を映像平面上に生み出す手法というものもある。『介護入門』では「記憶」という個人的なものを媒介にしてそれを行っていたし、保坂和志『カンバセーション・ピース』では、話者の住んでいる家という空間が、ここに「ない」もの(単純に言って、死者とか)と話者とを触れ合わせて繋げている。ただ、『カンバセーション・ピース』は時にハイデガーとあまりにも接近しすぎていて、それが少し危なっかしさを感じさせたりもする。 しかし、そのあぶなっかしさを差し引いても、保坂の「世界を肯定する哲学」は、映像である世界に対するものとして非常に示唆的であるだろう。彼は、映像であり幻想であるかもしれない世界に対して、その外に出ることで世界を回復しようとのではなく、あくまで世界の内側にいながらその上に、ここに「ない」ものや、具体と抱き合った形での抽象などを引き込むことによって、事実上「外」を回復しそれを媒介にして「世界」を回復するのである。 さらに、詩で面白いのは、話者が希薄であること、すなわち話者がもはや主体としての一貫性(アイデンティティー)を奪われた「目」でしかないということを逆手にとって、話者の括弧つきの「人間」的な感覚・感情を言葉からどんどんなくしていく、という手法が出てきていることだ。これは、映画的世界に対して、映画の映画たるあり方を上手く利用したやり方と言ってよく、このタイプの詩において、言葉は他者としてそこに立つ。 といっても、その他者というのは、もはやレヴィナス的「外」の存在ではなく、そこに確かにあるのだけどどうすることもできないみたいな感じ、すなわち物質性を帯びた存在であるに過ぎない。そしてもちろん言葉には意味的側面と情動的側面があるわけで、その両者は「どうすることもできないみたいな」という物質性の中で失われるわけではない。むしろ、言葉は「人間」の手を離れることによって、普段「人間」の感情や意図に従属するために小出しにしている意味的・情動的側面を、自らの輪郭の内に充実させるのである。すなわち、言葉がより括弧のない人間的な真実を宿すのだ。 さらに、話者について言えば、生身レベルではもはや一貫性を持ち得ない存在であるのだが、今回話題にしている場合のようにほぼ無化してしまうと、その語りの中に一貫性を持ち込むのは容易になってくる。しかし、そのような一貫性は形式的なものであって、語っている主体はそもそもほぼ非在なのだから一貫していて当然だし、並べられている言葉はというとそれぞれが物質性をもった他者であって、一見一貫性があるように見えても実際の所はそれぞれ自分のうちに意味的・情動的側面を秘めているのだ。 そして、その他者としての言葉の、あるんだけどどうしようもないという存在感、さらにはそれらがかち合った時におこる軋轢やエネルギー、そこにリアルが生まれるのである。しかし、これはもはや「人間」的な感情を表現するという次元からは遠く離れていて、僕らを脅かす。さらに、詩を語っているのがそもそもほとんど非在に近い話者であるために、その言葉に耳を傾けているうちに、僕らが今でも信じているような近代的「人間」像は砂粒のように解体されてしまうだろう。そこにあるのは、劇的でもなんでもない静かな死だ。あるいは、死と生の灰色の中間帯、主体が限りなく散乱していく空き地。しかしその死の中に崩れ落ちることで、僕らはスクリーンの白、すなわち、映画に担保された唯一の「外」(しかしそれは、厳密に言えば外にあるのではなく、僕らのそれぞれの世界とともにいつだって横たわっているものである)に、触れることが出来るのだ。 解体の方に賭けるか、それとも言葉の組み合わせの方にかけるかは人それぞれだし、そのどちらにするかで作品の趣きは大きく変わってしまうのだが、このようなあまりにも映画的な話者(それは時には自己喪失とも呼ばれるだろうし、亡霊とも呼ばれるだろうし、異星人とも呼ばれるだろうしアトムとも呼ばれるだろうし(いや、それはないか)あるいは離人症とも呼ばれるかもしれないけど)が現在のように日常ミニマリズム全開の時代にどのように詩を書いていくか、僕は今でも興味深く眺め続けている。 |